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教師やコーチは「結果責任」は取らない

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」記事の1頁である。
このN塚(中塚以外に考えられないのにあえて仮名風にしているのが面白い。まあ、昔からあるギャグだが。)氏の言葉が興味深いので、特にこのページを転載した。
「子供が素直に従うから、自分は正しいのだ、と思い込んでしまう」
というのは、教育者なりコーチングをする人なりが一番最初に覚えるべき注意事項だろう。そこを勘違いしたら、ダメ教師、ダメコーチへ一直線だと思うが、逆に、生徒受け、父兄受けは物凄く良くなるだろう。
なぜなら、人間というのは「自信たっぷりに振る舞う人間」に弱いからだ。あれほど自信があるなら、その自信にも根拠があるのだろう、と思ってしまうわけである。まあ、詐欺師ほど自信たっぷりに振る舞うものだ、と考える人は少ない。
これは人間の脳の「補完機能」によるもので、物事に不可解な、あるいは未知の部分があっても、勝手に自分で解釈して「合理的な説明」を作ってしまうのである。
要するに、我々は、実は「知らないことだらけ」の中で生きているのだが、「だいたい知っているつもり」で生きている、ということである。
何はともあれ、教師やコーチは「結果責任」は取らないものである。志望校に合格できなければ、それは受験生自身の努力不足であり、運動選手も同じことだ。成功しなければ、やった当人の才能不足か努力不足であり、教えた人間の責任ではない。そういうことになっている。責任を取る(つまり、成功したのは自分の教えのおかげだとする)のは、相手が成功した場合だけだwww




(以下引用)




 ながらく少年野球のコーチをやっているN塚という友人が、つい半月ほど前にポツリと言っていたことだが、子供たちに野球を教える監督やコーチの中には、勘違いをする人間が少なからずいるのだそうだ。



 「勘違いって、どういう意味だ?」
 「自分の教えが正しいって思い込むんだよ」
 「ん? 正しいと思うから教えてるんじゃないのか?」
 「それが逆なんだな。子供っていうのは、どんなことを教えても、必ず言った通りにやる。びっくりするほど素直なんだよ」
 「で?」
 「だからそれで大人の方が勘違いするわけだよ」
 「子供が従ってるんなら、指導者としては成功してるんじゃないのか?」
 「いや、順序が逆なんだよ。正しいから子供たちが言いなりになるんじゃなくて、子供たちが自分の言いなりになるから、自分が正しいと思い込む。それで変な自信をつけちゃう人たちがたくさんいる」
 「それがいけないのか?」
 「最悪だよ」
 「どう最悪なんだ?」
 「うーん、うまく説明できないけど。適当なことを偉そうに教えてる指導者が現場にはヤマほどいるってことだよ」



 彼の言っていることの核心の部分がどういうことなのかはともかく、子供を相手に何かを教える立場の人間が、子供たちが自分の「言いなりになる」ということに嗜癖して行く感じは、なんとなくわかる。



 私自身は、他人の子供に何かを教えた経験は持っていないのだが、あるタイプの教えることの好きな人たちが、教える内容そのものよりも、「言うことを聞かせる技術」を磨く方向に重心を置いて行く感じは、自分自身の実感としても容易に想像できる。



 スポーツの競技団体の中で、パワハラが蔓延する理由のひとつは、おそらくここのところにある。



 スポーツが競技として行われる現場では、コーチと選手、監督とコーチ、団体の役員と平職員、先輩と後輩といった様々な立場の間に、上下関係というのか「命令と服従」の関係が生じる。というよりも、競技の習得や継続に伴って生じる人間関係は多かれ少なかれ上下関係を含んでいる。これは避けることができない事実でもあれば、仕方のないことでもある。



 なんとなれば、競技に関連する技術や、練習方法や戦術を教える立場の人間は、それを習得する立場の選手よりも上の立場に立っている。また、そうでなければ教えるという動作は貫徹され得ないからだ。



 そして、コーチングの内容を洗練することよりも子供たちを指示通りに動かすことに熱中するタイプの指導者は、やがて選手を恐怖によってコントロールするようになる。



 直接に手を出すことをしなくても、たとえば怒鳴りつけるとか、罰走を命じるとか、レギュラーから外すとか、恫喝の仕方はいくらでもある。

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反体制運動(政府批判行動)の問題点

単なるメモ。

・反体制運動、あるいは政府批判デモにおけるデモ側(の一部)による暴力行為の意味、あるいは無意味さ、運動自体に与える有害さ、不利益性。

・良心的兵役拒否の「良心的」とは何か。欧米での実際は「宗教的理由による兵役拒否」ではないか。それ以外の理由で「良心的兵役拒否」は可能か。日本で良心的兵役拒否は可能か。

・反戦運動や政府批判デモに共産革命主義者が侵入することの害悪。しばしば、過激行動は後者が起こしてきたが、その背後に政府や資本家の存在が無かったか。(つまりデモ群衆の中の「第五列」ではなかったか。)

・平和運動に対する「一般人」の憎悪や嫌悪の理由。実際、この憎悪はかなり存在する。たいていは、デモなどを「秩序紊乱行為」と見做し、社会の敵と考える。親と子で言えば、親の世代の、若者世代への憎悪もその背後にあるとも思われる。つまり、自分の生活がそれに依拠している「社会秩序」に反抗すること自体が憎悪の対象となる。中年以上の世代は「その社会秩序」に加担しており、秩序や社会体制への反抗や批判は自分への反抗や批判と感じる心理機構があるのではないか。

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栄光の座にいること

名ギタリストのパコ・デ・ルシアのドキュメンタリー映画(テレビ用か?)を見ていて、印象に残った彼の言葉を(正確ではないが)二つ、載せておく。

「有名人は少しでも失敗すると批判される」

「他人から期待されることは喜びではなく苦しみだ」

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人命を司る職業の責任

一旦は「尊厳死(と言っていいと思う)」を自己決定した人間が、死の間際にその意思を撤回したらどうするか、という問題である。ここでは医師が「錯乱状態での、尊厳死停止の意思より、平静な状態での尊厳死の意志」を優先させたために患者が死に至ったことが法的な処罰の対象になるだろう、ということだが、こういう事態もあらかじめ容易に想像できることであり、その場合の処置も「契約」し、書面化しておくべきだろう。まあ、書面化しておいても問題視されるのが現在の状況だと思うが、この問題はもっと議論されたほうがいい。「国のガイドライン」が、この医師の行為を「殺人」とする根拠になるのかどうか、である。私としては、ガイドラインはあくまでガイドラインであり、法律と同一視すべきではない、と見る。
少なくとも、この医者も「被害者」でもある。人の生死を司る仕事というのは、その責任も重い。一歩間違えば「殺人犯」になるのだから。
そういう意味では、医師というのは「羨ましくない」職業かもしれない。
その一方で、(同様に、関係者=被疑者の人命に関わる)冤罪事件での警察や裁判官が「何一つ責任を取らない」というのは実に異常なことなのだが、まったく問題視されないこと自体がこれまた異常である。

(以下引用)



医師が「死」の選択肢提示 透析中止、患者死亡 東京の公立病院


3/7(木) 5:01配信


毎日新聞


 東京都福生市と羽村市、瑞穂町で構成される福生病院組合が運営する「公立福生病院」(松山健院長)で昨年8月、外科医(50)が都内の腎臓病患者の女性(当時44歳)に対して人工透析治療をやめる選択肢を示し、透析治療中止を選んだ女性が1週間後に死亡した。毎日新聞の取材で判明した。病院によると、他に30代と55歳の男性患者が治療を中止し、男性(55)の死亡が確認された。患者の状態が極めて不良の時などに限って治療中止を容認する日本透析医学会のガイドラインから逸脱し、病院を監督する都は6日、医療法に基づき立ち入り検査した。

【悲痛】女性が夫に送った最後のメール

 ◇ガイドラインから逸脱 都が医療法に基づき立ち入り検査

 外科医は「透析治療を受けない権利を患者に認めるべきだ」と話している。病院側によると、女性は受診前に約5年間、近くの診療所で透析治療を受けていた。血液浄化用の針を入れる血管の分路が詰まったため、昨年8月9日、病院の腎臓病総合医療センターを訪れた。外科医は首周辺に管を挿入する治療法と併せ、「死に直結する」という説明とともに透析をやめる選択肢を提示。女性は「透析は、もういや」と中止を選んだ。外科医は夫(51)を呼んで看護師同席で念押しし、女性が意思確認書に署名。治療は中止された。

 センターの腎臓内科医(55)によると、さらに女性は「透析をしない。最後は福生病院でお願いしたい」と内科医に伝え、「息が苦しい」と14日に入院。ところが夫によると、15日になって女性が「透析中止を撤回する」と話したため、夫は治療再開を外科医に求めた。外科医によると、「こんなに苦しいのであれば、また透析をしようかな」という発言を女性から数回聞いたが、苦痛を和らげる治療を実施した。女性は16日午後5時過ぎに死亡した。

 外科医は「正気な時の(治療中止という女性の)固い意思に重きを置いた」と説明。中止しなければ女性は約4年間生きられた可能性があったという。外科医は「十分な意思確認がないまま透析治療が導入され、無益で偏った延命措置で患者が苦しんでいる。治療を受けない権利を認めるべきだ」と主張している。

 日本透析医学会が2014年に発表したガイドラインは透析治療中止の基準について「患者の全身状態が極めて不良」「患者の生命を損なう」場合に限定。専門医で作る日本透析医会の宍戸寛治・専務理事は「(患者の)自殺を誘導している。医師の倫理に反し、医療とは無関係な行為だ」と批判している。外科医は女性について「終末期だ」と主張しているが、昨年3月改定の厚生労働省の終末期向けガイドラインは医療従事者に対し、医学的妥当性を基に医療の中止を慎重に判断し、患者の意思の変化を認めるよう求めている。

 東京都医療安全課の話 生命尊重と個人の尊厳保持という医療法の理念通りに病院が適正に管理されているかを確認している。

 厚労省地域医療計画課の話 一連の行為は国のガイドラインから外れ、現在の医療水準や一般社会の認識からも懸け離れている。【斎藤義彦】

 ◇人工透析治療

 人工膜や腹膜を使い、血液中の老廃物や毒素、水を除く治療法。人工膜を使った血液透析では通常、週3回で各4時間、腕の血管を透析器につないで血液を浄化する。腎臓が機能しない腎不全に有効で、長期生存が可能になる。1950年代に実用化され、国内では67年に健康保険の適用になった。72年からは更生医療(現・自立支援医療)により自己負担が軽減され、広く普及している。患者らでつくる全国腎臓病協議会によると、薬や機器の進歩で患者負担が軽減され、大多数は苦痛なく治療を受けている。ただ、疲れが出て腰が痛くなったり、針を刺す痛みを強く感じたりする人も一部にいるという。


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「福祉」という言葉の意味

「神戸大好き」ブログ記事の一節である。
私は「神戸大好き」さんの文章から感じられる人柄は少々苦手だが、その記事の中で社会への鋭く面白い指摘をすることがよくあるので、一定の尊敬はしている。社会批評家として評価しているわけだ。
で、下のように「言葉の意味や定義」から考えを進めていく、という姿勢も私の好みである。議論の中で一番くだらないのが、「お互いに言葉の定義も無しに議論して、話がまったく噛み合わない」議論である。
私も、「福祉」という言葉の意味や定義は何なのか、疑問に思ったことがあるが、まあ、「祉」という字は「しめすヘン」に「止まる」で、しめすヘンは神関係の字に使うから、「神が(その場所に)止まること」くらいの意味かな、と簡単に考えていた。(もちろん、ここでの「止」は、意味ではなく「シ」という音を表わすのだ、ということは承知しているが、「形声文字」の「音」の部分も語義にまったく無関係なものだけでもない。)つまり、下の記事の考察を援用すれば、「その集団の中の弱者の幸福を増すような行為を皆がすれば、神がその集団にとどまり、集団全体に幸いを下す」というのが、かなりこじつけだが、「福祉」を漢字面から見た私の考察である。
その反対に、自分の利益しか考えない存在が集団の中にいると、集団全体から神は離れる、ということだ。日本全体がもはや神に見捨てられているのは、安倍、いや小泉以来の福祉予算削減が始まったころから決まっていた、というわけ。


(以下引用)




次世代の高齢者福祉ゴールデンプランとか、福祉事業が、どうちゃら、こうちゃらと、言われだしたとき
「福祉」っていったいなんだろうと考えた。


皆、わかって使っているのだろうか。

福祉施設・・・といえば、児童福祉施設、障害者福祉施設、高齢者福祉施設など、さまざまな入所施設をさす。


そういう「見えるもの」になれば、わかった気もするけど。

「福」はわかっても「祉」という漢字は、ここ以外で使ったことが無く、意味がよくわからない。


あれこれ考えて、結局、
思ったことは。


幸福とは、自分が、幸せになることで
福祉とは、社会や、公共が、人々を幸せにするために行うことー他を幸せにすること、だと思うに至った。


つまり地域福祉センターは、この近所の人の幸福感を増強するために存在する施設というわけ。



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近代帝国主義イデオロギー

『帝国主義の解剖学』を読んで考えた浮遊思考を幾つか。

・基本的に、現在のネトウヨ心理というのは、帝国主義時代の帝国の無知な大衆の持っていた「帝国主義心理」とほぼ同一であると見てよい。つまり、帝国主義とは、「現在の問題」なのである。笑うべきは、かつての帝国が凋落した現在でも、「帝国主義心理」は大衆の間に厳然と残っていることだ。それは、もちろん、その方が右翼的性質を持った政党(ほとんど保守政党はそれである。)には都合がいいので、彼らはマスコミや教育を通じて国民のそうした傾向を助長し煽動するからだ。

・同書にある、「近代帝国主義イデオロギー」についての杉本淑彦氏の定義。(色字は夢人による強調)
植民地とは直接の経済的利害得失関係のない宗主国民衆一般に、膨大な公的資金の投下が必要となる植民地維持拡張政策を受け入れさせる論理」(同書P88)
植民地維持拡張政策には膨大な公的資金投下が必要になり、しかも、それは宗主国一般民衆の利害関係とは実は無関係な話だ、というのは、あまり誰も指摘していないことのように思う。すなわち、植民地経営とは一般国民にとっては「税金の無駄遣い」であったにも関わらず、それが国民全体の利益であるかのように思わせたのが「近代帝国主義イデオロギー」の役割であったわけである。
もちろん、それと併行して、宗主国による植民地経営は「文明の恩恵に浴する」植民地の現地人にとっても幸福である、という「偽装人道主義」イデオロギーも用いられた。日本帝国支配下の朝鮮についてもネトウヨがしばしば言う「日本の支配下で朝鮮は文明国化した」はまったく同じ論理(屁理屈)であるのは言うまでもない。或る国が文明化するかどうかは、その国の国民自身が選び取ることであって、他国の強制による「文明化」は単なる「宗主国(侵略国)の都合によるインフラ整備」でしかない。

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馬鹿を煽動するのは容易

ヒトラーが、なぜ「第一次大戦でのドイツはユダヤ人の裏切りによって敗北した」と言っていたのか、その根拠を知りたくてネットを探しているうちに、それとはあまり関係ないが、「ネトウヨ(つまり、低レベル右翼)はこうして作られる」(ヒトラーの手法)がなかなか面白いので転載しておく。林何とかという、おそらく学者さんの講演の一部である。
なお、若きヒトラーを組合に勧誘に来た組合員の言葉は、まさに安部政権下の日本を現わしているようだ。いや、資本主義国家はだいたいそんなものだろう。だが、言っていることは正しくても、対人的なゴタゴタで信用を失うというのが左翼運動の悪しき特徴であるのはどの時代のどの国でも同じであるようだ。
ちなみに、ネトウヨの作り方、というのは、赤字で示した次の言葉だ。もちろん、これは低レベル左翼の作り方でもある。

「大衆は大衆自身がそれぞれもっている精神的弱さ、怠惰、無能、失敗、病気、怨念、嫉妬など転訛するべく我を忘れるような強烈なイデオロギーを求めている」



(以下引用)赤字部分は夢人による強調。



当時、ヒトラーは建築現場の日雇い現場で働いていました。とこ



ろがある日一人で昼食をとっているところに労働組合の活動家がやってきて「国家は資本主義階級の仮構であり、祖国はブルジョアジーが労働者階級を搾取するための道具である。法律の権威はプロレタリアを弾圧する手段であり、学校は奴隷要因と奴隷所有者を飼育するためある」と説得するのです。



このヒトラーを説得しようとした一労働組合員の言葉は、私(林



順治)にはつい最近聞いたことのように錯覚を覚えます。つい最近



とはいって私が1960年代の学生のころですが、全学連の運動家



が休講中の教室に入ってきて始めるアジ演説とそっくりだからで



す。



その事はさておき、ヒトラーは社会民主党員の言うことよく理解



することができませんが、興味があったので本やパンフレットを読



んでから、ヒトラーは社会民主党員にたびたび質問をし、議論する



ようになります。すると彼らは暴力とテロ行為に出たのです。社会



民主党員の数人がヒトラーに向かって「建築現場を立ち去るか、こ



こから落とされるか、どちらが好いか」と詰め寄ってきたのです。



ヒトラーは社会民主党員のこのようなやり方を彼なりの分析をしていますが、きわめて示唆的です。というのはこれに類するようなやり方が日本の学生運動や労働組合の一部で1970年代の初めまでは行われていたからです。ヒトラーは『わが闘争』で恐るべき次のようなことを言っています。



「もし社会民主党員に対してもっと真実さに満ちた、しかも同じような残虐な実行力をもったイデオロギーで対立すれば、たとえ非常な苦しい闘争の後でもきっと勝利するにちがいない」と。



なぜなら「大衆は大衆自身がそれぞれもっている精神的弱さ、怠惰、無能、失敗、病気、怨念、嫉妬など転訛するべく我を忘れるような強烈なイデオロギーを求めているからだ」と。



何か後のヒトラーのナチの暴力とテロをまざまざとみるようですが、ヒトラーがこのやり方を社会民主党員から学んだというのでから、半分は本当の話でしょう。しかしこのような運動組織論を17、8才のヒトラーが体得したとは思われません。おそらくミュンヘン一揆までの体験を生かし、今後の選挙活動の予告として『わが闘争』に綴ったものでしょう。





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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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