鹿児島市・桜島(1117メートル)の昭和火口で1日午後3時36分頃、爆発的噴火が起き、噴煙の高さは火口から約4100メートルに達した。
噴煙が4000メートルを超えたのは、昨年5月21日以来約11か月ぶり。鹿児島地方気象台によると、噴石が5合目付近(火口から500~800メートル)まで飛散した。桜島での爆発的噴火は今年43回目。
気の赴くままにつれづれと。
鹿児島市・桜島(1117メートル)の昭和火口で1日午後3時36分頃、爆発的噴火が起き、噴煙の高さは火口から約4100メートルに達した。
噴煙が4000メートルを超えたのは、昨年5月21日以来約11か月ぶり。鹿児島地方気象台によると、噴石が5合目付近(火口から500~800メートル)まで飛散した。桜島での爆発的噴火は今年43回目。
菊池桃子さん「PTAは任意」 発言に広がる共感なぜ?
学校のPTAは、入っても入らなくてもどっちでもいいはずなのに、全員参加の雰囲気がある――。先月、タレントの菊池桃子さんのこんな趣旨の発言が、ネット上で話題になった。活動するもしないも個人の自由のはずなのに、なぜPTAの世界ではそれが難しいのか。
■共感の投稿相次ぐ
菊池桃子さんがメンバーを務める政府の「1億総活躍国民会議」終了後だった。発言は3月25日にあった会議で語った内容を明らかにしたものだ。ネット上で注目され、ツイッターには「よく言ってくれた」「正論だ」など共感するコメントが相次いだ。
菊池さんの発言に反響があったのは、PTAが一般的には「事実上の強制加入」だからだ。子どもが入学すると、入会するかどうか意思確認をせずに自動的に会員としたり、退会の規定がなかったりする学校がほとんど。会員になるだけでなく、「全員が一度は役員を」「一人一役」といったルールもある。活動を休んだり役員を断ったりすると、「不公平だ」「授業参観には来るくせに」などと言われることもあるという。建前は「任意」でも、「入会しない」選択は難しいのが実情だ。
この春に東京都世田谷区の小学校に長女が入学した女性(33)は、入学前の学校説明会でPTAの説明を受けた。入会の意思確認は何もなく、「毎年一つは係をしてもらいます」などと書かれた紙が配られた。PTA活動は任意と聞いたことはあったが、「子どもに何か不利益があったらと考えると、参加しないと言い出せる雰囲気ではなかった」。
■「加入義務はない」
首都大学東京の木村草太教授(憲法学)は「PTAに加入する義務は法的にはない。憲法21条が保障する結社の自由は、加入しない自由も保障している。任意であるものを強制かのように見せたり、子どもへの影響をちらつかせて強制したりすれば、詐欺や脅迫行為だ」と指摘する。
2014年には、熊本市内の男性がPTA加入の際に意思確認がなかったことを不服として、会費の返還などを求めてPTAを提訴するという訴訟沙汰になったこともある。熊本地裁は今年2月に請求を棄却したが、男性は控訴している。
大津市が今春、市内55の小中学校を対象にアンケートを実施したところ、8割の学校がPTAが任意団体であることを保護者に説明していなかった。会費の徴収方法も、2校をのぞくすべてが「学校徴収金と同時に保護者口座から引き落とし」だった。子どもの学習のためのお金と一緒くたに集めていることも判明した。
■規約に明記の動き
そんな中、任意性のあいまいさを問題視する動きも出ている。
横浜市PTA連絡協議会は今月13日に開いた新任PTA役員向けの研修会で、任意性の指導をした。任意性を取り上げるのは今年で5年目。だいぶ浸透してきたという。浜松市内には、今年度から規約の冒頭に、「入退会は自由」と明記した小学校がある。今年4月までPTA会長を務めた越智浩さん(50)は「入会申込書もなく、『入って当然』という雰囲気がまかり通っていた。規約は自由な活動への第一歩だ」と話す。
「運営からトラブル解決まで PTAお役立ちハンドブック」著者でフリーライターの田所永世さん(41)は「フルタイムで働く親が増えているのに、専業主婦を前提としたまま。『参加しにくい』『入りたくない』と感じる人が増えている」と指摘したうえで、「必要なのは、無駄な活動を見直し、負担を軽くすることで、さまざまな環境の人が参加しやすい形にしていくことだ」と話す。
◇
■菊池桃子さんの発言要旨
働く母親にとって、PTA活動の負担が大きく、仕事に支障を来しているとの声があがっている。任意参加なのに全員参加することが暗黙の了解となっているケースが多い。政府が積極的に関与・指導をし、女性の就業問題の議論を深めて欲しい。
(朝日新聞デジタル 2016年4月27日05時00分)
妻が片付けのために玄関先に出て、そばにいた母もまどろんだ一瞬の間に、父は自宅を出た。ここには「鍵のかかっていない扉から線路内に下りることができた」とある。これが最大の過失だった。非常に重大な過失だ。ここに最大の責任があったと言える。
小銭も持たず、自宅近くのJR大府駅の改札を抜け、一駅先の共和駅まで列車に乗って移動。駅のプラットホーム端にある階段から線路に下りたとみられ、列車にはねられた。階段前には柵があったが、鍵のかかっていない扉から線路内に下りることができた。
( → 朝日新聞デジタル )
虐待を受けて殺害された小学五年の女の子が学校の行事(二分の一成人式)で親への感謝の手紙を書いた。「お母さんありがとう…お母さん大好」子どもは親に感謝するものという教育のもと日常的な虐待がありながら大人が喜ぶ言葉を並べた。 pic.twitter.com/XJTFM3J6bt
「シャア! 謀ったな、シャアっ!」
「君はよい友人であったが、君のドイツ語がいけないのだよ」
…皆様いかがお過ごしでしょうか? ドイツ的職場と日本的住居の間を毎日高速移動する機動戦士マライです。
ガンダムといえば。
実はむかし、知人の付き合いでアキバの某巨大家電量販店のプラモ売り場に行った際、ガンプラ箱に書かれていた「ノイエ・ジール(Neue Ziel)」という、文法的にも発音的にも超アウトアウトアウト! スリーアウトチェンジ! なニセドイツ語と遭遇してしまったのが、なんと私とガンダムの最初の出会いでした。あまりハッピーとは言いかねるシチュエーションです。
ちなみに、「ノイエ・ジール」がいかにドイツ語としてヤバいかというのはWikipediaにも明記されているほどなので本稿では繰り返しませんが、これについてオタ系の知人に対し啓蒙を図ってみたところ、以下のような実に興味深い&勇気ある反応をいただきました。
①「ノイエ・ジール」も充分ドイツ語っぽいのでオレ的にはノープロブレム。
②「ノイエス・ツィール」よりも「ノイエ・ジール」のほうが大型モビルアーマーの名前としてカッコイイじゃないか。
…つまり。
こーゆー業界文脈においては、「正確なドイツ語」よりも、「ドイツ語っぽいカッコよさ」のほうが重要度が高い、という心理現象がうかがえるのです。ナルホド。リアルドイツよりも「脳内ドイツ」イメージを優先する主義、ともいえるでしょうか。
この場合ドイツ人としては、ついつい正しいドイツ語の普及&誤用の矯正に邁進したくなりますけど、なんとなくそういうアクションは商業市場的にお呼びでない予感がします。もし強行すると小うるさいロッテンマイヤーさん扱いを受けてしまいそうです。ううむ、この局面、一体どうしたらよいものか?
ただ、かくいう在日ドイツ人の間でも、たとえばグラニフ(graniph)の変てこドイツ語まみれTシャツが、最近の製品は以前と違い文法的に正しくなっていてつまらん! という逆説的な意見を聞いたりするので、根本的には似たようなものかもしれません(笑)
…とか思っていたところ、次なる事態が勃発!
私の友人の内田弘樹先生がノベライズを担当している『シュヴァルツェスマーケン』シリーズというメディアミックス作品があって、製作サイドからドイツ語協力を依頼されたのです。で、最初に私が述べたのが、「そのタイトルはそもそもドイツ語文法的におかしいDeath!」でした。はい。ラウンド開始前の金的攻撃みたいなものだったのですが…
「いやもう決まっちゃってるんで、て言うか、日本人からみると語感的にイケてるので…」
ということで、こちらも日本人から観たドイツ語の格好良さ優先という根拠があったため、呆気なく了承してしまった次第です。物分りいいなあ私。
ちなみに『シュヴァルツェスマーケン』は、東独が存続している(つまり歴史が異なっている)並行世界にエイリアンが攻撃を仕掛けてきて、世界各国がそれぞれ立ち向かうという内容です。この「東独」というのが大きなポイントですね。
なお余談ですが、最近ドイツ本国では旧東独のアレコレが社会派サスペンスのテーマとして旬を迎えつつある(ちょうどそういう年代)ので、日本でこのような動きが生じてくるのは大変興味深い…文法的にはアレなんだが(笑)
日独協会『中二病で学ぶドイツ語』現場の状況。『エルフェンリート』をめぐる漢字・カタカナ・アルファベットの、濃厚なビジュアル三位一体が参加者を直撃する! 伸井さんのポーズが何気にキマっているのもポイント。 ©日独協会
…とか思っていたところ、さらなる事態が勃発!
公益財団法人日独協会にて、リアルドイツ語を超えた「装飾ドイツ語」を追究する『中二病で学ぶドイツ語』というイベントが2015年12月に開催されました。企画・プロデュースは『ニセドイツ』で有名な伸井太一さんです。
これがヤフーニュースヘッドラインでも取り上げられるほどの大反響を呼び、ドイツ大使館が積極的にバックアップする展開に至りました。もちろん「中二病ドイツ語」は「誤用」とは違いますが、上記リンク先を見れば窺えるとおり、明らかに「ネタ」としてのイレギュラーなドイツ語を全面展開する知的遊戯です。素敵におかしいのは間違いない。大袈裟に言えば、伝統的ルール・価値観逆転のポテンシャルを内包するイベントをドイツ大使館が後援したわけで、これは文化的になかなか画期的な出来事だったといえるでしょう。
…と、ここまで事態が展開してくると、この手の文化ベクトルも一時的趣味的なイレギュラー事例として扱えなくなってきたなあ、というのが最近の率直な実感です。
ひとつ確実に言えるのは、SF的な名称にしてもTシャツのロゴにしても、誤用でむしろソレっぽくなってカッコよい、というのはある種の特殊なセンスの介在によって初めて成立する現象だろうということです。
厳しげな単語ならOK、という安直なものではない。何らかの共有幻想の核となるパワーが宿っていなくてはなりません。その源泉はどこなのか? ということで、有力なイレギュラー語を支える動機、つまり背景の世界観の構成に探りを入れることが重要、という気がいたします。
たとえば、そもそもガンダムは何故OVAや派生作品でジオン軍の「ドイツ軍化」が進んだのか、『シュヴァルツェスマーケン』は何故「東ドイツ」なのか、といった点ですね。その考察によって比較文化的な美味しさが増すともいえるでしょう。
リアルドイツ語よりも「俺ドイツ語っぽさ」を追究する、という文脈で思い出すのが、アルゼンチンが誇る文豪ボルヘスの短編小説『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』です。これは要するに、たとえば窃盗事件のニュースで良く出る言葉「バールのようなもの」が具体化して「バール」の座を奪い、さらに諸事そのように「…のようなもの」がオリジナルを乗っ取って現実を侵食していく、という話です。ぶっちゃけ、共有幻想が現実を乗っ取ることは可能か、というすごい現代的な内容の作品ですね。上記ウィキペディアだと何を言っているのかわかりにくいけど、短編集『伝奇集』に収められた原典は読みやすいので必読です。この物語は、メインカルチャーに対するサブカルの逆襲と浸透がどのように成されるか、ということの秘伝書みたいな側面を有している気がします。
爛熟しきってある意味「何でもあり」状態になってきた現代エンタメ業界にて、「知的に効果的な次の一手」を打つとしたら、それは意外とボルヘス系とかかもしれないんだよねー、とはちょっと前からつれづれ思うところだったりします。ラテンアメリカ文学恐るべし! ということで今回は、アニメがらみの「ドイツ文化」問題のオモシロな解が、意外や意外、岩波文庫にあったよー、というお話でした。
…あ、最後の最後に入ってきた情報ですが、㈱イクストル様によると、なんと、『シュヴァルツェスマーケン』のドイツでの放映が決定したそうです。おめでとうございます。まさに、「ドイツ語のようなもの」によるドイツ逆上陸作戦! ああ、ボルヘス的な現実侵食がこんな形で加速してしまうとは!(笑)
それでは、今回はこれにて Tschüss!
※今回、㈱イクストル様、および公益財団法人日独協会様から画像提供をいただきました。改めて感謝いたします。
(2016.01.29)
© マライ・メントライン
マライ・メントライン
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州キール出身。NHK教育 『テレビでドイツ語』 出演。早川書房『ミステリマガジン』誌で「洋書案内」などコラム、エッセイを執筆。最初から日本語で書く、翻訳の手間がかからないお得な存在。しかし、いかにも日本語が話せなさそうな外見のため、お店では英語メニューが出されてしまうという宿命に。 まあ、それもなかなかオツなものですが。
twitterアカウントは @marei_de_pon 。
本当を言ふと、酒飲みといふのはいつまでも酒が飲んでゐたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどといふのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、といふのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止つてゐればいいのである。
小説「酒宴」の一節。こう続く。「庭の石が朝日を浴びてゐるのを眺めて飲み、それが真昼の太陽に変つて少し縁側から中に入つて暑さを避け、やがて日がかげつて庭が夕方の色に沈み、月が出て、再び縁側に戻つて月に照らされた庭に向つて飲む、さうかうしてゐるうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛つてゐるのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になつたり、朝になつたり、忙しいもんだね、」と相手に言ふのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねてゐる。」
飲めないひともいるようなので、酒が飲める体質に生まれたのは幸いであった。しかしまだ、まる一日のみ続けたことはない。確かに翌日のことを考えてそろそろここら辺でなどと考えるのは味気ないものだが、外で飲んでいれば閉店ということもあるし、家で飲んでいても、ある程度飲むと眠くなる。しかし、とにかく飲んでいる状況というのは普通はさしあたりすぐにはしなければいけないことはない状態のはずで、酒を飲んで気持ちよくなる理由のかなりはそれによるのではないかと思う。だから、翌日にもしなければいけないことがないならば、翌朝まで飲むというのは理屈にはかなっている。「酒宴」には「少しも眠くはなかつた。いい酒といふのは、さういふものである。疲れは酒で直るから、眠る必要はないといふことになるらしい」とある。こちらがいい酒を飲んでいないだけかもしれない。しかし「酒宴」でも主人公は、翌日には東京から大阪まで当時の「つばめ」で移動する汽車(当時はまだ十二時間かかった)の中では「眠りに眠って」いる。
氏の「私の食物誌」に「東京のおせち」という項があり、そこに「兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出来上がったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒を飲んでいる時の気分と言ったらない。それはほのぼのでも染みじみでもなくてただいいものなので、もし一年の計が元旦にあるのならばこの気分で1年を通すことを願うのは人間である所以に適っている」とある。正月もまた普通は何もしなくてもいい、さしあたってはすることのない時である。吉田氏にとっては何もしていない時間こそが本当の時間なのであり、それを実感できる時が酒を飲んでいる時なのであった。
しかし晩年にいたってこう書くようになる。「冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのではなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。」(「時間」) 酒をのまなくても時間が自然に流れるようになったのである。この句点を一切欠く、見方によっては異様な文体も、また氏の時間の感覚が要請したものなのであろう。氏の晩年、どのような境地に実際にあったのかは知らない。氏はとにかくある方向を目指そうとしていた。
そして氏が目指そうとしたものの一端に、われわれは酒を飲むことで触れることができるのである。