私はマルクスの功績を過小評価する者ではないが、彼以前の社会主義運動(彼が「空想的社会主義」とレッテル貼りをし、嘲笑したもの)の精神を壊滅させ、結果的に社会主義の概念を捻じ曲げ、世界を一層悪化させたその罪は大きいと思っている。
(以下自己引用)
近現代の政治論議を混乱させているのは、政治用語の定義が曖昧なままに議論をしているからではないだろうか。果たして、議論の当事者たちが使う言葉の概念はお互いの頭の中で同じものなのか。
ここで私が特に言いたいのは「社会主義」と「共産主義」の混同であるが、これは辞書ですらその明確な違いを書いていない。(すべての辞書や用語集を確認しているわけではないのは勿論だが。)手元の三省堂「新明解百科語」では、共産主義にも社会主義にもその要素を「私有財産の廃止」と書いており、それならこの両者に根本的な違いは無いことになる。そして、この部分(私有財産の否定)こそが社会主義や共産主義嫌悪や否定論の肝心かなめの部分なのである。
私有財産の否定とは、現に私有財産を持っている人々から、その「余剰」財産を強奪し、財産を持たない階級(プロレタリアート)に配分するということだ。つまり、これは「強盗の論理」である、とほとんどの人は思うだろうし、それは当然だろう。
はたして、社会主義は私有財産を否定しているのか。
マルキシズムではいざ知らず、マルクス一派によって否定された、彼ら以前の社会主義思想において、私有財産の否定を主張した人間は一部だけだと私は理解している。そのような乱暴な主張が世間に受け入れられるはずはない、とまともな頭脳の持ち主なら考えるはずである。
では、社会主義とは何か。それは「socialism」という言葉自体が示していると私は思っている。これと「communism」とを比べれば、違いは明瞭だろう。「com」は共同・共有を意味する接頭辞だ。だからこれを「共産主義」と訳すのは正しいし、共産主義が「財産の共有」つまり、「私有財産の否定」を中心理念とするのも当然だろう。
しかし、「socialism」の「social」とは「社会」の意味であって、そのどこにも財産共有とか私有財産の否定の観念は無い。単に、「個人の欲望だけに囚われず、社会全体の幸福を考えよう」という理念しかそこには無いのであり、マルクス以前の社会主義とはまさにそのような人道主義思想だったのである。だからこそ、多くの善良な人々を惹きつけたのである。
邪推するならば、社会主義と共産主義を同一視させることで、共産主義だけでなく社会主義をも否定させる風潮を作る意図が、出版物などでの社会主義と共産主義の定義のあいまいさにあるのかもしれない。