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社会主義と共産主義

話題的には「徽宗皇帝のブログ」に書くような内容だが、あちらには一日で三つも載せてしまったので、こちらに載せておく。
私はマルクスの功績を過小評価する者ではないが、彼以前の社会主義運動(彼が「空想的社会主義」とレッテル貼りをし、嘲笑したもの)の精神を壊滅させ、結果的に社会主義の概念を捻じ曲げ、世界を一層悪化させたその罪は大きいと思っている。

(以下自己引用)



近現代の政治論議を混乱させているのは、政治用語の定義が曖昧なままに議論をしているからではないだろうか。果たして、議論の当事者たちが使う言葉の概念はお互いの頭の中で同じものなのか。


ここで私が特に言いたいのは「社会主義」と「共産主義」の混同であるが、これは辞書ですらその明確な違いを書いていない。(すべての辞書や用語集を確認しているわけではないのは勿論だが。)手元の三省堂「新明解百科語」では、共産主義にも社会主義にもその要素を「私有財産の廃止」と書いており、それならこの両者に根本的な違いは無いことになる。そして、この部分(私有財産の否定)こそが社会主義や共産主義嫌悪や否定論の肝心かなめの部分なのである。


私有財産の否定とは、現に私有財産を持っている人々から、その「余剰」財産を強奪し、財産を持たない階級(プロレタリアート)に配分するということだ。つまり、これは「強盗の論理」である、とほとんどの人は思うだろうし、それは当然だろう。


はたして、社会主義は私有財産を否定しているのか。


マルキシズムではいざ知らず、マルクス一派によって否定された、彼ら以前の社会主義思想において、私有財産の否定を主張した人間は一部だけだと私は理解している。そのような乱暴な主張が世間に受け入れられるはずはない、とまともな頭脳の持ち主なら考えるはずである。


では、社会主義とは何か。それは「socialism」という言葉自体が示していると私は思っている。これと「communism」とを比べれば、違いは明瞭だろう。「com」は共同・共有を意味する接頭辞だ。だからこれを「共産主義」と訳すのは正しいし、共産主義が「財産の共有」つまり、「私有財産の否定」を中心理念とするのも当然だろう。


しかし、「socialism」の「social」とは「社会」の意味であって、そのどこにも財産共有とか私有財産の否定の観念は無い。単に、「個人の欲望だけに囚われず、社会全体の幸福を考えよう」という理念しかそこには無いのであり、マルクス以前の社会主義とはまさにそのような人道主義思想だったのである。だからこそ、多くの善良な人々を惹きつけたのである。


邪推するならば、社会主義と共産主義を同一視させることで、共産主義だけでなく社会主義をも否定させる風潮を作る意図が、出版物などでの社会主義と共産主義の定義のあいまいさにあるのかもしれない。






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「戦争が経済を発展させる」論の嘘

これを「戦争が国(社会と経済)を豊かにした」と言うのは典型的な詭弁だろう。事実は、腐敗した中央政権の束縛から離れ、地方地方が独自に経済を発展させた結果であり、「戦争が」豊かにしたわけではない。
戦争は巨大な消費活動であり、経済を発展させるわけではない。政府が軍事費に惜しみなくカネを使うから、兵器が発達し、その「副作用」として新たな発明や発見があることを「戦争が経済を発展させる」というのも詭弁である。戦争に無関係に基礎研究に国がカネを出せばいいだけの話だ。


(少し前に書いた記事の一部を自己引用しておく。)

実は戦争漫画やアクション漫画を書く漫画家は戦争や暴力を知らず知らずのうちに「人間の業であり、否定するのは偽善だ」と思いがちになると私は見ている。つまり、戦争や暴力を否定すると、それを描いている自分自身への否定になるからだろう。



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中国でもヨーロッパでも戦乱が続くとインフラが崩壊して人口も減るのが普通だけど、日本の戦国時代はむしろ人口が急増してるんだよね。その大きな理由は各大名が領国経営に力を入れて富国強兵を図ったことだとか。その影響で都市経済も大きく発展した。言わば戦争が社会と経済を豊かにした時代。









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「物はあるけど貧しい」とはどういうことか

私などは、飢え死にしないだけでも幸福ではないか、と考える人間だから、「物はあるけど貧しい」というのは「物の価値に(恣意的に)上下の値付けをする」、ブルジョワの思想だと思ってしまう。問題は、実は今の日本では飢え死にしている人間がかなりいるだろうということだ。生活保護すら拒否されている人間やホームレスの人間である。中には犯罪に走る人間もいるだろう。それは、「物がある」とは言っても、それが行き渡らない層があるということだ。百均やコンビニやストロングゼロやユニクロが利用できるのはまだ恵まれているわけである。私などには、ユニクロ製品など贅沢品に思える。コンビニの存在には生存を助けられている。百均はデパートなどより庶民生活にはるかに貢献していると感謝している。
そうしたものを「貧しい」と思うのは勝手だが、では、ゴッホやセザンヌやフェラーリを私有できるような生活が人間の理想なのだろうか。価値観というのは、実は自分で決めることが可能であり、私は、いくらカネがあっても、孫正義や柳井や前澤何とかと自分の人生を取り換えたいとはまったく思わない。数億円の宝石より、草の上の露や青空や白い雲が美しいと思う。
まあ、物があるけど貧しいと言うのなら、それは、たとえば利休が褒めたからと言って、朝鮮の尿瓶を茶器として有難がるような人間のことだろう。いや、尿瓶を茶器としてもいいが、要するに「高い値段がついたから」有難がる心根の卑しさを私は貧しいと言っているのである。
なお、私は、「自分が江戸時代(でも奈良大和時代でもいいが)の人間だったら、今の最底辺の生活でもたいへんな贅沢だと思うだろうな」、と、よく想像する。そういう意味では、人類は確かに進歩しており、時代が進むほど幸福なはずなのである。それが幸福でないのは、実は、「他人と自分を比べる」ことから来ているのだ、と思っている。自分と他人ではなく、今の時代と過去の時代を比べるのは、精神衛生的に有効な思考法である。言い換えれば、幸福も不幸も主観が一番の決定要素だということだ。これをさらに言い換えれば、「我はただ足るを知る」が幸福への指針だ、となるだろう。と言うのは、不幸とは不満とほぼ同じであるからだ。「足るを知る」なら不満ではありえないわけである。
などと言うのは、形而上的な問題解決であり、現実にはカネが無いがゆえの無数の悲惨にこの社会は覆われている。だから私は(世の不幸の救済策として)社会主義を主張するのである。




百均やコンビニやユニクロやストロングゼロに衣も食も満たされている生活のことです。












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残りの日々は熾のように消えていく

別ブログに書いたものだが、新春記念にここにも載せておく。あるいは、前にも転載したかもしれない。タイトルは「セプテンバーソング」による。


(以下自己引用)なお、一部省略。




現実世界と脳内世界

昔の人は生まれた村から一歩も出ずに毎日田畑を耕して一生を送った人も多いわけだが、そういう人生ははたして不幸なのだろうか。
仮に私が刑務所の独房に入れられて、残る生涯を、「カラマーゾフの兄弟」と「戦争と平和」の2冊を読むことしか娯楽が無いという状態で過ごすということになったとしても、それもなかなかいい人生だろうと思う。つまり、私の脳内ではドストエフスキーの頭脳とトルストイの頭脳が同居し、その宇宙と世界が展開されているわけで、これほどの素晴らしい人生はほかには無いとすら思うわけである。たとえば「戦争と平和」ならば、本当ならナポレオン戦争当時のロシア貴族にでも生まれなければ体験できなかった豪華で数奇な人生を平凡な日本人が味わえるのだから。
まあ、できれば読書に最適の環境(特に書見台と照明器具つきの安楽椅子)のある独房であってほしいのだが、実はそれを実現するのも本当は容易だと思う。
要するに、外部の世界より脳内の世界のほうがはるかに素晴らしいのだが、我々は現実人生の中でそれを粗末に扱っている、というのがここでの私の主張である。

なお、書見台と照明器具つきの安楽椅子というのは、起業するカネがあれば私自身で作って売り出してみたいのだが、買い手はかなりいると思う。まあ、歯医者で患者が掛けさせられる椅子にクッションをつけ、歯科医の道具を載せる台ではなく書見台や、飲み物やメモ帳や筆記具などを載せる台や、照明灯がついたものだ。リクライニングでき、寝たくなったらそのまま寝られる。
このアイデアは無料で提供するから、どこかの家具屋が作らないだろうか。10万円くらいならけっこう売れるのではないか。製造原価は2万円くらいと予測する。ただし、「一生もの」の家具として頑丈に作ってほしい。


老年という「リライフ」

これは、人生の残り時間を想定した時の私の考えたこととほぼ同じである。
基本的に、「やりたいこと以外はできるかぎりやらない」ということで、その「やりたいこと」というのは、これまでの人生で選んできた「自分にとっての優良品」をさらに良く味わう、ということである。つまり、急ぎ足で通過してきた「優良品」との付き合いを深めることだ。
要するに、自分の感覚や趣味に適合した芸術作品をじっくり味わいたい、ということである。
まあ、それだけだと飽きるから、多少は「未知との遭遇」も必要だろうが、基本的に、古典、あるいは現代の古典の中にこそ優良品はある、というのが私の考えだ。そして、新しいものの90パーセントはクズである。そんなものと真面目に付き合う時間など無い。その価値が確認されてから付き合えばいい。つまり、新しいものの中から世間と時間がクズを振るい落とし、価値あるものを古典として残してくれるわけだ。黒澤明も宮崎駿もそのようにして選別された現代の古典である。もちろん、手塚治虫など漫画の古典もたくさんある。
たとえば、手塚治虫の「W3」など、子供のころにはさほどいい作品とは思わなかったが、少し前に再読した時には、実にレベルの高い作品だと感じた。つまり、子供では分からないものもあるから、「過去の出会い」は再検討してみるべきなのである。
幸い、古典文学や古典的芸術を味わえる程度の教養は(もちろん、本物の教養人の足下にも及ばないが)蓄積されているから、死ぬまで古典が味わえるだろう。つまり、いつ死んでも、何かを楽しみ、満足した状態で死んでいけるということだ。
老年という時間において、これ以上の幸福は無いと私は思う。過去の人生はそのための準備期間であったとすら思う。そして、この幸福のためには必要以上のカネも地位も女も何も要らないのである。



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いろは歌の「思想」の考察

筒井康隆の「不良老人の文学論」の中に芥川龍之介の「侏儒の言葉」について書かれた小文があって、その最後に「侏儒の言葉」の中にある次の言葉が引用されている。

「我々の生活に欠くべからざる思想は、或(あるい)は「いろは」短歌に尽きているのかもしれない」

もちろん、私は中学生くらいに「侏儒の言葉」は読んでいて、この言葉も記憶にあったが、それを真面目に考えたことはなかった。そもそも龍之介は「人生は一箱のマッチ箱に似ている。真面目に扱うのは馬鹿馬鹿しい。真面目に扱わないと危険である」とも書いた人であり、人生というものを「真面目に扱うのは馬鹿馬鹿しい」と考える人間が、人生に必要な思想は「いろは歌」だけで十分だ、とするなら、それはさほど深遠な思想ではないだろうと私は無意識のうちに考えたのだと思う。
だが、これは芥川流の韜晦で、あるいはこの「いろは短歌」云々は真面目な発言であった可能性もある。とすれば、いろは歌の思想とは何なのか、考える価値もあるだろうが、実は私はいろは歌を真面目に考察したこともなかったのだ。もちろん、語調が良く、見事に歌になっているのも凄いと思うから、さほど苦労もせずに覚えたのだが、その「思想」については、「どうせ、ひらがな四十七文字だか四十八文字だかをすべて一度だけ使って歌にするというアクロバチックな『縛り』で作った歌にロクな思想など入れられるはずはない」と心の底で軽く見ていたと思う。
中には「有為の奥山今日越えて」のように、解釈の難しい部分もあるが、ここで考察してみる。先に、いろは歌を漢字まじり、現代かなづかいで書いておく。


「色は匂えど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ。有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ、酔いもせず」

念のためにひらがな、歴史的仮名遣いで書くと(句読点はつけておく)

「いろはにほへとちりぬるを、わかよたれそつねならむ。うゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑひもせす」(先に書いた時に「こへて」と書いたが、「越ゆ」はヤ行語尾なので「こえて」に訂正する。そうでないと、「へ」が二度出るし。いや、下ネタではない。)

である。
さて、現代語訳してみる。
「匂う」は古文では主に色鮮やかな様であり、嗅覚の「匂う」の意味で使う方が少ないと思う。本居宣長の「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂う山桜花」の「匂う」も視覚表現だ。桜の花には嗅覚的な意味での匂いはほとんど無いと思う。しかも「朝日に(照らされて)」に続くのだから、視覚表現に決まっている。
そこで、いろは歌の「匂う」の主体を補って訳すと

「花は美しく咲き誇っていたが散ってしまった。それと同じく、私が生きるこの世で永遠のものが何があり、不死の人が誰があろうか。生きて何かを為せる、その最期の時を今日踏み越えていくその先では、私は浅い夢も見るまい(見ないだろう)。酔うこともなく」

とまあ、訳してみたが、「有為の奥山」を今日越える、ということを死出の旅路と見たわけだ。そうすると、我々の祖先は手習いや学問の初めに「人生は無常であり、生は永遠ではない」ということを子供に教えたことになる。
まあ、「浅き夢見じ」を「夢見し」と解釈することも可能だろうが、「し」は過去の助動詞「き」の連体形であり、そこで終止するのは不自然なので、やはり「夢見じ」が正しいだろう。「じ」は打ち消し意志か打ち消し推量の助動詞「じ」の終止形か連用形だろう。
そうすると、この無常であり有限である人生をいかに生きるべきかの解答として「浅い夢も見ることなく、酔うこともせずに生きなさい」という、真面目そのものの生き方を推奨していることになるのだろうか。とすれば、これは「人生哲学」としては文部省推薦の思想だろうが、問題はこの部分は「有為の奥山を今日越える」その先の話だ、ということで、実はこれは人生哲学ではなく、死についての哲学ではないだろうか。つまり、死んだら、夢を見ることも無く、酔うことも無いのだよ、と教えていることになり、「生きているうちが花なのだから、せいぜい、浅い夢でも見て、酒でも飲んで楽しく生きなさい」という解釈も可能かもしれない。などと言うのは、言うまでもなく私は夢を見るのも酔うのも好きであり、それが無ければ生きる意味も無いのではないか、と思うからであるwww






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暴力を「暴力無し」で抑止できるか

カカシ氏のこれは全米ライフル協会がよく使う詐欺的論法だが、簡単な話、民間人の銃所有が禁止されていたら、最初からこの事件は起こらなかった。
ただし、話を普遍化して、究極的には暴力は暴力でしか抑えられない、というのなら、少しは理解できる。特に学校のいじめ問題は、学校内に警察駐在員という「暴力装置」を配置することでかなりというか、極限近く抑止できるとは思う。



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こういうのが自力救済社会か(ちょっと違うか)






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地球温暖化害悪説という大嘘

別ブログに書いたもので、同じような考えを前にも書いているが、ここにも転載しておく。私は、嘘というのが大嫌いなので、地球温暖化害悪説というのは、その代表的な嘘だから何度でも批判する。子供でも分かるような嘘を大の大人やマスコミや一部の科学者が真面目に信じたり論じたりしているのが馬鹿馬鹿しくてならない。
なお、地球のエネルギー、特に気温は太陽からの熱で生じているので、太陽の「老化」によって太陽からの放射熱はどんどん低下し、数百万年後か数千万年後には太陽は死滅し、地球はその前から凍えて破滅するのである。つまり、地球は寒冷化していくのが当然の定めだ。

(以下引用)


地球温暖化が地球環境の悪化をもたらすという大嘘



地球温暖化説というのは大嘘だと私は思っているのだが、その理由のひとつは、地球温暖化が地球環境を悪化させるメカニズムを誰も説明していないことだ。なぜ温暖化が異常気象の原因になるのか。ひどい場合は異常寒波も温暖化が原因だ、ということさえ言われるwww 
どの記事を見ても、温暖化と異常気象が結びつくメカニズムをまったく説明しないのである。
ちなみに、人間の生活の大敵は「温かさ」ではなく「寒さ」である。温かくて死ぬ人間はいないが、寒さで死ぬ人間は膨大にいる。エネルギーとは熱量(カロリー)とほとんど同じであり、人類は「熱」を作るために途方もない苦心を重ねてきたのだ。我々の住む家も衣服も、寒さ対策が根底にある。食物は「熱」で調理する。温暖化は、その苦労を軽減させる意味で、人類への災いではなく、恩恵(天の恵み)と考えるのが当然の理屈だろう。


(以下「ウィキペディア」から転載)赤字部分は筆者による強調。わりと正直でまともな記述の部類である。


地球温暖化は、気温や水温を変化させ、海面上昇降水量(あるいは降雪量)の変化やそのパターン変化を引き起こすと考えられている[注釈 7]洪水旱魃酷暑ハリケーンなどの激しい異常気象を増加・増強させる可能性や、生物種の大規模な絶滅を引き起こす可能性も指摘されている[注釈 7]。大局的には地球全体の気候生態系に大きく影響すると予測されている[注釈 7]ただし、個々の特定の現象を温暖化と直接結びつけるのは現在のところ非常に難しい。 こうした自然環境の変化は人間の社会にも大きな影響を及ぼすと考えられている。真水資源の枯渇、農業漁業などへの影響、生物相の変化による影響などが懸念されている[注釈 7]。2–3°Cを超える平均気温の上昇が起きると、全ての地域で利益が減少またはコストが増大する可能性がかなり高いと予測されている[注釈 8]。温暖化を放置した場合、今世紀末に5–6°Cの温暖化が発生し、「世界がGDPの約20%に相当する損失を被るリスクがある」とされる(スターン報告)。既に温暖化の影響と見られる変化が、世界各地で観測され始めている[注釈 9]



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酔生夢人
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男性
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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