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精神勝利法www

「ネットゲリラ」から転載。
公正を期すならば、ネトウヨに限らず、ネットで政治について熱く語る無力な下級国民(つまり、あなたであり私である)は皆、阿Qに近い。私も自分のブログで上級国民をあれこれ批評批判することで「精神的な勝利」を得ているわけだろうwww
もっとも、私は青年時代から、「(外面的事実ではなく)精神の中で起こることが本物の体験である」という主義で、これはアルチュール・ランボーの言葉に啓示を受けてそういう思想になったものである。



(以下引用)


ところで魯迅の書いた阿Q正伝というのは言うまでもない、大傑作なんだが、社会の落ちこぼれ、落伍者の阿Qが、意味もわからないまま「革命」に便乗して大騒ぎ、あげく、無実の罪で処刑されるという話です。

彼は、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。

魯迅は本作で、無知蒙昧な愚民の典型である架空の一庶民を主人公にし、権威には無抵抗で弱者はいじめ、現実の惨めさを口先で糊塗し思考で逆転させる彼の滑稽な人物像を描き出し、中国社会の最大の病理であった、民衆の無知と無自覚を痛烈に告発した。物語の最後で、まったくの無実の罪で処刑される阿Q、その死にざまの見栄えのなさに不平を述べる観衆たちの記述は、同胞の死刑に喝采する中国人同胞の姿にショックを受けた作者の体験を反映する。

なんで魯迅は、21世紀の日本のネトウヨを知っていたのかねw 毛沢東はこの小説を高く評価していて、なるほど、実生活で欲求不満を抱えた無知な大衆を感情で扇動して動員し、政敵を潰すというのは、阿Q正伝を裏読みしていたからこそ、出て来た戦略だw



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神道の発生とその意味

別ブログの過去記事を読み直して、我ながら面白いと思ったので、ここにも転載しておく。
ただし、文中の「東郷神社」や「乃木神社」は名前から日露戦争の東郷や乃木を祭ったものだろうと推測しただけで、実際に調べてはいない。私の書いた記事はだいたいそんないい加減なものであり、考察自体を楽しんで書いたものだ。




神道の発生とその意味

司馬遼太郎の「この国のかたち」の中に「ポンぺの神社」という話があるが、これが日本における神道の起こりを暗示する話である。
それは、江戸期にオランダ人ポンぺから蘭学(主に医学)を学んだ山口の人が、ポンぺの学問の深さと教育への熱意に感動し、郷里に帰ってから実家の庭に祠を作り、それを「ポンぺ神社」として毎日拝み、家族にも拝ませた、というような話である。もちろん、ポンぺ本人の知らないことである。

「唐突だが、右の祠に対する未亡人やその孫の感情と儀礼こそ、古来、神道とよばれるものの一形態ではないだろうか」と司馬遼太郎は書いている。

この言葉は非常に示唆的だと思う。
神道の本質は何か、納得のいく説明をした人は少ない。自然現象などを恐れて、これは何かが祟るのだ、と思って、祟りを受けないようにと祭ったのが神道だ、という解釈もあるだろうし、森羅万象に魂があるとするアニミズムの一種だ、とする人もいるだろう。
だが、古代の神道はともかく、近代の「東郷神社」や「乃木神社」に見られるように、普通の人間を神として祭るのが日本の神道の特徴であり、それなら、無名の人間の人格や行為に大きな感動を受けた人が、その人間を神として祭ることもあっていい。むしろ、それが日本的な「神」だったのではないか。(我々は「神」を、まず西洋的な絶対神としてイメージするから日本の神道が理解できなくなるわけだ。)
要するに、何かへの「畏敬の念」というのが先にあり、それを形にしたのが祠であり神社であるわけだ。
西洋の宗教のように教義や(フィクションとしての)神が先に存在するのではなく、自分が畏敬する存在が「神」になるのである。
「神」とは要するに「上(かみ)」と同義だったのではないか、と私は思う。すなわち、自分より高みにいる存在である。
自分のまったく及ばないような何かを持つ人間(あるいは動物でも自然現象でもいい)を畏敬する気持ちが神道の本質だ、ということである。
なぜ、その畏敬の気持ちを祠のような物や礼拝などの儀礼にするかと言えば、それを目に見て拝むことで、自分の畏敬の気持ちをその度毎に新たにするという、一種の知恵だと思う。拝むことで精神が高まり、勇気も得られる、ということだ。
これが、多くの神社が特に軍人を祭る理由でもある。(国策としてそういう「軍神」を祭ることの弊害は今は措いておく。)
死者であるというだけで神になるのではない。




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神道の「癖」

別ブログに書いた、富永仲基「翁の文」現代語訳の最後の章だが、冒頭は前章の続きなのでカットして転載する。
仲基による仏教儒教神道批判は痛烈だが、彼の言う「真の道」の内容が不明だ、という仲基批判もある。だが、要するに、「常識」で判断し行動する、というだけのことである。判断できないことは周囲や前例に従えばいいが、批判精神を持ちながら従えばいいわけである。(言うまでもなく、その「常識」が社会的洗脳であることもたくさんあるのだ。)
なお、「幻術」は仏教の癖、「文辞」は儒教の癖である。「隠すこと」と「幻術」は似ているが違う。



翁の文(第十六節)


さてまた神道の癖は神秘・秘伝・伝授で、ただ物を隠すのがその癖である。およそ隠すということは偽り盗むことの基で、幻術や文辞は、見ても面白く、聞いても聞きがいのあることで、許されるところがあるけれども、(神道の)この癖だけは非常に劣っていると言うべきである。それも、昔の世は、人の心が素直で、これを教え導くのに(神秘・秘伝・伝授の)便宜もあっただろうが、今の世は末世で、偽り盗む者が多い中に、神道を教える者が逆にその悪を擁護することは非常に道理に逆らうことと言うべきである。あのあさましい猿楽(能)や茶の湯のような事に至るまで、みなこれを見習い、伝授印可をこしらえ、それどころか値を定めて(宗匠たちの)口すぎのためにするようになっている。まことに悲しむべきことである。ところが、これをこしらえた理由を聞くと、根機(訳者注:何かを理解するために十分な能力や適した時期、くらいの意味。)が熟さない者には容易に伝えにくいためである、と答える。これも理屈が立っているように聞こえるが、そのようにたやすく伝えにくく、また値を定めて伝授するような道はみな真の道ではないと心得るべきである。


「翁の文」終


訳者注:趣旨とはあまり関係ないが、能や茶の湯が「あさましい」(驚く意だが、その対象はたいてい下劣なものであり、現代の「あきれる」「いやしい」に通じている。)ものとされているのが面白い。芸能などが長年続いていくと、その家元や弟子たちによってそのジャンルや流派が「荘厳化」されていくわけである。この詐欺的行為が「仏教」「儒教」「神道」の「意味不明さの根底にあるもの」だと見、「三教(諸派)の宣伝活動の結果」と見たのが「翁の文」の主旨と言えるかもしれない。三教についての膨大な研究の末に「王様は裸だ」という声を上げたのが「翁の文」であり、富永仲基という思想家は、誰もが薄々感じていたことを初めて口に出した、あの子供なのである。




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なぜ美人は「美」なのか

容姿の美醜というのは不思議なもので、時代や国によって違うようでもあるし、世界的な共通性もあるような気もする。西洋人の鼻は高すぎると我々は思うし、東洋人の鼻は平べったすぎると西洋人は思うのではないか。口は大きくても小さくても、どちらのタイプの美人もいる。目は西洋風に大きいほうが現代的だが、細くて一重の和風美女も悪くない。しかし、東洋でも西洋でも、美人とは認めがたい顔というのもあるような気がする。それがなぜなのか、美学者に論じてほしいところだ。もっとも、「吾輩は猫である」の迷亭以外に、本当に美学者というのがいるかどうか知らないが、論じるに値するテーマだろう。
下の記事の女優が誹謗中傷を受けたというのは、災難ではあるが、誹謗中傷した側の心理は何となく理解できる気もする。
人間というのは、他人に対し、「その人にふさわしい取り分」というのを何となく想定しており、美人でない人間が「女優」として成功すると不愉快になるのではないだろうか。つまり、「分際を超えた」からである。この「分」というのをルース・ベネディクトは日本人特有の思想と見たが、下の記事を見ると、どこの国にもある気持ちだという気がする。
もちろん、顔だけの問題ではなく、人種差別という部分も大きいだろうが、顔の美醜というのは、何が基準なのか分からないのに何となく共通に「これは美しい」「これは醜い」と区別されるものがあるのが不思議である。
まあ、映画館のスクリーンで長時間眺めるのだから、多くの人が美しいとか魅力的だと感じる可能性の高い顔の俳優を主演や重要脇役で使うのが興行としては正解だ、という当たり前の話である。ちなみに、私は人気俳優でも嫌いな顔というのがあって、そのために見ることができない映画がたくさんある。キムタクの映画などもそうであるが、「ハウルの動く城」は顔ではなく声だけだから我慢して見た。

(以下引用)


ネットの誹謗中傷が、ある女優を追い詰めた。「自分自身よりも彼らの言葉を大切にしていた」

「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」で、アジア系の女性として初めて主要キャラクターを演じたある女優。ネットリンチに晒された数カ月後、初めて口を開いた。



「私のからだは、私のものじゃない。自分がどう思おうと、誰かが認めてくれなければ、私はきれいじゃない。そう思い込むよう、騙されていたことに気付きましたーー」


映画「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」で、アジア系の女性として初めて、スター・ウォーズ映画の主要登場人物を演じた女優ケリー・マリー・トランが8月21日、ニューヨーク・タイムズへ寄せた寄稿が注目を集めている。


トランさんは今年6月、20万人超のフォロワーがいる自身のインスタグラムに投稿した内容を全て削除した。


人種や性別、容姿にまつわる差別的なコメントが、大量に投稿されていたからだ。


賛否両論の作品、憎悪は個人へ


トランさんは、カリフォルニア州サンディエゴ出身のベトナム系アメリカ人。


「最後のジェダイ」では、暗黒面と対峙するレジスタンスのエンジニアで、大切な人を守るために奔走する女性、ローズ・ティコ役を演じた。


作品は世界興行収入1420億円を超える大ヒットとなったが、評価は賛否両論。


一部の熱狂的なファンが、「最後のジェダイ」をシリーズの「正史」から外すよう署名運動を始めるなど、物議を醸していた。


そんな中、作品への憎悪は、外見や性別、人種を理由に誹謗中傷するコメントとなって、トランさん個人にも向けられた。


スター・ウォーズ作品に関わった俳優に、強い批判が向けられることは初めてではない。


第7作の「フォースの覚醒」から主演女優を務めるデイジー・リドリーさんも、誹謗中傷が殺到したため、インスタグラムを削除。


ジャー・ジャー・ビンクス役のアーメド・ベストさんも、猛烈な嫌悪感をぶつけられたのちに、自殺を考えたとツイートしている





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弥生とうちゃんと縄文かあちゃんから生まれた日本人

古代日本においては、縄文人が先住民族であり、彼らは自然からの狩猟採集によって生きていた民族である。そこに朝鮮半島からやってきたのが稲作民族であり、これを弥生人と言っておこう。
弥生人は最初、九州に稲作の地を求めたが、土地が痩せている上に毎年の台風の被害によって稲が全滅することが度重なったため、稲作に適した地を求めて東漸した。これが神武天皇の東征であるが、「征」の字から想像されるような「相手と戦って、その土地を奪い取る」ものではなく、縄文人が何の価値も見出さなかった低湿地帯に居住して稲作という変なことをやる変な奴らとして許容されていただろう。つまり、北米インディアンが、土地の所有の観念が無かったのと同様であり、弥生人が縄文人に敵対行動を取らないかぎり、何の問題もなかったのである。それどころか、稲作というのが素晴らしい文化であり、食物を恒常的に生産できると知ったことで、縄文人は弥生人たちの長所を認め、彼らとの混交(婚交)を積極的に求め、いわば、自分たちの「優れた婿」として招くようになっただろう。なお、弥生人は朝鮮半島の戦乱を逃れて日本に渡来しただろうから、必然的に女性の数が少なかったわけだ。だから、縄文人女性との結婚を歓迎した。
要するに、縄文人は弥生人に駆逐されたのではなく、縄文人と弥生人の結婚によって「縄文人の弥生人化」が起こり、それが今の日本人となったわけである。

以上、中堀豊氏の「古事記考・日本語考」に書かれた内容をヒントに私がまとめた日本人論である。ちなみに、中堀氏は医学者だが、古事記や日本語に深い興味を持ち、日本語は縄文語と弥生語のミックスだ、としている。先の書の副題が「縄文かあちゃん弥生とうちゃんの日本」となっているのは、縄文人の母親から生まれた子供が母親に育てられる過程で縄文語の骨格を覚え、大きくなると弥生人的社会の中で弥生語を覚えていく、ということである。特に稲作関係の語彙や社会交際の語彙(敬語の類)は弥生語だろう、と推測されている。

それに関して、別の書物の中で知ったことだが、「城」は朝鮮語でも日本語でも「キ」と呼ばれるらしい。「しろ」というのは、現在の京都府が奈良盆地から見て山の背後の国ということで「山背(やましろ)の国」と呼ばれ、それが「山城の国」と表記されたことで「城」を「しろ」と呼ぶ習慣ができたので、最初は「城」は「き」だったらしい。
それで私が成る程な、と思ったのは、縄文人はおそらく「城」を作る習慣は無かっただろう、ということである。狩猟採集生活では、食物の保存などほとんどなされず、したがって、財産の蓄積も無い。城の必要性などなかったのである。他人の財産を奪い取るより、自然の中で狩猟し採集したほうが早いし平和的で問題も生じない。アメリカインディアンが基本的に平和で、城や砦を持たなかったのと同じだ。
「水城(みずき)」「稲城(いなき)」はおそらく、稲作用の水源地と稲の保存庫の機能が主であり、それを奪う連中(がいるという弥生人的妄想があったわけだ。)から守るために柵や石垣でその周囲を囲ったものだろう。要するに、縄文人には意味を持たない施設である。(「磐城(いわき)」は、岩を積み上げて作ったものだろうから、機能よりは製法に由来する命名か。)

何が言いたいか、というと、もともと日本に住んでいた縄文人は平和的種族であり、そこに朝鮮半島の戦乱を逃れて渡来した弥生人は「財産の観念(物への強い所有欲)」と稲作の知識と戦争技術の知識を持っていたため、縄文人の中で指導的立場に立ったが、それによって平和な縄文時代は終わりを告げることになった、ということだ。で、現在の我々はその縄文人と弥生人の混血であり、どちらの血が濃いかでその基本的性格もある程度決まっているのかもしれない。九州を中心に、気性の荒い性格が西日本には多いのはそのためだろう。スサノオノミコトなど、弥生人の典型だろうと思う。弥生人は稲作をやるから穏やかだ、とはならないのである。






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弱者でも、相手を殺す気なら殺せる

これは格闘技に対するアンチテーゼとしてかなり強力な説だろう。
私がいつも残念に思うのは、いじめ被害者が何の抵抗もせず自殺してしまうことで、なぜ加害者を殺してから死なないのか、と、いつも怒りを感じる。もちろん、その理由は分かる。それは、自分の家族を「人殺しの家族」にしたくないからだ。だが、そうしていじめ被害者が無抵抗のままに自殺したりするから、いつまでもいじめ事件は無くならないのである。


(以下引用)




私は子供の頃から喧嘩に弱かったが、喧嘩に強くなろうと思って格闘技を練習する気にはついぞならなかった。私はおそらくこれからも肉体的な喧嘩はしないだろうが、もしそういう事態に陥ったら、喧嘩に勝とうとかは考えず、相手を殺すだろうからだ。殺人は殺意さえあればできるので、格闘技は必要ない。




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「笑い」のメカニズム

別ブログに載せてあった文章だが、今読んでみるとなかなか面白いのでここにも載せておく。私はこういう具合に、「どうでもいいこと」をあれこれ考えるのが好きなのである。
なお、文中の「藤子不二夫」は「藤子不二雄」の誤り。「不二夫」は赤塚の方である。








 漱石の『文学論』の「滑稽的連想」による小論


 


 ある表現に対する聞き手や読み手の反応は、その表現の内容による部分と、音韻による部分があるが、音韻による連想が内容による連想と不調和を醸し出した時に、滑稽感が生じることがある。これが洒落・地口である。もちろん、音韻に無関係に、内容の対比による滑稽感もある。たとえば、「提灯に釣り鐘」は、どちらもぶら下がる物というだけの共通性しか無く、ただその一点で、軽い提灯と重々しい釣り鐘が並列されたことが聞き手に滑稽感を催させるのである。また、対比ではなく連続の意外さが滑稽感を生む場合があり、「恐れ入谷の鬼子母神」は、「恐れ入った」という言葉で終わるかと思っていたのが、「入谷」と続き、さらに「鬼子母神」と続く、その意外感がこの洒落の生命だろう。つまり、「入り」から「入谷」と続いた勢いでとんとんと「鬼子母神」が出てくるところが面白いのである。鬼子母神に何かの意味があるわけではない。


 


 一般に、滑稽感とは、何かの心理的落差によるものだと仮定しよう。言い換えれば、「期待された内容」と「実際の内容」の落差から生じた心理的な浮遊感が滑稽感の正体であるとしてみよう。


 我々は、謹厳な紳士にはそれにふさわしい言動・威厳を期待する。その紳士がこければ、見ている人間はその威厳の失われた状態と、その前の威厳との落差に滑稽感を覚えるのである。「こける」ことが喜劇の基本であるのは、それが、一瞬でその人間の状況を「喜劇的状況」に変えるからである。すべて失敗が喜劇的であるのも、同じ原理だ。


漫才では、話す内容が滑稽である場合と、話す当人が笑われる場合がある。後者は身体的条件、口調、表情などが笑う理由となる。


 落語家の場合は、当人自身が笑われるというよりは、純粋に話す内容によって笑わすのが基本である。だから、林家三平や桂枝雀などは異端であったと言える。


 身体的条件によって、すでに笑いの対象となる場合があるということは、前に述べた「心理的落差」が滑稽感の原因だという説に反するように見える。しかしこれは、社会の気風による習慣的条件づけにしかすぎない。ある風貌や身体的条件が笑いの対象になるかどうかは、固定的なものではない。肥満体が威厳の条件の一つであった時代もあったのである。一つだけ重要な事実を言えば、風貌が笑いの対象となる存在は、「愛すべき存在」とか「無害な存在」と理解されているはずである。それを逆手に取って、たとえばピエロの格好・メーキャップをした人物が凶悪な殺人鬼であった場合などは、その落差は滑稽感ではなく恐怖感を増幅することになる。恐怖と笑いは実は無縁のものではないということだ。


 心理的落差の簡単な例は、漱石の『吾輩は猫である』の冒頭だ。「吾輩」という自称の語は、偉人豪傑が使いそうな威張った印象の言葉だが、その後に「猫である」と続き、しかも「名前はまだ無い」と来る。飼い主から名前もつけられていない程度の猫が「吾輩」と名乗るその落差が滑稽なのである。(このことは小林信彦も言っていることだが、おそらく誰でもその仕組みは直感しているはずだ。)


 心理的落差が滑稽感の原因だということを示す事柄を二、三挙げてみよう。これはブラック・ジョークだが、両手両足の無い身体障害者の息子を持った父親に、その友人が「お久しぶり。最近、息子さんはどうしている」と聞くと、父親は、「うん、最近は野球チームに入って頑張っているよ」と答える。「へえ、すごいね。で、ポジションはどこ?」「うん、セカンドだよ」「ほほう、セカンドベースマンか」「いや、セカンドベースなんだ」


 あまりにも非人間的なジョークなんで、これを紹介しただけで人非人扱いされそうだが、それ以来、私はセカンドと聞いただけでこの話を連想してしまうのである。このジョークのポイントは言うまでもなく、人間がその尊厳を奪われ、物扱いされたところにある。どういうわけか、我々は、ひどい目に遭っている人間を見ると、同情すると共に、笑いたくもなるようなのである。だから、スラップスティック喜劇は、「誰かがひどい目にあうことの繰り返し」なのである。トムとジェリーだろうが、トゥイーティーとシルベスターだろうが、ロードランナーとコヨーテだろうが、可愛い鼠や小鳥に、猫やコヨーテがひどい目にあわされる話である。


 先ほどのブラック・ジョークに戻ると、どこに心理的落差があるかと言うと、身体障害者の少年が少年野球チームで頑張っているという部分で我々は乙武的なけなげな頑張りをイメージするのだが、その頑張りがまったくナンセンスな頑張りであることに、我々の持っていた常識的モラルに支えられた「意味の世界」が崩壊するというところがポイントなのである。つまり、我々は日常生活の中で、意味に縛られていて、その事に無意識の不自由感を感じている。そこで、ナンセンスによって意味の世界から解放されると、快感を感じるのである。その精神マッサージが笑いである。笑いは、社会的秩序や常識への反逆であり、しばしば不道徳なものとなるのは当然である。大昔には、笑いといえば、敵への嘲笑であり、人から笑われるということは、死ぬほどの屈辱だったのである。(笑いが武器であったということは、柳田国男も言っていた。)


 自分が自分であることの不快感、あるいはある物はその物以外ではありえないことの不快感を我々の無意識は感じている。その牢獄を破壊し、そこから我々を解放するのが笑いだ。笑いとは常識的世界(日常の秩序)の破壊だと定義してもいいだろう。狂人は笑わない。笑えないから狂人になるのである。笑う余裕がある間は、我々の精神は無事だと言えるだろう。


 今度はほのぼの系のジョークである。(たしか、藤子不二夫のエッセイで読んだ記憶がある。)動物園の入り口から入ろうとした男が、そこに象が座っているのを見た。やがて出口から出ようとすると、そこにも別の象が前の象とは反対向きに座っていた。そこで男が象に、「君たち、何をしてるんだい」と聞くと、「ブックエンドごっこだよ」。


 まあ、この話でにやりとかくすりとか笑う人もいるだろうし、まったく面白くないと言う人もいそうである。この話のポイントは、まずはイメージである。動物園をはさんで、二匹の象が座っていて、彼らはブックエンドごっこをしているのである。これは幼児的な可愛らしさだ。絵本的な絵柄である。もちろん、象が人間の言葉を解すること自体、童話的でもある。ここには、破壊的なものは無い。誰かがひどい目に遭わされるわけでもない。だから、痙攣的な笑いは生み出さないが、それでも笑いの要素はある。それは、「幼児の笑顔を見れば、誰でもつられて笑う」という笑いである。これを天使の笑いとでも言おう。   これは破壊的な笑いとは対照的なものだが、それでも「心理的落差」はある。それは、「意外性」だ。この話の結末は、落語のオチのようなもので、それが無邪気な印象なために気が付きにくいが、十分に意外性のあるオチなのである。そのオチ(結末)が危険な方向で終わればブラックジョークになるというだけのことである。


 以上から、予想と実際の「心理的落差」からくる「浮遊感」が笑いの根本であり、その落差が「常識的秩序を破壊する」場合に笑いが発生すると見ていいだろう。象のブックエンドに常識破壊があるかと言えば、そもそも象が人語を解すること自体シュールレアリスティックな話であり、童話的世界は常識的現実の破壊でもあるのである。


 やや強引な論理を積み重ねてきたが、最後に、笑いを作る方式を考えよう。


 漱石の『文学論』での笑いの分析を我流で解釈すれば、本来は結びつかない二つの事柄をわずかな共通点で強引に結びつけ、その落差によって聞く人を驚かせるというのが笑いの創造の基本であるようだ。あるいは、物事の常識的解釈に対して、あえて非常識な解釈を行い、しかもその解釈に屁理屈なりに理屈がある、という場合に、その意外性が笑いになるようである。


 たとえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というビートたけしの有名なフレーズがなぜ面白いかというと、やはりここには秩序破壊、常識的世界の破壊がある。しかも、そこには理屈が通っているのである。それは、車は、歩行者側が赤信号でも、歩行者が横断歩道を渡れば止まらざるをえないという事実だ。車という物理的な危険性を持った存在に対し、歩行者が無意識に感じている敵対意識が、このフレーズであぶり出され、やむなく止まっている車の前を堂々と歩いていく歩行者の姿を人々はイメージしたのである。それは、車という強者と歩行者という弱者の逆転、現実の秩序の破壊だ。





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酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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