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子供が成人したら、親は早く死ぬのが子供のため

森博嗣という、一般的には推理小説作家に分類されていると思われる作家がいるのだが、彼のエッセイ集「つぶやきのクリーム」の中に、まったく同感という文章があったので、面倒だが転記しておく。なお、私は彼の作品は「面白いが好きではない」と思っている。なぜ好きではないかというと、作者が自分の頭の良さを鼻にかけている感じが嫌いなのである。確かに頭がいいし、凄い才能ではあると思うのだが、凡人読者としては、自分が見下されている気分になるのだろう。まあ、謙虚さを装わないところが正直で結構だ、とも思うが、商売としてはまずいやり方ではないかと愚考する。人間(仮定的読者層)の9割までは凡人なのだから。

引用した文章のなかで、「両親が死んだあと、とても自由になったと感じた」というのは、実は私もまったく同じだったのである。それまでは、無意識的にだが「何をやるにも、常に親の考えを忖度しなければならなかった」ために、頭が常に朦朧とした感じだった。親が死んでから私は自分の頭で物事を考えることができるようになり、頭脳が非常にクリアになった気がした。
念のために言うが、私の親が特別圧制的な親だったわけではない。特に父親は、子供にああしろこうしろとは一言も言わなかった。にも関わらず、私は親が生きている間は自分の頭で考えることができなかったという印象を強く持っている。これは意識に上らないだけで、多くの人がそうなのではないかと思う。親は存在するだけで子供の自由な精神機能を妨げているわけだ。
親は、子供が自活できるようになったら、早く死ぬのが子供のためになる、と私は思っている。しかし、私自身に関しては、我が身が可愛いから死なないままでいる。子供には少々済まないとも思うが、まあ、もうしばらくは我慢してもらいたい。(これは私の親が亡くなった当時のことを思い出して書いているのであり、現在の私の個人生活とはまったく無関係であることも念押ししておく。単に哲学的な、あるいは精神分析学的な、あるいは社会学的な問題を論じているのだ。)

もちろん、以上に書いた思想は、親は子供のために存在せよ、存在価値がなくなったら死ね、と言っているのではない。子供(の精神的成長)を中心に考えたら、おそらくそういうことになるだろう、というだけの考えである。太宰流に、「子供より親が大事と思いたい」という考え方もあって当然だ。





(以下引用)


とりあえず、子供よりは大人は自由だ。それも、年を重ねるほど自由になる。なにをしても、文句を言われることが少なくなるからだ。たとえば、親がいなければ心配をかけることもない。僕は両親が死んだあと、とても自由になったと感じた。それは世話をする時間や労力の問題では全然ない。親が期待するような生き方をしなくても良い、自分の思いどおりにできる、という解放感である。

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世の中に真の恋愛はほとんど無いから社会は平和である

前々回の記事に書いた「自己愛」のことをもう少し考察してみる。
あのスレッドの恋人たちは、実は恋人でも何でもなく、可愛いのは自分だけ、愛しているのは自分だけ、というカップルだと私は思うのだが、世間のカップルの大半はそうなのではないか。だからこそ浮気や不倫などというのもあるのだろう。
自己愛は人間の、いや、動物の基本本能だが、動物の場合は自己保存、自己防衛という形を取り、人間の場合は「愛」という抽象的な観念に置き換わる。
「愛」とは何か、と論じるとまた難しくなるが、「何かが欲しい」という感情の一種であると同時に、その対象との(精神的な、あるいは肉体的な)一体化を望み、その望みがかなえれらない場合には非常な苦痛を覚える、というものかと思う。つまり、一種の欠乏感だ。そういう意味では愛と性欲と食欲の間に大きな開きは無いのだが、恋愛の場合には、少し違うものがあるように思う。

真の恋愛の場合には、「対象の絶対化」が起こり、その絶対性の前には、自己愛すらも影をひそめ、甚だしい場合には自己犠牲というものが生じる。これが性欲と真の恋愛の相違である。
つまり、生物本能的な愛(食欲や生殖欲や性欲などの、欠乏感とその克服の欲求)と恋愛は別次元のものになるわけである。自己犠牲というものほど生物の本能とまったく相反する行為がほかにないことは誰でも分かるだろう。自己犠牲の話が常に我々にあれほどの感動を与えるのは、そのためなのである。つまり、自己犠牲とは、人間が神的なレベルに達する、ということである。
だが、恋愛の場合には、その対象が個人である、ということからまた問題が生じる。自己犠牲では済まず、社会の道徳的規範も他のすべての束縛も踏みにじってもその恋愛を成就したいというのも、また「真の恋愛」のひとつなのである。「八百屋お七」の話はその典型だ。恋愛の話としては感動的だが、そのために焼き殺された無数の江戸市民にとっては、恋愛ほどはた迷惑なものは無いwww

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夢とは何か

  1. まあ、同じようなことを何度も書いているので、またかと思われそうだが、夢は寝てから見るものだ。子供の、将来に対する希望を「夢」という言葉で表すのは(あるいは、「希望」という言葉で表すのも、「(実現が)希な望み」なのだから、そうなのだが)、「夢」は実現しなくて当然だ、というのを含意しているのではないかwww
    小田嶋師が書いているように、普通の人間の幸福は毎日の生活の中にあるのであり、「夢を見る」のは楽しいが、ある種の現実逃避なのである。まさか大人たちは子供に「夢を持て」と言うことで「現実逃避しろ」と言っているわけではあるまい。(実際には「夢」は資本主義の「競争原理」と結びついているのであり、子供は将来への夢を持つことで競争社会に自ら参加していくことになる。その好例が「アメリカンドリーム」である。)


    (以下引用)





    小田嶋隆 @tako_ashi 3時間前
  1. むしろ「夢を持っていない人間は不幸だ」「夢のない人生は不毛だ」という強迫が若い人たちを苦しめている。だから、「夢なんかなくても大丈夫。夢を見るのはどっちかといえばバカな人たちなんだから、別に君が無理してそっち側の人間になる必要はないぞ」と言ってあげるのが大人の役割だと思う。
  1. オレらが子供の頃は、おとなは仕方なく働いているものだと思っていた。自分が大人になったら仕方なく働くんだろうとも思っていた。で、実際に多くの人間は仕方なく働くことになるわけだけど、別にそれがとりたてて不幸なわけでもない。何がいけないんだ? どうして夢なんか見させようとするんだ?
  1. 「13歳のハローワーク」や「キッザニア」は、子供たちに「職業を通じて夢を実現する」生き方を強要しているのではないか。職業生活がそのまま夢の実現であるみたいな人間がいないとは言わないが、そういう人間は変態です。普通の人間の幸福は、単純に日々を生きていくことの中にあるものだと思う。





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日本はアジア古典文化の保存所

十大弟子がどれもこれも怒ったり悩んだりしている表情で(ブンナだけは穏やかな顔だが、アホ面とも言える)、右上の菩薩が「こいつら、悟りには程遠いなあ」という顔で見ているwww こういう弟子ばかりだから、インドでは仏教は衰退したのではないかwww


なお、仏教は日本で保存され(もちろん日本的な改変を受けているが)、中国の古典書籍も儒教などの古代文化も中国では失われたが、日本で生命を保っている。そういう意味でも日本文化は貴重であるし、そうした伝統を簡単に捨てて洋風文化だけに適合しようという「グローバル化」は愚の骨頂である。





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17時間前

棟方志功(Munakata Shikō ) 「二菩薩釈迦十大弟子」六曲一双屏風


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The love of money is the root of all evils

新約聖書「テモテへの第一の手紙」より引用。
キリスト教と資本主義(経済的自由主義)が両立しないことは、この引用からも明らかである。キリスト自身も同様のことを幾つか言っており、これはこの「手紙」を書いたパウロだけの考えではない。
下の言葉を読めば、近代資本主義を宗教的に正当化したと言われるカルヴィニズムが「反キリスト教」的思想であることは明白である。
別の面から言えば、自称キリスト教信者のほとんどは聖書を読んでおらず、読んでも無視している、ということだ。



(以下引用)

わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。

ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。

金銭を愛することは、すべての悪の根である。


「テモテへの手紙第六章7,8,9,10より」

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「適度」ではゲームに勝てない

「適度ではゲームに勝てない」は至言である。

そして「過剰」とは、何か(勝利など)のために別の何かが犠牲になることだ。

これはどんな「ゲーム」でも同じであり、何かのゲームで勝利を目指すなら、別の何かを犠牲にするしかない。その勝利が、その犠牲に見合うかどうかが問題だ。
たとえば、スポーツで一流になりたければ学業を犠牲にするのは普通のことだろう。場合によっては友人との交流も犠牲になるし、他の趣味も犠牲になる。これは学業で一流を目指す場合も同じだ。
この世は「あれかこれか」であって、「あれもこれも」というわけにはいかないのである。その「あれもこれも」を可能にしてくれそうなのがカネだから、たいていの人間は拝金主義者になる。しかしまた、カネの獲得を目指す過程で、見えない多くのものが犠牲になっている。

この、一種の地獄から抜け出す道が「ゲームに勝つことを求めない」ことであり、悟り世代はそれをほとんど無意識のうちに分かっている。
もちろん、ある種のゲームの才能に恵まれた人間が、そのゲームに人生を特化することは当然の人生戦略であり、他の人よりは少ない犠牲で大きな成果を得られるだろう。ただ、そうした「例外」を「努力の結果、素晴らしい人生を手にした、模範的な生き方である」とするのは、無数の不幸な失敗者を生むことにしかならないと思う。勝者を生むには必ず敗者が必要なのであって、多くの凡人は長い苦労の末に敗者となるのである。
ならば、最初からそういうゲームに自分は参加しない、というのは賢明な選択だろう。
今の時代、最低限の努力で最低限の生活を維持することは、たいていの人間に可能だと思う。それはこの時代に生まれた人間の幸せだ。ただ、そういう状態がやがて失われる可能性は大きいような気がする。

なお、私は努力そのものを無意味だと言っているのではない。努力が苦痛でなく、むしろ楽しいと思えるなら、それは最高に素晴らしいことだ。ただ、努力している間、苦痛に耐えているのなら、それは貴重な(ばかりとは限らないが)人生の時間の最悪の使い方だと思う。その苦痛が将来的に勝利やカネをもたらすとしても、「不味いものを先に食って美味いものを後で食う」だけの話だ。人生前半の苦悩や苦痛が、人生後半の成功で損失補填されるよりも、人生の前半でも後半でも楽しいというのが最高の人生だろう。
これもまた念のために言っておくが、「努力が苦痛だ」というのも、「努力は苦しいものだ」という思い込みから来ている場合が多いと思う。「必ずいい結果を出さなければならない」と思うから努力が苦痛になる。今やっていること自体を面白いと思えば、あるいは散歩程度に気軽に考えれば、さほど苦痛でもなくなる。ただし、サラ金の借金取り立てが楽しい、などと思う人間は精神異常を疑ったほうがいい。



(以下引用)


fromdusktildawn @fromdusktildawn 6月11日

知り合いの少年サッカーコーチは、親御さんたちに向かって「スポーツは健康に悪いです。それでもやりたいという人だけがやって下さい」って言ってる。「適度な運動」は健康にいいけど、「適度」ではゲームに勝てない / “「スポーツ好きな子ば…”


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「地域」という言葉の持つファシズム性





PTA問題は別として、いろいろと面白い、思考のきっかけを与えてくれる文章である。

「地域」という言葉の持つ「全体主義性」というのは、目から鱗である。我々が「地域」という言葉を使う時、ほとんどは「全体の一部」というように認識してしまうが、実はその「地域」は、その地域内部を網羅する「全体性」を持っている、という認識が抜け落ちてしまうのではないか。
その盲点を利用しているのがお上であり、町内会やPTAの広報に「地域」という言葉が頻出するゆえんなのだろう。つまり、町内会やPTAに参加しない人間は異端であり「地域」における「異物」である、という意識を、この「地域」という言葉自体が暗示的に招来するわけである。

そのような、数学的集合とは異なる、社会科学的文脈での「集合」概念(や、その曖昧さの政治的利用)についての想念をもたらした点で、啓発的な文章である。

もうひとつは「革命と改良」の衝突という問題で、「革命」派に言わせれば、「改良」主義者は、社会改革を漸進的に進めていくことによって、既成権力を逆に保存し、延命させるから悪である、ということになる。これが「革命」派の学生たちが「民青」を非難した理由だろうと思うが、(まあ、私は学生運動に詳しくないので、適当に言っているだけだ。)「革命」派の暴力的な学生運動が一般市民の眉をひそめさせ、反発させ、嫌悪させ、それが市民運動そのものを敬遠させる風潮を作ったことは歴然たる事実だろう。「連合赤軍事件」は、「革命」派学生の最後の暴発で、あれが日本の社会運動や市民運動、そして言うまでもなく学生運動そのものにとどめを刺し、日本社会を「保守層(既得権益所持者)の天国」にしたのである。



(以下「紙屋研究所」から転載)

2017-06-08 ぼくのPTA退会を促した鋭い一面性 『PTAという国家装置』

岩竹美加子『PTAという国家装置』Add Starzakinco (green)BUNTENBUNTENzakinco



こんなに傲慢任意団体があるだろうか?

 最近、PTA問題を特集した読売新聞の記事「PTAは必要ですか」(2017年6月1日付)を読んだ。


 3人の識者がコメントしているが、日本PTA全国協議会・専務理事の高尾展明のそれをしみじみ読む。




交通事故や犯罪の発生など、子どもを取り巻く地域の問題がある。家庭もいろんな家庭があって、お互いに助け合っていく必要がある。そういう条件の中に我々はいる。PTAは任意だ、入退会は自由だと言う前に社会の状況をよく見ていただきたい。


 「地域」という言葉とセットで「交通事故」「犯罪」「家庭の状況」という逆らいがたいテーマが押しつけられる。そして、この有無を言わせぬテーマと任意制が関連づけられるのである。


自由ですといったら、負担のないほうを人間は選んでしまう。その前に、子どもたちの環境がどうなっているのか考える必要がある。


 ぼくの知り合いは地元で「子ども食堂」の運営に参加している。貧困対策の一助になれば、ということで始めた。


 もちろん、任意の団体だ。PTAと同じである。


 しかし、知り合いは「子ども食堂」の運営への参加をこんな言い回しで押しつけたりはしない。


子ども貧困をめぐる状況は大変なんですよ? 参加しないんですか? 参加は任意だ、入退会は自由だと言う前に社会の状況をよく見ていただきたい。『参加する自由があるだろ』だって? 自由ですといったら、負担のないほうを人間は選んでしまう。その前に、子どもたちの環境がどうなっているのか考える必要があるんじゃないですか」


 ぼくが前のエントリーでPTAを退会したことを書いたら、「結局この人はなぜ退会したのかわからない」というリプを書いてくる人がいた。理由はいくつか書くことができる。しかし、任意団体、つまりサークルに入らないことに、いちいち理由など不要なはずだ。


 あなたは、ぼくの知り合いが運営している「子ども食堂」になぜ参加しないんですか? どんな理由ですか? そんなこと、聞くか? 「自由ですといったら、負担のないほうを人間は選んでしまう。その前に、子どもたちの環境がどうなっているのか考える必要がある。」などという、「脅し」で参加させるのだろうか。


 そしてこう書けば、「うわっ、めんどくせえやつ」と思われるかもしれないが、「めんどくせえ」言い回しをしているのは、どう考えてもPTA側(ここでは日P協の高尾)なのである。


ちゃんと説明しているPTAが多いと思います。大半の人がわかってくれると思う。それでもひとり、ふたりは加入しないと言う人もおそらくいるでしょう。それを強制することはできません。その意味では任意です。


 くりかえすが、どんなにその「地域」に貢献しているサークルであっても、説明したら、大半が入るというものではない。それなのに「ひとり、ふたりは加入しない」という扱いなのだ。いわば「変わり者」である。


 「子ども食堂」運営でこんな傲慢な発言をすることは、おそらく許されまい。


「ちゃんと説明している子ども食堂が多いと思います。大半の人がわかってくれると思う。それでもひとり、ふたりは運営に参加しないと言う人もおそらくいるでしょう。それを強制することはできません。その意味では任意です。」




 ふつうの任意団体ではありえない「傲慢」さだと言ってよい。


 どんなに「任意」だと明らかにされようとも、「地域」のため、「子ども」のため、という逆らいがたい言い回しで参加を事実上強制してくる、このPTAの「体質」はどこから生じ来たっているのか。




 あたかもこの高尾の発言を読んでの違和感を解説するかのように書かれているのが、岩竹美加子『PTAという国家装置』(青弓社)である。





奉仕と修養の近代プロジェクト

PTAという国家装置 この本は、“奉仕と修養を通じて、母の国民化を求める近代プロジェクトを完成させようとするもの”だというPTA把握に立つ。


 うむ、むずかしい言い回しだな。


 いいかえると、こうなる(以下は、ぼくによる本書の理解である)。


 何かに「つくす」(奉仕)、そのために自分を「みがく」(修養)、その練習をさせられる場がPTAだ。


 何につくすのか。その中身、ソフトは国家(国、大きなもの)が決める。


 「いや、私は国に言われてPTA活動をしているつもりはない」とあなたはいうかもしれない。


 PTAをふんわりと包み込むような同調圧力のもとでやらせる大きなしかけが「地域」という全体主義的概念だ。「地域みんなで」「地域ぐるみで」という言い方。地域みんなでやっていることの中身は、決して「非」とされない。


 PTAは「民主主義」的な組織だから、異論があればモノが言えるではないか――しかし、自主的・民主的・任意と言われながら、それらはただの形式に過ぎず、実際には、いかに強制的であるか。さらに「前例踏襲」で有無を言わせない力がある。


 任意だと戦後からくり返し強調されながら、事実上「全員参加」がそのたびにいろんな手口で強制されてきた。


 このようにして、国家がやらせたいことを保護者、主に母親に、「やさしく」求め、そのやらせたい中身については異議を唱えさせず、その目的につくさせ、「自分みがき」をさせていく。「母」は、国の思うことを自分の中にとりこんだ「国の民」、つまり「国民」に育て上げられていく――これが著者の言いたい「国家装置としてのPTA」だ。しかも、この「母」を「国の民」として取り込むことは、戦後日本でたまたま起きたことではなく、実はどの国であっても近代国家にありがちなことであり、そういう意味では戦前の続きとして「近代のプロジェクト」を完成させたものがPTAなのだ。


 ――以上が、ぼくが読み取った著者・岩竹の主張のコアである。



「早寝・早起き・朝ごはん」や「通学路の見守り」も…

 そう読んでみて、思い当たるフシがぼくにはある。


 戦前、「母の会」や「学校後援会」は、国につくし、戦争に子どもを送り出す国家プロジェクトの一端を担った。


 戦後の今、各地のPTAで行われていることの一つに、「早寝早起き朝ごはん」の運動がある。これは文部科学省を先頭に旗を振っているキャンペーンで、福岡でもPTAが率先してやっている運動の一つだ。


http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/asagohan/


http://www.fukuokacity-pta.jp/officer/497/


http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/data/anbi-jirei.pdf


 何を隠そう、ぼくもPTAの広報副委員長として、このキャンペーンにもとづくアンケート結果をPTA広報に書いた(ただDTP作業をしただけだが)。


 「早寝早起き朝ごはん」は「当たり前」の話のように思えるが、これは第一安倍内閣によって改定された新教育基本法の中で新たに家庭教育の責務として盛り込まれた「生活のために必要な習慣を身に付けさせる」(第10条)に対応している。また、いま成立がねらわれている、自民党の「家庭教育支援法案」でも同様の文言が入っている(法案第2条)。


 PTAの会員、つまり普通の親たちは、自分たちが旗を振っている運動が、国家目的の一環として行われていることをあまり知らない。




 PTAがやっている登校時の見守りはどうか。


 これこそ、一人ひとりの親の善意から出てきたもののようにも思える。


 しかし、学校保健安全法の第30条は「地域の関係機関等との連携」として


学校においては、児童生徒等の安全の確保を図るため、児童生徒等の保護者との連携を図るとともに、当該学校が所在する地域の実情に応じて、当該地域を管轄する警察署その他の関係機関、地域の安全を確保するための活動を行う団体その他の関係団体、当該地域の住民その他の関係者との連携を図るよう努めるものとする。


とされ、「学校安全の推進に関する計画」にもとづいて実は推進されているのだ。




 「別に悪いことじゃないし、当たり前のことだろう」とどちらも思うかもしれないが、「地域」という概念を媒介にした「国家意思」の貫徹ではあるのだ。




 「早寝早起き朝ごはん」によって「生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことは、次のように批判することもできる。


人は、基本的生活習慣ということばの合成に成功してからというもの、機械に似てきた。資本の論理の要求する、決められた時間内に決められた量以上の物を、決められたコスト以下でやり遂げるためのシステムの交換可能な部分として、人が、基本的生活習慣という何人も抗し難い名称の統一規格を強要されている。(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』地歴社、p.222)


 まあ、ここでは、この命題に反対するか賛成するかはどうでもいい。


 ぼくらが自発的意思のように思っているPTAの活動の中に、さまざまな形で国家意思が貫かれているのだ、ということにまずは注目してほしいのだ。


 


 いずれにせよ、本書の核心は、このPTA把握――“奉仕と修養を通じて、母の国民化を求める近代プロジェクトを完成させようとするもの”ということにつきる。これを仮に「岩竹PTAテーゼ」と呼ぼう。


 この「岩竹PTAテーゼ」の立場から、PTAの現状、および、それを改革しようとする種々の勢力への評価も定まるのである。



コントロールし難い得体の知れない「怪物

 例えば、「PTAには、何かを主催する権利はない」(p.18)とか、連合体の「タテ」の関係と地域組織の「ヨコ」のつながりなど、PTAは全体像が「見えにくい」(p.10)とする主張・例証が本書にはくり返し登場する。


 近代的アソシエーションとしての明確性(「コレ」をやる組織です、というはっきりした目的)がなく、ぬらぬらと動く、得体の知れない、境界線のはっきりしない「怪物」をイメージさせる。


 いったん入り込むと、民主性をつらぬくことは至難で、コントロールできずに取り込まれてしまう……という印象を本書はあたえる。



戦前との連続性――近代のプロジェクト

 あるいは「岩竹PTAテーゼ」の立場から、「連続」論がとりあげられる。


 「連続」論というのは、戦前と戦後は「連続」しているのか、「断絶」しているのか、という議論である。


 左派リベラル派の運動は、この断絶を強調することが少なくない。


 戦争に子どもを送り出した戦前の教育を反省してPTAがつくられ、「かしこい親、自立した公民である親になろうということでできた組織がPTAなんだぜ!」という具合に。


 しかし、岩竹は、本書第3章で、戦前の父母組織などをとりあげて、PTAといかに「似ているか」を明らかにしようとしている。


 つまり、戦後のPTAも、戦前の「母の会」なども、「奉仕と修養」を求めるものであり、それを通じて「母の国民化」を求めるものだというのである。すなわち戦前と戦後はある意味で「連続」しており(ネオ連続論)、それは近代のプロジェクトの連続した過程なのだとする。(したがって、PTA的なものは日本的なものではなく近代国家共通するものだと岩竹は主張する。)


 このくだりを読み、先ほどの「早寝早起き朝ごはん」運動を思い出す。


 この運動のめざすものは間違いなくいいものだということをくり返し講演会などで馴致させられ、改悪された教基法に定められた「生活のために必要な習慣」を「身に付けさせ」られた、すなわち身体にとりこんだ子どもをつくらせる……そうとらえれば、岩竹の指摘はある意味鋭い。



戦後のリベラル左派PTA改革運動への評価

 あるいは、「岩竹PTAテーゼ」を基準として、過去の、そして現在のPTA改革運動への評価も定まる。


 例えば、日本子どもを守る会。


 例えば、全国PTA問題研究会。


 例えば、山住正己。


 例えば、川端裕人、大塚玲子、山本浩資。


 前三者は、左派系のリベラル運動である。これらは「地域」という全体主義的概念を無防備に使っていたり、PTAへの多数参加(できれば全員参加)を是としているがゆえに「ダメ」扱いされている。


 川端・大塚・山本らは前三者と相対的に区別された改革潮流であるが、「楽しいものに改革しよう」的なこれまた無防備な運動と扱われ、全員参加を結局補完し、全体主義概念や国家意思の貫徹に抗する武器を持たないナイーブな存在としてやはり批判されている。



本書の一面性がぼくを動かした

 「岩竹PTAテーゼ」より導かれる実践的な結論は、こうである。


学校の保護者組織は、必要に応じて保護者が作るべきだろう。すでに構築されている国家組織に組み込まれるのではなく、必要な組織があれば柔軟に作っていくべきである。「PTA改革」は、これまで繰り返し言われてきた。しかし、PTAの枠組みの中での改革は、微小なものにとどまって根本的な解決にはならず、結局、現状維持につながる。「子どもの幸せ」や「健全育成」「親睦」などの明確や、加入しないと子どもに不利になるなどの理由をつけて入会を誘い、実際は奉仕と修養を求めるPTAという国家装置につながれたままでいていいかを考え、議論し行動していく必要があると思われる。(本書p.228)




 一面的な結論である。しかし、一面的であるということは、真実の一面を鋭くついているということでもあり、その一面性が、ぼくをしてPTA退会にまで踏みきらせた。その意味で、本書には一面的な主張が持つ、生命力や力強さ、鋭さがある。




 ぼくは町内会長としては「脱退」という方向を取らなかった。


 町内会が任意であることは、PTAよりもかなりはっきりしたものになってきた。ぼくの今住んでいる町の町内会には、入会と退会が明確に規約にうたわれているが、学校のPTA規約には、どんなに食い下がっても盛り込んでもらえなかった。


 町内会への加入率・参加率はみるみる低下している。


 その中で、ぼくが会長をつとめた町内会は地域の連合体から実際に外れることもできたし、シンプル化(ミニマム化)できたし、行政の下請組織化からも自由でいることができた。新自由主義的な行政運営の圧力に抗して、そういう町内会を実際に住民とともにつくることができたのである。


 さらに、公団自治協といって、UR団地の自治会の協議会に加わることで、URという政府系の住宅政策と緊張感を持って対峙する流れにも合流できた。


 つまり、国家装置であることから現実に外れることができたのだ。町内会の場合には。




 他方でPTAはどうだったか。


 年月をかけて役員を務め、信頼を得て、会長職にたどり着き、一歩一歩改革を進める、ということが決してできなかったわけでもないだろう。


 しかし、現実に参加してみて思ったことは、PTAは町内会に比べると、(少なくとも九州では)加入率・参加率が高い。つまり、同調圧力が非常に強い。任意である、という雰囲気が非常に弱いとも言える。


 そして、学校当局=行政の力がすぐそばにある。


 具体的には、いつでも校長や教頭と「相談」し、その同意・承認のもとで動かされることになり、この圧力の強さは、町内会の比ではない。


 町内会の場合は、ふつう行政は連合体をコントロールすることで全体を管理しようとするので、個別町内会までは直接容喙しないのである(もちろん、地域によっては、個別町内会をそのまま下請け的な「行政協力員」「特別職公務員」扱いしている自治体もある)。


 したがって、校長の「拒否」のもとに、「国家装置」であることを外れる改革を行うのは、相当難しいだろう。


 つまり、長期にわたって自分の意に反する活動をPTAで行う恐れが強かったのである。特に、役員としてではなく、「一会員」として改革の同意を全体に取り付けようとするのは、本当に難しいと感じた。


 活動の根本を問う場は、実質的に年1回の総会しかない。しかも学校には日常的に保護者全体に向けて訴える場所もないし、ビラをまく自由もない。全て学校(校長)の承認がいる。敗北は初めから決定づけられていると言っていいほどだ。それでも辛抱強く「同志」を募り、総会で改革をしていくことはあり得るだろうが。




 そうした中で、ぼくは本書に出会った。


 町内会活動において行政側からの新自由主義的な下請け意思、保守的なイデオロギー浸透が企図されているのと同様に、PTAにも国家意思が貫かれようとしていることは確かに警戒すべきことであった。PTAに参加したり、改革に挑むにせよ、そのことに対して無警戒でいることは、あまりにもナイーブだ。


 そのことを気づかせてくれた(明確に再認識させてくれた)ことが本書の最大の収穫であった。


 ゆえに、「退会」が選択肢に入ってきた。


 そして、退会し、特に不利益も感じない*1のを実際に示すことで、「加入しないと子どもに不利になる」という無言(あるいは有言)の圧力を実践的に反論することができるだろうとも思い至った。



本書の不満な点――改革実践への冷たさ

 他方で、本書の不十分な点、不満点を述べる。


 それは何と言っても、PTAを改革し、PTAを通じて子どもたちのために何かをしようとする実践に対して、あまりにも評価が低すぎる点である。


 まず、戦前型の保護者組織からの脱却を試み、子どもの権利の実現のために尽力しようとした戦後のPTA改革の運動への批判が、ひどい。


 「地域」という全体主義概念を使っているから、とか、「全員参加」を結局はめざしているから、とか、そういう点だけでの批判のように思える。


 ぼくは「地域」という概念そのものが問題なのではなく、「地域」の中には進歩的な要求もあれば反動的な要求もあり、それを一つ一つ弁別することが大切だと考える。『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)で防災・防犯・見守りなどの各分野に分け入り、そこに新自由主義的な意図がどう流れているかを示して警戒を促したのは、そうした努力の一つである。


 また、戦後のPTA改革運動の多くが「全員参加」をめざそうとする点についても、PTAを(教員ではなく)保護者の学校参加・意思反映のテコにしようとする戦後の民主主義改革の流れを引き継いだものであり、それだけをもって批判することはあまりに性急である。


 川端・大塚・山本らの任意制強調のとりくみも、委員制(事業を先に定めてそれに合わせて人狩りをするシステムと言ってもいい)を解体し、本当の意味で任意になれば、「国家装置としてのPTA体制には大きな打撃となる。言い方をかえれば、真に保護者が自発的に参加するPTA(あるいは保護者組織)となりうるのだ。




 根本的・ラジカルな立場から、PTAの問題点をえぐることは、一つのリアルさがある。


 しかし、そのラジカルな視点からのみ、当面の改革に苦闘する取り組みを冷笑することは許されない。


 かつて、左翼運動の中にあった「革命と改良」の関係に似ているのである。




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