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平等の持つ不自由性

これは「均等こそ正義」という思想へのアンチテーゼとして面白い。食欲や好悪には個人差があり、悪平等はかえって個々への不自由さを強いるわけだ。多く食べたい人、少なくていいという人がそれぞれ自分の好きな量を選べる、という「選択可能性」が「悪平等」には欠けている。
健康血圧や肥満の度合いなど「平均値」を物事の判断基準にする思想もこの「悪平等」に似ている。世間の常識から離れた思想や行動を害悪視するのも同様だ。

(以下引用)

これやられた時はヤバイだろって思ったけど、友達は「だって均等に切ったら余りが出るし誰が何枚食べたみたいな感じになるのもだるいじゃん。ランダムに切ればお腹の空き具合とか具の量に合わせて食べれる」って言ってて、実際その通りだったからこの切り方は正解だよ
引用ツイート
サボット
@iJaQ8CiVW6OPN9M
·
元同級生とピザ食べにきたんだけど、さすが私の友達って斬り方だわ
画像






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司馬遼太郎の非戦論

福井雄三と言う人の書いた「歴史小説の罠」という本を、筆者がネトウヨ的人物と知らずに図書館から借りてきて、読み始めて後悔したのだが、その中に、私にとって興味深い部分があったので紹介する。筆者の福井氏が「念仏平和主義」として批判的に引用している司馬遼太郎の発言だが、私が前々からブログに書いてきた内容とそっくりなのである。
その発言は昭和四十四年『文芸春秋』十二月号での梅棹忠夫との対談でのものらしいが、私は多分読んでいない。つまり、司馬遼太郎と私は「非戦思想」に向けられる「敵が攻めてきたらどうするのだ」というお決まりの詰問に対し、同じ考えに到達している、ということだ。
なお、占領者によって非道な目に遭わされたらどうするか。その場で相手を殺せばいいのである。もちろん、自分も処刑されるだろう。だが、戦争で死ぬ(お互いに殺し合う個人的理由の無い兵士同士や市民同士が殺し合う)よりはるかにマシな死に方だと私は思っている。それに、戦争とは違ってその場合は死ぬのは自分だけだ。そもそも植民地支配は(米国の日本に対するステルス支配は例外として)経済的に割に合わない、ということは現代の常識だろう。

(以下引用)

「戦争をしかけられたらどうするか。すぐに降伏すればいいんです。戦争をやれば百万人は死ぬでしょう。レジスタンスをやれば十万人は死にます。それより無抵抗で、ハイ、持てるだけ持っていって下さい。向こうが占領して住みついたらこれに同化してしまうがよい。それ位柔軟な社会を作るのが、われわれの社会の目的じゃないですか。」

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「ドンマイ」生活

別ブログに載せた記事だが、ここにも載せておく。世間には真面目な人が多いから、日本や世界の状況の中で陰鬱な気分になっている人も多いだろう。下に引用した「in deep」記事は、なかなか有益な指針になるかと思う。

(以下自己引用)

「ドンマイ」生活



「in deep」記事の一部だが、私は管理人岡氏の文章が好きで、書かれた内容にも同感することが多い。まあ、九割くらい同感か。超常現象やスピリチュアル関係の記事のときには、あまり同感しないことが多い。
下の記事で私が特に好きなのは「お年寄りたちはドンマイ」という部分で、これに腹を立てるお年寄りもいるかと思うが、まさにドンマイだろう。とっくに同期の人間が亡くなっている年齢で、それ以上生きてどうするのだ。
まあ、「ドンマイ」は言うまでもなくdont mind(私のパソコンはアポストロフィが書けない)の日本語化で、「気にするな」である。これは過剰な、悪性ストレスを溜めるな、ということだ。年寄りは、いつ死んでもいいくらいの気持ちで、毎日のんきに暮らせばいいのである。それが「ドンマイ」生活だ。


(以下引用)


メルマガなどでも何度か記させていただいていますが、何らかの感染症が大流行していたり、あるいはパンデミック下の理想的な生活というのは、以下のようになります。



・十分な太陽光を浴びる
・過剰なストレスを避ける
・病原体に対しての恐れを抱かない
・適度な人間関係を保ち、孤独に陥らない
・なるべく笑いを絶やさない ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
・適切な栄養
・十分な睡眠
・若い人なら恋をする (恋愛はとても免疫を高めることが各国の研究でわかっています)
・お年寄りたちはドンマイ(これはなんだよ)



いやいや、私もそろそろ高齢者ですけれど、私たちのようなものはもういいのです。



若い人たちを守らなければならない。



仮に社会がいつの日か再生することがあるにしても、それを担うのは私たちなどではなく、若い人たちです。



若い人たちこそがいつか真実に気づかなければならない。



そういえば、先ほどのピンク・フロイドの「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」の映像は、「子どもたちが目覚める」ところで終わります。



支配されることをやめ、自ら生きることを選択し、そして彼らは学校を破壊し、旅立ちます。




Another Brick In The Wall / Pink Floyd



破壊したりするようなことはしなくても、若い人たちには「自分に課されているスタイルに合理的な理由があるのかどうか」を考えていただきたいとは思います。



もしそこに矛盾を感じたならば、世界とご自分との関係、そして「自分が人間として生きている理由」に気づかれてほしいとも思います。



お年寄りは……ドンマイ(またかよ)。


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戦う事の意味

別ブログに書いたものだが、フィクションを材料にして「戦うことの意味」を考察した文章の一部である。ここでは「病気との戦い」のような抽象物との戦いは考察対象ではない。恋愛関係におけるライバルや障害との闘争も考察対象ではない。「名誉やプライドを守るための戦い」など、考察から抜け落ちたものはたくさんある。ごく普通の戦いの話である。

(以下自己引用)

だが最初はまず、「戦うことの意味」を考えたい。

意味も何も、人はふつう戦いに「巻き込まれる」のであり、自分の意志で戦いを起こす、あるいは参加するのは稀である。後者(参加)はたとえば戦争(広義のそれ)が勃発した際に起こる。前者はその戦いによって経済的利益を得る資本家や支配階級が積極的に戦いを起こすことなどである。だが、それは「戦う当事者」の問題ではないので、ここでは深くは追究しない。

だが、フィクションにおいて男は(稀に女も)ほとんど常に「戦う人間」である。そこにどういう意味があるのか、というのがここでの主な考察主題だ。

もちろん、創作側から言えば単純に「戦いは面白い」からであることは明白だ。いろいろな冒険、危険、スリルに満ち、感動的場面も作りやすい。人間性の本性も出る。特に相手は悪、こちらは善、とするなら受容者(読者・観客)の共感も得やすい。そして、たとえフィクションでも「死」の切実さは読者や視聴者を興奮させやすいのだ。

では、現実とフィクションを問わず、戦う当人は「何のために」戦うのか。

1:自分の生命や身体、財産を守るため。

2:自分の家族、恋人、友人を守るため。

3:自分の属する組織や国家を守るため。

4:戦うこと(暴力・殺人)が好きで楽しいから。

5:戦いでカネ(利益)を得るため。

6:国家や組織に強制されてやむなく。

まあ、ほかにもあるだろうが、これくらいにして後で思いついたら付け加える。

この中で、4は稀少な例だろうが、実は武道漫画の本質はこれである。自分の中の暴力衝動の解放と満足が勝負の勝ち負けでとどまれば武道やスポーツであり、殺人に至れば戦争だ。

6が、徴兵された兵士の大多数だろう。その内心の葛藤を描けば反戦小説や反戦漫画になる。

5は、たとえば「ブラックラグーン」や「ゴルゴ13」の世界である。ハードボイルド小説にもしばしばこの種の「殺し屋」は出てくる。そして受容者はそのクールな殺し屋(或る種の「超人」として描かれる。)たちをカッコいいと思うのである。いや、これは非難しているのではない。ただ、受容者のそうした「暴力や殺人への嗜好」を直視して論じた人は少ない気がする。べつにPTA的モラルだけの問題ではなく、大きな社会的影響が、案外そこにあるかもしれない、という話だ。

で、以上3つを除けば、他の3つが「何かを守る」でくくられるのは面白い。6もそのひとつであると言える。徴兵を拒否したら非国民扱いされ、自分も家族も生きづらくなるのが明白だから、自分や家族を守るために徴兵に応じるわけだ。

つまり、或る種のサイコパス(武道家も軽度サイコパスと私は見ている。いや、勝敗が基本要素のスポーツ、つまり勝負事を好む人間も広い意味ではそれに属するかもしれない。)を除けば、人は「自分やその関係者を守る」ために戦うわけである。

何を当たり前のことを仰々しく書いているのだ、と言われそうだが、哲学とはそういうものだ。

「当り前のこと」が本当に当たり前か、丁寧に検証していく作業が哲学なのである。

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言語思考とイメージ思考

「ザウルスでござる」の長い記事の一部だが、かなり重要なことを指摘していると思うので、転載する。「言語思考」と「イメージ思考」という分類は面白い。後者はいわば「論理性の無視」であり、安倍政権が案外若い層に拒否されていないというのは、彼らが既にイメージ思考だけで生きているから(つまり、知的層の言論がほとんど彼らに伝わっていない)という可能性もあるかもしれない。

(以下引用)


若い世代の言語運用能力の低下は、古代ギリシャ以来いつの時代でも嘆かれてきたが、昨今のインターネット、ケータイ、スマホといった伝達手段の急速な発達はこれに拍車をかけた。言語が最も理想的な伝達方法かどうかはたしかに議論の余地がある。





しかし、今までの人類の歴史においては、言語が最も重要で、最も信頼性のある情報伝達手段であったことは間違いない。



一方、言語以上に イメージが “雄弁” に語ることがある のも事実である。たしかに 「百聞は一見にしかず」 である。



 



 



しかし、言葉なしのイメージだけで会話が成立するだろうか?コンピュータが動かせるだろうか?現時点では人を動かし、世の中を動かし、コンピュータを動かすことができるのはやはり言語である。





イメージでは人工知能のプログラムは書けない。その意味でも “言語優先主義” は今後も簡単には崩れない と言える。



 



言語の持つ、規則的体系性、肯定と否定の二値性、デジタル的発展性は比類がない。何といっても “テキスト” が “本文” であり、“イメージ” はしょせん、“挿絵” の地位でしかないのだ。



 



 



そもそも、“イメージ反応” は “言語思考” とは根本的に異なる。“イメージ反応” は、言語や論理を媒介しないという意味では非常に “原始的” な反応である。チンパンジーも羊もトンボもみなイメージで判断して反射的に行動する。



“言語” はまるで “人工知能” のために人間が長い時間をかけて用意したようなものである。そして、当の人間は原始的な “イメージ反応” に退化して “低脳化” しつつある。





そう考えると、“言語思考” を軽んじ、“イメージ反応” 優先で生きているスマホゾンビーという低脳層 は、高度資本主義社会に跋扈する無数の企業の 誘惑的戦略に原始的に反応して飛びつくカモになっている とも言える。



 







 



 



 



 



 



 



 



逆に言うと、こうした低脳層は高度資本主義のシステムによって不断に “家畜化” されているのである。



「part 1」 でみてきたように、 家畜化=低脳化 である。

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人間と「合理性」

「ネットゲリラ」常連のメビウス氏のコメントだが、私もメビウス氏に同感するところが多い。

人間は、ITによってきれいに整序されるような、合理的で効率的な存在ではないと思っていますので…



という部分は、非常に本質的な部分を突いている気がする。
IT社会の代表みたいな拝金主義の化け物ホリエモンが、スマホがあれば社員は要らない、みたいなことを言っていたが、それと通底するのではないか。

極端なことを言えば(あるいはIT音痴の我田引水的なことを言えば)、合理性から逸脱するところに人間の或る種の価値があるのではないか。
そうでなければ、「何でこんな素晴らしい女性が何でこんな糞みたいな男とくっつくのか」(逆も当然ある)という、恋愛の不思議さも起こらず、他者のために我が身を犠牲にするような「非合理的」な英雄的行為も起こらず、みんながみんな理性的に法に従えば、世間には事件も起こらないだろう。つまり、善においても悪においてもドラマ(あるいは人間が人間の限界を超えること)が無くなるわけである。
つまり、「合理性」だけの社会というのは、社会の全員が或る種のロボットになる、ということだ。その目的がカネ儲けなら、それに障害になる存在は殲滅される。


(以下引用)


アナログ志向といえば聞こえはいいですが、全くIT関連が駄目な私は、
もう随分前から最新の情報機器の操作についていけず、完全にその取得努力を放擲しています。


数年前に買ったPCも電源を入れた後から画面が進まず、今では埃を被っています。


携帯もガラケーのままで、もう修理できませんと案内が来ても、ギリギリまでスマートフォンに変える気はありません。


幸い仕事は律令制時代からある手仕事力仕事がメインの絶滅危惧種の職人仕事ですので、
工作機械内蔵のROM基盤を除けば、すべて肉体アナログ方式でやっています。
手足に痛風発作が出なければ、とりあえず何とかなります。


(もっとも、コロナ騒動以前に最近は仕事の依頼自体がめっきり減ってきていて、今はくだらないコメントを入力するのが日常業務です。そろそろ生活保護の申請準備を考えなければいけない時期にきています)


そんなことで、自分が極度のIT音痴なのをいいことに、
私はむしろ、日本は積極的にデジタルの流れから遅れるほうがいいんじゃないかとも考えています。


外国からFAX使用を嗤われようと、アメリカ標準仕様(思考)のWindowsやMacオペレーションを基軸としたデジタル覇権に対しては、私は何故か本能的にそれを忌避する感覚があります。


まぁ、和製OSのトロンとか汎用性のあるLinuxとかならやる気も出るでしょうが、なにせ知能不足でスキルが付いてきません。
どうせやるなら、自家サーバーのシステム構築・運用くらいまでいかないと満足できませんので…


前にも少し書きましたが、私は一時期、NECのM式(森田式)キーボード入力に凝っていたことがあって、
思考と言語が直結する、パソコン等の入力インターフェイス部分にはちょっと関心があります。


キーボードは楽器のようなもので、習熟しないと思考レベル(速度)では操れません。


かといって、今どきのスマートフォンのフリック入力などは完全にダメですので、思考がダイレクトに言葉に変換できないとイラつきを感じます。


さらに、今まではアナログの非効率的な部分で飯を食ってきた人々が、ITデジタルの効率化という社会的要求によって、多くの部分で淘汰されて仕事を失ってきた状況を見てきました。


私の基本的な考えは「人にできることはまず人にやらせ、機械はその補助的・補佐的なもの」という感じですので、
効率優先の一方的なIT(AI)推進社会は、結果として人間そのものを非効率なものとして排除・排斥・疎外する方向に進んでいくと考えています。


ということで、


人間は、ITによってきれいに整序されるような、合理的で効率的な存在ではないと思っていますので…


デジタル社会にすっかり遅れて、もはやとても追いつけないご老体としては、
もともとIT(デジタル)の全面推進には批判的という無理くりの理由をこじつけて、
アリゾナの爆弾魔・ユナボマーまでとはいきませんが、
気分は「ネオ・ラッダイド」ということになっております。


電磁兵器一発で、IT機器も産業機器も家電も、電気もガスも水道も交通などの他のインフラも、そのすべて壊滅ようなシステムに、軸足の体重をすべて掛ける気にはなりません。


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象徴と共同幻想

「神戸大好き」記事の後半だが、この手の論というのは、「だからどうしたいのだ?」という気になる。現皇室を無くして、安倍総理のような「偽民主主義」を悪用して権力を握った人間を大統領にでもして、その「実質的絶対王朝」を作ろうとでもいうのか。
そして、現天皇家が実際には「万世一系」ではない、ということなど少し調べて自分の頭で考えれば誰の目にも明瞭なことであり、「それがどうした」である。要は、万世一系であろうがなかろうが、「天皇制」というシステムが「曲がりなりにも」二千年近く続いてきた、という「奇跡」なのである。この「奇跡のシステム」こそが日本の政治を無数の権力闘争の地獄から救う「やじろべえの重石」の役割をしてきた、というのが私の考えだ。だが、そのことは何度も書いている。
「万世一系」はフィクションだろう。しかし、「象徴」というのはもともとフィクションなのである。象徴の価値を見事に生かしてきたのが日本という国なのだ。国家というのも政府というのも共同幻想だが、現実に強力な力を及ぼすものだ。要は、それが役に立つかどうかということなのである。


(以下引用)

今は、唐代と、明朝と、清朝を並行してみている。

すると、やっていることは、結局全部同じ「皇位争い」
子孫が残らないと困るので、側室を多く置いて、大勢の子供を作ろうとする・・・すると、各側室が自分の子供を皇帝にしようと権謀術数、殺し合い。

女の争いね。・・・皇帝は、疲れるよね。
「今夜の相手は、どの側室で?」と宦官が札を持ってくる・・・後宮3000人の美女といえば、世の男どもの憧れの天国だろうけど・・・ドラマを見ていると、皇帝がかわいそうになる。

後宮に入ったということは、その一族が、皇帝の「やばい家来」いつ、反乱を起こすかわからないから、娘を人質に取っている。
ということは、娘の扱いを誤ると、一族が敵対・内乱を起こす。

もう、好きとか愛してるという段階じゃない。

つら~いお勤めね。皇帝の責務。快楽が責務になったら・・・どこに、快楽があるのよねえ。

そうやって、こっちのパワー、あっちのパワーを推し量り、なんとか、自分の「姓」を、残していこうとするのだけど、

せいぜい300年しか続かない、ひどいのになると3代で終わり・・・歴史が証明している。

ひるがえって我が国。

2000年の王朝!!

どうおもう?直近で明治天皇・・・臭いよね。

しかも、日本でも平安朝約300年。鎌倉室町約300年。江戸期約300年。
つまり、ひとつの体制は、どう転んでも300年が人間世界の現実でしょう?

日本の皇室だけが永遠なんてことある?

あるはずないよね。

現に天智から皇位をうばった天武朝だって、聖武の娘の代でおわり。平安京の遷都を見れば桓武天皇は、その前から断絶しているはずだよね。

平安遷都西暦800年として、300年後の1100年、藤原氏の摂政関白時代から院政となる。

その約300年後、南北朝に割れる。
その300年後、江戸時代中期に、皇統が絶えて、養子を迎える。
そして、明治天皇すり替え・・・この次の300年といえば2150年ごろになるけど。

この年までには、現王朝は、絶対に絶える。

うまくいけば、現天皇から、秋篠宮に禅譲。悠仁親王で、2090年・・・このあたりで、どう考えても、一区切り来ると思うよ。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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