「疎外」について調べた時に読んだ、この部分(引用予定だった部分だが、引用できない。)は非常に興味深い。善性を自己の外部のもの(神)として象徴化すると、それは「自分には無関係なもの(自分の責任ではないもの)」となって疎外が進行するわけだろうか。つまり、自分の内発的な行動として善行や悪行を行うのではなく、「神の命令や掟」として行動するわけで、或る種の「無責任な行動」になるわけである。「だって、俺の意志じゃなく、神のせいだもんね」ということだ。
こういう(象徴への)責任転嫁はあらゆる組織で生じるが、それは組織の上位層にとって都合がいいだけでなく、下位の人間の「精神安定剤(あるいは麻薬)」にもなるわけである。そして、その結果として無数の善行と悪行が「無責任に」発生する。その意味では明治から昭和初期までの天皇制も宗教組織も同じだろう。
*「疎外」についてのウィキペディア記事、特にフォイエルバッハとマルクス思想の関係についての記述を引用しようとしたが、コピーすると文字化けするので引用ができない。ウィキペディアに疎外されてしまったwww
こういう(象徴への)責任転嫁はあらゆる組織で生じるが、それは組織の上位層にとって都合がいいだけでなく、下位の人間の「精神安定剤(あるいは麻薬)」にもなるわけである。そして、その結果として無数の善行と悪行が「無責任に」発生する。その意味では明治から昭和初期までの天皇制も宗教組織も同じだろう。
*「疎外」についてのウィキペディア記事、特にフォイエルバッハとマルクス思想の関係についての記述を引用しようとしたが、コピーすると文字化けするので引用ができない。ウィキペディアに疎外されてしまったwww
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