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再掲載「死に方の選択」

何の気なしにこのブログの過去記事を読んでいたら、我ながら面白くてかなりな数を読んでしまった。自画自賛だが、正直、ほとんど忖度無しに自分の好みだけで書いているのだから、自分自身が一番面白く思うに決まっているwww 下手な自作小説でも自分にとっては面白いのである。
その中で、コロナウィルス問題で、改めて「自分自身の死」や「死に方」について考えるのも悪くないかと思うので、一部を自己引用しておく。

(以下自己引用)


死に方の選択

例の「人生会議」ポスターの件で、いい思考テーマを与えられたのでここで「死に方の選択」という問題を考えてみたい。
ほとんどの人間は「生き方の選択」は人生の節目節目で否応なしに考えさせられるが、「死に方の選択」は、これから自殺しようと思っている人間以外はあまり考えないだろう。だが、ここで言う「死に方の選択」とは、自殺方法の話ではない。自殺も含めて、「自分はどういう死に方をしたいか」ということを予め考えておくのもいいのではないかという、まさに前回記事で私が嘲笑した「人生会議」が提言していることそのものかもしれない。あのポスターは糞だし、厚労省が税金の無駄遣いをしているのも確かだが、その提言は悪くないし、ポスターやプロジェクトなど作らなくても提言だけで十分な話である。

あなたが、自分の死に方が選択できるなら、あなたはどんな死に方がいいか。

下級国民として一生奴隷暮らしで生きるくらいなら、戦場で討ち死に斬り死にしたいと、若者なら考えるだろうが、それには外国の傭兵になるか、日本が憲法改正して憲法九条を無効化する必要がある。自殺志望の若者のために国民全体を不幸のどん底に陥れるわけにはいかない。
まあ、ここでは、神か悪魔があなたの前に現れて、「お前は自分の死に方を自分で選んでいいぞ」と言ったという前提での空想だ。だが、それは自分の死を予め考える、なかなか貴重な思考実験だろう。
もちろん、一番いいのは突然死である。何の恐怖も不安も無いままに死ねるのだから、それが一番(当人にとっては)幸福な死に方だと多くの人が認めるのではないか。
そういう意味では、飛行機事故や電車事故や自動車事故の被害者になるというのは、案外「いい死に方」だと私は思う。ただ、周囲を巻き込むことが多いから、それよりむしろ、冬の凍った路上で滑って転んだ拍子に固い地面に頭を打って死ぬという間抜けな死に方も、「いい死に方」だろう。昔、職場の同僚が酔っ払って駅の階段から転落して死んだが、若い身空で死んだのは気の毒ではあるが、死に方としては、今にして思えば「いい死に方」である。ちなみに、死後の周囲の評価や迷惑云々はここでは問題外とする。あくまで、当人にとっての「幸せな死に方」である。
普通の人間は、ほとんどが病死する。老衰死(自然死)するまで生きられるのは稀だろう。老衰したあと、たいていは何かの病気で死ぬのである。そこで、あなたはどういう病気で死にたいか、というのを考えてみるのは、非常に現実的な問題かと思う。

1)疫病、あるいは急性疾患
2)慢性病

の2つに大別されるかと思う。(ただの思考実験なので、もちろんいい加減な分類だ。)
疫病や急性疾患で死ぬのは、ほとんどの場合は自分で選ぶものではないが、実は「慢性病で死ぬ」は自己選択できる(不養生をするか、治療を拒否する。)のである。これは神頼みや悪魔頼みしなくてもいい。
その中で、現代人に多いのは

1)癌
2)高血圧由来の「脳卒中」など
3)糖尿病(由来の臓器異常)

の3つではないか。私の父は2)で死に、母は3)で死んだが、どちらも急死である。つまり、病院での闘病生活はまったく無かった。これは本人たちにも家族にも幸福だったと思う。まあ、私以外の家族がどう思っているかは知らないが、本人たちにとっては「幸福な死に方」だったと私は思っている。つまり、死への不安や恐怖に苛まれることもなく「頓死」するのが「いい死に方」だという私の前提で考えれば当然そうなるわけである。
いや、もちろん、致死性の病気の長い闘病生活の中から、目の前の死を見つめ、精神の高みに上る人々もいるだろうが、それは非常にまれな例外だろうと私は思う。
どんなに生命の残りが少なくても、ベッドで寝た切りのまま数少ない日数を生きることで人生の幸福を実感する、という例もあるかもしれないが、そういうことなら、別に病人になる前に「何もなくても、何もできなくても、周囲に存在価値を認められなくても、自分は生きているだけで幸福なのだ」と思えばいいのである。つまり、闘病生活それ自体に何かのメリットがあるのではなく、一部の人間はそういうことを「機会」「機縁」として精神を高める可能性もある、ということだ。
だが、ほとんどの人にとっては「目の前の死」は直視しがたい、恐怖や不安の対象である。
ならば、即死が一番「いい死に方」だと私は思うわけで、それなら、「癌よりはうまく即死できる可能性が高い」脳卒中がいいかなあ、とだいたいは思っているのだが、時々、血圧が200を超えたりすると不安になるのが、まさに凡人の凡人たるゆえんだwww

なお、通常血圧は「年齢+90」程度で安定しており、なぜか1か月に一回、2、3日ほど180を超える数値が出るのだが、その原因は不明だ。ある種の周期性があるのかもしれず、あるいは狼男が満月だと狼になるようなものかwww

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「表現の自由」問題が紛糾する理由

別ブログに書いた文章だが、アップされないかもしれないので、ここにも載せておく。
割と重要な内容だと思う。

(追記)下の長々しい文章を一言で言えば、「日本社会は表現者にまともなカネを払え」ということである。


(以下自己引用)



「表現の自由」問題というのは、敵と味方をはっきり分けてしまうようなところがあり、表現者に属する人々は、ほんの少しでも表現の自由を制限する話になると、「一歩でも譲ると、その制限はどんどん拡大して、表現の自由が大きく侵害されるから、絶対に譲ってはならない」と団結する。自分で表現しない人間は、「短歌や俳句のように、自分で自分を制限の中に閉じ込めて表現を探るジャンルさえあるのだし、多少の制限による不自由より公序良俗を害さないほうがいいんじゃね(ぶっちゃけて言えば、なぜあんな不快なものを公衆の前に出すのか、理解できない。)」と思うわけだろう。この両者の争いは、お互いにまったく譲らない点ではほとんど宗教上の争いに近い。後者は突き詰めれば自分の個人的な美意識にしか議論の基盤は無いから、だいたいの場合にこの論争は後者があきらめて話は終わることになる。だが、膨大な大衆に「発言権」があるSNSの時代には、この問題は何度でも繰り返されるだろう。
それは、実は、「表現の自由」問題が常に「公開の自由」とセットになっているからだ、というのが私の考えである。
確かに、ある時代の観点からは不道徳であっても、「人類の精神的範囲を広げる」ことに寄与した表現はたくさんあるだろう。マルキ・ド・サドもニーチェもそうであり、ソクラテスですらその思想(当時の知識層への批判)が青少年に悪影響を与えたとして毒死させられたわけだ。
つまり、道徳や美意識は時代や場所で変わる、というのは事実であり、その社会の基準に反する思想でも貴重なものはあるわけだ。そして、その思想が犯罪であるとされるのは、それが「公開されたからだ」というのは誰でも認めるだろう。(サドの場合は、著作自体が問題にされたかどうかは知らない。別の「犯罪」で投獄されたような気がする。)

で、ここで「公開の自由」について下品な話をするが、排便や排尿には公開の自由はあるだろうか。当人にとっては、やむにやまれない衝動による行為であり、それを我慢することが一瞬もできないなら、無数の人の目の前でも排便していい、という法律を決めている社会はほとんど無いと思う。つまり、「表現の自由」というのは、それほどの切実さを持ったものであり、それができないと死ぬ苦しみを持つようなものなのか。そして、それは、是が非でも公開しなければならないものなのか。
私にはそうは思えない。一般論として、カネのためにこそ表現はするのであり、「お前の作品を封印する代わりに一億円やろう」と言えば、この問題は即座に解決する、というのはあまりにシニカルだろうか。つまり、表現者への報酬があまりに安く、あまりに安定性が無いから、表現者たちはほんの僅かな「表現の機会」でも失ったり制限されたくないわけで、そこで大同団結して戦うのだ、というのが私の考えだ。
そういう経済的側面から「表現の自由」問題を捉えた論考を私は見たことがないので、一石を投じてみたのである。
なお、私は無数の表現者によって自分の人生に多くの幸福と喜びを与えられてきた人間であり、表現の才能を持ち、努力する人間を世界の何より尊敬する者である。

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社会主義と共産主義

話題的には「徽宗皇帝のブログ」に書くような内容だが、あちらには一日で三つも載せてしまったので、こちらに載せておく。
私はマルクスの功績を過小評価する者ではないが、彼以前の社会主義運動(彼が「空想的社会主義」とレッテル貼りをし、嘲笑したもの)の精神を壊滅させ、結果的に社会主義の概念を捻じ曲げ、世界を一層悪化させたその罪は大きいと思っている。

(以下自己引用)



近現代の政治論議を混乱させているのは、政治用語の定義が曖昧なままに議論をしているからではないだろうか。果たして、議論の当事者たちが使う言葉の概念はお互いの頭の中で同じものなのか。


ここで私が特に言いたいのは「社会主義」と「共産主義」の混同であるが、これは辞書ですらその明確な違いを書いていない。(すべての辞書や用語集を確認しているわけではないのは勿論だが。)手元の三省堂「新明解百科語」では、共産主義にも社会主義にもその要素を「私有財産の廃止」と書いており、それならこの両者に根本的な違いは無いことになる。そして、この部分(私有財産の否定)こそが社会主義や共産主義嫌悪や否定論の肝心かなめの部分なのである。


私有財産の否定とは、現に私有財産を持っている人々から、その「余剰」財産を強奪し、財産を持たない階級(プロレタリアート)に配分するということだ。つまり、これは「強盗の論理」である、とほとんどの人は思うだろうし、それは当然だろう。


はたして、社会主義は私有財産を否定しているのか。


マルキシズムではいざ知らず、マルクス一派によって否定された、彼ら以前の社会主義思想において、私有財産の否定を主張した人間は一部だけだと私は理解している。そのような乱暴な主張が世間に受け入れられるはずはない、とまともな頭脳の持ち主なら考えるはずである。


では、社会主義とは何か。それは「socialism」という言葉自体が示していると私は思っている。これと「communism」とを比べれば、違いは明瞭だろう。「com」は共同・共有を意味する接頭辞だ。だからこれを「共産主義」と訳すのは正しいし、共産主義が「財産の共有」つまり、「私有財産の否定」を中心理念とするのも当然だろう。


しかし、「socialism」の「social」とは「社会」の意味であって、そのどこにも財産共有とか私有財産の否定の観念は無い。単に、「個人の欲望だけに囚われず、社会全体の幸福を考えよう」という理念しかそこには無いのであり、マルクス以前の社会主義とはまさにそのような人道主義思想だったのである。だからこそ、多くの善良な人々を惹きつけたのである。


邪推するならば、社会主義と共産主義を同一視させることで、共産主義だけでなく社会主義をも否定させる風潮を作る意図が、出版物などでの社会主義と共産主義の定義のあいまいさにあるのかもしれない。






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「戦争が経済を発展させる」論の嘘

これを「戦争が国(社会と経済)を豊かにした」と言うのは典型的な詭弁だろう。事実は、腐敗した中央政権の束縛から離れ、地方地方が独自に経済を発展させた結果であり、「戦争が」豊かにしたわけではない。
戦争は巨大な消費活動であり、経済を発展させるわけではない。政府が軍事費に惜しみなくカネを使うから、兵器が発達し、その「副作用」として新たな発明や発見があることを「戦争が経済を発展させる」というのも詭弁である。戦争に無関係に基礎研究に国がカネを出せばいいだけの話だ。


(少し前に書いた記事の一部を自己引用しておく。)

実は戦争漫画やアクション漫画を書く漫画家は戦争や暴力を知らず知らずのうちに「人間の業であり、否定するのは偽善だ」と思いがちになると私は見ている。つまり、戦争や暴力を否定すると、それを描いている自分自身への否定になるからだろう。



さんがリツイート

中国でもヨーロッパでも戦乱が続くとインフラが崩壊して人口も減るのが普通だけど、日本の戦国時代はむしろ人口が急増してるんだよね。その大きな理由は各大名が領国経営に力を入れて富国強兵を図ったことだとか。その影響で都市経済も大きく発展した。言わば戦争が社会と経済を豊かにした時代。









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「物はあるけど貧しい」とはどういうことか

私などは、飢え死にしないだけでも幸福ではないか、と考える人間だから、「物はあるけど貧しい」というのは「物の価値に(恣意的に)上下の値付けをする」、ブルジョワの思想だと思ってしまう。問題は、実は今の日本では飢え死にしている人間がかなりいるだろうということだ。生活保護すら拒否されている人間やホームレスの人間である。中には犯罪に走る人間もいるだろう。それは、「物がある」とは言っても、それが行き渡らない層があるということだ。百均やコンビニやストロングゼロやユニクロが利用できるのはまだ恵まれているわけである。私などには、ユニクロ製品など贅沢品に思える。コンビニの存在には生存を助けられている。百均はデパートなどより庶民生活にはるかに貢献していると感謝している。
そうしたものを「貧しい」と思うのは勝手だが、では、ゴッホやセザンヌやフェラーリを私有できるような生活が人間の理想なのだろうか。価値観というのは、実は自分で決めることが可能であり、私は、いくらカネがあっても、孫正義や柳井や前澤何とかと自分の人生を取り換えたいとはまったく思わない。数億円の宝石より、草の上の露や青空や白い雲が美しいと思う。
まあ、物があるけど貧しいと言うのなら、それは、たとえば利休が褒めたからと言って、朝鮮の尿瓶を茶器として有難がるような人間のことだろう。いや、尿瓶を茶器としてもいいが、要するに「高い値段がついたから」有難がる心根の卑しさを私は貧しいと言っているのである。
なお、私は、「自分が江戸時代(でも奈良大和時代でもいいが)の人間だったら、今の最底辺の生活でもたいへんな贅沢だと思うだろうな」、と、よく想像する。そういう意味では、人類は確かに進歩しており、時代が進むほど幸福なはずなのである。それが幸福でないのは、実は、「他人と自分を比べる」ことから来ているのだ、と思っている。自分と他人ではなく、今の時代と過去の時代を比べるのは、精神衛生的に有効な思考法である。言い換えれば、幸福も不幸も主観が一番の決定要素だということだ。これをさらに言い換えれば、「我はただ足るを知る」が幸福への指針だ、となるだろう。と言うのは、不幸とは不満とほぼ同じであるからだ。「足るを知る」なら不満ではありえないわけである。
などと言うのは、形而上的な問題解決であり、現実にはカネが無いがゆえの無数の悲惨にこの社会は覆われている。だから私は(世の不幸の救済策として)社会主義を主張するのである。




百均やコンビニやユニクロやストロングゼロに衣も食も満たされている生活のことです。












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残りの日々は熾のように消えていく

別ブログに書いたものだが、新春記念にここにも載せておく。あるいは、前にも転載したかもしれない。タイトルは「セプテンバーソング」による。


(以下自己引用)なお、一部省略。




現実世界と脳内世界

昔の人は生まれた村から一歩も出ずに毎日田畑を耕して一生を送った人も多いわけだが、そういう人生ははたして不幸なのだろうか。
仮に私が刑務所の独房に入れられて、残る生涯を、「カラマーゾフの兄弟」と「戦争と平和」の2冊を読むことしか娯楽が無いという状態で過ごすということになったとしても、それもなかなかいい人生だろうと思う。つまり、私の脳内ではドストエフスキーの頭脳とトルストイの頭脳が同居し、その宇宙と世界が展開されているわけで、これほどの素晴らしい人生はほかには無いとすら思うわけである。たとえば「戦争と平和」ならば、本当ならナポレオン戦争当時のロシア貴族にでも生まれなければ体験できなかった豪華で数奇な人生を平凡な日本人が味わえるのだから。
まあ、できれば読書に最適の環境(特に書見台と照明器具つきの安楽椅子)のある独房であってほしいのだが、実はそれを実現するのも本当は容易だと思う。
要するに、外部の世界より脳内の世界のほうがはるかに素晴らしいのだが、我々は現実人生の中でそれを粗末に扱っている、というのがここでの私の主張である。

なお、書見台と照明器具つきの安楽椅子というのは、起業するカネがあれば私自身で作って売り出してみたいのだが、買い手はかなりいると思う。まあ、歯医者で患者が掛けさせられる椅子にクッションをつけ、歯科医の道具を載せる台ではなく書見台や、飲み物やメモ帳や筆記具などを載せる台や、照明灯がついたものだ。リクライニングでき、寝たくなったらそのまま寝られる。
このアイデアは無料で提供するから、どこかの家具屋が作らないだろうか。10万円くらいならけっこう売れるのではないか。製造原価は2万円くらいと予測する。ただし、「一生もの」の家具として頑丈に作ってほしい。


老年という「リライフ」

これは、人生の残り時間を想定した時の私の考えたこととほぼ同じである。
基本的に、「やりたいこと以外はできるかぎりやらない」ということで、その「やりたいこと」というのは、これまでの人生で選んできた「自分にとっての優良品」をさらに良く味わう、ということである。つまり、急ぎ足で通過してきた「優良品」との付き合いを深めることだ。
要するに、自分の感覚や趣味に適合した芸術作品をじっくり味わいたい、ということである。
まあ、それだけだと飽きるから、多少は「未知との遭遇」も必要だろうが、基本的に、古典、あるいは現代の古典の中にこそ優良品はある、というのが私の考えだ。そして、新しいものの90パーセントはクズである。そんなものと真面目に付き合う時間など無い。その価値が確認されてから付き合えばいい。つまり、新しいものの中から世間と時間がクズを振るい落とし、価値あるものを古典として残してくれるわけだ。黒澤明も宮崎駿もそのようにして選別された現代の古典である。もちろん、手塚治虫など漫画の古典もたくさんある。
たとえば、手塚治虫の「W3」など、子供のころにはさほどいい作品とは思わなかったが、少し前に再読した時には、実にレベルの高い作品だと感じた。つまり、子供では分からないものもあるから、「過去の出会い」は再検討してみるべきなのである。
幸い、古典文学や古典的芸術を味わえる程度の教養は(もちろん、本物の教養人の足下にも及ばないが)蓄積されているから、死ぬまで古典が味わえるだろう。つまり、いつ死んでも、何かを楽しみ、満足した状態で死んでいけるということだ。
老年という時間において、これ以上の幸福は無いと私は思う。過去の人生はそのための準備期間であったとすら思う。そして、この幸福のためには必要以上のカネも地位も女も何も要らないのである。



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いろは歌の「思想」の考察

筒井康隆の「不良老人の文学論」の中に芥川龍之介の「侏儒の言葉」について書かれた小文があって、その最後に「侏儒の言葉」の中にある次の言葉が引用されている。

「我々の生活に欠くべからざる思想は、或(あるい)は「いろは」短歌に尽きているのかもしれない」

もちろん、私は中学生くらいに「侏儒の言葉」は読んでいて、この言葉も記憶にあったが、それを真面目に考えたことはなかった。そもそも龍之介は「人生は一箱のマッチ箱に似ている。真面目に扱うのは馬鹿馬鹿しい。真面目に扱わないと危険である」とも書いた人であり、人生というものを「真面目に扱うのは馬鹿馬鹿しい」と考える人間が、人生に必要な思想は「いろは歌」だけで十分だ、とするなら、それはさほど深遠な思想ではないだろうと私は無意識のうちに考えたのだと思う。
だが、これは芥川流の韜晦で、あるいはこの「いろは短歌」云々は真面目な発言であった可能性もある。とすれば、いろは歌の思想とは何なのか、考える価値もあるだろうが、実は私はいろは歌を真面目に考察したこともなかったのだ。もちろん、語調が良く、見事に歌になっているのも凄いと思うから、さほど苦労もせずに覚えたのだが、その「思想」については、「どうせ、ひらがな四十七文字だか四十八文字だかをすべて一度だけ使って歌にするというアクロバチックな『縛り』で作った歌にロクな思想など入れられるはずはない」と心の底で軽く見ていたと思う。
中には「有為の奥山今日越えて」のように、解釈の難しい部分もあるが、ここで考察してみる。先に、いろは歌を漢字まじり、現代かなづかいで書いておく。


「色は匂えど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ。有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ、酔いもせず」

念のためにひらがな、歴史的仮名遣いで書くと(句読点はつけておく)

「いろはにほへとちりぬるを、わかよたれそつねならむ。うゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑひもせす」(先に書いた時に「こへて」と書いたが、「越ゆ」はヤ行語尾なので「こえて」に訂正する。そうでないと、「へ」が二度出るし。いや、下ネタではない。)

である。
さて、現代語訳してみる。
「匂う」は古文では主に色鮮やかな様であり、嗅覚の「匂う」の意味で使う方が少ないと思う。本居宣長の「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂う山桜花」の「匂う」も視覚表現だ。桜の花には嗅覚的な意味での匂いはほとんど無いと思う。しかも「朝日に(照らされて)」に続くのだから、視覚表現に決まっている。
そこで、いろは歌の「匂う」の主体を補って訳すと

「花は美しく咲き誇っていたが散ってしまった。それと同じく、私が生きるこの世で永遠のものが何があり、不死の人が誰があろうか。生きて何かを為せる、その最期の時を今日踏み越えていくその先では、私は浅い夢も見るまい(見ないだろう)。酔うこともなく」

とまあ、訳してみたが、「有為の奥山」を今日越える、ということを死出の旅路と見たわけだ。そうすると、我々の祖先は手習いや学問の初めに「人生は無常であり、生は永遠ではない」ということを子供に教えたことになる。
まあ、「浅き夢見じ」を「夢見し」と解釈することも可能だろうが、「し」は過去の助動詞「き」の連体形であり、そこで終止するのは不自然なので、やはり「夢見じ」が正しいだろう。「じ」は打ち消し意志か打ち消し推量の助動詞「じ」の終止形か連用形だろう。
そうすると、この無常であり有限である人生をいかに生きるべきかの解答として「浅い夢も見ることなく、酔うこともせずに生きなさい」という、真面目そのものの生き方を推奨していることになるのだろうか。とすれば、これは「人生哲学」としては文部省推薦の思想だろうが、問題はこの部分は「有為の奥山を今日越える」その先の話だ、ということで、実はこれは人生哲学ではなく、死についての哲学ではないだろうか。つまり、死んだら、夢を見ることも無く、酔うことも無いのだよ、と教えていることになり、「生きているうちが花なのだから、せいぜい、浅い夢でも見て、酒でも飲んで楽しく生きなさい」という解釈も可能かもしれない。などと言うのは、言うまでもなく私は夢を見るのも酔うのも好きであり、それが無ければ生きる意味も無いのではないか、と思うからであるwww






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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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