下の記事での上野千鶴子の発言では明らかにセックスワーカーという仕事は「自分の肉体と精神をどぶに捨てるようなこと」とされている。明確にそういう文脈であり、発言者上野千鶴子がそう思っているなら、それでいいではないか。それが上野千鶴子のセックスワークについての意見だとして批判者と論争したらいいではないか。
だが、上野千鶴子の考えでは、セックスワークは「セックスのクオリティが低い」からお勧めしない、ということだが、それと「自分の肉体と精神をどぶに捨てるようなこと」がどう結びつくのか、私には分からない。セックスのクオリティが判断基準なら、性的快感が高いならセックスワークも素晴らしい、ということにならないか。麻薬を使えばもっと快感が高まるなら、それも結構という話にならないか。
〈主体性の価値を強調し、売春、つまり肉体の客体化は「肉体と精神をどぶに捨てる」ものだとする思想〉と性的快感がどう結びつくのか、私には上野千鶴子の理屈がまったく理解できない。
私は、セックスワークというのは貧困に追い詰められた女性がやむなく選択を強制された仕事である、という印象が強いのだが、性的快楽のためにその仕事を選ぶ女性がいても、それはいわば「適材適所」というものだろう、と思うし、それでその女性を軽蔑する理由は無いと思っている。だが、そういう女性は恋愛の対象にも結婚の対象にも選べないという男は物凄くたくさんいるだろう。売春婦との関係は(過去の)多くの男とその女性を共有することであり、恋愛や結婚は「自ら望んでお互いを独占し、独占される」関係なのである。それを奴隷状態と思うより、素晴らしい状態だとこれまでの人間はだいたい思ってきたし、それは正しいと私は思っている。まあ、過去はともかく、結婚後は貞潔そのものになる女性もいるだろうし、お互いに貞潔を守ることは、確率的には、お互いの浮気自由という関係よりは安定的な幸福の基盤だろう。
記事題名に書いたことが、上野千鶴子の論理の揺れを説明する鍵になるかと思う。
下の記事から推測するなら、上野千鶴子は「プレイガール」(性的に自由、あるいは放縦な女性)を肯定し、あるいは大いに称賛し、「売春婦」を否定している。だが、その根拠を「売買関係の存在」以外に思いつかないので、女性側の「性への主体性」という部分を強調したわけである。だが、これも自らセックスワークを選び取った女性には通用しない論理だ。だから、「セックスのクオリティ」というアホな要素を持ち出したのだろう。
もちろん、女性の性的自由を束縛する権利が男にないのは当然で、これは「自分の体の使い方を決める権利は当人にある」という、すべての人間の権利だからだ。
しかし、特に女性にとっては性的放縦は社会的に自分を不利にするものだ、というのが現在でも変わらない事実だろう。まあ、これは恋愛とか結婚という習慣や制度が消滅し、行きずりの男女が道端や物陰でいきなりセックスする、という社会(欧米はそれに近いようだ)にならないかぎり、その不自由さは無くならないのではないか。そして、私の考えでは、恋愛や結婚が幻想だろうが、それが存在する社会のほうが、行きずりのセックスだけの動物的社会より優れていると思っている。
(以下引用)
11月20日から始まった「上野千鶴子さん×かがみすと」企画の「上野千鶴子さんに質問『ベッドの上では男が求める女を演じてしまう』」記事について、いくつかお問い合わせ・ご意見をいただきました。ちょっと長くなりますが、かがみよかがみ編集長の私の考えを聞いていただければと思います。
ご指摘いただいたのは、上野さんの下記の発言です。
セックスの基本の「き」はね、欲望っていうものが自分の中にあることを認識して、その欲望の主体になれるかどうか。男は欲望をあからさまに出してくるから、主体性を持っていないと女は「やらせてあげる」になっちゃう。だから、「やらせてあげた」自分に満足することになってしまうのよね。欲望の客体となって「やらせてあげた」セックスよりも、欲望の主体になるセックスの方が、クオリティは上がる。上げるためには、お互いのシナリオのすりあわせをしないといけないけど、そのすりあわせは1回や2回のカジュアルセックスじゃできないでしょう。
私がセックスワークや少女売春になぜ賛成できないかというと、「そのセックス、やってて楽しいの?あなたにとって何なの?」って思っちゃうからなのよ。
自分の肉体と精神をどぶに捨てるようなことはしないほうがいいと思う。自分を粗末に扱わない男を選んでほしい、だってそっちの方が絶対セックスのクオリティが高いもん。
この発言について、「セックスワークは自分の肉体と精神をどぶに捨てるようなことと言いたいのか」「セックスワーカーを侮蔑している」といったご意見をいただきました。
このインタビューに同席した私の見解としては、上野さんは「主体性がないセックス」は「自分の肉体と精神をどぶに捨てるようなこと」という趣旨で発言されていたと理解しています。ですので、「同席したインタビュアーの4人がなぜ反論しなかったのか」というご意見もいただきましたが、セックスワークを侮蔑する流れでの発言ではなかったので、反論しようがない、というのが私の意見です。
編集部としては、セックスワークについて取り上げたとしても、職業差別や侮蔑につながるような表現はしません。ですので、「セックスワークは肉体と精神をどぶに捨てるようなこと」という発言であれば掲載していませんでした。
一方、「主体性がないセックス」の是非については、特定の誰かについてではなく、行為についての議論なので、「肉体と精神をどぶに捨てるようなこと」という強い比喩表現もあり得ると考えました。
しかし、結果として、職業差別や侮蔑ではないかとのご指摘をいただくことになったのは事実です。主語を補うなどして、誤解されないようにするべきでした。編集上の不手際でした。申し訳ありません。
こうしたことを踏まえて、発言者である上野千鶴子さんに、改めてお話を聞きました。
上野さんの答えは「文脈から判断して下されば誤読はないはずです。発言した以上でも以下でもありません。弁解の要を認めません」とのことでした。編集部としては上野さんの意思を尊重し、補足や削除といった対応はしないことにしました。
全ての記事について言えることですが、「インタビュイー(今回でいう上野さん)の発言」がすなわち「サイト(編集部)の意見」ではありません。
上野さんは「自分に性欲があることを女が認められないなんて、何が現代のフェミニズムよ、冗談じゃない(笑)」と発言されていますが、これに対するインタビュアーの「話したくないです」「話したくないことは話さなくていい」という答えや感想文も載せています。
上野さんも事前にこうした記事や感想文を読んだ上で、「このままどうぞ」とおっしゃっていました。ご自身の「私はフェミニストが一枚岩でいるよりも、多様性があるほうがずっといいと思う」という発言どおり、自身への批判も含め、誰の考えも否定していません。
上野さんのインタビューに同席した編集部員のなかでも意見は様々でした。例えば、マスターベーションについての議論の際、編集長の私は「(上野さんに)聞かれちゃったら答えるしかないなあ」とどきどきしていましたし、ほかの編集部員は「私は答えたくない」と言っていました。いろいろあっていいと思います。編集部内でも意見はひとつじゃありません。当たり前です。
どの考えに対しても、正解、不正解はないというのは、「かがみよかがみ」の主軸となる投稿者からのエッセイでもそうです。
美容整形に賛成のひともいれば、反対のひともいます。
ブスという言葉をなくしたいというひともいれば、ブスという言葉をなくすことで傷ついた過去までなくなってしまう気がするからなくしたくないというひともいます。
恋愛の悩みを綴ってくれるひともいれば、恋愛感情を持ったことがないというひともいます。
寄せられたいろんな感情や考えを読むことで、いろんな価値観に出合える場所になればいいなと思います。
もちろん私も自分の意見が絶対に正しいとも思っていません。私とは異なる意見もたくさんあると思います。そこで、予定していた連載が終わったいま、私の思いを書かせていただきました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。