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認知症徘徊老人事故死事件ではむしろJR側に重大過失あり?

「泉の波立ち」の南堂氏が、例の認知症徘徊老人鉄道事故死事件について、面白い指摘をしているので、転載しておく。この記事の内容が事実なら、アメリカならばJRに対して巨額の賠償を求める裁判が起こされるはずである。(「私はラブ・リーガル」などでは、もっと下らない、あほらしい理由での裁判が堂々と起こされ、大企業からカネをむしりとる話が何度も出てくる。まあ、ドラマで、しかもコメディだから誇張はあるだろうが、訴訟社会アメリカの現実を反映しているのは確かだ。)
敷地内に入った方が悪い、としてJRを擁護する意見も出てきそうだが、これは相手が認知症老人でなく、子供であっても起こりうる事故である。むしろ、子供のほうが、こうした事件を起こす可能性は高いだろう。鍵が掛けられておらず、簡単に入れる扉(まあ、金網の扉だろう。)があれば、子供が侵入する危険性があるのは当然だ。そして、事故が起こった場合、責任を問われるのは、「判断力の無い」幼児や子供ではなく、施設管理責任者である、というのは常識だろう。
つまり、JRは、下の記事内容が本当なら、今回の事件での徘徊老人の死に大きな責任があり、それは家族の監督責任などより、はるかに大きなものだ。(案外、この「扉」の件を最高裁裁判官たちは知っていて、こういう判決になったのではないか。もちろん、これは声を大にしては言えないことなのだろうが。)

ただし、余計な一言を付け加えれば、認知症老人の死亡に賠償金を払う必要があるかどうかは、別問題だ。どんな人間にも価値がある、というきれい事を私は言わない。未来の可能性のある子供や幼児の死と、認知症老人の死が同価値かどうか、それこそ議論が必要だろう。

なお、南堂氏が「時効」の話をしているが、はたして、この件に関する時効はそんなに短いだろうか。これは専門家に聞きたいところだ。少なくとも「殺人事件」での時効は、刑事事件としての時効よりも民事事件としての時効の方が長い、とどこかで聞いた気がする。そして、この事件は殺人事件ではなく「過失死」ではあっても、人間の命が失われた事件(事故)なのである。


(以下引用)


以下では、安全の話をしよう。こちらが本題だ。

 そもそも、この事故はどうして起こったか? 徘徊老人がいたからか? いや、徘徊老人が毎度毎度、あちこちで事故を起こしているわけではない。この駅には、特別な事情があった。
 上の記事には現場の画像があるので、それをちょっと拝借しよう。(著作権を言うほどの画像じゃない。似た画像はマスコミ各社にある。)


jrkaidan.jpg
※ 認知症の男性が電車にはねられ死亡したJR共和駅構内の事故現場付近。
  ホーム端の階段から線路内に立ち入ったとみられている → 
日本経済新聞


 この階段を下りて、徘徊老人が勝手に線路に入って、電車に轢かれてしまったわけだ。
 とすれば、ここに扉と錠を設置しておかなかった JR に、根源的な管理性人があると言えるだろう。
 だいたい、人命の危険が生じる場所には、きちんとした扉や錠を設置するのが常識だ。さもなくば、子供が線路に入って死んでしまう危険もある。また、犬や猫が入る危険もある。当然、扉と錠は必要だ。なのに、JR は「扉と錠」という防護策をとらなかったのだ。(扉はあったが、錠がなかった。)
 妻が片付けのために玄関先に出て、そばにいた母もまどろんだ一瞬の間に、父は自宅を出た。
 小銭も持たず、自宅近くのJR大府駅の改札を抜け、一駅先の共和駅まで列車に乗って移動。駅のプラットホーム端にある階段から線路に下りたとみられ、列車にはねられた。階段前には柵があったが、鍵のかかっていない扉から線路内に下りることができた。
( → 朝日新聞デジタル
 ここには「鍵のかかっていない扉から線路内に下りることができた」とある。これが最大の過失だった。非常に重大な過失だ。ここに最大の責任があったと言える。
( ※ 家族の監督責任など、ごく小さな責任であるにすぎない。家から出ることはちっとも危険ではないからだ。一方、線路のそばの扉に鍵をかけないことは、ものすごく危険な行為だ。責任の大きさは、大差がある。)

 さらに言えば、記事では「小銭も持たず」とあるのだから、徘徊老人が駅には入れるはずがないのだ。なのに、入ってしまった。ということは、無賃乗車を認めるのも同然であり、駅員の監視ができていなかったことになる。ここでは、駅員の監視責任が果たされていなかったことも、重大な過失と言える。

 ──

 結局、重大な過失は、駅の側にあった。
  ・ 扉に鍵をかけなかったこと。
  ・ 小銭を持たない老人を駅に入れてしまったこと

 重大な過失が二つもある。

 とすれば、ここから得られる結論は、こうだ。
 「家族の側には、賠償責任はない。一方、JR の側には、徘徊老人を死なせたことの、賠償責任がある。家族の側は1円も払う必要がないが、JR の側は家族に数千万円の賠償金を払う必要がある」
 これが妥当な判決であろう。



 [ 付記 ]
 ただし現実には、家族は JR に賠償を求めていない。求めるべきだったが。もし求めていれば、馬鹿げた裁判が最高裁まで続くこともなかっただろう。今から請求するとしても、たぶん時効だから、もう無理だね。

 なお、JR としては、本人への賠償金の分を、家族に請求できたはずだ。相続という形で。そうすえば、遺産の分だけは、賠償金を取れただろう。とはいえ、今から請求するとしても、たぶん時効だろう。これも無理だね。

 というわけで、お金の点については、どっちにしても馬鹿げたことをしている。呆れるしかない。
 一方で、安全性の点では、「扉に鍵をかける」という教訓ができているかどうかが、気になる。写真を見ると、今でも安っぽい柵があるだけのようだが、もうちょっとしっかりとした柵で、安全性対策をしてもらいたいものだ。





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