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非論理な人間は議論に強い

名言だ。私は20代後半以降は人と議論をしたことはほとんど無いと記憶している。議論をする場合は、最初から負けてあげる(笑)つもりでしかやらない。議論なんてのは、どちらかが負けを認めるまでは終わらないのだから、どうしても、気弱で根性の無いほうが、あるいはより「理性的な方が(つまり、水掛け論の無益さを知る方が)」負けるのではないか。論理的な方が勝つのではないだろう。まあ、幼児と議論をしてみるがいい。絶対に相手は論理には従わないから。幼児が論理に従ったように見えるのは実は大人の背後にある「暴力」に従っているのである。
橋下徹の論争の非論理性は有名だが、彼は「議論」では負けたことはないのではないか。



(以下引用)


竹熊健太郎《一直線》 @kentaro666 1月9日

論破とは最低限、論理の土俵を共有する相手にしか出来ないのだと思う。仏教徒がイスラム教徒を論破することはできないのではないだろうか。

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中東情勢のメモ

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
シリアの次はイランですか。イスラエル(ユダヤ)も必死だ。世界を巻き込んで、「死なばもろとも」というつもりのようだ。世界平和のためにはさっさとイスラエルに原爆を落とすのが一番かもしれない。もちろん、世界に広がったユダヤ人脈は生き残るからそれもあまり意味は無いのだが、一つの政治拠点は無くなる。
イスラム世界もさっさとシーア派スンニ派で争うのをやめたらどうか。兄弟が争いあえば、よそからの侵略を呼ぶ、とは昔から言われているとおりだ。欧米によるアジアやアフリカの植民地化もすべてそういう内部の争いを利用したものだ。
そもそも部外者にはシーア派とスンニ派の争いに何の意味があるのか分からない。どちらも、イスラムの分派ということでいいではないか。なぜ殺し合いまでする必要があるのか。


(以下引用)



まずは、サウジの落日、

◆http://jp.sputniknews.com/politics/20160105/1405909.html
Sputnik 日本  2016年01月05日
米中央軍元司令官サウジとイランの紛争が、全面戦争に発展する可能性あり


米中央軍元司令官のアンソニー・ジーニー退役海兵隊大将は、
Fox Newsのインタビューに答えた中で
「サウジアラビアとイランの間の紛争がエスカレートすれば、
全面戦争に発展する可能性がある」と警告した。


ジーニー元大将は、次のように述べたー

「今の状況は、地域の経済と安定に無関心ではいられない国々
すべての懸念を呼び起こしている。非常に心配なニュースだ。

もし、何らかの深刻な形で紛争が先鋭化した場合、
それはイランとサウジの間の全面戦争に発展する恐れがある。

それは、ペルシャ湾地域に近づくことを不可能にし、
船の航行や原油ガスの輸送を制限するものとなる。

またサウジとイランの間の紛争は、ダーイシュ(IS, イスラム国)との戦いから
人々の目をそらし、米国政府を支持する地域の国々の
国内情勢不安定化を誘発することにつながるだろう。」



◆http://jp.wsj.com/articles/SB11055450168849313420504581459552305635770?mod=
 WSJ_article_EditorsPicks_2
2016 年 1 月 5 日
スンニ派とシーア派、5つの重要な違い


イランとサウジアラビアの対立激化を受けて、
イスラム世界で歴史的な緊張がエスカレートしている。

スンニ派の盟主を自認するサウジは、シーア派の大国イランとの外交関係を断絶。

サウジの同盟国の一部もイランとの外交関係を縮小している。

両国の対立は政治に根差しているように見えるものの、
イスラム教の中心的イデオロギーの対立にも由来している。

イスラム教徒の多くがサウジをスンニ派の強国とみなす一方、
シーア派のイランがそのライバルだとみられている。

スンニ派もシーア派も自分たちの信条や象徴、宗教的実践は非常に近いと考えているが、
一方で両派にはいくつかの重要な違いがある。


1. 後継者めぐる問題

 シーア派は、イスラム教の預言者ムハンマドの後継者は
 義理の息子イマーム・アリーであり、
 イスラム世界の指導権はムハンマドの子孫に引き継がれるべきだと信じている。

 一方、スンニ派はイスラム世界の指導者は必ずしも世襲される必要はないと考えている。


2. イマーム・アリーとその家族の崇拝

 シーア派はイマーム・アリーとその子孫を崇拝し、
 イマームと11人の子孫を祭る聖廟に年に1度巡礼する。


3. 多数を占めるスンニ派

 世界のイスラム教社会の約90%はスンニ派で構成されており、
 数ではスンニ派がシーア派を大幅に上回っている。
 サウジアラビアやバーレーン、アラブ首長国連邦といった
 一部のペルシャ湾岸諸国の政府当局者はスンニ派だが、

 イランとイラクはシーア派が政権を握っている。
 シリア政権はシーア派の分派であるアラウィ派だ。


4. 礼拝スタイル

 シーア派とスンニ派の祈り方は異なる。

 スンニ派は両腕を組む一方、シーア派は腕を組まない。
 スンニ派は日に5回の礼拝を順守しているが、シーア派は日に3回に凝縮している。


5. 統治

 シーア派のほうが階層構造による統制が強く、生存する宗教指導者らを信奉している。

 一方、スンニ派は通常、過去の宗教指導者たちが記した学術的書物に従っている。



◆http://richardkoshimizu.at.webry.info/201601/article_51.html
richardkoshimizu's blog  2016/01/08
イラン>「在イエメン大使館をサウジ連合軍が空爆


隠れユダヤ人サウド家のアラビアが、なりふり構わぬ対イラン攻撃。

背後の米国1%の思惑もありますが、

サウジ自身、原油価格が上がらないと国家破綻ですので、

自ら中東に軍事的緊張を作り出し、原油価格つり上げに挑戦。

だが、なにをやっても、原油は下がるばかり。

1バレル32ドル台。

サウジ、終わりましたね。 普通の「アラビア国」に戻ってください。




ランスロット 2016/1/7

スレチ失礼致します。 ユダヤ米国傀儡国家のサウジアラビアが
在イエメンのイラン大使館を空爆したそうです。
ISIS発戦争惹起がロシアの介入で頓挫してしまったので、
サウジアラビアを使って今年こそは本格的に中東で戦争を起こす計画なのでしょうか?
一部の狂人達の利益の為に、なぜ多くの罪もない人々が血を流さなければならないのか?
マスコミも人殺に加担していることを認識せよ。

◆<イラン>「在イエメン大使館をサウジ連合軍が空爆」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160107-00000109-mai-int

【テヘラン】イランのアンサリ外務報道官は7日、
イエメンの首都サヌアにあるイラン大使館が6日夜に
サウジアラビア主導の連合軍による空爆を受け、多数の警備員が負傷したと発表した。
空爆は大使館周辺だったとの報道もあるが詳しい状況は不明。
アンサリ氏は国営テレビを通じ「サウジ政府による意図的な行為は国際協定違反だ」
と強く非難した。
一方で、法的手段で問題を追及するとして軍事的対応は避ける方針を示唆した。



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朝の空気を悪くする「校門前強制的挨拶」の学校風習

パオロ・マッツァリーノという名前の日本人(笑)の「反社会学講座ブログ」から転載。
まさに我が意を得たり、である。私もかねがね、先生たちが校門の前に並んで生徒に「おはよう」を言う光景(実物は見たことがないが、ニュースや写真では見た。)には気色の悪さを感じていた。下記記事にあるように、子供たちも内心「うぜえ」と思っていることは、私の小中学校時代の内面を振り返って考えてみても、ほぼ確実である。いや、自分はそうではなかった、という人は大嘘つきだと私は看做す。でなければ幼稚園児並みの精神である。
気の毒なのはこういうピエロ役を毎日演じさせられる先生たちである。困った顔でクスクス笑いながら先生たちの前を少しでも早く逃げようとする生徒たちに偽善的な笑顔を浮かべて、「おはよう」と声掛けをするのは屈辱でしかないはずだ。まあ、これも給料のうちだ、と我慢はしても恥ずかしいことには変わりはない。
もっとも、私も塾の講師をしていたころには入試会場の学校前で自分の塾の生徒を見つけて「がんばれ」と声掛けをするという「業務」はあった。だが、これは試験を前にして不安な気持ちの生徒の精神を落ち着けるという効果も少しはあるし、年に一、二度のことだから我慢はできる業務であった。(その分、早出残業の手当てがあったかどうかは覚えていない。当然、これは出してしかるべきだが、「生徒への愛情があるなら自発的にでも激励に出るべきであり、残業手当を要求するなど教師としての資格に悖る」とされていたような気もする。組合があれば「只働き」は最大の問題になるはずだから、組合があるかどうかで、そのあたりは変わるだろう。)

まもなく中学入試本番のシーズンであり、少しあの当時を思い出した。


(以下引用)



気持ち悪いあいさつ
 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。
 新潮45の連載で書いた「絆とふれあい」の回に入りきらなかったネタ。
 日本全国の小中学校では、毎朝、登校してくる生徒を校門の前で先生がお出迎えしてあいさつをするという、ヘンな風習があるのですが、なんでそこまでして、オトナがこどもに媚びを売らなきゃいけないんですか。
 それがこどもたちへの愛情のアピールだとでも思ってるのでしょうか。先生たちは、いつでもキミたちをやさしく見守っているよ! あいさつは、先生とキミたちとの絆だよ!
 こどもたちは内心、こう思ってます。「うぜえ」。

 いつからこんな気持ち悪い風習が広まったのか調べたところ、どうやら1987年の日教組教研集会での報告がきっかけだったと判明しました。
 大阪の荒れた中学で、PTAが校門前に毎朝立ってあいさつ運動を7年間続けたところ、学校が再生した、という例が報告されると、「そうか! 毎朝校門であいさつをすれば、校内暴力がおさえられるんだ!」全国の学校関係者がその報告にとびつき、またたくまに朝のあいさつ運動が全国に波及したのでした。
 ……なんといいますか、ものごとの因果関係ってのをまるで理解していない。水は言葉がわかるだとか、江戸しぐさだとかを真に受ける教育関係者が多いのもムリはないのかな。
 中学の生徒は3年ですべて入れ替わります。7年も経てば校風も、社会情勢だって変わります。ツッパリブームも時間が経てば終わるんです。過去の例を見ても、こどもたちが荒れる時期とおとなしくなる時期は交互に来ています。荒れる生徒が減ったのは時代の流れによるものであって、あいさつとは無関係です。
 あいさつは人間関係の基本だという主張には賛同します。大切な社会習慣としてこどもに教えるのもかまいません。だったらなおのこと、校門でのあいさつはやめるべきです。社長が毎朝新入社員をお出迎えしてあいさつしてる会社などないんだから、先生が生徒をお出迎えするあいさつは、実社会にない誤った習慣を教えてることになります。ウソのマナーを教えてはいけません。
 あいさつになんらかのご利益があるかのように教えるのもいけませんね。それはインチキ宗教と同じ手口です。このツボや石を買うと病気が治る、宝くじが当たる、みたいな。
 あいさつは人間関係を円滑にする手助けをするもの。それ以上でも以下でもない。あいさつに効果やご利益があるかのように布教するのはやめてください。
 悪人だってあいさつくらいしますよ。ヤクザは元気よくあいさつするけど人を殺してるでしょ。元気よくあいさつする運動部が、過去にどれだけ暴力沙汰で活動停止処分を受けてますか。たぶん誘拐犯も、最初はこんにちはー、と笑顔でこどもに近寄っていくんじゃないですか。いきなりナイフをちらつかせたら、当然こどもは逃げますから。あいさつをする人がいい人、しないのが悪い人なんて区別はできません。
 あいさつに犯罪を減らす効果があると主張するかたは、小笠原の海に行って毎日あいさつして、中国の密漁船を追っ払ってくださいよ。効果が出るまで7年かかる? がんばってください。

 校門前での朝のあいさつ運動がはじまってからも、文科省の統計によると校内暴力はじわじわ増えてます。こないだの土曜日にNHKの番組見てたら、最近、小学校でこどもたちの暴力が問題になっているそうです。
 で、その原因が「ストレス」だってさ。なんでもかんでもストレスのせいにするのも安易ですけど、まあ、そりゃストレスは溜まるでしょうね。私が見ててもわかります。いまのこどもたちは、学校帰りに道草食って息抜きする自由すら認められてないんです。登下校のあいだも、おそろいの蛍光グリーンの帽子かぶったおせっかいジジイやババアがずっとついてきて見張られる。校門ではおはよう、おはよう、と九官鳥みたいにあいさつを押しつけてくる先生たち。
 私がこどもなら、絶対イヤですね。暴れる子はまだ救いがあります。それが人間として正常な反応です。
 むしろ心配なのは、オトナたちの歪んだ愛情の押し売りにガマンして、反抗しないおとなしい子たちです。オトナが望む「いい子」を演じているこどもには、相当のストレスでしょう。
 こどもはあんたらが考えるほど弱くないし、見守られたいとも思ってない。よけいなおせっかいはやめて、もっと放っておいたらどうですか。
 こどもが頼ってきたときだけ話を聞いてやればいいし、こどもが悪いことをしたときだけ叱ればいい。そういうあたりまえのことをせずに、あいさつ運動だのパトロールだのといったわけのわからない活動を派手にやって穴埋めしたつもりになり、効果もないのに自己満足に浸るのは、いかさまですよ。
 なにをエラそうにぬかしやがって、と批判したいかたは、まず、拙著『怒る!日本文化論』を読んでください。私が理屈をこねるだけでなく、実践もしてることがおわかりになるはずです。
[ 2014/11/06 14:33 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

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家族愛があり余るので不倫しました

俗な話題だが、「ゲスの極み」とはこういうことか、と感心したのでメモしておく。ネットのニュースタイトルでも「ゲス川谷が云々」と書かれているのは、気の毒というか自業自得というか、何でこんなバンド名(ゲスの極み乙女)にしたのか、正気を疑う。まあ、昔から「筋肉少女帯」とか、変な名前のバンドはあるのだが。

家族愛は家庭内にとどめておけ。


(「ネットゲリラ」から転載)


これ、ベッキー(本名:Eriyan)と川谷(本名:健太)とのline内容
http://dl6.getuploader.com/g/zipcodezipcode/97/hurin.png
卒論=離婚届な。これ、完全に交際してるじゃん、セックスやってんじゃん。
こんな証拠あるのに、記者会見で交際を全否定して良かったの?w
川谷もファックスで全否定してたけど、大丈夫?ww 
 
<川谷ゲスすぎwwwwwwwwwwwwwww>
嫁、売れない旦那を一生懸命支え続ける

旦那のバンド、やっと売れてきた

食っていけるようになったのでようやく結婚

でも旦那から「イメージのために、結婚したことは誰にも言うな」と言われ
旦那のことを誰にも紹介できず 、自分の存在を隠してひたすら我慢の日々

結婚8ヶ月目に旦那がベッキーと不倫SEX

旦那が実家にベッキー連れて行って、ラブラブ報告

記者が突撃取材「あなた結婚してますよね?この写真の女性、あなたの奥さんですよね?」
川谷「独身です。この女(実嫁)はただの友達です。」

旦那「ベッキーと結婚することにしたから離婚してくれ」  
嫁「ファ!?」
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ゲスの極み乙女。トヨタ新CMに出演「家族愛がありあまる」
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初夢の話

遅まきの初夢だか、半覚醒状態での妄想だかを見た。しかも三つもである。早々と就寝し、十時ごろに目が覚めて、あまりに早いので無理に眠りなおして12時までの間の2時間ほどで見た夢である。
一つ目は、たぶん半覚醒状態で小説の構想らしきものをしていたようだ。別に本気で書く気はないし、その能力もないが、時々半覚醒状態のときにこういう「構想」だけはすることがある。小説のネタである証拠に、題名まで考えてある。「あしたは幸せになる」という題だ。「あしたは」というところがミソで、今日はふしあわせだ、ということを匂わせているわけである。そして、その幸せなあしたが来るかというと、来ないのである。永遠にそれは「明日」なのである。内容は、町起こしに利用された女子高校生の話である。町長の策謀で、町起こしのシンボルとして起用され、本人も大乗り気でいろいろと働くが、すべて空回りに終わり、最後は町全体の非難の的になり、家族や友人からも見放され、精神を病む、という話である。なぜこんな構想を考えたのかさっぱり分からないし、私自身はこんな暗い話は嫌いなのでたぶん書かないだろう。アイデア自体は面白いと思うし、力のある作家が書けばヒット作にもできるかと思うので、誰か書いてくれないだろうか。町起こしの一端として、町中にある豚小屋を撤去させ、町の悪臭源を除去する、ということを実行し、その豚小屋の所有者からも移転費用を出すことで了承を取っていたのだが、豚小屋を撤去した後でその持ち主が訴訟を起こし、「人権活動家」たちがその後押しをして、主人公の女子高生が悪者とされる、というエピソードなども考えてある。

残りの二つは私個人の内面にかかわる、少々恥ずかしい夢なので、書いてあるがそちらは非公開とし、無難な上記ひとつだけを公開しておく。


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新年

仕事柄、2日から仕事に出たが、さすがに正月早々働くと(ろくな働きはしていなくても)錚々とか葬送とかいう気分になり、早くから酒を飲んでしまった。
まあ、小田嶋氏の言に私も賛成だが、昼酒を堂々と飲める、という美点も正月にはあるから、ことさら排斥しようとは思わない。
門松立てて、日の丸を掲揚して、とまでは思わないが。
外国出来の行事だって輸入する国なのだし、行事が多ければ世間の仕事も遊びも増えるから(人々が遊んでいる陰で、その行事のために働く無数の人がいる。)、資本主義世界の者としては年中行事を排斥する姿勢はいかがなものか、とも思う。
日本の伝統として季節感を大事にする国だし、年中行事は季節感の一部である。


新年も一人酒飲む男かな(夢人)


(以下引用)


小田嶋隆 @tako_ashi 2015年12月30日

おせちにしてもひな祭りにしても七五三にしても、戦後になってから普及したいわゆる「日本の伝統」の多くは、そもそも庄屋様とかお武家様みたいな「いいうち」限定の習俗だったものを、下層庶民がマネして、それをまたデパートやらが商業化したイベントだと思っているので、まじめに追う気がしません。

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朝日のように爽やかに

年の最後の日くらい、きれいに締めくくろう。
「日々平安録」に載っていた吉田健一「時間」の冒頭の文である。
詩、ですな。「朝日という水のように流れるもの」とは、実にイメージ豊かだ。もともと吉田健一の文章じたいが「水のように流れるもの」だと私は思っていて、それを普通の日本語の文法(言語論理)で捉えようとしてはいけない。そういう日本語もあり、それが日本語の面白さだ。
ところで、「長いのも短いのでもなくて」は正確な引用なのだろうか。いくら吉田健一でも、ここは「長いのでも短いのでもなくて」と書きそうな気がするが、まあ、他人のブログをコピーすること自体がすでに「誤解の伝播」のもとなのだから、ネットとはそういうものだ、とあきらめ、他人にもあきらめてもらうしかない。

ということで、言葉は素晴らしいものだが、誤解や混乱の種でもある、ということを今年の締めくくりの言葉としておく。
来年が多くの人にとって良い年でありますように。



(以下引用)



 冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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