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軽はずみな絶望

漫画家山本貴嗣の昔のブログ記事の一部だが、「軽はずみな絶望」という表現が面白く、また日本人論としても示唆的だと思うので転載する。
山本氏は「戦闘(アクション)漫画」をたくさん描いている人で、そういう人はなぜか(まあ、自衛隊などに取材して仲間意識が植えられるのだろうが)政治的にも右翼的(基本的に闘争を「現実」として肯定し、平和を単なる観念だと見做す。)であることが多く、実際氏はその傾向があるので、私は氏の思想的対立者だが、彼のブログやツィッターはよく読むのである。
「日本人は物事をあきらめやすい」というのは日本人の大きな特徴かと思う。K・V・ウォルフレンの「シカタガナイ」である。だが、日本が「頭から腐」(スゥイフトが狂死する少し前に、庭の樹を見て、「俺はあの樹と同じだ。頭から腐っていく」と言ったという。)ろうとしている今、あまりに軽はずみに絶望するのは、自分の子や孫に対して顔向けできない卑怯そのものの行為だろう。

(以下引用)


 30年近く昔の話ですが、友人が大学の授業で聞いた話で、子どもが襲われたときの母親の反応。
 アメリカなどでは、子どもを背中に隠して敵に正面を向けて立ちはだかるのに対し、日本では子どもを抱きかかえるようにして敵に背中を向けてしまう。
 それじゃいいように殴られたり刺されたりして危ないだろうとも思うんですが、それが民族性なんだから仕方がないです。どうせケンカじゃ勝てないから精一杯守ろうという母心でしょうか。気持ちはわかります。
 30年も昔の授業のことで、今は心身ともに当時よりも欧米化が進んでるかもですから、そのまま当てはまるかどうかは不明ですけど。

 ただ、それに類する話で私にも思い当たることがありまして

 昔武術の取材をしていて聞いた話で、日本人はすぐあきらめる。
 Aという技(たとえば前進しながら敵の腕を巻き込むとか)をかけて相手が倒れないと、あ、これはダメなんだと、やめてしまう。
 たとえば、その同じ技をそのまま前進しながら三回連続すれば倒れるのに、一回でやめてしまう。
 これは無駄な技をゴリ押しで繰り返すのとは意味が違います。
 銃器にも三点バーストというのがありますね。同じ銃の弾丸でも、集中して三発、連続してほぼ同じポイントに叩き込むことでより確実に威力を増す。
 いさぎよいというのは、ある種の美徳、美点ではあるのでしょうが、それがTPOを誤ると軽はずみな絶望になってしまう。

 一を聞いて十を知ったつもりになるのは危険ですが、
 この「潔さ」をはき違えた「軽はずみな絶望」は、今の日本社会を覆う多くの精神面の病理に関係があるのではないか。
 私の集められるデータではあまりに限りがあって、なんらかの結論を出すのは無理なんですが
 何かそういう機会のある方は、お調べになってもおもしろいかもと思いました♪

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家族原理の擬制化

小田嶋隆師のネット記事の一部だが、「家族原理」という主題は考察対象として面白い。
まあ、家族というのは「感情的紐帯」であり、ことさらに頭で理屈付ける必要もないのが普通だろうが、一生の大半を一緒に暮らす存在であるからには、恋愛や結婚や仕事と同様に重大な社会システム、あるいは生存システムだろう。家族に較べれば、恋愛など暇人の趣味のようなものだ。嫌になったらいつでも関係を絶てる。家族はそうはいかない。まあ、いかないこともないが、かなりな精神エネルギーを要するだろう。
逆に、家族であることの幸福も、無限大である。家族のため、特に自分の子供のためなら自分の命を犠牲にしてもいいという親は、かなりな割合に上ると思う。というのは、子供というのは「自分自身の生まれ変わり」であるからだ。つまり、自己愛の一種としても子供は愛されるが、実は、「自分の生まれ変わりだが、自分そのものではなく、だからこそ余裕を持って眺めることが楽しくでき、しかも自分より長くこの世に生きてくれると期待できる」のが子供だと言えるのではないか。自分が死んでも別の自分、自分の分身がこの世界で生きている、というのはなかなか楽しい空想だろう。
というわけで、私は家族という「制度」に肯定的だが、会社やチームなどの社会組織を家族原理で運用するという、「家族の擬制化」は、小田嶋師の言うように、かなり気持ち悪い。つまり、そこではどのような理不尽も「家族なんだから」という一言で許され、権力保持者にとって実に都合のいい事態が生じるからである。
なお、「擬制」というのは、私は調べたことは無いが、「制度もどき」ということだろう。制度なら、はっきりとした規約などが明文化されているが、「制度まがい」「制度もどき」だから、すべてがなあなあで、上の人間に都合よくすべてが運ばれるわけである。まさに、今回の吉本事件は、その「家族という擬制を悪用した社会集団」の話なのである。
なお、法的には通常の意味での家族というのは「制度」となっているとは思うが、確かめてはいない。法律の条文など、必要が無いとほとんど読まないからだ。
よけいな付け足しをすれば、細田守監督の「サマーウォーズ」は娯楽アニメとしてはいい出来だが、その中心思想が「家族の絆の聖化」であり、「権力は素晴らしい」というものだと私は思うので、全面的肯定はしにくい危険なアニメだとも思っている。(私は読んでいないが、断片的に仄聞した限りでは、町山智弘も、たぶん同じ意見だと思う。)であるから、前に一度二度見たが、最近録画したそれも、今見たらあまり楽しくないだろうな、ということで見ていない。

(以下引用)



《私が「家族」「結界」の話を持ち出したのは、吉本興業の会長が「うちの芸人たちは家族だと思っているから、いちいち契約書は交わさない」と言ったからだ。社員数人の家族経営ならいざしらず、売り上げ何百億の企業が、「家族」なんていう不合理かつ抑圧的な原理で運営されて良いはずがない。 22:08-2019年7月24日



《年間売り上げ何百億円の大企業が、「家族」の美名のもと、契約書すら交わさずに所属タレントを使役している「不合理」さと「抑圧」を指摘したわけで、つまり「家族」が実際の「家族」の枠組からはみ出して、「擬制」として巨大な組織に適用される時、それは抑圧的な原理に変貌するということです。
RT:@xxx『「家族」なんていう不合理かつ抑圧的な原理』って、世界の大半の人間は、何かしらの家族に属し、自らの家族を愛し、そのことについて疑問を感じずに生きてるんですけど、そういう人達に喧嘩を売っていると読み取っていいのかな、これは 8:12-2019年7月24日



 以上のツイートの流れを追えばわかっていただけると思うのだが、私は、「家族」への愛情や帰属意識そのものを攻撃したのではない。家族的なつながりの価値を否定しているのでもない。



 私が一連のツイートを通じて強調しているのは、法に基づいたコンプライアンスを重視すべき企業が、「家族原理」を持ち出すことへの違和感だ。理由は、わざわざ説明するまでもないことなのだが、血縁上の文字通りの家族以外のメンバーを対象に拡張的に適用される家族原理は、多くの場合、不合理な支配隷従関係の温床となるからだ。具体的に言えば、安易に拡張適用された「家族」は、上位者による抑圧を正当化する内部的な桎梏として、下位者を集団に縛り付ける。そして、吉本「一家」の擬制は、世にあまたある「一家」を名乗るアウトロー集団がそうであるように、現代の企業としては論外の存在だ。もちろん、政府から補助金を受ける企業としては、さらにさらに論外だし、地方自治体の協力企業としても万国博覧会の看板を背負う会社としても、完全に資格を欠いている。




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ユダヤ人問題の本質を考える


例によって、漠然とした事柄を、考えながら書いていくつもりで、どういう結論になるか、あるいは結論が無いままになるかは分からない。

柄にもないテーマだが、ここで考えるのはユダヤ人問題で、大きく言えば、理性と感情の対立という問題でもある。なぜ、ユダヤ人は歴史的にあれほど迫害されてきたのか、ということの考察でもある。そもそも、ユダヤ人とは何か、という明確な定義さえ無いと言われているのに、あれだけの執拗苛烈な迫害はなぜ生じたのか、ということだ。
ここでは、いつも私が批判の対象としているユダ金のことは論じない。彼らも、ある意味ではユダヤ人的な存在だからこそユダ金と言っているのだが、彼らが本当にユダヤ人であるというのではなく、「ユダヤ人的」と私が思うから、ユダ金と言っているわけで、世界には貧しいユダヤ人も無数にいたし、そのほとんどは善良そのものの人だっただろう。しかし、一部の「ユダヤ的」な大金持ちが社会に絶大な権力をふるい、世界を悪化させてきたことは確かであり、その行動もまた「ユダヤ的」だと多くの人が思ったから「ユダヤ陰謀論」はネット世界でも根強い支持を得ているのだと思う。
では、「ユダヤ的」とは何かと言えば、それは「強固な(概して宗教的な)信念と強固な理性、強固な意志力、その結果としての、非理性的なものごとの排除と非人間的な酷薄さ」ではないか、ということである。まあ、これは取り敢えず書き並べたことだ。簡単に言えば、彼らは「理性(知性)の化け物」ではないか、と多くの非ユダヤ人は感じ、それを明確に言語化できないまま嫌悪してきたのではないか、ということである。
つまり、多くの人々は、彼らの知性を恐れたのだ、というのが私の考えだ。ただ、それを認めると彼らを排除することは不可能になる。数では勝る劣等者たちが、数の少ない優越者を排除する(排除しないと、彼らが社会の上位に行き、自分たちを支配するだろう)には、彼らに「難癖」をつけ、むしろユダヤ人こそが劣等民族だというレッテル貼りをするのがいい、と欧州社会の人々は考え(もちろん、明確な思考ではなく、直観的に考えたのだろう)、あれほどのユダヤ人差別を行ってきたのだろう、というのが私の考えである。
そして、そのユダヤ人への恐怖には、同情すべき面があり、それは何かと言えば、「理性はしばしばその社会の道徳感情と対立する」ということである。たとえば、男性優越主義が当たり前であった封建時代に、男女平等思想を打ち出せば、とんでもない不道徳だ、とされただろう。道徳とは基本的に、その社会、その時代の常識でしかないのである。だが、その道徳に反する思想や行動は、当然ながら非難迫害の対象となる。
これは、ユダヤ人たちがその社会の道徳に公然と反抗したということではない。ただ、欧州社会は、「彼らの道徳は自分たちの道徳とは違う」ということに恐怖を感じていただろう、ということである。
道徳の違うグループが共存できるかどうか、それは現在、白人社会とイスラム移民の軋轢の形で問題化しているのである。つまり、この世界の表面からほとんど消えたユダヤ人差別に代わり、イスラム差別が生じてきたわけだが、白人社会というのは、常にそうした感情的な「仮想敵」を作ることで人民支配をしてきたのだろう。
感情というのは、理性ではコントロールできないから厄介なのである。それは男女の恋愛などを見れば明白なことだ。(これを、ロシアの神秘思想家グルジェフは、「知性と感情は別のセンターを持っている」と言っている。)











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客人嬰児氏の「ネトウヨ論」、の考察

「ネットゲリラ」読者コメントのひとつだが、ひとつの「ネトウヨ」論として考察材料にしてみる。
「客人嬰児」という名前はこれまで「ネットゲリラ」読者コメント欄で数回見ていると思うが、印象に残るコメントはひとつも無く、どういう政治姿勢でどういうキャラの人かは分からない。まあ、長い文章が書け、誤字は無いから、物事を論じることができるレベルの人ではあるようだ。「感情的で情緒に溺れ……感傷的な」と、同じ内容の言葉を続けるあたりは、論理ではなくその時々の思い付きだけで文章を書いているという、私に似たところもあるようだwww 

で、下のコメントは、「ネトウヨ」は誤解されている、という趣旨だが、それがどう誤解されているのかという記述はなく、「ネトウヨとは、日本国民そのものだ」という結論になっている。
つまり、右翼も左翼もノンポリも含めて、日本国民はネトウヨだ、というわけだが、その特性は大雑把に言えば「反知性主義(つまり、インテリ嫌悪)で、感情的で、保守的」ということになるかと思うが、これは日本国民だけでなくどの国でも一般大衆はそうだろう。アメリカでトランプが一般大衆に支持され大統領になった理由もそれだ。
で、客人嬰児氏が「ネトウヨとは日本国民そのものだ」と言うのは、その論に従えば、氏が日本人なら氏自身もネトウヨだ、ということであり、ネトウヨでないなら氏は日本人ではない、ということになる。「客人」という名前からして在日外国人かもしれないが、もしも日本人だとしたら、相当な自民族嫌悪感情の持ち主だろう。
「アテネ人はみな嘘つきだとアテネ人が言った」としたら、その発言は真か偽か、という命題があるが、このネトウヨ論は、発言者が何者かで妥当か否か判断されて良さそうな論である。

言うまでもなく、私は「ネトウヨとは日本人の悪い部分を煮詰めた存在であるが、そうでない日本人が大部分だ」という意見である。


(以下引用)





あまりにも誤解されているように思うので「ネトウヨ」に関してヒトコト述べます


「ネトネトウヨウヨ」はムラ社会が気の遠くなるほど昔から鄭重に「育成」してきた


通常人の一般的な資質であって決してネトウヨ諸君だけ例外的存在なのではありません


反知性主義に包まれ感情的で情緒に溺れ客観性を微塵も持てずに感傷的な人生観を持ち


自民族優先主義に酔いつつ新しいことは怖れて避け「己の狭量さは徹底して無視する」


これは新聞テレビ局に勤めるほとんどのムラ人間や学校教師にも共通する要素です


同時にテレビ雑誌新聞など各種メディアが広めてきた「ニッポン人の正常な資質」です 


さらに上級/低級の職階を問わず国家役人および地方役人の圧倒的多数に遺伝的あるいは


種痘のように植え付けられている「本能的性癖」です本来ムラ社会とはそういうものです 


      ネトウヨとは無知と前例踏襲主義の新たな野合を意味します


つまり「ネトウヨ」こそ愚かで卑怯で夜郎自大な日本人の基本的性格/資質なのです/艸。




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平凡こそが一番幸福

別ブログに書いた文章の一部だが、無能な人間、あるいは特別な才能の無い人間には「平凡な生活が一番幸福」だと私は思っている。死ぬほど努力して高い地位に上るのも結構だが、それで得られるのは単にカネだけであって、幸福そのものではない。カネが無くとも、野の花や日の光を見るだけで幸福なら、それに勝るものはない。
もちろん、才能のある人々の残した仕事によって世界は幸福度を増すわけだが、それは当人の幸福ではない、というのが皮肉である。極端に言えば、有能な人間の不幸(仕事優先のための家庭生活の犠牲)によって無能な人間(家庭生活優先の人間)が幸福になっている、とすら言えそうだ。

(以下引用)


私は、20代の最初のころに、有名人になること、あるいは出世することのプラスマイナスを考え、どちらもそう見えるほどのメリットはなく、デメリットは大きい、という考えに落ち着いた。
もちろん、自分にその能力が無い、という点も考慮してだが、「生活は中か中の上、そして無名人として生きる」のが理想的な人生ではないか、と結論したのである。有名人になることのデメリットは、コミュ障気味の私にはむしろ地獄だろう、と思ったわけだ。四六時中、他人の好奇の目にさらされるのが地獄でなくて何だろうか。金持ちになるのも、周囲の嫉妬を生み、詐欺師や犯罪者を呼び寄せるわけで、その中で自分の精神を守れる保証は無い。
つまり、華やかな存在はその背後に暗黒面がある、ということである。
或る意味、才能を天から与えられることすら不幸なことなのかもしれない。優れた才能の特徴は、偏執的な仕事への献身だが、それは家庭生活の犠牲の上に成り立つのである。


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ジョークの危うさ

安倍総理の例のエレベーター発言についての小田嶋師の記事の一部で、師はあれを「滑ったジョーク」だと見做しているわけだが、まあ、たぶんそうなのだろう。
しかし、下に書かれている「ジョークの考察」は、ジョークを言う側の卑しい(厭らしい)心性を見事に剔抉しており、文章でジョークを書くことの好きな私は頭を掻くしかない。(もちろん、これも「書く」と「掻く」のジョークというか、駄じゃれ。)
私の見るところでは、ジョークとは「異常性を攻撃する」のがその主たる機序であり、体の免疫システムみたいなものだ。だから、悪や偽善を攻撃するのが一番多いパターンなのだが、精神薄弱者とか身体障碍者とかいった「自分ではどうしようもない異常」を背負った人々もその攻撃の対象になることが時々ある。安倍総理が低能だからといって、それを攻撃するべきではない、ということである。攻撃すべきはその道徳的な悪の部分や下劣な品性や悪行なのである。
ドストエフスキーの『白痴』が描いたように、他人から阿呆扱いされる人間が実は無垢・無邪気であり、ほとんど聖人である場合もあるが、すべての白痴が聖人とはかぎらない。
すべての弱者が道徳的に聖人か悪党かのどちらかになるわけでもなく、悪どい弱者も聖人のような弱者もいる、という、当たり前の話だ。

(以下引用)



「悪気」や「嘲笑の意図」を云々する以前に、エレベーターを笑うジョークは、その「構造」として、エレベーターに乗って天守閣にたどりついた階段弱者を貶めたストーリーを包含せざるを得ない。その意味で、エレベーターを笑うジョークは、結局のところ「強者」による共感的な雄叫びとそんなに遠いものではない。



 「戦国の世の秋霜烈日なリアルを体現しているはずの城郭の天守閣に、足元もままならない老人や車椅子に乗った障害者が集っている絵面の滑稽さ」をもって「21世紀的なクソ甘ったれたみんなの善意で世の中を素敵な場所にしましょうね式のバリアフリー社会の偽善性」を批評せしめようとするその「オモシロ」発見の視点自体が、そのまんまホモソーシャル的ないじめの構造に根ざしているということでもある。



 すぐ上のパラグラフは言い過ぎかもしれない。



 ただ、会話の中にジョークを散りばめにかかるコミュニケーション作法が、多分に虚栄心と自己顕示欲を含んだものほしげな態度であるという程度のことは、21世紀の人間であるわれわれは、自覚しておいた方が良い。



 ジョークは、他人を動かすツールとしてそれなりの機能を発揮している一方で、時に意外な副作用をもたらす厄介な劇薬でもある。




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「正義の相対化」という不正義な行為

「ピレネー(山脈)の南には異なる正義がある」
と言ったのはパスカルだったと思うが、これが「正義の相対化」の濫觴だろうか。
正義とは社会社会によって異なる相対的なものだ、というのは基本的には正しい考えだが、普遍的な正義もあるからこそ、どの時代やどの社会でも殺人や悪質な虚偽は不正義とされるわけだ。(他民族や他国民を殺すことは正義である、という思想が古代の「戦争正当化」の思想であるが、同胞を殺すことはどの民族でもどの国民でも不正義だっただろう。そして私は、他国民や他民族を殺すことも悪である、という当たり前の思想がなぜ当たり前になっていないのか、そこに為政者による国民洗脳の恐ろしさを見ている。)
正義の相対化が行き過ぎると悪の擁護になる。今のように上級国民による悪がはびこっている社会で「正義の暴走」を云々する(たいていは上級国民擁護の側の発言である。)のは、それ自体「悪への加担」であるわけで、まあ、要するにお偉いさんの提灯持ちであり、悪の実行者(お偉いさん)以上に醜い。





正義の暴走を懸念するところまではわかる。
たしかに、独善に凝り固まった人間の集団は、ときに、おそろしい行動に出るものだからだ。
ただ、素朴な正義感の発露や、正義に沿ってものを考えることそれ自体を、非難している人たちを見ていると、予防拘禁を正当化していたゲシュタポの姿を思い出す




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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