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訓練でどうにかなることならないこと

まあ、確かに、訓練ではどうにもならないことは多い。
たとえば自分自身の精神が訓練で改善できるようなものなら、誰も精神病にはならないだろう。そもそも、精神病というのは自分でも気づかないうちに病気の領域に入っているものだろうから、改善されるはずがない。薬で安定性を得ても、それは薬を飲んでいる間だけのことで、病気自体が治ったわけではないだろう。酒も同様で、私は酒の量を自分でコントロールしているつもりだが、それは錯覚で、アル中なのかもしれない。もっとも、体力や胃の容量(胃の老化)の問題で、ビール1本くらいしか飲めなくなり、酒席に出ることもためらってしまうような人間がはたしてアル中かどうか、疑問である。
要するに、努力できる人間は努力する才能の持ち主であるわけで、努力しない人間を責めても、それは馬に生まれなかった兎を責めるようなものかもしれない。
努力しないでも生きられる境遇(猫とか犬とか王族貴族とか大金持ちとか)に生まれるのが一番であるし、それが無理なら、自分にできる努力の範囲の成果で満足して生きられればそれでいいのではないか。一番よくないのは、なぜ自分にはあれやこれができないのだ、と自分で自分を責め続け、精神病になることだろう。実に知的な人間でありながら、自責の念が強すぎて不幸な人生を送っている人は多いように思う。
なお、私は精神病という言葉にはまったく差別的な意味は籠めていない。意図的に差別する場合は、安部や橋下や小泉を言う場合のように低能とかキチガイとかサイコパスと言う。





「コミュ力」「雑談力」ってな調子で、言葉の末尾に「力」をつけることで、それらが訓練で伸ばせる資質であるかのように見せかける造語法があるけど、それウソです。「身長力」と呼んだからって背丈は伸びないし「イケメン力」を意識したところで、顔の造作がコントロール可能になるわけでもない。





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忠君思想と防衛機制

最近、古代史の本をよく読む(流し読み、飛ばし読みだが)のだが、不思議に思うのは、古代の兵士がなぜ戦(いくさ)の場から逃げ出さなかったのか、ということだ。もちろん、逃げだしたら、戦の後でその逃亡兵士の家族が皆殺しにされたからだろうが、そういう「脅迫」でもない限り、喜んで戦闘に出る下層民などいたはずはない。
時代が下ると、「忠君思想」というものが出てきて、自分から喜んで戦闘の場に赴くというキチガイが(特に武士階級に)生まれてくるわけで、そういうキチガイでもなければ武士の資格は無いくらいのものである。ただ、それが本当に「忠君思想」、つまり、主君のために喜んで死ぬのかどうか、疑問の余地はある。
実際には「一所懸命」、つまり、自分の土地を守るために命を懸けたのであり、主君はその保証をしてくれる存在、つまり、本領安堵の御恩を与え、家来はその御恩に報いるために奉公した、というのは日本史で習うことだが、しかし、現実の戦の場では「主君のため」と思い込んで奮戦し戦死したのだろうと思う。もちろん、それは自分で自分をそう洗脳したのであり、そうでも思わないと馬鹿馬鹿しくて死ぬ気にもなれなかったのではないか。こういうのを確か「防衛機制」と言ったと思う。つまり、自分の自我、あるいは精神の平静を守るために、自分で自分に嘘をつき、それを信じる無意識的心理である。
まあ、現在でも、自分の生存基盤や家族を守るために、上の命じるキチガイ行為をする組織人は当たり前に存在し、上の人間は下の人間のそういう心理を利用して彼らを思いのままに使用するのである。

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ビジネスとジョブ

海堂尊の小説の中に、こういう会話がある。


「仕事には二種類あって、英語ではきっちりと分けられています。ビジネスとジョブ、です。(中略)ジョブは単純労働の繰り返しですが、ビジネスには創意工夫が必要です。ビジネスは精度の高いジョブに支えられますが、ジョブを上位に置くと物事は単純化されて腐っていきます。人はたいてい、ジョブをこなすことが何よりも大切だという思い違いをしているのです」

商社マンなどの「ビジネスマン」が泣いて喜びそうな言葉だが、これを言うのが現実社会など知らなそうな「文学部の教授」であるのが笑える。作者は真面目に書いているのだろうが。
もちろん、仕事に創意工夫が大事だというのは分かるが、単純労働を蔑視するような、こういう言葉を聞いたら、全国の底辺労働者は死にたくなるのではないか。
しかも、ビジネスとジョブについてのこの定義は嘘くさい、と私は思ったので、では、どういう違いがあるかなあ、と考えて、

ビジネス=商売(詐欺師も含むwww)
ジョブ=労働(特に頭だけでなく体も使う仕事)

という定義を考えたのだが、確かにビジネスのほうが主に頭を使うと言えそうではあるにしても、要するに「カネ儲け」をするのがビジネスの本質だ、と思い、念のために調べると、下のように書いてある。間違いではなかったようだ。私はトルストイの「イワンの馬鹿」を読んで以来、単純労働を馬鹿にする人間(あるいは悪魔)は信用しないのである。なお、ジョブの複数がジョブスなら、スチーブ・ジョブスは創意工夫の無い腐った仕事ばかりしていたのだろうかwww



business 営利的な仕事,商売
job, work 単純労働から熟練を要する職業までを含むくだけた語
eプログレッシブ英和中辞典より ===

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入院は天国か地獄か

「女だから言えること」というブログから記事の一部を転載。(別ブログにもこの記事は載せたが、特に下の引用部分について考察したい。)
下の記事の筆者自身も精神病院への入院経験があるだけに、書かれた内容に事実の持つ重みがあるが、入院患者は入院によって明らかに病状が良化するにも関わらず、患者の大半は入院生活を嫌がる、ということについて考えてみる。

もちろん、精神病院への入院は世間体が悪いという昔からの社会風潮が最大の原因だろうが、私の想像では、「他人に決められたパターンで生活しなければならない」ことの苦痛が最大の理由ではないかと思う。これは私が特にそれを苦痛に思う人間だからだろう。
朝昼晩の食事、服薬、運動、休憩など、すべてが決まった時間に決まったやり方で行われ、患者はベルトコンベアの上の品物のように流されていくだけである。
それを楽だと思い、「ここは地上の天国かよ」と思う下記記事筆者のような人もいれば、「他人に命じられたこと、決められたことをやるのは死ぬほどいやだ」と思う人もいるのではないか。私などはそうである。自分の意志でぼんやりと無駄に時間を過ごすのは大好きだが、病院(せいぜい高血圧の薬を貰いに行く程度だが、最近はそれもやめている。)などで「強いられて」無駄な待ち時間を過ごすのは不快そのものである。
つまり、そこに「自分の意志」(たとえば、就職や入学などのように、会社や学校という場に入ることで生じる不自由さを受け入れることへの同意も、一応は自分の意志がそこにあるということだ。)があればいいのだが、自分の意志がまったく認められず、他人の決めたルールの中でしか動けない、というのは、自分が生きた人間ではなく死体か物体であるような気がするわけだ。
だから私は、約束事とか予定というのも大嫌いなのである。嫌いだが、「生きる上で仕方がないからこれは受け入れておく」と決めたことだけ受け入れるのであり、嫌いであることは変わらない。なぜそれほど自由が好きなのか、自分でも分からない。自由であってもロクなことは何ひとつしないのだが、ロクなことをしないでいられるというのも自由だからこそである。
念のために言うが、私の政治信条の上での最大の敵は「新自由主義」であるwww



(以下引用)

入院したら状態が良くなるという現実


 精神病患者の家族会の人たちの話によると、発達障害からの二次障害で精神病になる人も少なくなく、特に統合失調症の患者さんは薬を飲みたがらない、あるいは全力で拒否する人も多く、どんどん悪化させていたりします。



 結局、家族会の方々のお話によると、入院して退院した直後が一番、状態が良いとのことです。(ただし、正しい治療を行っている病院に限る。)私も精神病棟に何回か入院していますが、入院すると休養が取れる上に、治療に集中できるので非常に状態が良くなりました。早く退院したいという患者さんもいましたが、1人暮らしの精神病で働くことも、食事も、服薬も、自分ではコントロールできない状態だった私としては「三食昼寝付き、エアコン付きで、掃除も風呂洗いもシーツ交換も他人がしてくれるなんて、ここは天国かよ。」と思ってました。



 さらに、精神病棟での、初期から中期の統合失調症患者の回復具合は目を見張るものがありました。また、私の父のような重度の人が少ないのにも驚きました。早期発見早期治療ができている人たちが入院していたためでしょう。また、慢性の人も父ほどの症状の人はいなくて驚きました。



 精神病者をどこかに閉じ込めるなんて良くないみたいに考える人もいるかもしれませんが、本人の病状は滅茶苦茶良くなるし、家族は患者の面倒を見なくて良くなるしで、いいことずくめに見えました。ただ、問題なのは本人が入院生活を嫌がって早く退院したがること。精神病院は食事の時間も決まっており、栄養バランスの良い食事を3食食べ、外出禁止の人は買い食いできません。さらに薬も決まった時間に必ず飲ませるので、良くなるのだと思いますが、本人がそれがとても良い環境だと気づけないことは残念なことだったりします。




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指の長さを切りそろえる

「癸巳存稿」という昔の中国の随筆の中にこんな話がある。建隆年間というのは北宋の第一代の年号で、太祖は北宋初代皇帝。次の赤字部分が、引用。(大滝一雄訳)

建隆年間のこと、竹木務監督が、積まれている材木の長さがふぞろいなのを気にして、それを切りそろえたいと願いでた。すると太祖はその上申書の末尾に、「お前の手の指にも長短がないわけではなかろう。どうしてそれを切りそろえないのか。長いものは長いなりに、短いものは短いなりにしておくがよい」と返事を書きこんだという。
わたしの親戚に、この上申書と返事を見たものがある。この(太祖の)ことばというのは、信じてもよさそうだ。

お役人(管理者)というのは、自分の管理するものを整然としたい欲求が強いのだろう。今の日本の教育の画一主義というのも、その根源はそこにあるのかもしれない。手の親指も人差し指も中指も薬指も小指もみんな同じ長さに切りそろえたがるわけである。そういう「指の長さの揃った手」が、はたしてどれだけの働きができるものだろうか。
指の長さを切りそろえるというイメージが強烈なので、メモしておく。

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引いてばかりだと土俵を押し出されるのは自明のこと

差別主義者を批判する非差別主義者(差別反対論者)に対して、「お前ら(差別反対論者)も我々(差別主義者)を差別しているではないか。自己矛盾だ。言行不一致だ」と反論する差別主義者の論法があるわけだが、下のカール・ポパーの言葉はこうした論法へのいい対処法(つまり、自己矛盾に悩む寛容主義者の精神安定にいい教え)である。

以前に孔徳秋水氏がよく言っていた「応報論(応報主義)」と似ているだろうか。つまり、「寛容には寛容で返し、不寛容には不寛容で返す」わけである。

寛容主義はべつに「すべてに寛容であれ」と主張しているわけではない。まあ、それをかなり高次元で主張したのはキリストくらいだ。(「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」「汝の敵を愛せよ」というわけだが、キリストも実は自分の思想的敵対者であるパリサイ人、つまり当時のユダヤ教指導層の言動に対しては非常に不寛容だったのである。)「無抵抗主義」のガンジーもそれに似ているが、無抵抗と寛容は同じではない。


(以下引用)



哲学者カール・ポパー
「寛容な社会は不寛容を許容するべきか?もし不寛容な者にまで寛容であろうとすると寛容な人々も、寛容な社会も、彼らに壊される。不寛容や迫害を説くいかなる扇動も犯罪でなければならない。矛盾しているようだが、寛容性を守るには、不寛容に不寛容であるということが必要だ」






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生きる道具としての「道教」

前に書いた、司馬遷による道教解説を、見やすく整理しておく。先に、儒家との対比や私の補足などの部分をカットし、後で道教思想を箇条書きにする予定だ。長くなるようなら、箇条書き部分は別記事にまとめるかもしれない。




道家は、精神を内に集中して外の誘惑に惹かれず、無形の自然法則に合致するように行動し、無欲になることで万物あるがままに満足することを教える。
道家の道というのは、陰陽家の説く宇宙の循環法則により、儒家墨家の善いところを採り、名家法家の要点をつかんで、時世につれて移行し、対象に応じて変化する。風俗を改め、実地に施行する場合、当たらないところがない。その本旨は簡約で、守りやすい。仕事は少なくて効果は多大である。
道家のいう大道の要旨は、強気や欲望をなくし、知恵を捨てることにある。


道家は無為である。同時にまた『為さざるなし』ともいう。その実質は行ないやすいものであるが、そのことばは理解しにくい。
その道は、虚無を本体とし、因循(自然に任せる)を作用とする。固定した姿勢とか一定の形態とかがない。されば万物の本質を極め、相手の物に即応した形を取る。
法はあるけれど、一定の法はない。時勢に沿って仕事をする。尺度があるとはいえ、固定した尺度はない。相手の物に応じて進退する。されば、『聖人は巧みあらず、時の変をこれ守る』という。虚とは道の本質である。因とは君の大綱である。〔君主自身は己れを空しくし、万民の心のままに因るのが政治である〕

群臣が集まって来れば、各自その正体を示させるがよい。すなわちそのことばに実績が伴うものは、これを正言という。ことばに実績が伴わないものは、これを空言という。空言を聴き入れねば、悪事は生じない。賢愚はおのずと区別され、白と黒はこれで現われる。臣下を使おうと思えば、思いのままに使える。いかな事でも成らぬものはない。こうしてこそ、かの混沌とした大道に合致する。




およそ人が生きているのは、精神のおかげである。精神のよりかかるところは、肉体である。精神はひどく働かせれば、すり切れる。肉体はひどく動かせば、こわれる。肉体と精神が分離すれば死ぬ。死んだ者は二度と生き返らない。離れた者はもう一度くっつけられない。これで見ると、精神は生の根本である。肉体とは生の道具である。

以上をまとめると、こんな具合だろうか。

1:無欲。無欲であることで万物に満足する。
2:柔軟性。何事にも固着せず、外界の変化に対応する。
3:知恵を捨てる。理屈や我意にこだわらず、直観的に当否を判断する。
4:無為。精神や肉体を浪費しない。
5:虚無と因循。(2と同じ)
6:法や尺度に固着しない。(2と同じ)
7:言語に騙されず、実態と照合して判断する。
8:己の精神と肉体が生の本体であることをよくわきまえる。(4と同じ)


以上のようにまとめると、実にその本旨は簡約で、守りやすい。仕事は少なくて効果は多大である。」ことが分かる。上記の箇条書きも、5つに絞られるわけだ。7は組織の長の話だが、メディアリテラシーの話と考えれば、現代にも即応する。ただし、5の「因循」は、解説の中にあるように「自然に任せる」意味だが、現代人にとっては「姑息因循」と取られかねず、注意が必要な用語である。「虚無」も同様だ。
いずれにせよ、これは現代人の処世術にもなり、精神衛生法にもなり、「現代的仙人」になる道でもあり、下にいる人間への教えにも組織の長としての指針にもなりうる、まさに万能の教えではないだろうか。
特に、あまりにも変化が速く、固定したものへの信頼性の無い時代においてこそ、「無欲と柔軟性と直感的判断」はこれまでの「合理性」や「理屈」や「伝統(知識を絶対視した固定的教育内容)」よりも有効な「生きるための道具」になるように思う。(武器と言わず道具と言ったのは、道具とはまさに「道の具え」であるからだ。道教とは「道の教え」なのだから。)

「無欲・柔軟性・直観的判断」と、私は道教の本質を3つにまとめたが、実は道教の本質を一言で言った言葉もある。それが「無為自然」である。

道教は「水」と「幼児」に象徴される。幼児のように、何も心配せずに生き、「大人」の賢しらを捨てること、水のように融通無碍であることだ。




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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