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「適度」ではゲームに勝てない

「適度ではゲームに勝てない」は至言である。

そして「過剰」とは、何か(勝利など)のために別の何かが犠牲になることだ。

これはどんな「ゲーム」でも同じであり、何かのゲームで勝利を目指すなら、別の何かを犠牲にするしかない。その勝利が、その犠牲に見合うかどうかが問題だ。
たとえば、スポーツで一流になりたければ学業を犠牲にするのは普通のことだろう。場合によっては友人との交流も犠牲になるし、他の趣味も犠牲になる。これは学業で一流を目指す場合も同じだ。
この世は「あれかこれか」であって、「あれもこれも」というわけにはいかないのである。その「あれもこれも」を可能にしてくれそうなのがカネだから、たいていの人間は拝金主義者になる。しかしまた、カネの獲得を目指す過程で、見えない多くのものが犠牲になっている。

この、一種の地獄から抜け出す道が「ゲームに勝つことを求めない」ことであり、悟り世代はそれをほとんど無意識のうちに分かっている。
もちろん、ある種のゲームの才能に恵まれた人間が、そのゲームに人生を特化することは当然の人生戦略であり、他の人よりは少ない犠牲で大きな成果を得られるだろう。ただ、そうした「例外」を「努力の結果、素晴らしい人生を手にした、模範的な生き方である」とするのは、無数の不幸な失敗者を生むことにしかならないと思う。勝者を生むには必ず敗者が必要なのであって、多くの凡人は長い苦労の末に敗者となるのである。
ならば、最初からそういうゲームに自分は参加しない、というのは賢明な選択だろう。
今の時代、最低限の努力で最低限の生活を維持することは、たいていの人間に可能だと思う。それはこの時代に生まれた人間の幸せだ。ただ、そういう状態がやがて失われる可能性は大きいような気がする。

なお、私は努力そのものを無意味だと言っているのではない。努力が苦痛でなく、むしろ楽しいと思えるなら、それは最高に素晴らしいことだ。ただ、努力している間、苦痛に耐えているのなら、それは貴重な(ばかりとは限らないが)人生の時間の最悪の使い方だと思う。その苦痛が将来的に勝利やカネをもたらすとしても、「不味いものを先に食って美味いものを後で食う」だけの話だ。人生前半の苦悩や苦痛が、人生後半の成功で損失補填されるよりも、人生の前半でも後半でも楽しいというのが最高の人生だろう。
これもまた念のために言っておくが、「努力が苦痛だ」というのも、「努力は苦しいものだ」という思い込みから来ている場合が多いと思う。「必ずいい結果を出さなければならない」と思うから努力が苦痛になる。今やっていること自体を面白いと思えば、あるいは散歩程度に気軽に考えれば、さほど苦痛でもなくなる。ただし、サラ金の借金取り立てが楽しい、などと思う人間は精神異常を疑ったほうがいい。



(以下引用)


fromdusktildawn @fromdusktildawn 6月11日

知り合いの少年サッカーコーチは、親御さんたちに向かって「スポーツは健康に悪いです。それでもやりたいという人だけがやって下さい」って言ってる。「適度な運動」は健康にいいけど、「適度」ではゲームに勝てない / “「スポーツ好きな子ば…”


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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