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人生と運命

以前に載せたかもしれないが、かなり前に書いた「情報学的に見た『運命』」という拙文の一部である。読み返すと、我ながらなかなか面白いので部分再掲載する。
なお、二段落目に言及されている枯堂夏子は、私が尊敬する作詞家であるが、アニメ業界お偉方に嫌われたのか、ある時期からほとんど活動しなくなった(できなくなった?)人だ。「天地無用!」や「神秘の世界エル・ハザード」などのOP曲やED曲の作詞をしていた。





 



もう一度「運命」の話に戻ろう。



 



ほとんどの人間は自分の現在の状況に不満を持っているだろう。では、どういう状況を望むのかと言えば、案外とそれを明確に言える人はいないものだ。せいぜいが、男なら美女をはべらして酒池肉林の御馳走を食うという程度の、低レベルの極楽をイメージするくらいだ。あるいは恋愛中の人間なら、愛する相手に愛し返されたならそれだけで天国だと言うかもしれない。はっきり言って、どちらも馬鹿馬鹿しい望みである。前者は1時間もたてば満腹して、それ以上は食い物を見るのもいやになるだろう。後者は、自分を愛するようになった相手の現実の姿が、そのへんのただの男や女と何も変わらないことに半日で気づくだろう。枯堂夏子ではないが、恋愛など、片思いの間が最高なのである。



つい興奮して乱暴な発言をしてしまったが、要するに、我々の願望などあいまいなものにすぎないのである。だから、我々は(いつでも望む物に交換可能だと信じている)金を得ることを目標にするのである。だが、その金を得た後、どうするのかはほとんど考えていない。まあ、働かないで、のんびり遊んで生きられたらいいなあ、というのがほとんどの人間の願望の最大公約数だろう。ところが、一生遊んで暮らせる財産を持っている大金持ち連中が毎日遊んで暮らしているかというと、そうでもないのである。つまり、彼らにとっては遊びよりも仕事の方が楽しいのである。働くのが楽しいのだから、金が儲かる。金を得るのは楽しいから、もっと金を求める。金を求める明確な目的があるのだから、金が集まる。こういうサイクルで、金持ちはいっそう金持ちになり、貧乏人はずっと貧乏人のままとなるのである。



こうして金持ちが自分の望む運命を手に入れるのは分かった。だが、では貧乏人は貧乏人の運命を望んだだろうか? そんなはずはない、と世の貧乏人の皆さんは声を荒げるだろう。まあ、落ち着きなさい。かくいう私も貧乏人だが、自分が自分の求めた運命を手に入れていることは分かっている。



 



あまりにも有名な話で、世界中に同じパターンの話があるのだが、知らない人のために書こう。



ある南のリゾート地に、大会社の社長が遊びにやってきて、休暇を楽しんだ。彼がぶらぶらと散歩をしていると、そこに原住民が昼寝をしていた。こういう怠け者の大嫌いな社長さんは、その男を叩き起こして、「そんなに怠惰な生活をして恥ずかしくないのか。少しは働いたらどうだ」と言う。男は「働いたらどうなる」と言う。社長さん「金が手に入る」男「金を手に入れてどうする」社長「いくらでも遊べる」男「たとえば?」社長「そうだな、こんなリゾート地でのんびりと昼寝ができる」



という話だ。



意味わかりません? 分からない人はもう一度読むように。



つまり、私が貧乏人であるのは、このリゾート地の原住民と同じことである。金があっても金がなくてもやることは同じだから、金を求める気持ちがない。だから、金が手に入る気づかいはない、というわけだ。せいぜいが、病気の時の保険程度の金があればいいなあと思っているが、無ければ無いで、医者にかからなければいいだけだ。医者に行くのを我慢した結果、病気をこじらせて死んでも仕方がない。近代以前の社会では、どんな高貴な人でもたいした治療は受けていなかったのだから、何も不満はない。



というわけで、私が貧乏なのは、私が、あくせく働いてまで金を求めるのは嫌だなあ、と心の底で思っているからである。そしてそういう情報を私は常に無意識のうちに外部に流しているわけだ。そうなると、金の話は私の上空を素通りしていくのは理の当然だろう。



これが、多くの貧乏人の方々が貧乏人の運命を自ら手に入れているということの説明だが、まだ納得いただけないだろうか?



同様に、男運の悪い女はそういう運命を自ら求めているのであり、やたらと病気や怪我になる人間はそういう運命を自ら求めているのである。後者には、考えられる限りの不摂生をしながら、病気になるとその治療に狂奔するという場合もある。まあ、病気や怪我は本人の責任ではない場合も多いのだが、私のように臆病な人間は生まれてから一度も骨折などしたことはない。骨折などというのは勇敢な人間、言い換えれば危険に立ち向かう人間の勲章であり、それもやはり自らを骨折する可能性の中に投げ込んだことから来る、性格的運命の一つなのである。






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自由主義の意味

「はてなダイアリー」から転載。
まあ、何度も言われていることではあるが、言い方が明快でいい。
「自由主義とは自分(上級国民)が好き勝手をする自由である」ということである。
それに対し、政府が社会的規制をかける、というのが社会主義の本質。


(以下引用)


日本アメリカ植民地である限り、日本改善はないだろう。


ところでアメリカってどんな国なんだ?→聖書アイン・ランドベストセラーの国。


自分さえ良ければ他人はどうでもいい。みんなで好き勝手にやる自由を維持しようぜ!」という国だw


 


実際のところ、イスラエルロビー活動アメリカを動かしている。

三段論法でいえば、日本宗主国イスラエルシオニスト)ってわけw

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礼や作法や義理の意味

引用ツィート内の「儀礼体」は誤記で、後で「儀礼的」と訂正されている。

「日本を救うのは無礼と不作法と不義理だぞ」という断定が面白い。
要するに、「礼」と「作法」と「義理」が日本を窒息させている、ということだろう。窒息だけでなく脳梗塞で半身不随かもしれない。実際、社会生活の大半は他人への忖度であり、それが「礼」や「作法」や「義理」とされることで、絶対化している。その一方で、安倍政権に見られるように、ほとんど犯罪者的な連中が上級国民となって好き勝手なふるまいをしている。つまり、礼や作法や義理は下級国民を縛っているだけだろう。また、日本全体として礼や作法さえ表面的に守れば、悪行をしても見逃される、というところもありそうだ。
日本人はもっと「本物の批判精神」と「抵抗精神」を持つ必要がある。
私はヤンキーや不良が大嫌いだが、彼らの反抗精神(実際には集団内部の強い者に従うだけ、というところもあるが)や勇気(勇気を見せる対象が間違っていることが多いが)は評価するところもある。しかし、社会的な規律には反抗する彼らが、仲間内の作法にはうるさいらしいのが笑える。まあ、そこはヤクザ世界も同様だろう。
要するに礼や作法というのは本来、私的集団内部の「締め付け」である、ということだと思う。つまり、組織内部の上層部の利益を守るために作られた規定である。なぜなら、礼とは基本的に上下関係の確認の作法だからだ。



(以下引用)



  1. とかなんとか言っているこの私にしてからが、いったん送信したツイートに文章のつながりの悪さを発見すると、いちいち訂正しては再送していたするわけだから、まことにうちの国の人間の真面目さは実に救いがたいと思うことであります



  2. 何十万という人々の午前中が、ただただ儀礼体なメールに返事を書くことのためだけに費やされていると思う。なので、私は、極力無愛想な、用件のみのメールを書くことを心がけている。無礼なヤツだと思う人もあるはずだが、日本を救うのは無礼と無作法と不義理だぞ。






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「自然真営道」一節

安藤昌益の「自然真営道」の一節を訳してみる。

上の人間の贅沢への欲望は下の人間の労働の成果を責め取ることで満たされる。だから下の人間は困窮する。困窮する時は必ず反発・反乱の心が起こる。だからお上の法度に心服することがない。上の人間はこれを憎む。心服しないのは上の人間の贅沢への欲望の罪である。
ここにおいて、上は下を憎み、下は上を非難し、憎しみと非難と交々争ってついに乱をなす。
この原理を明らかにして、上の人間の無為徒食・貪欲・贅沢を減じる時には悪賊の根は断たれて下に賊は絶え、社会(政治)はおのずと余裕が出てくる。
上に金銀を蓄えるのは、乱の時に用いるためである。上に贅沢への欲望が無く、下に生活の余裕がある時には、乱を起こそうと(誰かが)願っても乱が起こることはない。すでに乱や贅沢が無いのなら、金銀を何に用いると言うのか。
であるから、乱の無い世においては金銀は大きな恨みの種である。
したがって、金銀を蓄えて天下国家を治めようと考える者は、乱を憎んで乱を作る者である。
下の民で金銀を蓄えて家を富まそうと考える者は、貧を憎んで自ら貧を作る者である。
そういうわけだから、上の者にも下の者にもこの主旨を示して、上は上の田畑を耕すようにさせ、安らかに衣食を成し、ただ、怠けて労働せず、無駄食いをする者の罪を咎めるようにする時は、下において怠ける者が出ることはない。


(「日本古典文学大系」97巻、660,661頁より)










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禅とは何か





  禅とは何か


 


 一般の人間にとって、禅は正体不明の存在である。落語の「蒟蒻問答」にあるような、意味不明の問答が、いわゆる禅問答のイメージであり、とにかくわけの分からないことを言うのが禅問答だと一般人は思っている。しかし、禅宗の基本テキストを幾つか眺めていると、禅宗の基本姿勢というものが見えてくるようだ。もちろん、禅というものは、「概念的理解」を何よりも毛嫌いするものであるから、禅の基本姿勢を言葉で説明するべきではないという考えもあるだろうが、しかし、人類にとって有益な知恵を一部の狭い世界の所有物とするよりは、「野狐禅」だろうが、禅へのとっかかりを作り、人々に禅の世界への入り口を開くほうがいいだろう。


 禅に関する様々な記述の中で繰り返されるのは、「主体的に生きよ」ということと、「物事を差別の目で見るな」である。この二つが自分の血肉となった場合が、悟りであり、成仏なのである。(禅問答とは、その達成の度合いを測る手段であり、その問答を通して、その人間が主体的に生きている人間かどうかがわかるのである。したがって、相手を驚かせることが、禅問答の基本である。相手が驚き、うろたえ、言葉に詰まれば、その男の「禅的レベル」の低さが分かるということだ。そして、問答である以上は、相手を驚かせるには、何よりも論理を超越した奇抜な言葉によるのが当然である。これが禅問答の奇妙さの正体であろう。)


 「主体的に生きよ」という思想は、臨済の有名な「随所に主となれば立処みな真なり」という言葉に良く現れている。「差別相を離れよ」という教えは、前者を可能にするための道である、というのが私の考えだ。


自分が主であるということは、外物に囚われないということであり、そのためには物事を差別の目で見てはならない。我々が外物に動かされるのは、善悪・快不快などの念のためである。つまり、或る物を良しとし、或る物を悪いとする我々の差別の念が、良い物を得ようという欲望や焦慮となり、悪い物を避けようという嫌悪や恐怖や不安となる。これは、我々が外物に動かされていることであり、その時我々は主人公ではない。つまり、差別相とは現代風に言えば「価値観」であり、実は外界の事物に対して我々が抱く価値観が、我々を業苦につなぐのである。美女も老婆も髑髏も同じと観ずれば、美女に心を動かされることは無い。(それが幸福かどうかは取りあえず保留しよう。)


 我々がいかなる外物にも驚かず、恐怖しなくなった状態が「安心立命」であり、これが悟りの状態である。ただそれだけのことだ。したがって、それが達成されたら、後は日常茶飯事がすべて仏としての行為となる。喜捨も修行も不要である。つまり、仏とは外界に求めるものではないし、悟りとは誰かに教えられるものではない。我々がそのままで仏であるのだ、というのが、臨済その他の高僧が繰り返し語っていることである。他人から学ぼうとするその姿勢そのものが、自分が主人公であることを捨てる行為である。だから、「仏に遭えば仏を殺し、祖師に遭えば祖師を殺し、……眷属に遭えば眷属を殺せ」と言うのである。これらの「仏」「祖師」「眷属」は、我々に依頼心を起こさせ、あるいは愛着の念を起こさせて外界につなぎ止めて、我々から主体性を奪う存在なのである。


 さて、ここで大きな問題がある。それは、我々の通常の生活は、すべて差別に基づいているということである。差別を区別と言い換えてもいいが、我々が何かを判断する場合、対象をその他の存在から区別することが前提である。あらゆる科学はこうした判断の積み重ねである分析と綜合によって生まれている。我々は外界を差別の目で見て判断しないかぎり、まともに生活することもできないだろう。そして、物事を差別相で見始めたら、そこに価値判断の序列が生まれてきて、その中の「良き物」を愛着し、「悪しき物」を憎むのも当然の流れである。味噌も糞も一緒では、生活そのものの意味が無い、ということだ。


 


 では、禅的な「悟り」は無意味だろうか。無意味ではない。これは、行き過ぎた差別相によって心が病になった人間への妙薬なのである。何かを望んで得られない苦しみ、愛した者と別れる苦しみ、老病の苦しみ、などなど、我々の生活は様々な苦しみに満ちている。しかし、何かを望み、嫌う、その間に、本当に苦しむだけの価値の差があるのだろうか。価値の差はあるにしても、それはそれほど大げさに悩むほどのものではないと考えていいのではないだろうか。我々は、この世の何も、執着するほどのものではないと悟った上で、日常の愛欲の世界に戻ればいいだけのことだ。芭蕉の、「風雅に遊び、俗に帰る」という境地である。


禅宗の見地からは、仏教的な「五戒」は無意味である。なぜなら、どのような手段であろうが、自分自身を生きる主体として確立すれば良いのであり、「五戒」はその手段の一つにすぎないからである。五戒に囚われれば、それは業の原因となるし、逆に言えば、五戒を破っても成仏を遂げることもありうる。上田秋成の『春雨物語』の中の「燓噲」は、多くの人を殺した極悪人だが、主体的に生きているという点では見事な生き方をした男でもある。だからこそ、発心した後には高僧にもなったのである。「悪に強い者は善にも強い」とも言う。


 禅とはこのように、破壊的な仏教であり、原始の仏教と同じ仏教とも思われないほどだが、しかし、もともと仏教が現世の苦をいかにして離れるかという思索から生まれたものであるならば、やはり本質は同じであるとも言える。


 禅では、座禅をしたから、瞑想をしたから悟れるなどという考え方はしない。するべきではない。日常生活そのものの中から、悟りを得ればいいのである。そういう意味では、禅僧の中でも、座禅の意味や目的を見失って、形式的な行に堕している人間も多いのではないかと思われる。仏教が、四苦八苦の娑婆苦を免れる道なら、あらゆる苦を苦と思わなくなれば、それは悟ったのであり、仏となったのである。


場合によっては、悟りによって、現世的なモラルから完全に切り離された「超モラル」の所有者となり、稀代の犯罪者となることだってありうる。なぜならば、あらゆる差別相を離れた人間にとって、たとえば人間の生命と一本の花の生命は等価かもしれないからである。そしてそれもやはり悟りなのだ。つまり、他人に利益を与えるか、害を与えるかというのは社会の尺度でしかない。禅ではあくまで自分が主人公なのだ。不動の心でもって大量殺人をした人間の方が、自己欺瞞の不満足な生涯を送った善人よりも「いい生き方」かもしれないのである。何とかいう和尚が、弟子たちに、自分の問いに見事な答えが出せなければ目の前の猫を斬り殺すぞ、と脅し、誰も答えられなかったためにその猫を殺した。殺生を嫌う仏教徒にあるまじき行為であるが、猫どころか、悟るためなら人間だって殺しかねないのが禅の行き方である。何年も座禅して足が腐ろうが、自分で自分の片腕を切り落とそうが、「よりよい生」のためなら惜しくはない、ということである。もっとも、すべてを頭で理解し、それで十分に満足できる私から見れば、無駄な頑張りにしか見えないが。


「差別相を離れる」をよりルーズに言えば、「どうでもいい」だ。生きようが死のうが、誉められようがけなされようが、どうでもいい。白隠和尚が、自分が関係したわけでもない娘の相手だと思われて、その娘の生んだ子供を押しつけられても、はいはいと受け取って、平気で育てたというのも、つまりは、「どちらでもいい」からである。偉大なる悟りは、単なる面倒くさがりと区別はつかない。世間では、善行を行えば立派だと言い、悪行を行えば非難される。善悪にとらわれない人間がいたら、はたして現代の人間はどう判断するだろうか。おそらくただの異常者か犯罪者ということになるだろう。だから、結局、「禅は分からない」となるのである。


ついでながら、禅宗の対極にあるのが「絶対他力」の浄土真宗かとも思われるが、実は、他者に絶対的に帰依することで心の平安が得られるなら、それもまた悟りだと言える。皮肉な言い方をすれば、もともと存在するはずもない(外部の)神仏を信じるならば、存在しないものは動かせないが為に、かえってその安心立命は強固そのものである可能性が高いのである。これは人によっては自分で自分を信じる以上に簡単な道だろう。伝統的な神仏に限らず、現代の新興宗教の教祖を信じるにしても、外部の人間から見れば一生をふいにするような生き方ではあるが、「主観的な」幸福は得られることもあるのである。ただし、他人まかせの人生が嫌いなら、自己決定と自己責任の道である禅的な生き方を選ぶほうがいいのではないだろうか。






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「ひとに迷惑をかけるな」と教えることの精神汚染

リプライの中にもあるが、Fonzy氏の言葉は或る意味「目から鱗」とでも言うべき指摘で、確かに私も「困っている人を助けなさい」と小中学校で聞いた記憶が無い
その一方、「集団の規律を乱すな」という注意は、(もちろん全体に向けての言葉だが)耳が腐るほど聞いた覚えがある。

つまり、日本人は学校教育や、あるいは家庭教育の中で非人間化されているわけだ。

なぜなら、「ひとに迷惑をかけるな」とは、「迷惑をかける人間は(それがどういう状況であれ)困った存在であり、そういう奴は排除していい」と教えているのと同様だからである。この、「迷惑をかける人間」には、集団生活から孤立しがちな、空気の読めない人間や身体障害者も含まれると子供が判断するのは当然であり、それがいじめの根底にあるのではないか。

なお、lutraの青春云々という妙なハンドルネーム(というのか)の人物は、「どこのパラレルワールドの日本(の話)ですか」という発言から、ネトウヨであるかと思われる。日本は道義心に満ちた美しい国である、と主張しているわけだ。個人的体験を日本全体に敷衍する論法も困ったものだが、日本批判をすると、必ずネトウヨが湧いてくる、その印としてあえて載せた。

(以下引用)



Fonzy @kazparis 12月19日

子供の頃から「ひとに迷惑かけるな」「自分のことは自分でしなさい」とはしょっちゅう言われてきたが、「困った人を助けなさい」ってほとんど言われたことがない。こういう教育が、この国の自己責任論や生活保護バッシングにつながっていると感じる。


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ソーシャルスキルとは何か

これは、面白い指摘だと思う。
概して、いじめる側は集団であり、いじめられる側は孤立した子であることからも、この指摘は正しいのではないか。「集団に入れる者」とはソーシャルスキルが高いということと同義である。

繰り返すが、ソーシャルスキルとは、集団に入る能力であり、その集団は共犯関係(良く言えば協働関係)によって結束を強めるものだ。他の集団や外部(集団に属さない者)を敵と見做さない集団は希である。集団スポーツなどは基本的に他のチームを敵として成り立つ。

集団に入ると、その集団への忠誠が法やモラルより最優先されることを私は組織悪と言っている。






よくいじめっ子に「いじめられる子の気持ちを考えましょう」なんて言う人がいるけど,いじめられる子の気持ちがちゃんとわかるからこそ効果的にいじめることができているんだよね。ソーシャルスキルが低いからいじめてるんじゃなくて,ソーシャルスキルが高いからいじめる側になる。




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プロフィール

HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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