ある本についての評論なのだが、ここでは本の内容とは少し離れて、「現実と虚構」「空想と理想」について論じており、興味深い。
「理想が空想でないのは、厳粛な現実批判に立脚しているから」
というのは、なかなかいい定義だと思う。
実は、この後、かなりの長さの文章を書いたのだが、どこかのキーをうっかり触った拍子に全部消えてしまい、これ以上書く気を失ったので、後は書かない。まあ、引用文だけでも読む価値はあるし、それが気に入れば、元記事を探せばいい。
しかし、パソコンという奴は、実に無駄なキーや無駄な機能が多すぎる。少なくとも、ものを書くことに限定するなら、昔のワープロのほうが勝っている気がする。
(以下引用)
本書の各書評などで紹介されているのですっかり有名になった部分だが、宮崎駿の次のエピソードは白眉である。
1994年の秋に社員旅行で奈良を訪れ、猿沢池のほとりを歩いていたときのこと。園鳥の種類がなんだったのか覚えていないのですが、池には水鳥の姿が見えました。たまたま近くに宮崎さんがいたのですが、空から舞い降りて翼をたたんだ一羽の水鳥に向かって、宮崎さんはこう言ったのです。
「おまえ、飛び方まちがってるよ」
〈えええーっ!?〉
私は心の中で驚きの声を上げました。本物の鳥に向かって、おまえの飛び方はまちがっているとダメ出しする人なのです、宮崎さんは。現実の鳥に、自分の理想の飛び方を要求する人なのです。(p.53-54)
舘野は、宮崎が常々写真やビデオを見たままに描くな、と要求していることを記したうえで、
宮崎さんは、ただ現実をそのまま描くのではない、現実の向こうにある理想の「リアル」を描くことを探求しているのです。(p.54)
と紹介している。
創作の方法として、単純にフィクションとノンフィクションという分類があるが、別の問いを立てると「虚構と現実とどちらが豊かなものか」ということになる。
虚構側の言い分は「現実なんてつまらないものだ。想像や空想なら宇宙の果てまで行ったり、世界を征服する独裁者になったり、世界中の女とヤッたりできるのに」というものだし、現実側の言い分は「日々科学の力で解き明かされている現実の自然や社会がもつ無窮の豊かさに比べたら、人間の想像の範囲にとどまる虚構の薄っぺらさといったら、ないね」というものだ。
虚構は必ず現実にしばられている、というのが唯物論者たるぼくの考えである。その意味では現実の方がより根源的であるから、虚構はなかなか現実にはかなわない。
しかし、人間の意識に強い印象を残すのは、虚構であることが多い。
そのような虚構とは、まさに現実を調べつくして生み出される「典型」であるし、さらにいえばその「典型」を批判し、「典型」をこえて生み出される理想である。理想によって「典型」や現実は批判され、没落する。
それは政治でも同じである。
現実の批判のうえに理想が成り立つ。
理想が空想でないのは、厳粛な現実批判に立脚しているからであって、よき対案・よき建設的提案が、徹底した現実批判から成り立つのは当然のことである。よく「批判ばかりで対案がない」とか「責任政党として対案を」みたいなことが言われるが、質の高い批判なしに対案など生み出されようもない。「安保法制を批判する輩は対案がない」と言われ、あわてて現実の土俵に無批判に乗り込んで、「何かに対処する」っぽい急場しのぎの「対案」を用意する営為は、その思想の貧しさに目を覆いたくなるほどだ。
マルクスの経済学(『資本論』)は、共産主義の何らかの空想的なプランではなく、資本主義への批判であり、サブタイトルにあるように「経済学批判」、つまり現存する経済学への批判である。だからこそ、「マルクスは死んだ」と、もう5万回以上言われてもしつこくよみがえるのは、そのような透徹した現実批判をベースにしているからである。
宮崎駿自身、憲法9条の支持論者であるが、日本国憲法は、現在の保守支配層がこの憲法を邪魔者に扱いし、これを葬り去ろうとするなかで、憲法規範そのものが現実に対するラディカルな批判としてそこにある。憲法は厳しい現実批判をベースにした理想として存在している。