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命令服従構造の無い組織は不可能か

PTA役員選びはどこの学校でも揉めるのが普通だが、なぜPTAには無駄な仕事が多いのか、という理由を下のコメントが示している。
これは、PTA役員に自ら立候補して会長副会長という役職を無くし、母親の懇親会的な存在にし、そのついでに学校の見回りなどもすることでいじめを撲滅したという、或る母親についてのスレッドのコメントである。
組織の腐敗は、どんな小さな組織でも組織が宿命的に持っている命令服従構造、つまり権力システムから来る、ということのささやかな例として転載。

(以下引用)




24:鬼女まとめ 2016/06/02(木)19:46 mFJ
会長があるからいけないってほんとそう。

会長って、数回やると出馬の足掛かりや、自営の名売りになるからやりたい人が存在する。
⇒ある程度実績ないと意味ないからバザーなどの行事をやる。
⇒役員大変⇒なんで自分だけ?みんなやれよ!⇒強制的に役員
⇒嫌々なった人が簡略化を訴える⇒会長とかをやりたい人が断固反対の無限ループ

最近、強制PTA役員が全国的に問題になってる。
本当に出来ない人にやらせるって。
母子家庭のママさんとか、ガンのママにも欠席裁判。
断ると村八分、引き受けたら完璧を求められる。

私は何度も簡略化するか、事情がある人は配慮してあげてと言ったけど、
会長副会長に一蹴されたわ。

私は子供関係のボランティアは普通の何倍もこなしてきたけど、
それは他の大変なお母さんにその分楽して欲しいから。
けど、タヒなばもろともな思考の人が多くて困る。


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「風が吹けば桶屋が儲かる」は事実か嘘か

たとえば、マスコミがこれを「親に叱られたショックで子供が死んだ事件(事故)」と書いても、嘘ではないだろうが、出来事の根本を誤解させることになる。
つまり、「出来事を要約して伝える」ことは大きな間違いのもとになりうるわけだ。



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スーパーボールを口に入れて遊んでいた子供を叱ったら驚いて吸い込んでしまい窒息して亡くなったという話を知り、「小さな物を口に入れないよう気をつける」だけでなく「口に入れた時の注意の仕方に気をつける」と心得ています。
特に夏休みで帰省中は親類に情報共有が大切。


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だが、公憤や批判精神は健全な社会の礎である

加藤諦三という人は、私の知っている人物だとしたら、1970年代くらいにやたらに人生論みたいな(人生の先輩から若者への偉そうな忠告みたいな)ことを書いていた人で、私は若かったから当然そういう「上からの説教」には反発していたのでひとつも読んだことは無いのだが、当時はなかなかベストセラーにもなっていたと思う。
まあ、そういう「心に刷り込まれた反発心や嫌悪感」が残っている現在の目で見ても、下の言葉は非常に正しいと思う。
ただし、それは正論を言う人間の心理分析として正しいというだけのことで、正論を言うこと自体が批判される(現在、そういう風潮すらある。)べきでないのは当然のことである。

じっさい、私自身が「社会の規範を守らない人間」大きくはヤクザや犯罪者、小さい場合は入れ墨(刺青)人間や下品なファッションの人間や無神経な人間や狡猾な人間が大嫌いなのは、自分自身が「いつもやりたくないことをやらされていた」からだろうと思う。ただし、その選択は(生きていくための選択として)自分自身で決めたものだから、特別な誰かに不満などまったくない。
あるのは、そういう、「嫌なこと(勉強や仕事などwww)」をしないと生きていけないという世界そのものへの不満だけである。したがって、私は常に「平凡人のユートピア」、つまり理想的社会主義社会を夢見るのだろう。まあ、要するに、現在の科学の成果と文化的蓄積があれば、一部の人間による過剰な収奪という愚行さえ無ければ、ほとんどの人間(平凡人)が週3日の6時間労働くらいで月給25万円くらい(家賃不要で、可処分所得が15万円くらい)得られる社会を作れるはずだ、と私は思っているのである。





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いつもやりたくないことを強引にやらされていた人は、憎しみと怒りがある。すると社会の規範を守らない人を許せない。秩序を乱す人を許せない。正論を盾にして、くやしいことをぶつけている。それは憎しみと怒りが正論に変装して現れてきた姿である。


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「無知」への嘲笑の正否

こういう事象を見て対象となる人々を嘲笑するのは容易だが、その「間違い」の原因や理由まで考えると笑うべきことかどうか分からないのではないか。

テレビ制作者たちは、単に図形感覚が無いとか比率が分かっていないのではなく、世代別の懲戒処分者数の中で「10代~20代」の多さを視聴者に印象づけようという「意図的ミスリード」であったと考えるべきだろう。その証拠に、円グラフの扇形のサイズだけでなく、字の大きさまで変えている。まあ、それにどういう底意があるのかまでは知らない。それが印象操作なら、私は、この種の印象操作は、単なる無知による過ちよりはるかに悪質だと思う。)

ケーキの切れない非行少年たちが、なぜ奇妙な「三等分」の図を描いたか、というのも、理由があると思う。一番単純なのは「三等分」を単に「三つに分ける」ことだと誤解していたというものだ。つまり「等分」の意味を知らなかっただけではないか。(ついでに言えば、「無知」は頭が悪いというのとはまったく別である。これらの非行少年がものすごく頭はよいという場合もあるだろう。)

そんなの(「等分」の意味)は小学校2年か3年くらいで習っているだろう、と言われるかもしれないが、算数の授業に興味の無い子供が毎度毎度授業をしっかり聞いているはずはない。そして、実生活でケーキや何かを分ける場合、「俺が一番体がでかいから(喧嘩が強いから)多く取る」という方法だけでやってきた可能性もある。
だから何だ、と言われたらそれまでだが、物事にはだいたい理由があるのだから、あまり表面だけ見てあれこれ言わないほうがいい、ということである。また、深い意味がある場合には、それを考察するのも娯楽である。




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ケーキの切れないテレビ制作者たち




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群盲、象を撫でる

漫画家大童澄瞳のツィッターから取ったが、社会のもめごとの原因のほとんどはまさにこれである。しかも、見ている対象や見る角度が違うだけでなく、その見ている窓の窓ガラスは親兄弟友人知人や読んだ本や漫画やテレビや映画の影響による偏りや奇妙な画像が入っている。
まあ、こういうのは昔から言われていて、それを「群盲、象を撫でる」と言った。足を触った人、鼻を触った人、耳を触った人、腹部を触った人、尻尾を触った人それぞれが考える象の姿はみな違っている。(筒井康隆がこれを「群象、盲を撫でる」という凄いイメージに変換したwww それはそれで怖い)






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人間の行動は「一事が万事」

「一事が万事」(あるいは「一斑を推して全豹を知る」)というのは人間を観察する際の基本だと思う。どんなに些細なことだろうが、他人の迷惑になる行動(たとえば煙草やゴミのポイ捨て)を平気で取る人間は、いざとなれば他人の生命も財産も踏みにじる行動を取る人間だと私は思っている。その逆もある。人の気づかない小さな善行をする人間は信頼できる。
バルザックの『ゴリオ爺さん』の中で(だったと思う)哲学的悪党ヴォートランが主人公に向かって「美徳ってのは切り売りできないんだぜ」と言ったのは名言である。つまり、ここでは美徳に従い、別の場所では美徳を踏みにじるというのは美徳でも何でもないということだ。
私がヤンキーや暴走族が大嫌いなのもそれである。仲間うちでは仲間内のしきたり(実は力関係にすぎない)に従うが、その枠の外部の人間に対しては平気で迷惑行為をする人間が信頼できるはずがあるだろうか。

  1. 山本貴嗣‏ @atsuji_yamamoto 14時間14時間前
  1. 倫理観ってよほど何か大きな出来事があって改心したりしない限り、若いうちに出来上がってほとんどの人がファイル上書きしないように思う。成人以後は別の風習の集団だと思って距離を置くしかないような。
  2. 3件の返信 19件のリツイート 49 いいね
  1. 「チャリパクくらいいいじゃん」っていう人と「おまえらも昔万引きしてたんだろう?」って人、かなり集合の円が重なってるんじゃなかろうか。しねーわw
  2. 2件の返信 116件のリツイート 262 いいね
  1. 某テック系の人、「昔は平気でチャリパクしてましたねw」みたいな発言を平気でしていたのを見て、一発で無理になった。学生時代にチャリパク被害に遭いまくったのでチャリパクする奴は全員敵だと思っている。犯罪意識を持て。
  2. 33件の返信 4,334件のリツイート 8,652 いいね


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戦場にかけた橋は、あるいは人種間の橋だったのかもしれない

マイエン氏がなぜ「無邪気さを恥じた」のか、よく分からないのだが、私は考察すること自体が趣味なので考えてみる。
「クワイ河マーチ」は映画「戦場にかける橋」の主題曲で、この話の骨子は、日本軍の捕虜になった英軍兵士たちが、日本軍の命令により、英国軍人の指導のもとにクワイ河に橋をかけるが、その完成とほぼ同時に、その橋は(たぶん英軍の爆撃によって)破壊される、というものであったと記憶する。
つまり、戦争の不条理を描いたものであり、べつに日本人や日本軍を愚弄する意図はなかったと思う。とすれば、このドイツ人は日本人小学生がクワイ河マーチに合わせて行進したことをなぜ爆笑したのだろうか。私にはその意味が分からないので、マイエン氏が自分の「無邪気さを恥じた」意味も分からないわけである。
想像にすぎないが、このドイツ人氏は「戦場にかける橋」を、日本軍批判、日本人蔑視の映画だと思い込んでいたのではないか。もちろん、この映画の中には日本人や日本軍の思考(教条主義的な、融通の利かないところなど)を揶揄したような描写もあるが、そこは映画の本筋ではまったくない。むしろ人種を超えた共感(不承不承に始まった協同作業からいつのまにか生まれた連帯感や互いへの理解)が、最後の、橋の崩壊で無残に消滅させられてしまうという、運命の皮肉さがテーマだったと思う。



さんがリツイート

小学生の頃に運動会等で「クワイ河のマーチ」に合わせて行進した話をふとしたら、日本人の子供があれで行進する姿は想像するだにシュールだとドイツ人に爆笑されたことをふと思い出した。何というか無邪気さを恥じた。






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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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