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身体髪膚之を父母に受く 敢えて毀傷せざるは孝の初めなり

禁固刑や懲役刑が犯罪者更生には役に立たないというのには賛成だが、鞭打ち刑もさほどの効果はないだろう。
私のお勧めは、顔(額)に特定の入れ墨をすることである。カインの印だ。そうすれば、その人間を見ただけで他人は近づかなくなるだろうし、近づく馬鹿は勝手に被害を受ければいい。
入れ墨と同時に、身体の一部を切除する。泥棒ならまずは人差し指1本の切除。再犯ごとに他の指も1本ずつ切除する。レイプ犯なら男根切除である。ただし、レイプか和姦か女性による陥れかの判断は困難だろうから、再犯の場合のみでいいだろう。
要するに犯罪使用箇所の切除だが、そうすると経済犯は頭部切除かwww まあ、全財産没収が、カネの亡者には一番手痛い刑罰だろう。
重犯者には断種手術が適当。女性犯罪者には、鼻削ぎがいいのではないか。これが一番きつい刑罰だろう。結婚詐欺の男も同じく鼻削ぎ。
まあ、こうした身体部位の切除という刑罰(法律用語は失念)というのは、犯罪以外での身体障碍者が犯罪者と間違われるという人権問題から忌避されているのだろうが、入れ墨との併用で、その誤認は防止できるかと思う。
ついでに言えば、政治犯(政治批判・政権批判)というのは現在の政治によって不幸になる人を救うための人道的行動だから、テロリスト以外は犯罪ではない。

(以下引用)






スターシップ・トルーパーズか。








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負の感情は原始的なだけに厄介

この言葉に関しては山本氏に完全に同意する。
私がしばしば書いている「理性は感情を制御できない」の、「感情」もだいたいは負の感情である。
負の感情が制御しにくいのは、それを発揮することで自分の利益の拡大を目指している場合がほとんどで、愛や慈悲というのは、「自分の持ちだし」になるからではないか、と推測している。つまり、愛や慈悲というのは、その行為によって自分に当面の不利益が生じても、大きな意味ではそれで良いという、高度に理性的な判断を要するものではないか。
言葉を代えて言えば、怒りや憎しみをそのまま発揮するのは原始的な頭脳レベルの人間だろう、ということだ。
これはただし、怒るなとか憎むなということではない。それは人間には不可能だろう。その感情を自分の中で冷静に検討する時間を持て、ということだ。
なお、感情というものは、それを外部に出すことで自ら増幅される。怒りだすとその怒りがエスカレートしていくのである。
また、「演技としての怒り(脅迫的言動)」(指導的立場の人間がよくやる)というのもあるが、それはまた別の話。




  1. 半面、愛や慈悲はむつかしい。自分によくしてくれる者を愛するなら犬猫でもできる、という言葉があるが(ちょっと犬猫に失礼だが)それを超えたものを持つには、いささかの素質と訓練がいる。怒りや憎しみには必要ない。ただ傷つけるだけでいい。そこがどうしてもむつかしい。



  2. 怒りとか憎しみ恨み、その他負の感情を煽るタイプのものは、政治から日常まで無数に見受けられる。火が付きやすく燃え広がりやすいし、あまり才能や技術がなくても誰でもできる。



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証言を聞くことが不可能な証言者もいる

「見えないものは存在しない」つまり、我々の意識には上らない、ということを我々はよく注意して物事の判断をしなければならない、ということで、「イルカの美談」を鵜呑みにする前に、下のツィートのようなシビアな見方を心すべきだろう。
まあ、イルカは可愛いから、沖に向かって突つかれた人はどうでもいいや、という意見は、それはそれでひとつの人生哲学だ。






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「海上で遭難したらイルカが押して岸に送ってくれた」という話を時々聞くけれど、沖に向かって突つかれた人の証言をわれわれは聞くことができないのである。




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悪事の爽快さと同情を受ける不愉快さ

別ブログにかなり前に書いた記事だが、今読んでも我ながら面白く、特に青少年の非行に関わる仕事をしている人なら、なぜ彼らが非行をするのか、そして真面目な人たちには、漫画などではなぜ不良少年がヒロインとくっつくのか、という問題のヒントになるだろう。

(以下自己引用)


悪を働くことと同情を受けること



彼らは盗みを働くかもしれないし、死人の口から金歯を抜き取るかもしれない。でも正面から差し出された贈り物は決して受け取ろうとはしない。というのはほんのわずかでもお情けのにおいのするものには、それが何であれ、彼らは我慢ならないからだ。


「感謝祭の客」(トルーマン・カポーティ 村上春樹訳)より



この部分は非常に面白いと思ったので、思索のネタとする。つまり、悪事を働くことは慈善や同情を受けるより容易である、あるいはその反対の言い方をするなら、他人の慈善や同情を受けるくらいなら悪事を働くほうがマシ、という心理はなぜ起こるのか、である。
実際、他人からの同情ほど嫌なものは無い、というのはかなり普遍的な心理である。
悪事を行うのは或る意味「自分が強者であることの証明」である。実際、悪事の結果は処罰であり、その処罰の可能性を知りながら悪事を行うことは勇気の証明だ、となるわけだ。これが子供がしばしば万引きなどの小さな悪事をしたり、悪事をすることを「仲間入り」の条件とする理由である。悪事が一種の通過儀礼であるわけだ。「これでお前もめでたく悪の仲間入り」である。原始的な部族がバンジージャンプなどで勇気を証明することで大人の仲間入りをするのと変わりはない。「悪事をする俺ってカッケー」と思っていない不良はいないだろう。そして、そういう不良を素敵と思う馬鹿な女の子も膨大にいる。実際、単に勇気という点だけで言えば、悪を行うことは勇気ある行為ではあるのだから、それを男らしいと見るのもあながち間違いだとも言えないのだ。ただ、馬鹿な勇気であり、ロクでもない人間であることの証明でもあるだけの話だ。
さて、では、他人からの同情や慈善を受けることがあれほど不愉快なのはなぜか、と言えば、悪事との対比で分かるように、それは「自分が弱者であることの証明」だからである。弱者だから同情され慈善を受けることになる。ならば、その同情や慈善を突っぱねることでしか「弱者の位置」から抜け出せないのは当然だ。
要するに、悪事を冒すことは自己愛をむしろ喜ばせ、慈善や同情を受けることは自己愛を傷つけるという、「人間は自己愛の動物である」という基本原則でこの問題は解答が出るのである。

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「やつは敵である。敵を殺せ」は人類を呪縛する呪いの言葉

埴谷雄高のこの言葉は、昔読んだ時にはあまりピンと来なかったのだが、政治や歴史に興味を持つようになると、まさに政治と歴史の実相はこの一言に尽きていると感じる。
そして、国民が容易に政治家(一般人でもこれに近いことを言う。)のこの言葉に煽動されるのは、前に言ったように「感情は理性では制御できない」からである。感情を理性で制御できると思っている人がいたら、その頭をぶん殴ってみるがいい。その人の心は即座に怒りと屈辱で燃え上がり、制御を失うだろう。
なお、この「呪いの言葉」の対極にあるのが、キリストの「汝の敵を愛せよ」であるが、どのような政治家もこの言葉を前面に押し立てたことはない。それは、「言った瞬間に(国民に憎悪され)自分自身が敗北する」と心の底で思っているからだ。(キリストに近い思想の政治家が、鳩山由紀夫氏だっただろうと私は思っている。)
相手を敵と味方に分けることで自分が「味方の集団の中にいる」と思うことが、人に限りない慰安を与え、そして安倍や橋下のような政治家に都合よく行動するのである。それを愚民と言う。





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これまでの政治の意志もまた最も単純で簡潔な悪しき箴言で示すことができるのであって、その内容は、これまで数千年の間つねに同じであった。

 やつは敵である。敵を殺せ。

(埴谷雄高)






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民族差別と迫害の心理分析

異国の人間、あるいは他文化圏の人間が隣にいる時の居心地の悪さというのは何が理由か。
それは、要するに「こいつとはコミュニケーションが困難だろう」と即座に予想されるのが第一の理由だろう。
と言うことは、話の行き違いで喧嘩になり、極端な場合はお互いに殺し合いをする可能性もある、ということだ。もちろん、それは「同じ文化圏の人間ならそうはならない」という誤解が前提にあるのだが、そちらは「まあ、まず大丈夫だろう」と心の中でなあなあになる。普段は同じ日本人にも警戒する人間も、こういう場合は「日本人同士だもんな」と都合よく解釈する。
大雑把に言えば、異文化の人間も、同じく人間としての精神的共通項が多いはずだが、問題はその「些細な(はずの)違い」が、お互いに「絶対的な違い」になることだ。
たとえば、「他人の咀嚼音に我慢できない人」というのは西洋人に多い。日本人が蕎麦やみそ汁を啜る音を下品極まる音と見做すわけである。それだけで、日本人を低劣な人種だと見下す馬鹿もいるだろう。
昔の日本人から見れば、人前も憚らず抱き合いキスする西洋人は動物的だと思われたはずだ。
これらは一例にすぎないし、現在では世界全体の風儀が西洋化しているから「絶対的な違い」ではなくなってはいるだろう。
西洋人の場合は最初から日本人とは違う文化だと思っているから、お互いの違いへの「覚悟」が最初からある。
ところが、日本国内にいる朝鮮人(韓国人)についてはどうだろうか。
日本人は彼らの風儀や言動が自分たちと違うことを許容するだろうか。いや、それを「かつて自分たちの植民地であった『劣等民族』」の風儀や言動と最初から見下げるのではないか。
つまり、西洋人に対しては、「自分たちより優れた文化圏の人々」と最初から畏怖し、朝鮮人に対しては逆に、最初から見下していたのではないか。

欧州やロシアにおけるユダヤ人迫害の場合も、「なぜ連中はここにいる必要があるのだ」と常に煙たがられていたわけだが、それは単純に「言葉も通じにくいし、我々とは違う風習(文化)を持っている」という煙たさだっただろう。それが、たとえばユダヤ人の商人に掛けで買い物をし、その催促をされた時に、「『俺』の国に勝手に居座っているくせに、偉そうな顔をしやがって」と逆恨みし、相手に暴行を加えたりする。そうすると、周囲の人間のほとんどは、理屈の通っているユダヤ人の味方をするのではなく、「同胞」の味方をするわけだ。つまり、感情が理性より大きな力を持つ。そうした小事件が積み重なっていくうちに、ユダヤ人憎悪は深層流となり、迫害は迫ってくるのである。
要するに、こうした民族差別の問題は、感情の問題だから、理性ではなかなか解決はできないのではないか、というのが私がここで当座の結論としておきたい考えだ。
ちなみに、「感情と理性は別のセンターを持っている」というのは、ロシアの神秘思想家グルジェフの考えで、私は、これを「理性は感情を制御できない」というテーゼとしている。
もちろん、「制御できない」は大げさな言い方で、「非常に困難だ」ということだ。







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読書(文章を読むこと)について

私はツィッターをやっていない(覗くだけである)ので、ツィッターの誤読の状況は知らないのだが、下に書かれたこと自体は「速読の技法」としては非常に正しいのではないか。まあ、ツィッター程度の長さの文章を誤読するのは、誤読される文章自体に欠陥がある場合の方がはるかに多いような気がする。誤字や文法的間違いやあいまいな表現や「自分独自の言葉の使い方」などはザラにある。
そういう「誤読されて当然」な文章をなぜあえて書くのか、と言うと、「思うこと言わざるは腹膨るるがごとし」(「徒然草」)ということだろう。私があまり誰も読まない文章を幾つかのブログで書いているのも、結局は自分自身との対話(想念)を形にして明確にしたいだけである。だが、ツィッターはもともと他人との対話のための手段だろうから、自分の発言が誤解されたら自分の文章の書き方を反省するのが先ではないかと思う。

なお、速読の技法(小説を速読する意味は無いので、論文などの場合)を書いておけば、

1:最初と最後を注意して読む。ただし、最初の部分は「書いた事情」や「どうでもいい前置き」「作者の言い訳」など、読む価値が無いことも多い。しかし、「結論を先に書く」タイプもあるから、その場合はそこだけ読んで終わりにしてもいい。
2:文章の中盤は、漢字部分とカタカナ部分だけ拾いながら流し読みする。

というものである。それ以外の平仮名部分は、助詞助動詞そのほか、「思想や概念そのものではない」ので、肯定文か否定文かだけ気をつければいい。
一番の時間の節約は、「読まないでいい文章は読まない」ということで、自分の興味の無い話題や「語彙が特殊な文章(宗教関係や哲学関係)」「難読漢字だらけの文章」などは私はほとんど読まない。(読めない、というほうが正確か。幸田露伴の文章の多くは、読めたらいいなあとは思う。)
ついでに言えば、哲学書はデカルトの「方法序説」だけで十分だと私は思っている。この非常に読みやすく薄い本は思考法の基本と思索の喜びを私に教えてくれた。長い本の例で言えば、プラトンの「国家」なども部分的(トラシュマコスの発言関係など。)には面白かったが、文章全体を苦労して読む必要は無かったと思う。今ならウィキペディアで要旨だけ知ればいい。ショーペンハウエルは、彼の哲学内容(中心思想)自体は知らないが、「読書について」や「自殺について」などはとても読みやすく、文章が機智に溢れ、エッセイとして面白い。(つまり、哲学者の書いた本だからと言ってすべてが難解なのではない、という例だ。)彼の「読書について」に書いてある、「読書とは自分の頭を他人の思想の運動場にすることである」という言葉は、読書についての非常に重要な指摘だと思う。この言葉は私の読書姿勢(つまり、警戒心と批判精神を持って読む。)への有益な指針になった。



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Twitterやってると「文字が読めると文章が読めるのは違うんだな」と実感することが多々あるのですが、文章を読めない人は①最初の3行くらいしかちゃんと読めない②文章に組み込まれた単語を拾って勝手に解釈をする③最初と最後だけ読んで間の文章が読めないというタイプがいるっぽいな


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