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当たり前の生活の幸せ





少年院生活は辛かった一方で、どこか温かさも感じていました。「一生ここにいろ」と言われたらそれはそれでいいなって……。私に限らず、少年院に来るのって、社会や家庭の中で身の危険を感じて育ってきた子が多いから、ちゃんとご飯があって、先生が優しくて、勉強させてもらえて、本が読めてという当たり前のことが、なんだかすごく幸せに感じられたんです。(戦慄かなの:少年院上がりの「アイドル」)

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日本の歴史的政治システム

別ブログに書いてまだネットに公表していないものだが、せっかくタイプ打ちしたのでここにも載せておく。現代の政治状況と比較しても興味深い。たとえば、安倍政権が内閣人事局を握ることで官僚を完全に支配したことなど。私自身は、天皇以上の実力を持った人々が自らあえて天皇になろうとしなかったのは「天皇の権威」の高い利用価値を知っていたからだ、と思っている。単に「日本書紀」などによる洗脳の結果だけではないだろう。政治が権力闘争の場(殺し合い)だからこそ、そこから一歩を置いた権威の存在は非常に強い「安定装置」になるのである。


(以下転載)



松本清張のエッセイ「天正十年のマクベス」より、抜粋(文章は一部変更)。

・家康は複数の小禄譜代大名で構成した執政機関(老中部屋)を置き、原則として将軍は親政しない方針をとらせた。しかし、執政の任免権は将軍の手中に握らせた。六代将軍家宣が顔色を動かすことなく老中上座柳沢吉保を罷免したのはその例である。役員人事の独裁権を持つほど強いものはない。だからこそ徳川幕府はとにかく二百五十年以上も続いたのである。
・朱子学は君臣秩序維持にきわめて都合のいい支配階級の学問で、百姓、町人にいたるまでこの忠義精神によって抑圧される。これが明治政府にうけつがれる。
・君に背くものは不忠であるという道徳は徳川幕府になってからでき上った。さかのぼっては足利尊氏にも乱臣賊子のレッテルが張(貼)られた。(中略)日本の中国侵略があらわになってきた昭和十年ごろには、尊氏をほめる者は不忠の臣であり、国体を紊す賊子の徒であるとの声が軍部や右翼方面から上がり、「国体明徴」運動が起こり憲法学者の美濃部達吉は天皇機関説で排撃を受け貴族院議員を辞職せしめられ、不敬罪で起訴された周知の事件となる。
・応仁の乱によってすっかり体制が崩れると、それまで続いたところの将軍の源家や足利家も落ちぶれてしまう。天皇も公家も力はない。もっとも、天皇や公家に実力がないといっても、伝統的な権威というものは続いている。天皇が現在まで万世一系として存続している理由についてはっきり説明できない人が多い。歴史的にみて、天皇よりも実際に力が上だった蘇我氏だとか藤原氏、平氏、源氏、足利氏が、天皇になろうとしてなれなかった理由については、誰もはっきりと説明ができないのである。
・(日本書紀によって)皇室の祖先は神武、綏靖、安寧、懿徳以下何々として皇統が上世いらい日本の知識人の頭脳に灼きつけられた。そこに一種の系統主義というものが生まれたとわたしは思う。だからこそ、藤原氏に実力があっても天皇家に対抗して、自分たちが天皇だといってこれに取って代わることができなかった。源頼朝も足利尊氏も天皇にはなれなかった。系統主義によって周囲が容認しないのである。
・後白河法皇は頼朝と対決した。頼朝の家来、上総権介平広常という者が、なにも法皇に遠慮することはない。法皇をやっつけなさいという意味のことを進言した。聞いた頼朝は、たちまち広常を殺した。こんな人間は、いつまたおのれの地位をひっくり返すかもわからないと恐れたからである。これも系統主義のあらわれである。

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読書の功罪

  1. 本というものは、読む人が百人いたら受け取る内容は百通りあるわけで、読者次第である。つまり、本を読んでも筆者の意図どおり理解する人はまず存在しない。読者の知的レベルや精神経歴などによって千差万別の受け取り方がある。
  2. 私の場合は、学術的書物(言い換えれば、真面目そのものの本)は、それが大衆向けの書物だろうと、まず2割か3割くらいしか理解できていない自信があるが、それを読むのが無駄だとは思わない。理解できたわずかな部分の中に、私自身の精神世界を根本から変えるものがあることもあり、そこまで行かなくても、何か大事なものを付け加えることもある。小説などの場合は作者や作品次第だが、平均したらだいたい6割から7割程度の理解度だろうか。
  3. また、本を読むことが害になることもあるわけで、ネトウヨがその種の本やそれを使ったネット発言の影響から生じることは容易に推測できる。真面目な本でも、誤った読み方をされて社会に悪影響を与えることもあるだろう。宗教書などはその種の影響力が強いわけだ。また、最初から社会的洗脳目的で書かれた本もたくさんある。
  4. 小田嶋師が、「本を読んで目を悪くするだけの人もいる」、と言ったのは、「目が悪くなる=物事の正しい判断ができなくなる」という比喩みたいなものだろう。物理的に目が悪くなることももちろん多いわけである。
  5. 「書物を三日読まないと顔に垢が付いたような気がする」と昔の中国の人が言ったが、これはもちろん、読書による精神の洗濯(洗顔)をしないと堕落した気分がする、ということである。悪書ではもちろんその反対で、読めば読むほど精神が堕落する。
  6. 小田嶋隆 @tako_ashi 7月29日
  1. まことに偏狭な態度で自分ながらいやになるのですが、私はすべての書物に価値があるとは思っていません。むしろ、無価値な本や有害な本がの方が多いと考えています。また、仮に価値のある書籍があるのだとしても、その書籍を読むに値しない人間がいるとも思っています。残念ですが。



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原理主義の最大のポイント

スポーツライター広尾晃のブログの読者コメントで、「甲子園原理主義」について指摘したものだが、「原理主義」の最大のポイントを見事に指摘していると思う。これはあらゆる組織に言えることだろう。会社原理主義、学校原理主義、部活原理主義、ヤクザ原理主義、軍隊原理主義、どの原理主義もすべて、指導者や首脳部にとって、非常に都合のいい道具になっている。

(以下引用)


  • 1. 椎名次郎
  • 2018年07月16日 17:56
  • もう一点

    原理主義としての類似性としてあげられるのが、どちらも指導者にとって非常に都合が良くできている点でしょう。
    いずれの場合も、放っておけば勝手に自らを進んで死地に置くということ。
    また、その考えに異をとなえる者が現れたとして、其れを取り除くのは指導者ではなく、その同士達であること。
    この関係は指導者だけでなく、学校、企業、国それぞれに当てはまる図式であり、体制側がこの都合が良い関係を手放す筈が無いということ。何しろ勝手に忖度してくれて勝手に転んでくれるのだからこれ以上のものはないでしょう。

    もう、体制にとって「都合がいい人」でいるのはやめませんか?
    と、いうこと。


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宗教と戒律

「谷間の百合」さんのブログの、数日前の記事だが、宗教における「戒律」への疑いという、非常に根源的な疑問を呈している貴重な文章だと思う。
もともと、仏教(一番最初の仏陀の教え)に戒律があったとは私は思わない。仏教というのは、個人の悟り(成仏)を求めるのが主眼であって、他人から何かを言われて無批判にそれに従う、つまり戒律を守らせるのは、「集団を維持するための方便」以上の意味は無かったのではないか。その意味では、谷間の百合さんの疑問は正しいと思う。その戒律にしても、たとえば坊主は肉食妻帯をしてはいけない、というのがいつのまにか(親鸞からだろうか)無くなって、今では肉食妻帯をする坊主のほうが主流派だろう。人間の自然に反した戒律はいずれ消えるのである。
戒律と言うと宗教語になるが、それは校則に類した、つまり「組織内だけの規則」にすぎない。それが問題になるのは、その「組織内の規則」が世間の常識や良識とぶつかる場合である。新興宗教の問題はだいたいそこにある。その宗教の内部では人を殺すことが「相手を成仏させる善行である」とされていても、その宗教の外部の人間としてはそんな理由で殺されてはたまらない。
旧来の仏教やキリスト教などはそうした世間との軋轢をうまく調整して現在に至っているわけだが、それでもまったく軋轢が無いわけではないし、世間的観点からは非常識と思われる決まり事は多いだろう。正直言って、坊主の坊主頭や袈裟を着た姿そのものを胡散臭く思う人間(私などはそうである。あれは生臭い本性を隠すための舞台装束ではないかと思っているwww)も多いと思う。
話が逸れたが、人間は本来、当人が覚悟したら(物理法則の範囲内では)何をすることも可能なのであり、社会秩序を破壊する「自由な」行動を防止するためにはすでに法律があり、自らを律するためには倫理的常識がある。そこにわざわざ戒律を作って、それに縛られて生きるというのは、まあ、当人がそれで満足なら他人がとやかく言うことではないが、哀れな生き方だな、と思う。(もちろん、その戒律の内容が非常に立派なもので、それを守るのが当人の幸福なら批判の限りではない。だが、戒律の多くは、校則でスカートの長さを決めるとかに類したもののような気がするのである。)



(以下引用)



ネットゲリラさんによると、タイ北部の山間部に住む少数民族の中にはまだ行政の目が届かない人々がたくさんいるそうで、タイの国民はそういう貧しい人たちを助けるのが好きなのだそうです。
仏教が生きているのかなと思いました。
布施や喜捨の精神が連綿と受け継がれているのかなと思いました。
タイのことはまったく知らなくて印象だけで言うのですが、そういう日常と共にある自然な宗教の姿をわたしは美しいと思いました。
わたしが宗教が嫌いなのは、戒律で人を縛ることです。
戒律があるから偽善が生まれ、嘘をついたり隠し事をする信者がでてくると思うからです。
戒律なんかなくても、人はしてはいけないことくらい知っています。
あえて、戒律を設けるのは、管理して従わせるためなのだろうと思います。
権力構造と同じです。
タイにはそれが感じられません。
どこまでも自然で明るく伸び伸びしているように見えます。
どこぞの宗教のように、戒律で縛ったり、罪の意識を植え付けたりということがないように見えます。
もちろん仏教にも戒律はありますが、それこそ守るのも守らないのも自己責任ということではないでしょうか。

オウムのことで感じるのは、集団が社会から断絶して集団の論理で生きようとすると必然的に疑心暗鬼が生まれ権力闘争が生まれ、果ては人を殺すところまで行くのかなということです。
「新撰組」や「赤軍派」がそうでした。
社会や日常から遊離するということはいいことではないようです。
宗教なんでほんとうは単純なことなのだと思います。
困っている人を見かけたら声をかける、手を差し伸べる、それだけでいいのではないでしょうか。
優しくて明るくて自由な宗教があればいいなと思います。



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訓練でどうにかなることならないこと

まあ、確かに、訓練ではどうにもならないことは多い。
たとえば自分自身の精神が訓練で改善できるようなものなら、誰も精神病にはならないだろう。そもそも、精神病というのは自分でも気づかないうちに病気の領域に入っているものだろうから、改善されるはずがない。薬で安定性を得ても、それは薬を飲んでいる間だけのことで、病気自体が治ったわけではないだろう。酒も同様で、私は酒の量を自分でコントロールしているつもりだが、それは錯覚で、アル中なのかもしれない。もっとも、体力や胃の容量(胃の老化)の問題で、ビール1本くらいしか飲めなくなり、酒席に出ることもためらってしまうような人間がはたしてアル中かどうか、疑問である。
要するに、努力できる人間は努力する才能の持ち主であるわけで、努力しない人間を責めても、それは馬に生まれなかった兎を責めるようなものかもしれない。
努力しないでも生きられる境遇(猫とか犬とか王族貴族とか大金持ちとか)に生まれるのが一番であるし、それが無理なら、自分にできる努力の範囲の成果で満足して生きられればそれでいいのではないか。一番よくないのは、なぜ自分にはあれやこれができないのだ、と自分で自分を責め続け、精神病になることだろう。実に知的な人間でありながら、自責の念が強すぎて不幸な人生を送っている人は多いように思う。
なお、私は精神病という言葉にはまったく差別的な意味は籠めていない。意図的に差別する場合は、安部や橋下や小泉を言う場合のように低能とかキチガイとかサイコパスと言う。





「コミュ力」「雑談力」ってな調子で、言葉の末尾に「力」をつけることで、それらが訓練で伸ばせる資質であるかのように見せかける造語法があるけど、それウソです。「身長力」と呼んだからって背丈は伸びないし「イケメン力」を意識したところで、顔の造作がコントロール可能になるわけでもない。





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忠君思想と防衛機制

最近、古代史の本をよく読む(流し読み、飛ばし読みだが)のだが、不思議に思うのは、古代の兵士がなぜ戦(いくさ)の場から逃げ出さなかったのか、ということだ。もちろん、逃げだしたら、戦の後でその逃亡兵士の家族が皆殺しにされたからだろうが、そういう「脅迫」でもない限り、喜んで戦闘に出る下層民などいたはずはない。
時代が下ると、「忠君思想」というものが出てきて、自分から喜んで戦闘の場に赴くというキチガイが(特に武士階級に)生まれてくるわけで、そういうキチガイでもなければ武士の資格は無いくらいのものである。ただ、それが本当に「忠君思想」、つまり、主君のために喜んで死ぬのかどうか、疑問の余地はある。
実際には「一所懸命」、つまり、自分の土地を守るために命を懸けたのであり、主君はその保証をしてくれる存在、つまり、本領安堵の御恩を与え、家来はその御恩に報いるために奉公した、というのは日本史で習うことだが、しかし、現実の戦の場では「主君のため」と思い込んで奮戦し戦死したのだろうと思う。もちろん、それは自分で自分をそう洗脳したのであり、そうでも思わないと馬鹿馬鹿しくて死ぬ気にもなれなかったのではないか。こういうのを確か「防衛機制」と言ったと思う。つまり、自分の自我、あるいは精神の平静を守るために、自分で自分に嘘をつき、それを信じる無意識的心理である。
まあ、現在でも、自分の生存基盤や家族を守るために、上の命じるキチガイ行為をする組織人は当たり前に存在し、上の人間は下の人間のそういう心理を利用して彼らを思いのままに使用するのである。

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