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日本の男の不自然さと日本の女の自然さ

前の記事で井口博士のことに触れたついでに、久しぶりに博士のブログを読んだので、その記事の一部を引用しておく。日本では男が威張っているが、実は世界で通用するのは日本の女である、という話。
その理由を私なりに考察すると、日本の男は日本社会や組織の中で生きることで人生を縛られ、考え方までその枠内で限定されているのに対し、女性は、「まず自分や自分の周囲の人間を第一に考える」という自然さがあるからではないか。つまり、日本社会や組織へのくだらない忖度が無いから、(個人を個人として評価する)世界に出ると活躍できる、というのが私の仮説である。
日本の老人が、男はみなゾンビのようになり、女性は年を取るほど明るくなる理由もその辺(組織人として生きるか個人として生きるか)にありそうだ。




(以下引用)


ところで、先日山梨の実家に帰ったとき、たまたま高校時代のサッカー部の同窓会があって、それにも出たんだが、みんなが明瞭に覚えていたことがあった。

なにか?

練習中に監督からビンタされたとか、
ホイッスルで頭を殴られたとか、
スパイクの裏で顔面を殴られ歯が折れたとか、
大事な試合前にしこたましごかれたとか、
夏合宿で死にそうで逃亡計画を考えたとか、
女子マネージャーに振られたとか、。。。

要するに、痛い思いをしたことだけを覚えていたんだナア、これが。

楽しかったことや当たり障りのなかったことや良かったことはすっかり忘れ去られていたのだ。

だから、おそらく我々と似た時代を生きた岡本綾子は、我々と同じように、痛い思いをしたことやそういう場面ばかり覚えている。

したがって、解説のたびに、自分はこういう痛い思いをした。こういう失敗をした。そんな言葉がついつい口に出る。


しかしながら、今の若い選手は、ジブリアニメで育ち、まさに「君の名は」「この世界の片隅に」「天気の子」の中で描かれている日本女子のようなメンタルで成長しているわけだ。

それに描かれたその日本にあこがれて、いまや日本全国の高校に年間30万人もの海外からの留学生がいる。


おそらく、この渋野日向子選手の笑顔や立ち居振る舞いや仕草を見た欧米の若者たちは、何か日本のアニメの世界をそっくりそのまま見ているような気がしたはずである。

アニメからそのまま出てきたような感じに見えたに違いない。

そういう時代である。


それにしても、どういうわけか、我が国のスポーツではいつも最初に偉業を成し遂げるのは女子の方だ。

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「ナメられたら殺す」?

名無し整備兵氏の言葉の意図がよく分からないのだが、本気なのか冗談なのか。そもそも、日本人のほとんどは事大主義者であり、組織や集団の下の方にいる人間、つまり大多数は「ナメられる」のが日常そのものであるから、家庭の父親は家の中で威張ってその精神的補償をしていたのである。それが日本の伝統だ。
「ナメられたら」、商売に差し支えるのがヤクザ稼業や暴力団で、彼らは時には「ナメられたら殺す」を実行するわけだが、それは刑務所に行くことが彼らには勲章ですらあるからだ。殺して得るもののほうが殺して失うものより大きいという計算にすぎない。
さて、この発言者は本気で「ナメられたら殺す」を「日本人が昔から受け継いできた大切なもの」と思っているのだろうか。
そういう心性は、あまり日本人らしくない、と私は思う。そんな人間が客商売、特にコンビニの従業員などしたら、毎日10人くらい殺すことになるだろう。世のなかには、自分がカネを払う立場だというだけで、カネを受け取る側に舐め腐った態度を取る馬鹿は大企業幹部から底辺の買い物客まで無数にいる。

まあ、それはともかく、「他人をナメる人間」や「ナメられることへの異常な拒否感」というのは考察の価値がありそうだ。つまり、名誉とかプライドとか自己愛についての考察であり、面白い心理学的問題だろう。




さんがリツイート

「日本人が豊かになって失った、昔から受け継いできた大切なもの」というと、「ナメられたら殺す」とかだろうか






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表現の自由とその限界

まあ、「表現の自由」に限らず、世の中に複数の人間が存在する以上は「私の自由は他人の不自由」であり、「無制限の自由」はありえない、というのは最初の最初から自明なことだと思うのだが、なぜか「表現の自由」に関しては「無制限の自由」を頭から信じて疑わない「狂信者」が多いように思う。
まあ、表現者というのをひとつの階層だとすれば、「無制限の表現の自由」の主張は表現者としてのポジショントークなのではないか、という気もする。それとも、「あらゆる表現は無制限に自由だ」と本気で信じているのだろうか。たとえば、私が気に入らない人間を銃で撃つのも、「私の嫌悪感の表現」だから、許されるのだろうか。
まあ、それはもちろんジョークだ。
ただし、「節度ある表現は本気の表現ではないから、表現の名に値しない」という過激派もいるのだろう。たとえば、服を着るのは文明に毒された行為だから、裸体でいるのが正しい行為だ、と思う人間がいてもいいが、そういう人間が(人間社会の節度を破って)目の前に全裸で現れた時に、私がその醜い肉体を見て受ける精神的苦痛というのがあるわけだ。つまり、一方の自由は他方の不自由であるわけだが、その相剋を穏健に解消するには「常識」と「節度」しかないわけである。
まあ、展覧会などであれば、不快な展示物は見に行かなければいいだけの話で、その展示を公権力で禁止せよ、というのは明らかに行き過ぎである。そのあたりが、憲法で許容された「表現の自由」のボーダーラインなのではないか。
先ほどのヌーディストの話などなら、浴場や、プールの着替え室以外の公の場で全裸になってはいけない、というのは常識にとどまらず、ちゃんと法律で規定されているはずである。
昔、公衆の前を真っ裸で走り廻る馬鹿行為が流行したことがあって、そういう馬鹿はちゃんと逮捕されたのだが、展覧会の展示物が一部の(特殊な)人間にとって不快だからと言って、その展示を禁止してよいとする法律などあるのだろうか。




  1. さんがリツイート
  1. シャルリエブドは実際に自国民のテロ犠牲者は風刺の対象にしていないからね。
    1. さんがリツイート
    1. ただ補足しておきたいのは、今フランスで何か事あるごとにシャルリエブドのSNSアカウントはイタリア人の怒りのコメントで溢れかえる。「イタリア人犠牲者を揶揄しておいて自国民の犠牲者は揶揄しないのか」と。いくら表現の自由という建前があっても、誰かを傷付ける表現は根深い嫌悪を生む。


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軽はずみな絶望

漫画家山本貴嗣の昔のブログ記事の一部だが、「軽はずみな絶望」という表現が面白く、また日本人論としても示唆的だと思うので転載する。
山本氏は「戦闘(アクション)漫画」をたくさん描いている人で、そういう人はなぜか(まあ、自衛隊などに取材して仲間意識が植えられるのだろうが)政治的にも右翼的(基本的に闘争を「現実」として肯定し、平和を単なる観念だと見做す。)であることが多く、実際氏はその傾向があるので、私は氏の思想的対立者だが、彼のブログやツィッターはよく読むのである。
「日本人は物事をあきらめやすい」というのは日本人の大きな特徴かと思う。K・V・ウォルフレンの「シカタガナイ」である。だが、日本が「頭から腐」(スゥイフトが狂死する少し前に、庭の樹を見て、「俺はあの樹と同じだ。頭から腐っていく」と言ったという。)ろうとしている今、あまりに軽はずみに絶望するのは、自分の子や孫に対して顔向けできない卑怯そのものの行為だろう。

(以下引用)


 30年近く昔の話ですが、友人が大学の授業で聞いた話で、子どもが襲われたときの母親の反応。
 アメリカなどでは、子どもを背中に隠して敵に正面を向けて立ちはだかるのに対し、日本では子どもを抱きかかえるようにして敵に背中を向けてしまう。
 それじゃいいように殴られたり刺されたりして危ないだろうとも思うんですが、それが民族性なんだから仕方がないです。どうせケンカじゃ勝てないから精一杯守ろうという母心でしょうか。気持ちはわかります。
 30年も昔の授業のことで、今は心身ともに当時よりも欧米化が進んでるかもですから、そのまま当てはまるかどうかは不明ですけど。

 ただ、それに類する話で私にも思い当たることがありまして

 昔武術の取材をしていて聞いた話で、日本人はすぐあきらめる。
 Aという技(たとえば前進しながら敵の腕を巻き込むとか)をかけて相手が倒れないと、あ、これはダメなんだと、やめてしまう。
 たとえば、その同じ技をそのまま前進しながら三回連続すれば倒れるのに、一回でやめてしまう。
 これは無駄な技をゴリ押しで繰り返すのとは意味が違います。
 銃器にも三点バーストというのがありますね。同じ銃の弾丸でも、集中して三発、連続してほぼ同じポイントに叩き込むことでより確実に威力を増す。
 いさぎよいというのは、ある種の美徳、美点ではあるのでしょうが、それがTPOを誤ると軽はずみな絶望になってしまう。

 一を聞いて十を知ったつもりになるのは危険ですが、
 この「潔さ」をはき違えた「軽はずみな絶望」は、今の日本社会を覆う多くの精神面の病理に関係があるのではないか。
 私の集められるデータではあまりに限りがあって、なんらかの結論を出すのは無理なんですが
 何かそういう機会のある方は、お調べになってもおもしろいかもと思いました♪

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家族原理の擬制化

小田嶋隆師のネット記事の一部だが、「家族原理」という主題は考察対象として面白い。
まあ、家族というのは「感情的紐帯」であり、ことさらに頭で理屈付ける必要もないのが普通だろうが、一生の大半を一緒に暮らす存在であるからには、恋愛や結婚や仕事と同様に重大な社会システム、あるいは生存システムだろう。家族に較べれば、恋愛など暇人の趣味のようなものだ。嫌になったらいつでも関係を絶てる。家族はそうはいかない。まあ、いかないこともないが、かなりな精神エネルギーを要するだろう。
逆に、家族であることの幸福も、無限大である。家族のため、特に自分の子供のためなら自分の命を犠牲にしてもいいという親は、かなりな割合に上ると思う。というのは、子供というのは「自分自身の生まれ変わり」であるからだ。つまり、自己愛の一種としても子供は愛されるが、実は、「自分の生まれ変わりだが、自分そのものではなく、だからこそ余裕を持って眺めることが楽しくでき、しかも自分より長くこの世に生きてくれると期待できる」のが子供だと言えるのではないか。自分が死んでも別の自分、自分の分身がこの世界で生きている、というのはなかなか楽しい空想だろう。
というわけで、私は家族という「制度」に肯定的だが、会社やチームなどの社会組織を家族原理で運用するという、「家族の擬制化」は、小田嶋師の言うように、かなり気持ち悪い。つまり、そこではどのような理不尽も「家族なんだから」という一言で許され、権力保持者にとって実に都合のいい事態が生じるからである。
なお、「擬制」というのは、私は調べたことは無いが、「制度もどき」ということだろう。制度なら、はっきりとした規約などが明文化されているが、「制度まがい」「制度もどき」だから、すべてがなあなあで、上の人間に都合よくすべてが運ばれるわけである。まさに、今回の吉本事件は、その「家族という擬制を悪用した社会集団」の話なのである。
なお、法的には通常の意味での家族というのは「制度」となっているとは思うが、確かめてはいない。法律の条文など、必要が無いとほとんど読まないからだ。
よけいな付け足しをすれば、細田守監督の「サマーウォーズ」は娯楽アニメとしてはいい出来だが、その中心思想が「家族の絆の聖化」であり、「権力は素晴らしい」というものだと私は思うので、全面的肯定はしにくい危険なアニメだとも思っている。(私は読んでいないが、断片的に仄聞した限りでは、町山智弘も、たぶん同じ意見だと思う。)であるから、前に一度二度見たが、最近録画したそれも、今見たらあまり楽しくないだろうな、ということで見ていない。

(以下引用)



《私が「家族」「結界」の話を持ち出したのは、吉本興業の会長が「うちの芸人たちは家族だと思っているから、いちいち契約書は交わさない」と言ったからだ。社員数人の家族経営ならいざしらず、売り上げ何百億の企業が、「家族」なんていう不合理かつ抑圧的な原理で運営されて良いはずがない。 22:08-2019年7月24日



《年間売り上げ何百億円の大企業が、「家族」の美名のもと、契約書すら交わさずに所属タレントを使役している「不合理」さと「抑圧」を指摘したわけで、つまり「家族」が実際の「家族」の枠組からはみ出して、「擬制」として巨大な組織に適用される時、それは抑圧的な原理に変貌するということです。
RT:@xxx『「家族」なんていう不合理かつ抑圧的な原理』って、世界の大半の人間は、何かしらの家族に属し、自らの家族を愛し、そのことについて疑問を感じずに生きてるんですけど、そういう人達に喧嘩を売っていると読み取っていいのかな、これは 8:12-2019年7月24日



 以上のツイートの流れを追えばわかっていただけると思うのだが、私は、「家族」への愛情や帰属意識そのものを攻撃したのではない。家族的なつながりの価値を否定しているのでもない。



 私が一連のツイートを通じて強調しているのは、法に基づいたコンプライアンスを重視すべき企業が、「家族原理」を持ち出すことへの違和感だ。理由は、わざわざ説明するまでもないことなのだが、血縁上の文字通りの家族以外のメンバーを対象に拡張的に適用される家族原理は、多くの場合、不合理な支配隷従関係の温床となるからだ。具体的に言えば、安易に拡張適用された「家族」は、上位者による抑圧を正当化する内部的な桎梏として、下位者を集団に縛り付ける。そして、吉本「一家」の擬制は、世にあまたある「一家」を名乗るアウトロー集団がそうであるように、現代の企業としては論外の存在だ。もちろん、政府から補助金を受ける企業としては、さらにさらに論外だし、地方自治体の協力企業としても万国博覧会の看板を背負う会社としても、完全に資格を欠いている。




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ユダヤ人問題の本質を考える


例によって、漠然とした事柄を、考えながら書いていくつもりで、どういう結論になるか、あるいは結論が無いままになるかは分からない。

柄にもないテーマだが、ここで考えるのはユダヤ人問題で、大きく言えば、理性と感情の対立という問題でもある。なぜ、ユダヤ人は歴史的にあれほど迫害されてきたのか、ということの考察でもある。そもそも、ユダヤ人とは何か、という明確な定義さえ無いと言われているのに、あれだけの執拗苛烈な迫害はなぜ生じたのか、ということだ。
ここでは、いつも私が批判の対象としているユダ金のことは論じない。彼らも、ある意味ではユダヤ人的な存在だからこそユダ金と言っているのだが、彼らが本当にユダヤ人であるというのではなく、「ユダヤ人的」と私が思うから、ユダ金と言っているわけで、世界には貧しいユダヤ人も無数にいたし、そのほとんどは善良そのものの人だっただろう。しかし、一部の「ユダヤ的」な大金持ちが社会に絶大な権力をふるい、世界を悪化させてきたことは確かであり、その行動もまた「ユダヤ的」だと多くの人が思ったから「ユダヤ陰謀論」はネット世界でも根強い支持を得ているのだと思う。
では、「ユダヤ的」とは何かと言えば、それは「強固な(概して宗教的な)信念と強固な理性、強固な意志力、その結果としての、非理性的なものごとの排除と非人間的な酷薄さ」ではないか、ということである。まあ、これは取り敢えず書き並べたことだ。簡単に言えば、彼らは「理性(知性)の化け物」ではないか、と多くの非ユダヤ人は感じ、それを明確に言語化できないまま嫌悪してきたのではないか、ということである。
つまり、多くの人々は、彼らの知性を恐れたのだ、というのが私の考えだ。ただ、それを認めると彼らを排除することは不可能になる。数では勝る劣等者たちが、数の少ない優越者を排除する(排除しないと、彼らが社会の上位に行き、自分たちを支配するだろう)には、彼らに「難癖」をつけ、むしろユダヤ人こそが劣等民族だというレッテル貼りをするのがいい、と欧州社会の人々は考え(もちろん、明確な思考ではなく、直観的に考えたのだろう)、あれほどのユダヤ人差別を行ってきたのだろう、というのが私の考えである。
そして、そのユダヤ人への恐怖には、同情すべき面があり、それは何かと言えば、「理性はしばしばその社会の道徳感情と対立する」ということである。たとえば、男性優越主義が当たり前であった封建時代に、男女平等思想を打ち出せば、とんでもない不道徳だ、とされただろう。道徳とは基本的に、その社会、その時代の常識でしかないのである。だが、その道徳に反する思想や行動は、当然ながら非難迫害の対象となる。
これは、ユダヤ人たちがその社会の道徳に公然と反抗したということではない。ただ、欧州社会は、「彼らの道徳は自分たちの道徳とは違う」ということに恐怖を感じていただろう、ということである。
道徳の違うグループが共存できるかどうか、それは現在、白人社会とイスラム移民の軋轢の形で問題化しているのである。つまり、この世界の表面からほとんど消えたユダヤ人差別に代わり、イスラム差別が生じてきたわけだが、白人社会というのは、常にそうした感情的な「仮想敵」を作ることで人民支配をしてきたのだろう。
感情というのは、理性ではコントロールできないから厄介なのである。それは男女の恋愛などを見れば明白なことだ。(これを、ロシアの神秘思想家グルジェフは、「知性と感情は別のセンターを持っている」と言っている。)











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客人嬰児氏の「ネトウヨ論」、の考察

「ネットゲリラ」読者コメントのひとつだが、ひとつの「ネトウヨ」論として考察材料にしてみる。
「客人嬰児」という名前はこれまで「ネットゲリラ」読者コメント欄で数回見ていると思うが、印象に残るコメントはひとつも無く、どういう政治姿勢でどういうキャラの人かは分からない。まあ、長い文章が書け、誤字は無いから、物事を論じることができるレベルの人ではあるようだ。「感情的で情緒に溺れ……感傷的な」と、同じ内容の言葉を続けるあたりは、論理ではなくその時々の思い付きだけで文章を書いているという、私に似たところもあるようだwww 

で、下のコメントは、「ネトウヨ」は誤解されている、という趣旨だが、それがどう誤解されているのかという記述はなく、「ネトウヨとは、日本国民そのものだ」という結論になっている。
つまり、右翼も左翼もノンポリも含めて、日本国民はネトウヨだ、というわけだが、その特性は大雑把に言えば「反知性主義(つまり、インテリ嫌悪)で、感情的で、保守的」ということになるかと思うが、これは日本国民だけでなくどの国でも一般大衆はそうだろう。アメリカでトランプが一般大衆に支持され大統領になった理由もそれだ。
で、客人嬰児氏が「ネトウヨとは日本国民そのものだ」と言うのは、その論に従えば、氏が日本人なら氏自身もネトウヨだ、ということであり、ネトウヨでないなら氏は日本人ではない、ということになる。「客人」という名前からして在日外国人かもしれないが、もしも日本人だとしたら、相当な自民族嫌悪感情の持ち主だろう。
「アテネ人はみな嘘つきだとアテネ人が言った」としたら、その発言は真か偽か、という命題があるが、このネトウヨ論は、発言者が何者かで妥当か否か判断されて良さそうな論である。

言うまでもなく、私は「ネトウヨとは日本人の悪い部分を煮詰めた存在であるが、そうでない日本人が大部分だ」という意見である。


(以下引用)





あまりにも誤解されているように思うので「ネトウヨ」に関してヒトコト述べます


「ネトネトウヨウヨ」はムラ社会が気の遠くなるほど昔から鄭重に「育成」してきた


通常人の一般的な資質であって決してネトウヨ諸君だけ例外的存在なのではありません


反知性主義に包まれ感情的で情緒に溺れ客観性を微塵も持てずに感傷的な人生観を持ち


自民族優先主義に酔いつつ新しいことは怖れて避け「己の狭量さは徹底して無視する」


これは新聞テレビ局に勤めるほとんどのムラ人間や学校教師にも共通する要素です


同時にテレビ雑誌新聞など各種メディアが広めてきた「ニッポン人の正常な資質」です 


さらに上級/低級の職階を問わず国家役人および地方役人の圧倒的多数に遺伝的あるいは


種痘のように植え付けられている「本能的性癖」です本来ムラ社会とはそういうものです 


      ネトウヨとは無知と前例踏襲主義の新たな野合を意味します


つまり「ネトウヨ」こそ愚かで卑怯で夜郎自大な日本人の基本的性格/資質なのです/艸。




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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