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「けものフレンズ」のユートピア性

「混沌堂主人雑記」に転載されていた「ねこびと日記」の記事内容が面白かったので、その本拠地を探してみると、ねこびと氏が「けものフレンズ」(オリジナルというか、たつき監督の方)について書いた記事があって、それが「ユートピア」についての示唆的な考察なので、その一部を転載する。
我々が政治や経済や社会全体を云々し、その現状を批判するのも、実は「この世界をユートピアにしたい」という望みから来ているとすれば(私はそう思っている。私が社会主義を支持するのもそれであり、多くの人が逆に社会主義や共産主義や様々な社会改革思想をディストピアを招来する思想と見做すのも、今現在の世界を「良きもの」つまりユートピアだとするからだろう。本気かよ、と思うが、もちろん、それは「上級国民のユートピア」だからである。)、ユートピアの条件として「進歩しない世界」を挙げたのは、非常な卓見ではないかと思う。
ある意味、この指摘が当然であると断言できるのは、ユートピアが理想世界である以上、その進歩とは、「理想のその先に理想がある」という矛盾になるからである。
我々の生活が闘争と苦痛に満ちているのも、「進歩しろ進歩しろ」という世界からの要求(特に親や教師や上司からの要求)に追いまくられているからであり、進歩の意志の無い者は最低の人間に分類されるからではないか。そしてその進歩には等級がつけられ、競争させられ、毀誉褒貶があるからではないか。

(以下引用)

(4) 進歩しない世界

 フレンズ達はそれぞれ自由に暮らしていて、生活そのものを遊びのように楽しんでいる。なので生産性をあげようとか、生活を改善しようとかほとんど考えていない。なぜならば水を飲みに数キロ出かけるとしても、その行為そのものを楽しむからだ。あたかも散歩と同じように。
 つまり彼らは「カイゼン(改善)」から解放された者達だと見ることもできる・・・これは超重要かも。
 本当の所を言えば我々は別に「改善」や「進歩」なんかする必要はない。しなくてもいいのだ。

 よくある熱血アニメや物語で「人類の絶え間ない努力・・・」とかあるけど、それはやりたい人が勝手にやればいいだけだ。別にしないといけないわけじゃない。ありのままの世界を、ありのままに受け入れる生き方だってある。

 これは別に詭弁ではない。旧約聖書に描かれた「エデン(楽園)」はまさにそういう場所だった。そして色々な宗教や神話に描かれる「ヘブン(天国)」の様な場所も概ね似たようなものだ。
 「進歩しない世界」という言い方はていないが、同じようなモチーフは多くの物語でも何度も繰り返し利用されている。そして私の知る限りでは、これ以外のヘブンは存在しない。

 ただ逆にこの「進歩しない世界」はデストピアとしても多くの物語に描かれている。究極の世界とは、究極であるがゆえに進歩を止めた世界でもある。そこをどう受け止めるかは各々によるのだろう。


4. ユートピアの影

私がけものフレンズを優れた作品とし感心する理由のひとつは「セルリアン」という存在だ。セルリアンはまさにけものフレンズの神話的な世界にリアリティを与える重要な要素となっている。
 物語ではセルリアンは謎で意味が解らないものとして描かれている。でも私にはセルリアンとは「悪意」の象徴のように思える。

 光あれば影が必ず生まれる。ホワイトホールはブラックホールから形作られる。それと同様にジャパリパークという光が溢れる場所から追い出された「無意識的な悪意」がセルリアンであって、それは定期的に現れて住人たちを脅かす。
 だがセルリアン自体も「ただあるがままに存在する物」であって、本質的に「悪」の存在ではない。彼らは恨みをもってフレンズを襲うのではなく、ただそう定められているだけなのだ。セルリアンはそういう謎の存在として実に上手く描かれている。

 セルリアンの存在は必然である。例えどのようなユートピアを作り出そうが必ず存在する。そしてそれに対処する方法は、きっと恐れずに立ち向かうことなのだろう。ふだんはバラバラで気ままに暮らしているフレンズが、巨大セルリアンの登場で一致団結して立ち向かう。あれこそが理想的な対応なのだと思う。


5.おわりに
 色々と述べたけど、私はこの作品が細かい理屈など抜きに大好きだ。だが同時に、見るたびに書いてきた様な「ユートピア」という物について考えさられる。

 果たしてたつき監督はこれを意図して作ったのだろうか?

 もしもそうなら想像を絶する天才だと思う。だが別にそうであってもなくてもかまわない。生まれたのが偶然だろうがなんであろうが、この作品の素晴らしさは変わらない。

 そして、だからこそ私はシーズン2「けものフレンズ2」を見る気になれないでいる。ここまで私が書いてきたような事がシーズン2で描かれているはずはないからだ。
 きっとシーズン2は「可愛いフレンズが登場して、みんな仲良し!」みたいな作品になっているのではないかと想像する・・・。だがそれは別に悪いわけでもないだろう。でもそれは私が続きを見たかった物語ではない。私が見たかったのは、あくまでも「ユートピアの夢」のその続きなのだから。

<p.s.>

ユートピアの条件に対してもうひとつ加えるならば。「男が存在しない」という部分も挙げられる。だが誤解しないで欲しいのは、これは別に男性が野蛮で凶暴だとかいうような話じゃない。
 そうではなくて、フレンズは性別を超えた存在だという意味である。つまりは天使のような存在だ。
 私達は生まれ落ちた直後から、性別というステレオタイプにずっと苦しめられながら成長する。思うがままに行きたくても「男らしくあれ」「女らしくあれ」と言ったステレオタイプに妨害されて自由に生きられれない。
 だがフレンズにはそんなステレオタイプは存在せず、ただそれぞれが自分の欲するままに行動している。ゆえにジャパリパークはジェンダーにとってのユートピアでもある。





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子供への悪しき「教育」

子供に対する親の影響というのは強力なもので、子供は親の言動によって「この世界でどう行動するのがいいのか」を学ぶわけである。親が、平気で公衆マナーを破るような人間なら、ほぼ確実に子供も同じ行動をする。右翼の子供は9割がた右翼になる。
私も、子供に悪影響を与えてきたのは勿論である。何より、闘争心や向上心がまったく無い(ように見える)のはおそらく私の影響だろうと思う。まあ、苦しい努力をして手に入れるものが、はたしてその努力に見合うのかどうか、そしてその努力に費やした時間は、のんべんだらりと楽しく生きてきた時間より価値があるのか分からないから、それでもいいのだが、若いころには多少我慢や努力もして、何か後に残るものが無いと先々が心配ではある。(私は、「努力は時間の貯金だ」と思っている。つまり、使える時間の一部を努力に振り向けるのは、自分を向上させることで将来の可能性を広げる意味では、その「努力の時間」が、時間の消費ではなく貯蓄や投資だ、ということである。ただし、努力の内容がまったく無益なものや有害なものすらあるわけだ。)
幼い子供、特に自分自身の子供に対する態度はかなり注意が必要だ。
私の子供が「嘘」というものの存在を知ったのは、たぶん、私のためである。幼稚園に入る前の子供とゲームをしている時に、冗談のつもりで(子供の目にもはっきりとインチキだと分かる)インチキをやり、当然、今のはインチキだったとすぐに白状して笑ったのだが、おそらくそれで子供は嘘というのがこの世に存在することを知ったと思う。まあ、嘘というものを知らずに世を渡るとしたら、それも悲惨な人生になりそうだが、親としては今でも、純白な子供の心を汚染したようで、少々胸が痛む記憶である。
たしか兼好法師が「子供に冗談を言ったり、怖い話をして脅かしてはいけない」と書いていたと思うが、それは、冗談や怪談が、子供の無垢な心に嘘や恐怖の概念を教え込むからだろう。


さんがリツイート

教育と称して子供の大事な物を奪ったり壊したりする親御さん、子供って絶対に忘れないし、親の行為が正しいと思った子は他人の大事な物を善意で踏みにじるようになりますよ?






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教師やコーチは「結果責任」は取らない

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」記事の1頁である。
このN塚(中塚以外に考えられないのにあえて仮名風にしているのが面白い。まあ、昔からあるギャグだが。)氏の言葉が興味深いので、特にこのページを転載した。
「子供が素直に従うから、自分は正しいのだ、と思い込んでしまう」
というのは、教育者なりコーチングをする人なりが一番最初に覚えるべき注意事項だろう。そこを勘違いしたら、ダメ教師、ダメコーチへ一直線だと思うが、逆に、生徒受け、父兄受けは物凄く良くなるだろう。
なぜなら、人間というのは「自信たっぷりに振る舞う人間」に弱いからだ。あれほど自信があるなら、その自信にも根拠があるのだろう、と思ってしまうわけである。まあ、詐欺師ほど自信たっぷりに振る舞うものだ、と考える人は少ない。
これは人間の脳の「補完機能」によるもので、物事に不可解な、あるいは未知の部分があっても、勝手に自分で解釈して「合理的な説明」を作ってしまうのである。
要するに、我々は、実は「知らないことだらけ」の中で生きているのだが、「だいたい知っているつもり」で生きている、ということである。
何はともあれ、教師やコーチは「結果責任」は取らないものである。志望校に合格できなければ、それは受験生自身の努力不足であり、運動選手も同じことだ。成功しなければ、やった当人の才能不足か努力不足であり、教えた人間の責任ではない。そういうことになっている。責任を取る(つまり、成功したのは自分の教えのおかげだとする)のは、相手が成功した場合だけだwww




(以下引用)




 ながらく少年野球のコーチをやっているN塚という友人が、つい半月ほど前にポツリと言っていたことだが、子供たちに野球を教える監督やコーチの中には、勘違いをする人間が少なからずいるのだそうだ。



 「勘違いって、どういう意味だ?」
 「自分の教えが正しいって思い込むんだよ」
 「ん? 正しいと思うから教えてるんじゃないのか?」
 「それが逆なんだな。子供っていうのは、どんなことを教えても、必ず言った通りにやる。びっくりするほど素直なんだよ」
 「で?」
 「だからそれで大人の方が勘違いするわけだよ」
 「子供が従ってるんなら、指導者としては成功してるんじゃないのか?」
 「いや、順序が逆なんだよ。正しいから子供たちが言いなりになるんじゃなくて、子供たちが自分の言いなりになるから、自分が正しいと思い込む。それで変な自信をつけちゃう人たちがたくさんいる」
 「それがいけないのか?」
 「最悪だよ」
 「どう最悪なんだ?」
 「うーん、うまく説明できないけど。適当なことを偉そうに教えてる指導者が現場にはヤマほどいるってことだよ」



 彼の言っていることの核心の部分がどういうことなのかはともかく、子供を相手に何かを教える立場の人間が、子供たちが自分の「言いなりになる」ということに嗜癖して行く感じは、なんとなくわかる。



 私自身は、他人の子供に何かを教えた経験は持っていないのだが、あるタイプの教えることの好きな人たちが、教える内容そのものよりも、「言うことを聞かせる技術」を磨く方向に重心を置いて行く感じは、自分自身の実感としても容易に想像できる。



 スポーツの競技団体の中で、パワハラが蔓延する理由のひとつは、おそらくここのところにある。



 スポーツが競技として行われる現場では、コーチと選手、監督とコーチ、団体の役員と平職員、先輩と後輩といった様々な立場の間に、上下関係というのか「命令と服従」の関係が生じる。というよりも、競技の習得や継続に伴って生じる人間関係は多かれ少なかれ上下関係を含んでいる。これは避けることができない事実でもあれば、仕方のないことでもある。



 なんとなれば、競技に関連する技術や、練習方法や戦術を教える立場の人間は、それを習得する立場の選手よりも上の立場に立っている。また、そうでなければ教えるという動作は貫徹され得ないからだ。



 そして、コーチングの内容を洗練することよりも子供たちを指示通りに動かすことに熱中するタイプの指導者は、やがて選手を恐怖によってコントロールするようになる。



 直接に手を出すことをしなくても、たとえば怒鳴りつけるとか、罰走を命じるとか、レギュラーから外すとか、恫喝の仕方はいくらでもある。

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反体制運動(政府批判行動)の問題点

単なるメモ。

・反体制運動、あるいは政府批判デモにおけるデモ側(の一部)による暴力行為の意味、あるいは無意味さ、運動自体に与える有害さ、不利益性。

・良心的兵役拒否の「良心的」とは何か。欧米での実際は「宗教的理由による兵役拒否」ではないか。それ以外の理由で「良心的兵役拒否」は可能か。日本で良心的兵役拒否は可能か。

・反戦運動や政府批判デモに共産革命主義者が侵入することの害悪。しばしば、過激行動は後者が起こしてきたが、その背後に政府や資本家の存在が無かったか。(つまりデモ群衆の中の「第五列」ではなかったか。)

・平和運動に対する「一般人」の憎悪や嫌悪の理由。実際、この憎悪はかなり存在する。たいていは、デモなどを「秩序紊乱行為」と見做し、社会の敵と考える。親と子で言えば、親の世代の、若者世代への憎悪もその背後にあるとも思われる。つまり、自分の生活がそれに依拠している「社会秩序」に反抗すること自体が憎悪の対象となる。中年以上の世代は「その社会秩序」に加担しており、秩序や社会体制への反抗や批判は自分への反抗や批判と感じる心理機構があるのではないか。

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栄光の座にいること

名ギタリストのパコ・デ・ルシアのドキュメンタリー映画(テレビ用か?)を見ていて、印象に残った彼の言葉を(正確ではないが)二つ、載せておく。

「有名人は少しでも失敗すると批判される」

「他人から期待されることは喜びではなく苦しみだ」

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人命を司る職業の責任

一旦は「尊厳死(と言っていいと思う)」を自己決定した人間が、死の間際にその意思を撤回したらどうするか、という問題である。ここでは医師が「錯乱状態での、尊厳死停止の意思より、平静な状態での尊厳死の意志」を優先させたために患者が死に至ったことが法的な処罰の対象になるだろう、ということだが、こういう事態もあらかじめ容易に想像できることであり、その場合の処置も「契約」し、書面化しておくべきだろう。まあ、書面化しておいても問題視されるのが現在の状況だと思うが、この問題はもっと議論されたほうがいい。「国のガイドライン」が、この医師の行為を「殺人」とする根拠になるのかどうか、である。私としては、ガイドラインはあくまでガイドラインであり、法律と同一視すべきではない、と見る。
少なくとも、この医者も「被害者」でもある。人の生死を司る仕事というのは、その責任も重い。一歩間違えば「殺人犯」になるのだから。
そういう意味では、医師というのは「羨ましくない」職業かもしれない。
その一方で、(同様に、関係者=被疑者の人命に関わる)冤罪事件での警察や裁判官が「何一つ責任を取らない」というのは実に異常なことなのだが、まったく問題視されないこと自体がこれまた異常である。

(以下引用)



医師が「死」の選択肢提示 透析中止、患者死亡 東京の公立病院


3/7(木) 5:01配信


毎日新聞


 東京都福生市と羽村市、瑞穂町で構成される福生病院組合が運営する「公立福生病院」(松山健院長)で昨年8月、外科医(50)が都内の腎臓病患者の女性(当時44歳)に対して人工透析治療をやめる選択肢を示し、透析治療中止を選んだ女性が1週間後に死亡した。毎日新聞の取材で判明した。病院によると、他に30代と55歳の男性患者が治療を中止し、男性(55)の死亡が確認された。患者の状態が極めて不良の時などに限って治療中止を容認する日本透析医学会のガイドラインから逸脱し、病院を監督する都は6日、医療法に基づき立ち入り検査した。

【悲痛】女性が夫に送った最後のメール

 ◇ガイドラインから逸脱 都が医療法に基づき立ち入り検査

 外科医は「透析治療を受けない権利を患者に認めるべきだ」と話している。病院側によると、女性は受診前に約5年間、近くの診療所で透析治療を受けていた。血液浄化用の針を入れる血管の分路が詰まったため、昨年8月9日、病院の腎臓病総合医療センターを訪れた。外科医は首周辺に管を挿入する治療法と併せ、「死に直結する」という説明とともに透析をやめる選択肢を提示。女性は「透析は、もういや」と中止を選んだ。外科医は夫(51)を呼んで看護師同席で念押しし、女性が意思確認書に署名。治療は中止された。

 センターの腎臓内科医(55)によると、さらに女性は「透析をしない。最後は福生病院でお願いしたい」と内科医に伝え、「息が苦しい」と14日に入院。ところが夫によると、15日になって女性が「透析中止を撤回する」と話したため、夫は治療再開を外科医に求めた。外科医によると、「こんなに苦しいのであれば、また透析をしようかな」という発言を女性から数回聞いたが、苦痛を和らげる治療を実施した。女性は16日午後5時過ぎに死亡した。

 外科医は「正気な時の(治療中止という女性の)固い意思に重きを置いた」と説明。中止しなければ女性は約4年間生きられた可能性があったという。外科医は「十分な意思確認がないまま透析治療が導入され、無益で偏った延命措置で患者が苦しんでいる。治療を受けない権利を認めるべきだ」と主張している。

 日本透析医学会が2014年に発表したガイドラインは透析治療中止の基準について「患者の全身状態が極めて不良」「患者の生命を損なう」場合に限定。専門医で作る日本透析医会の宍戸寛治・専務理事は「(患者の)自殺を誘導している。医師の倫理に反し、医療とは無関係な行為だ」と批判している。外科医は女性について「終末期だ」と主張しているが、昨年3月改定の厚生労働省の終末期向けガイドラインは医療従事者に対し、医学的妥当性を基に医療の中止を慎重に判断し、患者の意思の変化を認めるよう求めている。

 東京都医療安全課の話 生命尊重と個人の尊厳保持という医療法の理念通りに病院が適正に管理されているかを確認している。

 厚労省地域医療計画課の話 一連の行為は国のガイドラインから外れ、現在の医療水準や一般社会の認識からも懸け離れている。【斎藤義彦】

 ◇人工透析治療

 人工膜や腹膜を使い、血液中の老廃物や毒素、水を除く治療法。人工膜を使った血液透析では通常、週3回で各4時間、腕の血管を透析器につないで血液を浄化する。腎臓が機能しない腎不全に有効で、長期生存が可能になる。1950年代に実用化され、国内では67年に健康保険の適用になった。72年からは更生医療(現・自立支援医療)により自己負担が軽減され、広く普及している。患者らでつくる全国腎臓病協議会によると、薬や機器の進歩で患者負担が軽減され、大多数は苦痛なく治療を受けている。ただ、疲れが出て腰が痛くなったり、針を刺す痛みを強く感じたりする人も一部にいるという。


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「福祉」という言葉の意味

「神戸大好き」ブログ記事の一節である。
私は「神戸大好き」さんの文章から感じられる人柄は少々苦手だが、その記事の中で社会への鋭く面白い指摘をすることがよくあるので、一定の尊敬はしている。社会批評家として評価しているわけだ。
で、下のように「言葉の意味や定義」から考えを進めていく、という姿勢も私の好みである。議論の中で一番くだらないのが、「お互いに言葉の定義も無しに議論して、話がまったく噛み合わない」議論である。
私も、「福祉」という言葉の意味や定義は何なのか、疑問に思ったことがあるが、まあ、「祉」という字は「しめすヘン」に「止まる」で、しめすヘンは神関係の字に使うから、「神が(その場所に)止まること」くらいの意味かな、と簡単に考えていた。(もちろん、ここでの「止」は、意味ではなく「シ」という音を表わすのだ、ということは承知しているが、「形声文字」の「音」の部分も語義にまったく無関係なものだけでもない。)つまり、下の記事の考察を援用すれば、「その集団の中の弱者の幸福を増すような行為を皆がすれば、神がその集団にとどまり、集団全体に幸いを下す」というのが、かなりこじつけだが、「福祉」を漢字面から見た私の考察である。
その反対に、自分の利益しか考えない存在が集団の中にいると、集団全体から神は離れる、ということだ。日本全体がもはや神に見捨てられているのは、安倍、いや小泉以来の福祉予算削減が始まったころから決まっていた、というわけ。


(以下引用)




次世代の高齢者福祉ゴールデンプランとか、福祉事業が、どうちゃら、こうちゃらと、言われだしたとき
「福祉」っていったいなんだろうと考えた。


皆、わかって使っているのだろうか。

福祉施設・・・といえば、児童福祉施設、障害者福祉施設、高齢者福祉施設など、さまざまな入所施設をさす。


そういう「見えるもの」になれば、わかった気もするけど。

「福」はわかっても「祉」という漢字は、ここ以外で使ったことが無く、意味がよくわからない。


あれこれ考えて、結局、
思ったことは。


幸福とは、自分が、幸せになることで
福祉とは、社会や、公共が、人々を幸せにするために行うことー他を幸せにすること、だと思うに至った。


つまり地域福祉センターは、この近所の人の幸福感を増強するために存在する施設というわけ。



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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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