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司馬遷による「道教(老荘思想)解説」

道家について司馬遷は非常に好意的に言っている。次のようなものだ。

「道家は、精神を内に集中して外の誘惑に惹かれず、無形の自然法則に合致するように行動し、無欲になることで万物あるがままに満足することを教える。道家の道というのは、陰陽家の説く宇宙の循環法則(夢人注:陰陽の変化のことだろう。もちろん、易の教えそのものが「変化」を基本思想としているのである。春夏秋冬の四時のように、季節は変化し、またもとに戻る。それをここでは「循環法則」と言っているのだろう。「易」とは「変わる」意味である。変わらないことを「不易」と言う。)により、儒家墨家の善いところを採り、名家法家の要点をつかんで、時世につれて移行し、対象に応じて変化する。風俗を改め、実地に施行する場合、当たらないところがない。その本旨は簡約で、守りやすい。仕事は少なくて効果は多大である。儒家は、そうはゆかない。儒家はいう、『君主は天下の模範である。君が唱え、臣が和する。君が先に立ち、臣が後に従う』と。これだと、君主が苦労して臣下は楽をすることになる。これに対し、道家のいう大道の要旨は、強気(夢人注:傲慢や無理を含意していると思う。)や欲望をなくし、知恵(夢人注:浅知恵とでも言うか、目の前の利益しか考えない、自分の欲望を正当化するためだけの小賢しさを私はイメージするが、「知恵」そのものの否定かもしれない。そうすると理解は困難だが、「大道」を体得している人間には知恵は不要だ、ということか。)を捨てることにある。儒家はこれをさしおいて、政治技術にたよる。そもそも精神はひどく働かせればすり切れる。肉体はひどく動かせばこわれる。精神肉体が早く衰えるようなことをしながら、天地とともに永遠に生きたいと願っても、できた例はない」

さらに、このように言っている。

「道家は無為である。同時にまた『為さざるなし』ともいう。その実質は行ないやすいものであるが、そのことばは理解しにくい。その道は、虚無を本体とし、因循(自然に任せる)を作用とする。固定した姿勢とか一定の形態とかがない。されば万物の本質を極め、相手の物に即応した形を取る。かくてこそ万物の主人となり得る。法はあるけれど、一定の法はない。時勢に沿って仕事をする。尺度があるとはいえ、固定した尺度はない。相手の物に応じて進退する。されば、『聖人は巧みあらず、時の変をこれ守る』という。虚とは道の本質である。因とは君の大綱である。〔君主自身は己れを空しくし、万民の心のままに因るのが政治である〕(夢人注:この括弧内の文は本田済氏の注釈だと思うが、その解釈でいいかどうかは措いておく。この解釈だと、君主制が民主主義とそのまま合致することになり、面白いとは思う。私は、現代日本の「象徴天皇制」はまさにそういうものだと思っているが、話が生臭くなるので、ここでは深入りしない。)群臣が集まって来れば、各自その正体を示させるがよい。すなわちそのことばに実績が伴うものは、これを正言という。ことばに実績が伴わないものは、これを空言という。空言を聴き入れねば、悪事は生じない。賢愚はおのずと区別され、白と黒はこれで現われる。臣下を使おうと思えば、思いのままに使える。いかな事でも成らぬものはない。こうしてこそ、かの混沌とした大道に合致する。天下に輝くばかりの誉れをあげて、ふたたび自然に帰るのである」

後半は、司馬遷自身が本当にそう言っているのか少し疑問ではある。と言うのは、ここで書かれた「臣下を使う方法」は『韓非子』に書かれた「形名審合」であり、法家の思想だからである。(もっとも、『韓非子』を少し読んだのは数十年前のことであり、記憶はあやふやだが。また、「名家法家の要点をつかんで」、と書いているから、法家思想も実際に道家思想に一部入っているのだろうか。)
最後に、司馬遷は先に書いたことを繰り返して、こうまとめている。


「およそ人が生きているのは、精神のおかげである。精神のよりかかるところは、肉体である。精神はひどく働かせれば、すり切れる。肉体はひどく動かせば、こわれる。肉体と精神が分離すれば死ぬ。死んだ者は二度と生き返らない。離れた者はもう一度くっつけられない。これで見ると、精神は生の根本である。肉体とは生の道具である。まず精神と肉体を安定させることもせず、『わしは天下を治める道を知っている』といっても、何によって治めようというのか?」


最後のあたりは儒家や墨家や法家への皮肉のように聞こえるが、それはともかく、道家について司馬遷が言っている言葉は、道教(そういう言葉が適切かどうか知らないが)の本質を見事に射抜いており、道教、あるいは老荘思想というのは現代的な意義を持っている、人生指南の教えであるように思う。その道が虚無を本体としている、とすれば、仏教の「空」と無縁でもない。
司馬遷の道教理解が正しいかどうか知らないが、非常に分かりやすく、有益であるのは確かだ。道教の中に紛れ込んだ古代中国の迷信部分(道教の「神」の存在など)をきれいに除去したら、老子や荘子のあの分かりにくい文章の中の「哲学部分」は司馬遷が言う通りであるように思う。








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司馬遷による、種々の思想の評価

「漢書 司馬遷伝(本田済編訳)」の中に、司馬遷が陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家の特質を論じた部分があって、その中で道家について言っている言葉を読んで、道教の本質が分かったような気がする(まあ、もちろんそう感じるだけだ。)ので、少しメモしておく。

その前に、儒家について言った、次の言葉は「成る程なあ」と思ったので、それから書いておく。私自身は孔子や墨子の思想に非常に好意を持つ者だが、儒家や墨家の限界や欠陥を司馬遷は明確に見抜いていたと思う。こうした、「対象を批判的に観察して、その本質を見抜く」人間は、その対象となる集団(儒家や墨家)の内部からはなかなか出ない。人間、遠くの島は見えても、自分のまつげは見えないのである。(これは沖縄のことわざ)
儒家について司馬遷はこう言っている。

「かの儒家は六経をもって手本としている。六経の注釈書は何千何万とあり、何代かけてもその学に精通することはかなわず、幼い時から壮年までかかってもその礼を極めることはできない。されば私は『広いけれど要点は少ない。骨は折れるが効果はさほど挙がらない』というのである。けれども、儒家の、君臣父子の礼を述べ、夫婦長幼の別を立てる点となれば、他のいかな学派といえども、動かすことはできない」

もちろん、儒家の「長所」として司馬遷が挙げた部分は現代ではむしろ欠点かもしれないが、君主制の時代において社会秩序を建てるのに君臣父子の礼、夫婦長幼の序が非常に効果的であったことは明らかである。
それより、私が感心したのは、儒家の学問内容があまりに広すぎて、学ぶのが困難であり、骨は折れるが効果はさほど挙がらない、と言っているところだ。
普通なら、学問の広汎さというのは、その学問をむしろ権威化するものとされるところである。だが、それは、その学問を学ぶのに膨大な年月がかかるということであり、学んだ学問を理解し、現実社会に利用できる時間がほとんどないということ、そしてその学問を先に学んだ老人連中がその学問世界を牛耳り、新たな解釈や新たな説の前に立ちはだかるということなのである。これは現代でも大学のアカデミズムの姿そのものに思える。


長くなるので、道教についてのメモは次回に回すことにする。












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先天的サイコパスと後天的サイコパス

「ハフィントンポスト」記事の一部で、例の目黒の5歳児死亡事件の父親に関するものである。
ネットスラングで言うところの毒親というものだろう。子供にとって害悪でしかない親のことである。その一方で、子供は生存を親に依存せざるを得ない立場であり、こうした状況では子供を救うことは極度に困難になる。児童相談所や家庭裁判所が家庭の内情を知ること(特に子供本人からの聞き取りなど)が難しい上に、親から子供を引き離すことも人権侵害に当たる可能性が高いからだ。
不思議なのは、子供を死に至らせるまで虐待する親(実父ではなかったようだが)の心理である。母親の方も、自分が生んだ子供でありながら、虐待に加担し(少なくとも黙認し)ていたわけだが、主犯は父親の方と思われる。当人は、その虐待を本気でしつけや教育と思っていたのだろうか。その「教育」内容が下に書かれたものである。

私は、世の中の人間の3%は生まれつきのサイコパスだと思っているが、この事件の父親のようなのはそういうサイコパスかどうか、判断しにくい。つまり、当人自身は教育に関する或る種の「主義」で行動しており、その意味ではネトウヨ層とほとんど同じだからである。子供への異常な対応以外は案外まともな生活を送っていたのではないか。つまり、生まれつきのサイコパスではなく、誰でもそうなる可能性がある「後天的に形成されたサイコパス」なのだろう。そういう後天的サイコパスを含めれば、世の中の10%くらいはサイコパスかもしれない。
厄介なのは、表の顔だけを見れば、そういう人々はまともに見えることである。例の日大タックル事件の内田監督や井上コーチも「後天的サイコパス」「隠れサイコパス」と言えるのではないか。


(以下引用)


5歳児に対し過大な期待「モデル体型を維持」

父親は、児相の聞き取りに対し「きちんとしつけないといけないから」と繰り返し説明していた。

県の職員は「5歳児に対して、父親が過大な期待をしていた。とにかく養育や作法について、強いこだわりが見えた」という。

細かなこだわりは、結愛ちゃんの言動からも推し量られた。結愛ちゃんは職員に対し「勉強しないと怒られるから」と伝えていた。

人に会うときは、しっかりおじぎをして、あいさつをしないといけない。

ひらがなの練習をしないといけない。

はみがきは自分でやり、怠ってはいけない。

太りすぎてはいけない。

また、雄大容疑者は体重に対しても異常に気にするそぶりがあり、優里容疑者に「子どもはモデル体型でないと許さない。おやつのお菓子は、市販のものはダメだ。手作りしろ。野菜中心の食事を作れ」と言っていたという。

また、一時保護を解除したときにした「祖父母の家に定期的に預ける」という約束も、「祖父母は子どもを甘やかす。歯磨きすら一人でできなくなる。だからもう行かせたくない」などと言い、だんだんと預けることがなくなったという。

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「ちびくろサンボ」と黒人蔑視

「インドやアフリカの人の肌を白く描けって、それこそ逆の差別で侮辱だろう」はまさに正論であるが、表現規制問題は、その表現された事柄が差別に当たるかどうかの判断が難しいので出版社が「えーい、面倒くせえ。黒人は一切漫画に出すな」としたのだと思う。組織の上部層は何よりも組織防衛(要は上層部の自己防衛だが)を最優先するので、下の人間(この場合は表現者である漫画家)に負担をすべて押し付けて我が身を守ったわけである。

私はロフティングの「ドリトル先生」シリーズが好きなのだが、その中に、黒人部族の王子が白い肌に憧れて膚を白くする薬をドリトル先生に作ってもらうというようなエピソードがあり、それが黒人蔑視だというので欧米で問題になったことがある。これはどう決着がついたのだろうか。それに比べると「ちびくろサンボ」には特に黒人蔑視の思想は無いと私は思うのだが、こちらは世界的に発禁になったはずである。どこが黒人蔑視なのか。サンボの行動が愚かしいなら、それは「子供だから」であり、「黒人だから」ではないはずだ。虎が木の周りをグルグル回っているうちに溶けてバターになる、という愉快な発想だけでも、児童文学史に残るべき作品だと思うのだが。




「ちびくろサンボ」発禁事件当時の表現規制はすごかった。ビビった出版社の「自主規制」で、ちょうど『シンバッド』のインド篇を描いてた私は編集者の意向でインド人の肌からトーンを全部はがして白い肌にさせられた。インドやアフリカの人の肌を白く描けって、それこそ逆の差別で侮辱で失礼だろう。





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紋切型文型は紋切型内容を予測させる

夜中にコーヒーを淹れながら考えたのだが、文型によって、文の内容自体が予測されるような文というのがあるのではないだろうか。いわゆる紋切型の文型は、紋切型の内容を予測させる、ということだ。

「~は…だ(なり)」という文型は、明らかに、何かの定義をする、もしくは判断を下す文型(命題文と言う。)で、しかも「偉そうな断定」だろうという予測をさせる。だから、(志ん生の冗談だったと思うが)「目は人間のマナコなり」という断定が、その偉そうな言い方と、内容の無さのギャップで笑わせるのである。
「~が…だ」という文型は、これも何かの定義をする文型だが、「~は…だ」という言い方との違いは、「古い命題への異議申し立て」であり、「こういう考え方って新しくてステキでしょ」という匂いがプンプンしていることだ。だから、CMのキャッチコピーに使われる。そこで、「毎日がエブリディ」という、いかにもキャッチコピーらしい無内容な文句が、切れ味の鋭いジョークになる。これは(そう意図してのものではないだろうが)CM業界の嫌味さを皮肉ったジョークになっているわけだ。

上に挙げた文型は二つとも命題文だが、命題文における「は」と「が」の違い(と言うより、国語学における「は」と「が」の違い)が、はっきり出ているように思う。

命題文以外にも紋切型の文型を考えてみたいが、今は特に思いつかないので、これだけにしておく。

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被害者まで悪いとされる「喧嘩両成敗」論法

  1. たくさんのコメントがついたツィートで、そのほとんどは子供や学生の頃に、この息子さんのように、被害者の方は少しも悪くないのに被害者まで謝らされたケースである。こうした「喧嘩両成敗」論法は学校教育に蔓延している教育法(喧嘩裁定法)らしい。要するに、被害者まで謝らせれば、事が大事件に発展しないで治められるというズルい方法である。その理不尽さは、下のともき氏のリプライで明確に示されている。こうした教育を受けることで、日本人は「(上長に訴えても無駄だから)不満を抑え、飲み込み、怒りだけを心の中に貯めこむ」奴隷根性を幼いうちから育てられるのである。





    カワシマキノコ @hx7cFaIN4hQTqu0 6月5日
  1. うちの子、休み時間に上級生が投げたボールが顔に当たって保健室で冷やしていたらしく、その件で先生が電話をかけてきたのだけど「ボールを当てた子も悪いけど、ボールが当たる場所にいたあなたも悪いよねって言い聞かせてお互いにごめんなさいって言っておさまりました」って美談のように言うので
  2. 147件の返信 13,321件のリツイート 16,668 いいね

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批判精神の欠如と批判を表明しないことが社会を地獄にする

文芸の批評は、それが作品の売れ行きに関係するから、プロ批評家はどの作品に対しても、できるだけポジティブな批評をするのが望ましい。しかし、アマチュアの批評は「正直な発言ができる」ところに最大の長所があるのだから、その長所を捨てた批評にはほとんど意味がない。
まして政治批評は、社会を良くしたいからこそ批評し批判するはずだ。それ以外に政治批評の意義があるだろうか。
ならば、正直な発言をするしか政治批評の意味はないし、正直な発言とは批判がほとんどになるのも当然である。つまり、「鼓腹撃壌」のエピソードにあるように、政治が理想的なら庶民は政治について考える必要も語る必要も無いのだから。


(以下引用)



さんがリツイート

いや、それでは「批評」が成立しない、変なことになりますよ。






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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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