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イスラム教入門(?)

「混沌堂主人雑記」から転載。
「読めないニックネーム」というサイト(ブログ?)からの引用らしいが、イスラム教をおおまかに知るのに最適な文章だろう。もっと長いようだが、主な部分だけ抜粋した。
ちなみに、私は創造主とかいう存在をまったく信じていない。唯一神(創造主)を信じている点ではキリスト教もユダヤ教もイスラム教も同じであり、それぞれの社会の道徳的基盤になっていたという点では評価するが、他の社会との闘争の原因になったという点ではキリスト教もユダヤ教もイスラム教も同様に悪である。
なお、下の記述は、書いた人物のイスラーム解釈だろうから、「参考にする」程度に読めばいいと思う。



(以下引用)




イスラーム基礎知識

・ラーイラーハイッラッラー
(アッラーの他に神はいない)
=唯一の崇拝の対象である創造主
でないものはすべて崇拝や服従するに値しないと信じること
が最重要教義。

・ムハンマドゥン・ラスールッラー
(ムハンマドはアッラーの使徒である)

(ムハンマドは最高にして最後の預言者
(以降の「俺が新たな預言者だ!」詐欺の防止)

以上は信仰告白文でありこの二つの教義は他の教義の大前提

・法人の禁止。
(宗教法人非課税の禁止)

・利子の禁止。
(ヤソ流中央銀行支配の防止)

・キリスト教会のような
教義を決定する教会組織(モスクは単なる礼拝所)も
聖職者(学者は存在する)も
聖職者階級も存在しない
唯一の正統教義を決定する公会議もない。
正しい教義を決定する正当な手続きや資格は存在しない。
よってキリスト教のような正統と異端の二分法的発想はない。
(内心に踏み込み異端審問をすると地獄行き)

・戦闘員(成人男性)以外の人に物理的攻撃を加えることの禁止。
女性と子供を攻撃することの禁止。
コラテラル・ダメージ(やむを得ないまきぞえの犠牲)
については場合による。
剣の節(多神教徒は殺せ)の適用はかなり限定的。

(廃棄された個所かどうか確かめずに
コーランのあれこれが悪だと叩いている者に注意。
いきなりクルアーンを読んでもダメな理由。
クルアーンを原文で読み、
かつ多数派解釈と少数派解釈を学んだ人を情報源にしないと
デマをつかまされる可能性が高い)

・聖典範囲

クルアーン(最上位の唯一神の言葉)、律法、詩編、福音書。
クルアーン以外はオリジナルと異なる(改竄あり)とする(聖書の矛盾を解決)。

翻訳されたクルアーンは聖典ではなく単なる注釈・解釈書。

ムハンマドの言行録であるハディースも重視するがこれは人の言葉。
(ハディースの内容とクルアーンの内容を混同する者を情報源にしてはいけない)

・イエス(イーサー、ヤスーウ)は実在するが、磔になっていない。
・イエスは十字架上で死んでいないので3日後の復活もない。
・イーサーは被造物たる人間であり預言者の一人。
・アッラーは子を産まないので神の子なんてありえない。
・マルヤム(マリア)の処女懐胎で誕生。
・受肉もありえない。
・人間なので神性もない。
・三位一体もありえない。
・原罪もない。

・イエスは生きたまま、肉体を伴い(グノーシス派の否定)、
天に上げられたので今も生きている。

(キリスト教正統多数派の根幹を否定)

・マスィーフ(メシア)たるイーサー(イエス)は
終末(日時不明)が近づくと再臨し偽救世主ダジャルを殺す。
ダジャルはハディースでは右目が潰れているので左目系。
ダジャルがユダヤ教徒とは限らず
ユダヤ教徒ではない部族に似ているというハディースあり。
部下にユダヤ教徒がいる
(イエスの扱いよりイスラームでは
キリスト教>ユダヤ教)

・性の罪悪視はない。

・「偶像崇拝の禁止=像を作るな、偶像を破壊しろ」ではない。

”・偶像=自己の欲望の投影。
クルアーンは多神崇拝の禁止を繰り返し説いているが、
彫像の禁止は明記されていない。
34章13節には、ソロモン王がジン(幽精)に彫像を作らせた、とあり、
古典注釈書はソロモンのシャリーア(聖法)では彫像は許されていた、と述べている。
またハディースのレベルでは
預言者ムハンマドが幼妻アーイシャが人形で遊ぶのを黙認したという真正な伝承の明文が残されており、
イスラーム法は子供の玩具であれば人形を合法化している。
彫像だけでなく動物の絵も禁じるハディースも数多くあり、
預言者ムハンマドがマッカを征服したときに行ったのがカアバ神殿にあった360体の偶像の破壊であったことはよく知られている。
具象的偶像が原則的に禁じられており、キリスト教や、仏教、ヒンドゥー教のような宗教美術がほとんど存在しないのも事実だが、
ユダヤ教の偶像崇拝の執拗な具象化の拒否、造形、彫像の禁止はイスラームでは緩和されている。
むしろクルアーンは具象的な偶像崇拝の禁止を超えて、多神崇拝が虚偽意識の問題であることに目を向けさせている。

「自己の欲望を自分の神とする者を汝らは知っているか」
クルアーン25章43節

「アッラーの他に汝らが崇めているものは、
汝らと汝らの父祖たちが命名したただの名前に過ぎない」
クルアーン12章40節

イスラームでは偶像とは自己の欲望の投影であり、
偶像崇拝者とは自らの欲望を神に祭りあげて仕える我執の虜にほかならず、
唯物論、無神論、無宗教、
法人概念、実体経済を逸脱した拝金主義等も
人間の我執の幻影への隷属、
形を変えた偶像崇拝。”

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人間選別社会

「混沌堂主人雑記」記事の一節だが、重要な指摘だと思う。
資本主義、あるいは工業化社会の一番凶悪な部分が、ここなのかもしれない。
人間の自然な部分がどんどん「機械的選別をされていく」ということだ。そのために、学校のテストや、あるいは医学なども(社会不適合者を「病人」と定義づけることで)機能している。
昔は、地域地域に「馬鹿」がいたもので、それで別にその地域も問題視はしなかった。馬鹿もいれば常習的酔っ払いも乞食もいる、売春宿もある、というのが昔の社会だったわけだ。
そういった人々は社会の表面から消されてきた。つまり、表面上は「無菌社会」になったわけだ。
社会に適合するかどうか(その基準は誰かが作り、それを暗黙のうちに皆了解している。)というのが人間選別のほとんど唯一の基準になった。だから、人々は自分のそういった負の側面を隠して生きる(もちろん、大金持ちや権力者は別だ。)ようになり、非常なストレスを抱えて生きるしかないわけである。
しかもこれは社会主義国家でも何でもないのである。むしろ資本主義の高度な発達の結果だ。

下に書かれたこととは直接につながらないように見えるが、「人間の点数化とそれによる輪切り、差別」もそれである。昔の身分社会は、大きな差別はあったが、士農工商の大枠の中では、たとえばAはBより2ポイント優れている、というような馬鹿な評価はしなかったはずだ。なぜなら、その2ポイントというのは、条件が違えばいつでも逆転できるものだし、ある面では優れていても他の面では劣るというのが人間だ、という当たり前のことを誰でも知っていたからだ。

宮沢賢治に「虔十公園林」という作品(童話)がある。周囲からは馬鹿呼ばわりされていた精神薄弱(この言葉はあまり適切ではない。要するに、社会的な意味で知能が低い人間だ)の男が、子供たちが遊ぶ姿を見るのが大好きで、子供たちのために小さな林を作り、そこが公園になる、という話で、その最後で、ある人が、「本当に偉い人というのは、この虔十のような人ではないでしょうか」というような言葉を言うのだが、まあ、うろ覚えで書いているので記憶違いかもしれない。とにかく、この虔十のような人間が周囲から馬鹿にされていたのは昔も今も同じではある。だが、昔はそういう人間でもちゃんと社会に居場所があり、寛容な目で見られていたのである。

たった1,2点の差で、有名高校や有名大学に行けなかったという人間は無数にいる。では、彼らがその後の人生で受ける仕打ちは、その1,2点にふさわしい些細な違いだろうか。
高校や大学入試だけの話ではない。わずかな差が残酷なまでの違いを作ることが、私は資本主義社会の本質的な欠点ではないか、と思っている。



(以下引用)





発達障害は、軽度なら障害て言うほどのモノではない・都市部や現代社会でなければ。

あまりに、農村とかの自然と近い暮らしとか、まあまあの距離を開けれる人間関係ならば、大過なのである。

それがあまりに機械化・チームワーク化かされ、大過なかった差異が、大きな「障害」になってしまう。



近代機械化社会や、それを前提にした社会制度は、人間の自然・本来のポテンシャルとは遠くかけ離れた異様なモノというのは大きな間違えでない。

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悪を行うことと同情を受けること

別に持っているブログをたまたま読み返して、下の記事がなぜか我ながら非常に面白く感じたので、ここにも転載しておく。



悪を働くことと同情を受けること



彼らは盗みを働くかもしれないし、死人の口から金歯を抜き取るかもしれない。でも正面から差し出された贈り物は決して受け取ろうとはしない。というのはほんのわずかでもお情けのにおいのするものには、それが何であれ、彼らは我慢ならないからだ。


「感謝祭の客」(トルーマン・カポーティ 村上春樹訳)より



この部分は非常に面白いと思ったので、思索のネタとする。つまり、悪事を働くことは慈善や同情を受けるより容易である、あるいはその反対の言い方をするなら、他人の慈善や同情を受けるくらいなら悪事を働くほうがマシ、という心理はなぜ起こるのか、である。
実際、他人からの同情ほど嫌なものは無い、というのはかなり普遍的な心理である。

悪事との対比で言うなら、悪事を行うのは或る意味「自分が強者であることの証明」である。実際、悪事の結果は処罰であり、その処罰の可能性を知りながら悪事を行うことは勇気の証明だ、となるわけだ。これが子供がしばしば万引きなどの小さな悪事をしたり、悪事をすることを「仲間入り」の条件とする理由である。悪事が一種の通過儀礼であるわけだ。「これでお前もめでたく悪の仲間入り」である。原始的な部族がバンジージャンプなどで勇気を証明することで大人の仲間入りをするのと変わりはない。「悪事をする俺ってカッケー」と思っていない不良はいないだろう。そして、そういう不良を素敵と思う馬鹿な女の子も膨大にいる。実際、単に勇気という点だけで言えば、悪を行うことは勇気ある行為ではあるのだから、それを男らしいと見るのもあながち間違いだとも言えないのだ。ただ、馬鹿な勇気であり、ロクでもない人間であることの証明でもあるだけの話だ。
さて、では、他人からの同情や慈善を受けることがあれほど不愉快なのはなぜか、と言えば、悪事との対比で分かるように、それは「自分が弱者であることの証明」だからである。弱者だから同情され慈善を受けることになる。ならば、その同情や慈善を突っぱねることでしか「弱者の位置」から抜け出せないのは当然だ。
要するに、悪事を冒すことは自己愛をむしろ喜ばせ、慈善や同情を受けることは自己愛を傷つけるという、「人間は自己愛の動物である」という基本原則でこの問題は解答が出るのである。

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他人を理解すること

「株式日記と経済展望」の引用記事部分だけを転載。
興味深い情報だが、「将来無くなる仕事」の部分は、話を大げさに言っているのではないか、という気もする。
ただし、前半部分は面白い。何に「いいね」を押したかを見れば、その人の嗜好や指向性、あるいは性格の特徴は分かるだろうし、その分析内容は、たとえば夫(妻)が妻(夫)を理解しているより正確だろう、というのは或る意味当然である。
と言うのは、夫(妻)や妻(夫)は自分の配偶者がどんな買い物をしているかなど知らないのが多いだろうし、会話そのものすら夫婦となってから300回も「突っ込んだ」会話などしていないだろうからである。お互いに、相手への遠慮もあるのが多くの夫婦の姿なのではないか。たとえば結婚前の異性関係など、結婚後に相手に聞いたりするものだろうか。
親子の関係にしても、現実は相当に水臭いもののような気がする。つまり、家族でも「遠慮がある」のが上品な家庭の姿だろう。思ったとおりを思った瞬間に言ったり、腹を立てたらすぐに喚いたり殴ったりするような家庭というのはDQN家庭だけではないか。
要するに、我々は家族の真の姿(特に、何を考えているか)など知らないのが当たり前、ということだ。子供のいじめ自殺事件などでも、家族はその子が自殺するまで子供の状況を知らないのが普通だろう。

そして、その事(我々が家族の内面を知らないこと)はべつに不幸なことでも悲しむべきことでもない。家族だろうが、自分とは別の人間なのであり、その真の姿を知ることは不可能である。悩み事など、ある年齢以上なら当人が考え、判断する以外に解決法は無い。相談された時に相談に乗ればいいだけだ。それ以外は余計なお世話というものだろう。それに、他人の暗い内面など知らないほうが幸せなのではないか。悩みを持つ人間が他人に相談をして、悩む人間が二人に増えて、何がいいのか。自分のことは自分でやる、というのは人生の第一のセオリーだ。

要するに、人生、「語らざれば憂い無きに似たり」である。

たまたま相手の目の中を覗き込んで、そこに憂いの色を見るからこそ風情もあり、奥ゆかしいのである。「俺は不幸だ、俺は寂しいんだ」と喚くのはただの馬鹿だ。



(以下引用)




2018年9月30日 日曜日

ぐっちーさん「日本人もGAFAで大量失業する」 今は「確実に訪れる大災害」の前夜に等しい 9月29日 

もはや「単なる巨大IT企業」では片づけられない

そして、これらの企業に共通している点が1つあります。


彼らの資源は無料で入る皆さんの個人情報です。つまり原材料費はタダ同然。


FB20億人のユーザーは誰に頼まれたわけでもなく、喜んで自分のプライベートをFBにタダで売り渡しています。中には子供の写真まで喜んで載せちゃっている人まで世界中にはたくさんいます。彼らはこれを使い、AI(人工知能)を使ってターゲット広告を打って大儲けをしていますから、原価タダ、と言っていい。


皆さんは喜々としてFBにプライベートをさらし、「いいね!」ボタンを平気で押しているでしょうが、この分野の専門家(心理計量学と言う)であるマイケル・コジンスキー博士(スタンフォード大学)の研究によれば、あなたがFBで68回いいね、を押しただけで95%の確率でその人の国籍を当てられ、さらに90%の確率でその人の性的志向まで当てられる、というのです。


もっと言うと150回の「いいね!」ボタンを押すとAIは配偶者よりその本人を理解することができ、300回に達すると本人も気が付いていないような性格やどのような嗜好かを当てられる、というのですから、これはもう笑っている場合ではありません。


実際にケンブリッジ・アナリティカ社はこの手法を使ってブレグジット(イギリスのEU離脱)の投票捜査をしたことが暴露されていますし、アメリカのドナルド・トランプ大統領の選挙にも関与した、と言われています(コジンスキー博士は自らの関与は否定したが、勧誘された事実は認めた)。


これはあくまでも一例ですが、こんな会社がこの10年間に生まれてしまっているわけです。もはや、単なるIT企業ではなくすべての情報をコントロールする巨大な秘密結社のような会社で、われわれの生活に対するその影響は計りしれない。その結果、もはや人間がやる仕事はほとんどないのです。しかもそのスピードは皆さんの想像よりもはるかに速い。


実際、アマゾンはどんどん無人化を進めていますし、アマゾンゴー(商品を取ってレジを通らずそのまま商品をもって出てくれば課金されるレジ無しコンビニ)が出てきた今、全米にいる340万人のレジ係(全米労働者の2.6%とも言われる)は間違いなく職を失うでしょう。


ここの読者はそうでないことを願いますが、多くの日本人サラリーマンは同様にFB、アマゾンなどによって職を失うことになります。リンクトインなどで、グローバルな人材市場で優秀と評価されれば、恐らく何億円なんて給料は、どうってことのない水準だと思います(現在でもそうですから)。そしてその選別は恐ろしいことにAIがやっている。


一方で、「まあ、せいぜいAI程度だな」、と判定されたらそれはもう、何百万人という世界の同レベルの労働者が競合相手になることを意味しています。もはや日本人同士の戦いではすみません。彼らと職を奪い合えば給料が上がることは期待できないでしょう。事実、われわれが雇っているエンジニアの短期アルバイト(大卒、英語も堪能)はインド人で時給500円程度です。


これはもう「リーマン危機の再来」とか言っているレベルではないのです。とんでもない「災害」前夜にいて、それは大地震と違ってかなりの確率で予測できるのです。


実はこのあたりをしっかり解説している本、『the four GAFA』の翻訳がついに出版されました。さすが東洋経済新報社さんであります。『SHOE DOG』(シュードッグ)、新井紀子先生の『AI VS.教科書が読めない子どもたち』に続いて、最近絶好調ですね。


もちろん、このGAFA本も全米ベストセラー。著者のスコット・ギャロウェイはアントレプレナーの大物で、ワタクシも大変お世話になっている人物です。ここに書かれていることはある意味ホラーに見えるかもしれませんが、これが現実なのです。お早めにぜひご一読を


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リバタリアンとしてのH・スペンサー

ハーバート・スペンサーの著作の編著をこの前から読んでいるのだが、なかなか面白い。その解説の中で、彼がリバタリアンだとされているのを読んで、そう言えばそうかな、と思う反面、私のイメージするリバタリアン(要するに、新自由主義者)とは少し違うような気もするので、念のためにリバタリアンについてのウィキペディアを読むと、なるほど、スペンサーの主張とほぼ同じである。私もよく引用する「権力は腐敗する。絶対権力は絶対腐敗する」のジョン・アクトンもリバタリアンだとは知らなかった。
ただし、私は、「弱者や社会の犠牲者(貧困者の大多数)への政府の福祉政策はまったく不要だ。むしろ悪である」とするリバタリアンの主張にはまったく同意しないので、私自身は社会主義的リベラリストの仲間かな、と思う。社会主義とリバタリアンは根本的な意見が違うので、スペンサーが私の「政治思想的仮想敵」であるのは確認できたようだ。ただし、政府による悪(戦争や際限の無い政府業務拡大と、それに伴う徴税強化)についての指摘はまったく同意する。




概要[編集]


リバタリアンは、「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」(ジョン・アクトン)という信念を持っており[1]、個人の完全な自治を標榜し、究極的にはアナキズム同様、国家や政府の廃止を理想とする[6]。 また、自律の倫理を重んじ、献身や軍務の強制は肉体・精神の搾取であり隷従と同義であると唱え、徴兵制に反対する。徴税は私的財産権の侵害とみなすので、税によって福祉サービスが賄われる福祉国家は、否定する。なお、暴力詐欺、侵害などの他者の自由を制限する行為が行われるとき、自由を守るための強制力の行使には反対しない。自然権的リバタリアンと帰結主義的リバタリアン[7]などに分類される場合がある。


アメリカ合衆国では、選挙年齢に達した者のうちの10%から20%が、リバタリアン的観点を持っているとされている。[8]


リバタリアニズムの基本理念[編集]


リバタリアニズムでは、私的財産権もしくは私有財産制は、個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考える。私的財産権には、自分の身体は自分が所有する権利を持つとする自己所有権原理を置く。(→ジョン・ロック)私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。法的には、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想(法の支配/rule of law)を追求する。経済的には、市場で起きる諸問題は、政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義(レッセフェール/laissez-faire)を唱える。


リバタリアニズムにおける自由[編集]


マレー・ロスバードによると、自由とは個人の身体と正当な物質的財産の所有権が侵害されていない事という意味である。またロスバードは犯罪とは暴力の使用により、別の個人の身体や物質的財産の所有権を侵害する事と定義した。[9]


またロスバードは、古典的自由主義者が使用してきた積極的自由の概念は所有権の観点から定義されていないので曖昧で矛盾に満ちており、知的な混乱と、国家や政府が公共の福祉や公の秩序を理由に個人の権利を恣意的に制限する事を許す事に繋がったとして批判している。[10]


所有権、財産権の根拠[編集]


マレー・ロスバードは万人の為の平等な自己所有権を否定した場合の二つの論理的な選択肢を検討し、万人の為の100%の自己所有権だけが唯一正当化可能な普遍的倫理であると結論した。また物質的な財産についても同様に、最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得する事を否定した場合の二つの論理的な選択肢を検討し、最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得する事だけが唯一客観的に正当化可能であると結論した。[11]


ハンス・ヘルマン・ホッペは、人々の間に恣意的で主観的な分類的差別を作る規範は客観的、間主観的に正当化される事は出来ず、それ故に全ての人に等しい権利を認める規範だけが正当化されると述べ、次に、立論には彼の身体の使用を必要とするので、彼の身体を彼の意思のみで使用する事を許す自己所有権原理と両立しない全ての規範を主張する人は、もし人が本当に彼の身体を彼の意思のみで使用する権利を持たないならば、彼はそれを主張する事さえ許されない筈であり、このような主張を行う人はそれを主張するや否や彼自身の主張に反する行動を取っており、実践的な矛盾に陥っていると指摘し、それ故に全ての人の平等な自己所有権を認めるリバタリアニズムだけが先験的に正当化されるとした。また彼は同様の推論から最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得するとする財産原理も矛盾無しに異議を唱える事は出来ないと主張する。(en:Argumentation_ethics)


リベラリズムとの違い[編集]


リベラリズムは自由の前提となるものを重視して社会的公正を掲げるため、リバタリアニズムと相反する。例えばリベラリズムは、貧困者や弱者がその境遇ゆえの必要な知識の欠如、あるいは当人の責めに帰さない能力の欠損などによって、結果として自由な選択肢を喪失する事を防ぐために、政府による富の再分配や法的規制など一般社会への介入を肯定し、それにより実質的な平等を確保しようとする。


しかし、リバタリアンは「徴税」によって富を再分配する行為は公権力による強制的な財産の没収であると主張する。曰く、ビル・ゲイツマイケル・ジョーダンから税金を重く取り、彼らが努力によって正当に得た報酬を人々へ(勝手に)分配することは、たとえその使い道が道義的に正しいものであったとしても、それは権利の侵害以外の何物でもなく、そうした行為は彼らの意思によって行われなければならない。すなわち、貧困者への救済は国家の強制ではなく自発的な仕組みによって行われるべきだと主張する。

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「人は集団だと非論理的になる」か?

wiredというサイトから転載。ただし、論題が面白いので取り上げただけなので、記事内容は未読であり、私自身の考察が長くなるようなら、記事そのものはカットする予定。
「人はなぜ集団では非論理的になるのか」というのは実に面白い問題ではないか。そのことにうんざりしている人は無数にいるだろうが、それを普遍的問題として考えた人は少ないのではないか。
今、少しだけ読みかけている「ハーバート・スペンサー・コレクション」という文庫本の最初のあたりに、こういう言葉がある。(H・スペンサーは「社会進化論」つまり「優勝劣敗が社会の当然の姿」という意見の持ち主であり、「社会福祉政策は世界の幸福の基盤」という信念の私の仮想敵なのだが、彼の著書自体を読んだことが無いので、確認のために読んでいるわけだ。)


「ある行動の仕方がーーその政策がいかに疑わしく、その善悪の結果がいくら重大なものであってもーーひとたびわれわれの祖先の従うところとなると、大部分の民衆は〈それは正しいことか?〉と自問することさえなく、同じ行動を続ける。慣習というものは、極めて議論の余地がある論点について一瞬も考慮せずに結論に至り、ごく疑わしい命題を公理に変え、ほとんど自明の真理さえも考慮に値しないものとして排除するという、羨望すべき力を持っている」(「政府の適正領域・第一の手紙」森村進編訳)

これは「慣習」についての言葉だが、集団の議論における「鶴の一声」、つまり、権力者やその代理人の一言で集団の意見が決定する、という事実によく似ていて、このことは民主主義を標榜している国でも独裁国家でも変わらない事実である。ただし、権力者が「柔弱」な性格の場合は話が別である。その場合、議論は錯綜し、誰にとっても不平不満の残る結果になりがちなのではないかwww 

要するに、「集団だと非論理的になる」というのは、単に「論議を尽くさない」か、「正しい論理が、不合理な論理を持つ強者によって抑えつけられる」だけの話である、と思うわけだ。
わりと簡単な結論になったようなので、引用記事はそのまま引用してみるが、未読である。

(以下引用)

人はなぜ集団では非倫理的になるのか?

なぜ人間は、集団で行動すると恐ろしい行為に走りやすいのだろうか。集団の一員として競争に参加すると、の「内省」にかかわる領域の活動が鈍るという研究結果が発表された。


TEXT BY KADHIM SHUBBER
IMAGE BY SHUTTERSTOCK
TRANSLATION BY TOMOKO TAKAHASHI, HIROKO GOHARA/GALILEO

WIRED NEWS (UK)



人間が集団になるとどんなに残酷な存在になりうるかについては、誰もが、直接的に体験したことがあるか、あるいは今後体験するかもしれない。1対1の交流は常識によって制御された「人間的」なものであっても、「われわれ」と「彼ら」という概念が入ってくれば、事態は急速に恐ろしいものになりうる。

集団になるとから倫理が奪われる?

なぜ人間は集団で行動すると、恐ろしい行為に走りやすいのだろうか。この疑問については数多くの説があるが、それらの説は大きく3つのカテゴリーに分けられる。第1は、「われわれ」の利益のために「彼ら」を犠牲にして行動するのは「合理的」だから、という説明。第2は、集団のなかに入ると、人間は匿名的な存在になり、個人の責任がごまかしやすいから、という説明。第3は、集団になると、個としての自己意識や、自分なりの道徳観念が薄れるから、という説明だ。


マサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学バークレー校、カーネギーメロン大学のチームはこのほど、この第3の説についてもう少し詳しく見ることにした。その結果、われわれは集団になると、「倫理と関係する脳の領域」の活動が鈍るらしいことが明らかになった。


この研究では、大学生23名が、画面上に一連の文章が表示されるゲームに参加した。すでに個々の被験者自身について調査が行われており、これらの文章はそれらを表示する内容となっていた。それらには例えば、「Facebookに600人以上の友人がいる」などのソーシャルメディアに関するものと、「皆で共有している冷蔵庫から食べ物を盗んだことがある」などの道徳的な問題に関するものが含まれていた。


被験者は、ソーシャルメディア関連のメッセージが表示されたらボタンを押すよう指示された。そしてこのゲームは、別の被験者と個人同士で、または、被験者グループとグループ対戦で賞金を争って対戦するかたちで行なわれると説明されていた。そして、ゲーム中の脳の活動がMRI(核磁気共鳴画像法)を使って観察された。

しかし実際には、ゲームは被験者の注意をそらすためのもので、研究チームの本当の目的は、脳の「内省」にかかわる領域、内側前頭前皮質の活動を観察することだった。



実験結果によれば、チームの一員としてゲームに参加した場合の被験者は、個人として参加した場合に比べて、道徳にかかわるメッセージが表示されたときの内側前頭前皮質の活動が顕著に低かった。


さらにゲーム終了後、研究論文に載せるための対戦相手の顔写真を被験者に選ばせたところ、内側前頭前皮質の活動が低かった被験者は、チームメイトに比べて写りのよくない対戦相手の顔写真を選ぶ傾向を示した。

群集心理はどう影響するのか

「重要なのは、こうした相関性が道徳的なメッセージに特異的だった点だ」と、研究チームは『NeuroImage』誌に発表した論文の中で述べている。「コミュニケーションに関するメッセージでは、<写真の選択>と<脳活動>の反応に相関性はみられなかった」。


興味深いことに、すべての被験者が脳活動において同じような反応を示したわけではない。チームで競争することに非常に強く影響された被験者もいれば、それほど影響を受けなかった被験者もいる。集団のなかに置かれると、より自分を見失いやすいタイプの人と、そうでない人がいると考えられるが、その理由は今回の研究では検証されていない。


研究の筆頭著者ミーナ・シカラは、プレスリリースの中で次のように述べている。「このプロセスだけで集団間紛争を説明することはできない。それでも今回の結果は、少なくとも一部のケースにおいては、自己の道徳基準を積極的に省みることが、『群集心理』の影響を弱めるのに役立つ可能性を示している」

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なぜマルキシズムは嫌悪されるのか

井沢元彦の「逆説の日本史」は面白いのだが、その中に時々出てくるマルキシズム批判や現代の反体制運動への批判(労働運動などもそのひとつとされているようだ)や嫌悪感というのが、どこから来ているのか、考えてみる価値はありそうだ。
というのも、私自身、若いころには共産主義や反体制運動に対して、その内容も知らないうちから嫌悪感しか感じなかったからである。その理由を心理分析すると面白いと思う。
なぜ、まったく無知な人間(庶民であり、マルキシズム的に言えば、搾取される側だ)が、共産主義思想、あるいはマルキシズムに嫌悪感を感じるのか、これは考察する価値はあると思う。

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