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「無知」への嘲笑の正否

こういう事象を見て対象となる人々を嘲笑するのは容易だが、その「間違い」の原因や理由まで考えると笑うべきことかどうか分からないのではないか。

テレビ制作者たちは、単に図形感覚が無いとか比率が分かっていないのではなく、世代別の懲戒処分者数の中で「10代~20代」の多さを視聴者に印象づけようという「意図的ミスリード」であったと考えるべきだろう。その証拠に、円グラフの扇形のサイズだけでなく、字の大きさまで変えている。まあ、それにどういう底意があるのかまでは知らない。それが印象操作なら、私は、この種の印象操作は、単なる無知による過ちよりはるかに悪質だと思う。)

ケーキの切れない非行少年たちが、なぜ奇妙な「三等分」の図を描いたか、というのも、理由があると思う。一番単純なのは「三等分」を単に「三つに分ける」ことだと誤解していたというものだ。つまり「等分」の意味を知らなかっただけではないか。(ついでに言えば、「無知」は頭が悪いというのとはまったく別である。これらの非行少年がものすごく頭はよいという場合もあるだろう。)

そんなの(「等分」の意味)は小学校2年か3年くらいで習っているだろう、と言われるかもしれないが、算数の授業に興味の無い子供が毎度毎度授業をしっかり聞いているはずはない。そして、実生活でケーキや何かを分ける場合、「俺が一番体がでかいから(喧嘩が強いから)多く取る」という方法だけでやってきた可能性もある。
だから何だ、と言われたらそれまでだが、物事にはだいたい理由があるのだから、あまり表面だけ見てあれこれ言わないほうがいい、ということである。また、深い意味がある場合には、それを考察するのも娯楽である。




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ケーキの切れないテレビ制作者たち




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群盲、象を撫でる

漫画家大童澄瞳のツィッターから取ったが、社会のもめごとの原因のほとんどはまさにこれである。しかも、見ている対象や見る角度が違うだけでなく、その見ている窓の窓ガラスは親兄弟友人知人や読んだ本や漫画やテレビや映画の影響による偏りや奇妙な画像が入っている。
まあ、こういうのは昔から言われていて、それを「群盲、象を撫でる」と言った。足を触った人、鼻を触った人、耳を触った人、腹部を触った人、尻尾を触った人それぞれが考える象の姿はみな違っている。(筒井康隆がこれを「群象、盲を撫でる」という凄いイメージに変換したwww それはそれで怖い)






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人間の行動は「一事が万事」

「一事が万事」(あるいは「一斑を推して全豹を知る」)というのは人間を観察する際の基本だと思う。どんなに些細なことだろうが、他人の迷惑になる行動(たとえば煙草やゴミのポイ捨て)を平気で取る人間は、いざとなれば他人の生命も財産も踏みにじる行動を取る人間だと私は思っている。その逆もある。人の気づかない小さな善行をする人間は信頼できる。
バルザックの『ゴリオ爺さん』の中で(だったと思う)哲学的悪党ヴォートランが主人公に向かって「美徳ってのは切り売りできないんだぜ」と言ったのは名言である。つまり、ここでは美徳に従い、別の場所では美徳を踏みにじるというのは美徳でも何でもないということだ。
私がヤンキーや暴走族が大嫌いなのもそれである。仲間うちでは仲間内のしきたり(実は力関係にすぎない)に従うが、その枠の外部の人間に対しては平気で迷惑行為をする人間が信頼できるはずがあるだろうか。

  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 14時間14時間前
  1. 倫理観ってよほど何か大きな出来事があって改心したりしない限り、若いうちに出来上がってほとんどの人がファイル上書きしないように思う。成人以後は別の風習の集団だと思って距離を置くしかないような。
  2. 3件の返信 19件のリツイート 49 いいね
  1. 「チャリパクくらいいいじゃん」っていう人と「おまえらも昔万引きしてたんだろう?」って人、かなり集合の円が重なってるんじゃなかろうか。しねーわw
  2. 2件の返信 116件のリツイート 262 いいね
  1. 某テック系の人、「昔は平気でチャリパクしてましたねw」みたいな発言を平気でしていたのを見て、一発で無理になった。学生時代にチャリパク被害に遭いまくったのでチャリパクする奴は全員敵だと思っている。犯罪意識を持て。
  2. 33件の返信 4,334件のリツイート 8,652 いいね


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戦場にかけた橋は、あるいは人種間の橋だったのかもしれない

マイエン氏がなぜ「無邪気さを恥じた」のか、よく分からないのだが、私は考察すること自体が趣味なので考えてみる。
「クワイ河マーチ」は映画「戦場にかける橋」の主題曲で、この話の骨子は、日本軍の捕虜になった英軍兵士たちが、日本軍の命令により、英国軍人の指導のもとにクワイ河に橋をかけるが、その完成とほぼ同時に、その橋は(たぶん英軍の爆撃によって)破壊される、というものであったと記憶する。
つまり、戦争の不条理を描いたものであり、べつに日本人や日本軍を愚弄する意図はなかったと思う。とすれば、このドイツ人は日本人小学生がクワイ河マーチに合わせて行進したことをなぜ爆笑したのだろうか。私にはその意味が分からないので、マイエン氏が自分の「無邪気さを恥じた」意味も分からないわけである。
想像にすぎないが、このドイツ人氏は「戦場にかける橋」を、日本軍批判、日本人蔑視の映画だと思い込んでいたのではないか。もちろん、この映画の中には日本人や日本軍の思考(教条主義的な、融通の利かないところなど)を揶揄したような描写もあるが、そこは映画の本筋ではまったくない。むしろ人種を超えた共感(不承不承に始まった協同作業からいつのまにか生まれた連帯感や互いへの理解)が、最後の、橋の崩壊で無残に消滅させられてしまうという、運命の皮肉さがテーマだったと思う。



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小学生の頃に運動会等で「クワイ河のマーチ」に合わせて行進した話をふとしたら、日本人の子供があれで行進する姿は想像するだにシュールだとドイツ人に爆笑されたことをふと思い出した。何というか無邪気さを恥じた。






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日本の男の不自然さと日本の女の自然さ

前の記事で井口博士のことに触れたついでに、久しぶりに博士のブログを読んだので、その記事の一部を引用しておく。日本では男が威張っているが、実は世界で通用するのは日本の女である、という話。
その理由を私なりに考察すると、日本の男は日本社会や組織の中で生きることで人生を縛られ、考え方までその枠内で限定されているのに対し、女性は、「まず自分や自分の周囲の人間を第一に考える」という自然さがあるからではないか。つまり、日本社会や組織へのくだらない忖度が無いから、(個人を個人として評価する)世界に出ると活躍できる、というのが私の仮説である。
日本の老人が、男はみなゾンビのようになり、女性は年を取るほど明るくなる理由もその辺(組織人として生きるか個人として生きるか)にありそうだ。




(以下引用)


ところで、先日山梨の実家に帰ったとき、たまたま高校時代のサッカー部の同窓会があって、それにも出たんだが、みんなが明瞭に覚えていたことがあった。

なにか?

練習中に監督からビンタされたとか、
ホイッスルで頭を殴られたとか、
スパイクの裏で顔面を殴られ歯が折れたとか、
大事な試合前にしこたましごかれたとか、
夏合宿で死にそうで逃亡計画を考えたとか、
女子マネージャーに振られたとか、。。。

要するに、痛い思いをしたことだけを覚えていたんだナア、これが。

楽しかったことや当たり障りのなかったことや良かったことはすっかり忘れ去られていたのだ。

だから、おそらく我々と似た時代を生きた岡本綾子は、我々と同じように、痛い思いをしたことやそういう場面ばかり覚えている。

したがって、解説のたびに、自分はこういう痛い思いをした。こういう失敗をした。そんな言葉がついつい口に出る。


しかしながら、今の若い選手は、ジブリアニメで育ち、まさに「君の名は」「この世界の片隅に」「天気の子」の中で描かれている日本女子のようなメンタルで成長しているわけだ。

それに描かれたその日本にあこがれて、いまや日本全国の高校に年間30万人もの海外からの留学生がいる。


おそらく、この渋野日向子選手の笑顔や立ち居振る舞いや仕草を見た欧米の若者たちは、何か日本のアニメの世界をそっくりそのまま見ているような気がしたはずである。

アニメからそのまま出てきたような感じに見えたに違いない。

そういう時代である。


それにしても、どういうわけか、我が国のスポーツではいつも最初に偉業を成し遂げるのは女子の方だ。

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「ナメられたら殺す」?

名無し整備兵氏の言葉の意図がよく分からないのだが、本気なのか冗談なのか。そもそも、日本人のほとんどは事大主義者であり、組織や集団の下の方にいる人間、つまり大多数は「ナメられる」のが日常そのものであるから、家庭の父親は家の中で威張ってその精神的補償をしていたのである。それが日本の伝統だ。
「ナメられたら」、商売に差し支えるのがヤクザ稼業や暴力団で、彼らは時には「ナメられたら殺す」を実行するわけだが、それは刑務所に行くことが彼らには勲章ですらあるからだ。殺して得るもののほうが殺して失うものより大きいという計算にすぎない。
さて、この発言者は本気で「ナメられたら殺す」を「日本人が昔から受け継いできた大切なもの」と思っているのだろうか。
そういう心性は、あまり日本人らしくない、と私は思う。そんな人間が客商売、特にコンビニの従業員などしたら、毎日10人くらい殺すことになるだろう。世のなかには、自分がカネを払う立場だというだけで、カネを受け取る側に舐め腐った態度を取る馬鹿は大企業幹部から底辺の買い物客まで無数にいる。

まあ、それはともかく、「他人をナメる人間」や「ナメられることへの異常な拒否感」というのは考察の価値がありそうだ。つまり、名誉とかプライドとか自己愛についての考察であり、面白い心理学的問題だろう。




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「日本人が豊かになって失った、昔から受け継いできた大切なもの」というと、「ナメられたら殺す」とかだろうか






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表現の自由とその限界

まあ、「表現の自由」に限らず、世の中に複数の人間が存在する以上は「私の自由は他人の不自由」であり、「無制限の自由」はありえない、というのは最初の最初から自明なことだと思うのだが、なぜか「表現の自由」に関しては「無制限の自由」を頭から信じて疑わない「狂信者」が多いように思う。
まあ、表現者というのをひとつの階層だとすれば、「無制限の表現の自由」の主張は表現者としてのポジショントークなのではないか、という気もする。それとも、「あらゆる表現は無制限に自由だ」と本気で信じているのだろうか。たとえば、私が気に入らない人間を銃で撃つのも、「私の嫌悪感の表現」だから、許されるのだろうか。
まあ、それはもちろんジョークだ。
ただし、「節度ある表現は本気の表現ではないから、表現の名に値しない」という過激派もいるのだろう。たとえば、服を着るのは文明に毒された行為だから、裸体でいるのが正しい行為だ、と思う人間がいてもいいが、そういう人間が(人間社会の節度を破って)目の前に全裸で現れた時に、私がその醜い肉体を見て受ける精神的苦痛というのがあるわけだ。つまり、一方の自由は他方の不自由であるわけだが、その相剋を穏健に解消するには「常識」と「節度」しかないわけである。
まあ、展覧会などであれば、不快な展示物は見に行かなければいいだけの話で、その展示を公権力で禁止せよ、というのは明らかに行き過ぎである。そのあたりが、憲法で許容された「表現の自由」のボーダーラインなのではないか。
先ほどのヌーディストの話などなら、浴場や、プールの着替え室以外の公の場で全裸になってはいけない、というのは常識にとどまらず、ちゃんと法律で規定されているはずである。
昔、公衆の前を真っ裸で走り廻る馬鹿行為が流行したことがあって、そういう馬鹿はちゃんと逮捕されたのだが、展覧会の展示物が一部の(特殊な)人間にとって不快だからと言って、その展示を禁止してよいとする法律などあるのだろうか。




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  1. シャルリエブドは実際に自国民のテロ犠牲者は風刺の対象にしていないからね。
    1. さんがリツイート
    1. ただ補足しておきたいのは、今フランスで何か事あるごとにシャルリエブドのSNSアカウントはイタリア人の怒りのコメントで溢れかえる。「イタリア人犠牲者を揶揄しておいて自国民の犠牲者は揶揄しないのか」と。いくら表現の自由という建前があっても、誰かを傷付ける表現は根深い嫌悪を生む。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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