忍者ブログ

弱者でも、相手を殺す気なら殺せる

これは格闘技に対するアンチテーゼとしてかなり強力な説だろう。
私がいつも残念に思うのは、いじめ被害者が何の抵抗もせず自殺してしまうことで、なぜ加害者を殺してから死なないのか、と、いつも怒りを感じる。もちろん、その理由は分かる。それは、自分の家族を「人殺しの家族」にしたくないからだ。だが、そうしていじめ被害者が無抵抗のままに自殺したりするから、いつまでもいじめ事件は無くならないのである。


(以下引用)




私は子供の頃から喧嘩に弱かったが、喧嘩に強くなろうと思って格闘技を練習する気にはついぞならなかった。私はおそらくこれからも肉体的な喧嘩はしないだろうが、もしそういう事態に陥ったら、喧嘩に勝とうとかは考えず、相手を殺すだろうからだ。殺人は殺意さえあればできるので、格闘技は必要ない。




拍手

PR

「笑い」のメカニズム

別ブログに載せてあった文章だが、今読んでみるとなかなか面白いのでここにも載せておく。私はこういう具合に、「どうでもいいこと」をあれこれ考えるのが好きなのである。
なお、文中の「藤子不二夫」は「藤子不二雄」の誤り。「不二夫」は赤塚の方である。








 漱石の『文学論』の「滑稽的連想」による小論


 


 ある表現に対する聞き手や読み手の反応は、その表現の内容による部分と、音韻による部分があるが、音韻による連想が内容による連想と不調和を醸し出した時に、滑稽感が生じることがある。これが洒落・地口である。もちろん、音韻に無関係に、内容の対比による滑稽感もある。たとえば、「提灯に釣り鐘」は、どちらもぶら下がる物というだけの共通性しか無く、ただその一点で、軽い提灯と重々しい釣り鐘が並列されたことが聞き手に滑稽感を催させるのである。また、対比ではなく連続の意外さが滑稽感を生む場合があり、「恐れ入谷の鬼子母神」は、「恐れ入った」という言葉で終わるかと思っていたのが、「入谷」と続き、さらに「鬼子母神」と続く、その意外感がこの洒落の生命だろう。つまり、「入り」から「入谷」と続いた勢いでとんとんと「鬼子母神」が出てくるところが面白いのである。鬼子母神に何かの意味があるわけではない。


 


 一般に、滑稽感とは、何かの心理的落差によるものだと仮定しよう。言い換えれば、「期待された内容」と「実際の内容」の落差から生じた心理的な浮遊感が滑稽感の正体であるとしてみよう。


 我々は、謹厳な紳士にはそれにふさわしい言動・威厳を期待する。その紳士がこければ、見ている人間はその威厳の失われた状態と、その前の威厳との落差に滑稽感を覚えるのである。「こける」ことが喜劇の基本であるのは、それが、一瞬でその人間の状況を「喜劇的状況」に変えるからである。すべて失敗が喜劇的であるのも、同じ原理だ。


漫才では、話す内容が滑稽である場合と、話す当人が笑われる場合がある。後者は身体的条件、口調、表情などが笑う理由となる。


 落語家の場合は、当人自身が笑われるというよりは、純粋に話す内容によって笑わすのが基本である。だから、林家三平や桂枝雀などは異端であったと言える。


 身体的条件によって、すでに笑いの対象となる場合があるということは、前に述べた「心理的落差」が滑稽感の原因だという説に反するように見える。しかしこれは、社会の気風による習慣的条件づけにしかすぎない。ある風貌や身体的条件が笑いの対象になるかどうかは、固定的なものではない。肥満体が威厳の条件の一つであった時代もあったのである。一つだけ重要な事実を言えば、風貌が笑いの対象となる存在は、「愛すべき存在」とか「無害な存在」と理解されているはずである。それを逆手に取って、たとえばピエロの格好・メーキャップをした人物が凶悪な殺人鬼であった場合などは、その落差は滑稽感ではなく恐怖感を増幅することになる。恐怖と笑いは実は無縁のものではないということだ。


 心理的落差の簡単な例は、漱石の『吾輩は猫である』の冒頭だ。「吾輩」という自称の語は、偉人豪傑が使いそうな威張った印象の言葉だが、その後に「猫である」と続き、しかも「名前はまだ無い」と来る。飼い主から名前もつけられていない程度の猫が「吾輩」と名乗るその落差が滑稽なのである。(このことは小林信彦も言っていることだが、おそらく誰でもその仕組みは直感しているはずだ。)


 心理的落差が滑稽感の原因だということを示す事柄を二、三挙げてみよう。これはブラック・ジョークだが、両手両足の無い身体障害者の息子を持った父親に、その友人が「お久しぶり。最近、息子さんはどうしている」と聞くと、父親は、「うん、最近は野球チームに入って頑張っているよ」と答える。「へえ、すごいね。で、ポジションはどこ?」「うん、セカンドだよ」「ほほう、セカンドベースマンか」「いや、セカンドベースなんだ」


 あまりにも非人間的なジョークなんで、これを紹介しただけで人非人扱いされそうだが、それ以来、私はセカンドと聞いただけでこの話を連想してしまうのである。このジョークのポイントは言うまでもなく、人間がその尊厳を奪われ、物扱いされたところにある。どういうわけか、我々は、ひどい目に遭っている人間を見ると、同情すると共に、笑いたくもなるようなのである。だから、スラップスティック喜劇は、「誰かがひどい目にあうことの繰り返し」なのである。トムとジェリーだろうが、トゥイーティーとシルベスターだろうが、ロードランナーとコヨーテだろうが、可愛い鼠や小鳥に、猫やコヨーテがひどい目にあわされる話である。


 先ほどのブラック・ジョークに戻ると、どこに心理的落差があるかと言うと、身体障害者の少年が少年野球チームで頑張っているという部分で我々は乙武的なけなげな頑張りをイメージするのだが、その頑張りがまったくナンセンスな頑張りであることに、我々の持っていた常識的モラルに支えられた「意味の世界」が崩壊するというところがポイントなのである。つまり、我々は日常生活の中で、意味に縛られていて、その事に無意識の不自由感を感じている。そこで、ナンセンスによって意味の世界から解放されると、快感を感じるのである。その精神マッサージが笑いである。笑いは、社会的秩序や常識への反逆であり、しばしば不道徳なものとなるのは当然である。大昔には、笑いといえば、敵への嘲笑であり、人から笑われるということは、死ぬほどの屈辱だったのである。(笑いが武器であったということは、柳田国男も言っていた。)


 自分が自分であることの不快感、あるいはある物はその物以外ではありえないことの不快感を我々の無意識は感じている。その牢獄を破壊し、そこから我々を解放するのが笑いだ。笑いとは常識的世界(日常の秩序)の破壊だと定義してもいいだろう。狂人は笑わない。笑えないから狂人になるのである。笑う余裕がある間は、我々の精神は無事だと言えるだろう。


 今度はほのぼの系のジョークである。(たしか、藤子不二夫のエッセイで読んだ記憶がある。)動物園の入り口から入ろうとした男が、そこに象が座っているのを見た。やがて出口から出ようとすると、そこにも別の象が前の象とは反対向きに座っていた。そこで男が象に、「君たち、何をしてるんだい」と聞くと、「ブックエンドごっこだよ」。


 まあ、この話でにやりとかくすりとか笑う人もいるだろうし、まったく面白くないと言う人もいそうである。この話のポイントは、まずはイメージである。動物園をはさんで、二匹の象が座っていて、彼らはブックエンドごっこをしているのである。これは幼児的な可愛らしさだ。絵本的な絵柄である。もちろん、象が人間の言葉を解すること自体、童話的でもある。ここには、破壊的なものは無い。誰かがひどい目に遭わされるわけでもない。だから、痙攣的な笑いは生み出さないが、それでも笑いの要素はある。それは、「幼児の笑顔を見れば、誰でもつられて笑う」という笑いである。これを天使の笑いとでも言おう。   これは破壊的な笑いとは対照的なものだが、それでも「心理的落差」はある。それは、「意外性」だ。この話の結末は、落語のオチのようなもので、それが無邪気な印象なために気が付きにくいが、十分に意外性のあるオチなのである。そのオチ(結末)が危険な方向で終わればブラックジョークになるというだけのことである。


 以上から、予想と実際の「心理的落差」からくる「浮遊感」が笑いの根本であり、その落差が「常識的秩序を破壊する」場合に笑いが発生すると見ていいだろう。象のブックエンドに常識破壊があるかと言えば、そもそも象が人語を解すること自体シュールレアリスティックな話であり、童話的世界は常識的現実の破壊でもあるのである。


 やや強引な論理を積み重ねてきたが、最後に、笑いを作る方式を考えよう。


 漱石の『文学論』での笑いの分析を我流で解釈すれば、本来は結びつかない二つの事柄をわずかな共通点で強引に結びつけ、その落差によって聞く人を驚かせるというのが笑いの創造の基本であるようだ。あるいは、物事の常識的解釈に対して、あえて非常識な解釈を行い、しかもその解釈に屁理屈なりに理屈がある、という場合に、その意外性が笑いになるようである。


 たとえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というビートたけしの有名なフレーズがなぜ面白いかというと、やはりここには秩序破壊、常識的世界の破壊がある。しかも、そこには理屈が通っているのである。それは、車は、歩行者側が赤信号でも、歩行者が横断歩道を渡れば止まらざるをえないという事実だ。車という物理的な危険性を持った存在に対し、歩行者が無意識に感じている敵対意識が、このフレーズであぶり出され、やむなく止まっている車の前を堂々と歩いていく歩行者の姿を人々はイメージしたのである。それは、車という強者と歩行者という弱者の逆転、現実の秩序の破壊だ。





拍手

当たり前の生活の幸せ





少年院生活は辛かった一方で、どこか温かさも感じていました。「一生ここにいろ」と言われたらそれはそれでいいなって……。私に限らず、少年院に来るのって、社会や家庭の中で身の危険を感じて育ってきた子が多いから、ちゃんとご飯があって、先生が優しくて、勉強させてもらえて、本が読めてという当たり前のことが、なんだかすごく幸せに感じられたんです。(戦慄かなの:少年院上がりの「アイドル」)

拍手

日本の歴史的政治システム

別ブログに書いてまだネットに公表していないものだが、せっかくタイプ打ちしたのでここにも載せておく。現代の政治状況と比較しても興味深い。たとえば、安倍政権が内閣人事局を握ることで官僚を完全に支配したことなど。私自身は、天皇以上の実力を持った人々が自らあえて天皇になろうとしなかったのは「天皇の権威」の高い利用価値を知っていたからだ、と思っている。単に「日本書紀」などによる洗脳の結果だけではないだろう。政治が権力闘争の場(殺し合い)だからこそ、そこから一歩を置いた権威の存在は非常に強い「安定装置」になるのである。


(以下転載)



松本清張のエッセイ「天正十年のマクベス」より、抜粋(文章は一部変更)。

・家康は複数の小禄譜代大名で構成した執政機関(老中部屋)を置き、原則として将軍は親政しない方針をとらせた。しかし、執政の任免権は将軍の手中に握らせた。六代将軍家宣が顔色を動かすことなく老中上座柳沢吉保を罷免したのはその例である。役員人事の独裁権を持つほど強いものはない。だからこそ徳川幕府はとにかく二百五十年以上も続いたのである。
・朱子学は君臣秩序維持にきわめて都合のいい支配階級の学問で、百姓、町人にいたるまでこの忠義精神によって抑圧される。これが明治政府にうけつがれる。
・君に背くものは不忠であるという道徳は徳川幕府になってからでき上った。さかのぼっては足利尊氏にも乱臣賊子のレッテルが張(貼)られた。(中略)日本の中国侵略があらわになってきた昭和十年ごろには、尊氏をほめる者は不忠の臣であり、国体を紊す賊子の徒であるとの声が軍部や右翼方面から上がり、「国体明徴」運動が起こり憲法学者の美濃部達吉は天皇機関説で排撃を受け貴族院議員を辞職せしめられ、不敬罪で起訴された周知の事件となる。
・応仁の乱によってすっかり体制が崩れると、それまで続いたところの将軍の源家や足利家も落ちぶれてしまう。天皇も公家も力はない。もっとも、天皇や公家に実力がないといっても、伝統的な権威というものは続いている。天皇が現在まで万世一系として存続している理由についてはっきり説明できない人が多い。歴史的にみて、天皇よりも実際に力が上だった蘇我氏だとか藤原氏、平氏、源氏、足利氏が、天皇になろうとしてなれなかった理由については、誰もはっきりと説明ができないのである。
・(日本書紀によって)皇室の祖先は神武、綏靖、安寧、懿徳以下何々として皇統が上世いらい日本の知識人の頭脳に灼きつけられた。そこに一種の系統主義というものが生まれたとわたしは思う。だからこそ、藤原氏に実力があっても天皇家に対抗して、自分たちが天皇だといってこれに取って代わることができなかった。源頼朝も足利尊氏も天皇にはなれなかった。系統主義によって周囲が容認しないのである。
・後白河法皇は頼朝と対決した。頼朝の家来、上総権介平広常という者が、なにも法皇に遠慮することはない。法皇をやっつけなさいという意味のことを進言した。聞いた頼朝は、たちまち広常を殺した。こんな人間は、いつまたおのれの地位をひっくり返すかもわからないと恐れたからである。これも系統主義のあらわれである。

拍手

読書の功罪

  1. 本というものは、読む人が百人いたら受け取る内容は百通りあるわけで、読者次第である。つまり、本を読んでも筆者の意図どおり理解する人はまず存在しない。読者の知的レベルや精神経歴などによって千差万別の受け取り方がある。
  2. 私の場合は、学術的書物(言い換えれば、真面目そのものの本)は、それが大衆向けの書物だろうと、まず2割か3割くらいしか理解できていない自信があるが、それを読むのが無駄だとは思わない。理解できたわずかな部分の中に、私自身の精神世界を根本から変えるものがあることもあり、そこまで行かなくても、何か大事なものを付け加えることもある。小説などの場合は作者や作品次第だが、平均したらだいたい6割から7割程度の理解度だろうか。
  3. また、本を読むことが害になることもあるわけで、ネトウヨがその種の本やそれを使ったネット発言の影響から生じることは容易に推測できる。真面目な本でも、誤った読み方をされて社会に悪影響を与えることもあるだろう。宗教書などはその種の影響力が強いわけだ。また、最初から社会的洗脳目的で書かれた本もたくさんある。
  4. 小田嶋師が、「本を読んで目を悪くするだけの人もいる」、と言ったのは、「目が悪くなる=物事の正しい判断ができなくなる」という比喩みたいなものだろう。物理的に目が悪くなることももちろん多いわけである。
  5. 「書物を三日読まないと顔に垢が付いたような気がする」と昔の中国の人が言ったが、これはもちろん、読書による精神の洗濯(洗顔)をしないと堕落した気分がする、ということである。悪書ではもちろんその反対で、読めば読むほど精神が堕落する。
  6. 小田嶋隆 @tako_ashi 7月29日
  1. まことに偏狭な態度で自分ながらいやになるのですが、私はすべての書物に価値があるとは思っていません。むしろ、無価値な本や有害な本がの方が多いと考えています。また、仮に価値のある書籍があるのだとしても、その書籍を読むに値しない人間がいるとも思っています。残念ですが。



拍手

原理主義の最大のポイント

スポーツライター広尾晃のブログの読者コメントで、「甲子園原理主義」について指摘したものだが、「原理主義」の最大のポイントを見事に指摘していると思う。これはあらゆる組織に言えることだろう。会社原理主義、学校原理主義、部活原理主義、ヤクザ原理主義、軍隊原理主義、どの原理主義もすべて、指導者や首脳部にとって、非常に都合のいい道具になっている。

(以下引用)


  • 1. 椎名次郎
  • 2018年07月16日 17:56
  • もう一点

    原理主義としての類似性としてあげられるのが、どちらも指導者にとって非常に都合が良くできている点でしょう。
    いずれの場合も、放っておけば勝手に自らを進んで死地に置くということ。
    また、その考えに異をとなえる者が現れたとして、其れを取り除くのは指導者ではなく、その同士達であること。
    この関係は指導者だけでなく、学校、企業、国それぞれに当てはまる図式であり、体制側がこの都合が良い関係を手放す筈が無いということ。何しろ勝手に忖度してくれて勝手に転んでくれるのだからこれ以上のものはないでしょう。

    もう、体制にとって「都合がいい人」でいるのはやめませんか?
    と、いうこと。


拍手

宗教と戒律

「谷間の百合」さんのブログの、数日前の記事だが、宗教における「戒律」への疑いという、非常に根源的な疑問を呈している貴重な文章だと思う。
もともと、仏教(一番最初の仏陀の教え)に戒律があったとは私は思わない。仏教というのは、個人の悟り(成仏)を求めるのが主眼であって、他人から何かを言われて無批判にそれに従う、つまり戒律を守らせるのは、「集団を維持するための方便」以上の意味は無かったのではないか。その意味では、谷間の百合さんの疑問は正しいと思う。その戒律にしても、たとえば坊主は肉食妻帯をしてはいけない、というのがいつのまにか(親鸞からだろうか)無くなって、今では肉食妻帯をする坊主のほうが主流派だろう。人間の自然に反した戒律はいずれ消えるのである。
戒律と言うと宗教語になるが、それは校則に類した、つまり「組織内だけの規則」にすぎない。それが問題になるのは、その「組織内の規則」が世間の常識や良識とぶつかる場合である。新興宗教の問題はだいたいそこにある。その宗教の内部では人を殺すことが「相手を成仏させる善行である」とされていても、その宗教の外部の人間としてはそんな理由で殺されてはたまらない。
旧来の仏教やキリスト教などはそうした世間との軋轢をうまく調整して現在に至っているわけだが、それでもまったく軋轢が無いわけではないし、世間的観点からは非常識と思われる決まり事は多いだろう。正直言って、坊主の坊主頭や袈裟を着た姿そのものを胡散臭く思う人間(私などはそうである。あれは生臭い本性を隠すための舞台装束ではないかと思っているwww)も多いと思う。
話が逸れたが、人間は本来、当人が覚悟したら(物理法則の範囲内では)何をすることも可能なのであり、社会秩序を破壊する「自由な」行動を防止するためにはすでに法律があり、自らを律するためには倫理的常識がある。そこにわざわざ戒律を作って、それに縛られて生きるというのは、まあ、当人がそれで満足なら他人がとやかく言うことではないが、哀れな生き方だな、と思う。(もちろん、その戒律の内容が非常に立派なもので、それを守るのが当人の幸福なら批判の限りではない。だが、戒律の多くは、校則でスカートの長さを決めるとかに類したもののような気がするのである。)



(以下引用)



ネットゲリラさんによると、タイ北部の山間部に住む少数民族の中にはまだ行政の目が届かない人々がたくさんいるそうで、タイの国民はそういう貧しい人たちを助けるのが好きなのだそうです。
仏教が生きているのかなと思いました。
布施や喜捨の精神が連綿と受け継がれているのかなと思いました。
タイのことはまったく知らなくて印象だけで言うのですが、そういう日常と共にある自然な宗教の姿をわたしは美しいと思いました。
わたしが宗教が嫌いなのは、戒律で人を縛ることです。
戒律があるから偽善が生まれ、嘘をついたり隠し事をする信者がでてくると思うからです。
戒律なんかなくても、人はしてはいけないことくらい知っています。
あえて、戒律を設けるのは、管理して従わせるためなのだろうと思います。
権力構造と同じです。
タイにはそれが感じられません。
どこまでも自然で明るく伸び伸びしているように見えます。
どこぞの宗教のように、戒律で縛ったり、罪の意識を植え付けたりということがないように見えます。
もちろん仏教にも戒律はありますが、それこそ守るのも守らないのも自己責任ということではないでしょうか。

オウムのことで感じるのは、集団が社会から断絶して集団の論理で生きようとすると必然的に疑心暗鬼が生まれ権力闘争が生まれ、果ては人を殺すところまで行くのかなということです。
「新撰組」や「赤軍派」がそうでした。
社会や日常から遊離するということはいいことではないようです。
宗教なんでほんとうは単純なことなのだと思います。
困っている人を見かけたら声をかける、手を差し伸べる、それだけでいいのではないでしょうか。
優しくて明るくて自由な宗教があればいいなと思います。



拍手

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析