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「論語」考

「論語」というか、孔子の思想は、別に人民支配のテキストを作ろうというものではなく、道徳を政治の基礎に置きたいという願いから生まれたものだろう。論語が人民支配のテキストなら、孔子の生きている間に為政者が採用している。どの為政者も孔子の思想を迂遠であるとして採用しなかったわけだ。どこかの国が孔子を何かの役職に就けたが、それで国から泥棒がいなくなったというのは、弟子たちが作った神話だろう。
まあ、コメントにあるように、思想として面白いのは、現実政治思想として法家の源になった「荀子」か、絶対平和主義と博愛(兼愛非攻)を唱えた「墨子」だろう。しかし、アジア全体の道徳思想の根底になったのはやはり孔子であり「論語」である。つまり、我々の精神の骨格には儒教的道徳意識がある。白人種にはそれが無い(ニーチェの予言どおりキリスト教も精神的には死滅した。)から道徳よりも契約と「お互いの合意」の上で、自分の欲望を無制限に追及する社会になる、なったというのが私の考えだ。もっとも、今では儒教的道徳などまったく持たないアジア人(日本人)がほとんどかもしれない。
「論語」は、唯一神を前提としない道徳という珍しいもので、それがアジア全体に広く浸透したのは、確かに為政者に都合のいい「序列重視」思想(これは「秩序」を作るには「現秩序」を維持するのが手っ取り早いからだろう。ある意味では、日本の「天皇制秩序」もそれかと思う。)が基本にあるからだろうが、実際に、そうして作られ維持された秩序が社会の安定と平和を生んだ、という事実が大きいかと思う。もちろん、その反面では秩序の下部に置かれた層は半永久的にそこから上に上がれないわけである。

(以下「ネットゲリラ」から転載)


自分勝手な中国人に理想の規範が論語

| コメント(1)

世界最古の論語がKO大学で発見、というんだが、今の中国だったらオークションで何十億でも出すだろうし、間違いなく国宝に指定されるだろう。別にかっぱらってきたわけじゃないんで中国に返すいわれもないんだが、遣唐使が持ち帰ったのだろう。という事は、朝貢貿易で中国から「貰った」物だという事になる。貰った物を1000年間、大事に保存し、伝えて来たんだから、たいしたもんだ。

 古代中国の思想家、孔子(こうし)(前551ごろ~前479)と弟子との対話などをまとめた「論語(ろんご)」の注釈書の一つ「論語義疏(ぎそ)(論語疏)」について、6~7世紀初めに中国で書かれたとみられる写本が日本で確認された。調査した慶応義塾大学を中心とする研究チームによれば、日本に伝わり、国内の寺社や家々などで大切に保管されてきた伝世品(でんせいひん)では最古級の論語の写本の可能性が高いという。
 論語義疏は中国では12世紀ごろには失われており、仏典以外のまとまった紙の写本としては現存最古級とみられる。中国では論語は主に注釈書(解説書)を通じて伝わってきており、専門家は日中の思想史や交流史などの研究にとって貴重な史料と注目する。

おいらは四書五経には関心もないんでせいぜい漢詩か、聊斎志異が好みなんだが、孔子の作った儒教というのは「秩序」を大事にして人民を支配するツールだったので、その後も長く東アジア文明圏では支配者お墨付きの思想だった。今でも日本は儒教の呪縛の中にあり、秩序を壊そうとしない人間ばかりなので、アベシンゾー一匹、叩き出せずに終わっている。


最古級の「論語」写本を発見 中国でも消失、古書店からというわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。
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神保町の態度の悪い糞古本屋、全部潰れろ
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↑客見るからな
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↑無職ねらーさん?買わないのにいつまでも売り物触りまくる変な人
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↑古本屋に新刊本屋の対応を求めてはだめ
何を聞いても「その辺にあるかもしてない」とかしか返ってこないのが普通
何万もするようなものは即答してくれるかもしれないが
通常は自分で探すのが基本。
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やっぱ中国では焚書されちゃったのか?
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↑国名変わるたびに民族入れ替わってたからね
近代まで残ってても文化大革命で焚書されてただろうし
なんせ諸橋大漢和辞典を日本から買った国だから古書古文書は残ってない
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↑ネトウヨの聖典日本書紀も原本は行方不明やで
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億単位の価値?
福音書の古い写本とか凄い価値だろ
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子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

学生の時に格闘してみたが、最初のこれで敗退したよ(笑)
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何でも捨てろ捨てろという女が権力握ってたら残ってなかったな
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↑ホンマそれ笑笑
断捨離?
何かの寿司に使われてる米か?笑笑
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論語が立派だから中国人が立派じゃない
自分勝手な中国人に理想の規範が論語だ
バカ高校の校則が厳しいと同じだ
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↑これ
戦前の本を読むと孔子が現れたのは中国社会が乱れきっていたからだと書いてある
わが国に孔子のような人物が出なかったのはその必要が無かったからだとも
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論語は詰まらんな
荀子や墨子の方が面白い
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↑論語の面白さがわからんうちはまだ小僧だな
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鑑真が持ってきた王羲之の真筆もどこかで眠ってるかも
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日本こそ漢文化の正当な継承国
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梁か・・・書物収集癖の最後の皇帝がやっちまったっけ
「国が滅ぶなら俺のコレクションも灰になーれ」
あれさえなければだいぶ原典級が残ってたかもな
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中央で喪失した文献が辺境で見つかることはよくある
中央から伝わったものだとありがたがって保管するから
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 今以有限之力當讀無涯書徒欲強記洽聞終恐唇腐歯落。
 現実とのすりあわせに失敗すると、もれなく不幸がついてくる。
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日本は中国で失われた本がよく見つかるね
陳舜臣は「日本は保存の天才」と語ってた
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孔子は人肉が好物だったって本当?
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↑本当、それまで食べていたけど食った肉が弟子である事を知り、それ以降食べなくなった。
当時として社会が混乱混迷していた世では人肉も流通していた商品、その材料も材料として人間が流通し、弟子になれるような階級もその材料として孔子の食事となって現れる世の中だった。
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↑荘子雜篇に
「大亂之本,必生於堯、舜之間,其末存乎千世之後。
千世之後,其必有人與人相食者也」
(堯舜以降に人の世は乱れ始めた。このまま行けば3万年後には人同士で食べあうようになる)
という記述があるので、当時は食人の習慣は一般的ではなかったと推測できますぜ。
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フランスの哲学者が論語を読んで、インディアンの酋長の説教みたいだなと言ってたけどな
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↑フランス語の哲学者じゃなくて、シュバイツァー(ドイツ国籍のアルザス人)です。
牧師の息子として生まれたシュバイツァーは神学者であり医師であり哲学者であり音楽家でもありましたが、その根底にあるのは典型的な「帝国主義時代の白人至上主義による植民地の伝道師」でしたから、キリスト教を絶対視する反面、キリスト教以外の世界各国の宗教に対しては蔑視に満ち溢れた論評を行っています。
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1500年前の写本か
遣隋使の船に積まれて来た巻物ってまだ残ってたのか
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おい中国、いくら出す?いくら出せる?
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オークションにかけたら中国人がとんでもない金額で競り落とすだろうな
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聖徳太子の時代より前か すげーな
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廃れた文化は辺境で保存されるってなことを某作家が言ってたな
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最古級でも論語の時代から1000年後なのか...
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↑論語の時代には紙がない
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↑用を足したあと途方に暮れたのを思い出すわ。懐かしい...
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↑最近は仙界もネットが通じてるのか
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し、のたまわく、とか、昔の子どもはポケモンキャラのように暗記してたんだよな。
音読されたものを暗記してから、はじめて書かれた文字を見た。
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流し読み程度でいいから
四書五経は読んでおいた方がいい
日本の倫理観の根底なのだから
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慶應から二点目の国宝か
これで国宝の点数で早稲田に並ぶな
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子のたうち回る!
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三国志の一番古いのも日本にあるときいたが
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↑横山光輝のか?
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今時支那の書物なぞ屁の役にも立たん
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↑支那人がお前の生涯賃金以上の額で買い取ってくれるやろ
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中国は文化大革命で儒教の残滓を徹底的に潰したから、今の発展がある。まぁ、どうせ落ち着きゃまた、論語を大事にする時代も来るんだろうがw

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冨永仲基の「真の道」

冨永仲基の「翁の文」の一節で、「神なき時代の倫理」は、これに尽きるのではないか、と思うので、私自身の別ブログから自己引用する。もちろん、江戸時代と今では事情も変わっているから、すべてそのままで通用するとは思わないが、人生における基本的な心得として実に中庸を得た、健全な「道徳律」だと思う。まあ、仏教でも言う「諸善奉行、諸悪莫作」を具体的に、かつ行いやすい道徳律として言っているわけだが、悪事を行って巨万のカネを積むよりも、この「真(まこと)の道」を守って生きれば、自分だけでなく世の人すべてが幸福になる、ということである。真理は平凡なものだ。

(以下自己引用)面倒なら、私が青字にした部分だけ読めばいい。

翁の文(第六節)

それでは、その真の道の、今の世の日本で行われるべき道はどうかと言うのなら、ただ物事の当たり前のことを務め、今の仕事を本として、心をまっすぐにし、身持ちを正しくし、物の言い方を丁重にし、ふるまいを慎み、親がいる者はよくこれに仕え、(翁の自注に言う、六向拝教を見るべし、もっぱら五倫のことを説いている、また儒者もこれを重んじている、また神令にもこの五種を載せておられる、これは真の道は三教の道にも欠かせないものである印である、と。)主君がある者は、よくこれに心を尽くし、子がある者はよくこれを教え、臣下がある者はよくこれを治め、夫がある者はよくこれに従い、妻がある者はよくこれを率い、兄がある者はよくこれを敬い、弟がある者はよくこれを憐れみ、年寄りに対してはよくこれを大切にし、幼い者に対してはよくこれを慈しみ、先祖のことを忘れず、一家の親しみを疎かにせず、人と交わってはまごころからの誠意を尽くし、悪い遊び(注:遊蕩のことだろう。)をせず、優れたものを尊び、愚かな者をあなどらず、おおよそ我が身に当てはめて(考え)、悪いことを人に為さず、鋭く角々しいことをせず、僻んで頑なにならず、せかせかと余裕の無い態度をせず、怒ってもその際限を誤らず、喜んでもその守りを失わず、楽しんでもそれに淫せず(溺れず)、悲しんでも迷いに至らず、十分なことも不十分なことも、みな自分の幸福だと心を満足させ、受けてはならないことは塵ほどのものも受け取らず、与えるべき場合には国や天下でも惜しまず、衣食の良い悪いも、自分の身の程に従い、贅沢をせず、吝嗇でなく、盗まず、偽らず、色を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害の無いものを殺さず、食物を慎み、悪いものを食わず、多くは食べず、(翁の自注に言う、云々:この段の論拠が古典や経などにあることを述べているだけなので省略する。)暇な時には自分の身に利益のある芸を学び、賢くなることを務め、(翁の自注に言う、云々:同様に省略)今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食い、今の衣服を着、今の調度を用い、今の家に住み、今の風俗習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、さまざまな悪いことをせず、さまざまな良いことを行うのを真の道と言い、また今の世の日本で行われるべき道とも言うべきである。

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レギオンに満ちた世界

別ブログに書いたものを自己引用しておく。
「神が存在しなければ作る必要がある」と言ったのはヴォルテールだと思うが、無信仰の時代とは無道徳の時代でもあるということを予見した優れた言葉だと思う。
ただし、私は「神無き時代の道徳」を、きちんとした根拠のもとに倫理学者や哲学者が作り上げる必要があると思っている。

(以下自己引用)

「in deep」の一節で「レギオン」という言葉が聖書のマルコによる福音書の中に出てくるということに関する記述である。

(以下引用)


先ほどの「マルコによる福音書」は、この映画の中に出てきて、当時聖書など知らない私は、この下りをこの映画ではじめて知ります。映画での場面の説明的に書きますと、以下のように出てきます。


エクソシスト3の場面より説明


老刑事が、悪魔的な殺人事件の現場で、「部分的に焼かれている聖書」を見つける。刑事は「聖書の焼かれている部分」に着目し、その部分を家にある聖書で読み直す。


刑事 「イエスは悪霊の取りついた男の名を聞かれた。その者は答えて言った。レギオン・・・大勢だから・・・」


刑事 「・・・大勢・・・・・」


このように、刑事は、


「大勢」


という言葉を呟くのですけれど、これが意味するところは、


「悪魔の代行者がこの世にはたくさんいる」


という意味でもあるはずで、つまり、


「この世は、悪魔の手先のような存在で満ちている」


と。


では、


「どのような存在が悪魔の手先なのか」


ということについて、エクソシスト3では明確に書かれているのです。それは、


「一般の人間」


なのです。


どんな人間なのかといいますと、その内容が、今のような時代には大っぴらには表現しにくいかと思いますが、


「心の弱い人間たち」


なのです。


エクソシスト3では、途中から精神病院が舞台になりますが、


・精神を病んでいる
・意志が弱い
・良心が弱い


というような人たちは容易に悪魔にコントロールされるというような雰囲気の描写が続きます。



(以上引用)

英和辞書でregionは「地方、範囲、領域」だが、regを語頭に持つ語の中でregiment「連隊、大勢」、あるいはregnant「統治する、優勢の、流行の」などが、「大勢の」のニュアンスを持つ言葉だろうか。
で、レギオンは悪魔そのものではなく、「悪魔に憑(と)りつかれた者」の意味があるかと思うが、ドストエフスキーの「悪霊」も、悪霊そのものを主題とするものではなく、悪霊に憑りつかれた者、つまりレギオンとしてのスタヴローギンを描いたものではないか。そのスタヴローギンは、能力的には何でも為しうる人間でありながら、「精神を病んでいる」「意思が弱い」「良心が弱い」ために、何事もなせず、ただ無力な幼女を犯すという最低の行為しかできなかった人間として描かれる。
神という存在が完全に否定された現代では、無数のレギオンが地上を埋めているかもしれない。

ただし、上で書いた「精神を病んでいる」は、現代科学の定義の上での精神病ではおそらくない、ということを一言しておく。これは理性的に、あるいは道徳的に健全さを失っている意味だろう。現代科学の「精神病」は単に社会的不適合を病気扱いする傾向が強い。これは金儲け至上主義の資本主義の帰結だろう。つまり、コミュ力が第一義である社会から「病気」として排除されるわけだ。昔なら「職人気質」だったものすら今では病気扱いである。

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風景と情景

辞書的に「風景」と「情景」に違いがあるかどうかは知らないが、あえて違いがあるとして考察してみよう、というわけである。

私は、あまり有名でもない「Re.Life」というアニメ(実写化もされている)が大好きで、三回ほど見ているが、そのオープニングに流れる歌の中に「放課後にしかない茜の空」という歌詞の一節がある。
茜の空は、晴れた日なら毎日でも夕方に(あるいは朝にでも)あるもので、それが「放課後にしかない」はずはないわけだが、それは理屈での話で、高校の部活帰りなどに見た茜の空は、青春のその一時期にしか存在しないものだ、というのが私の言う「情景」の意味だ。
そして、その青春の一時期の貴重さを見事に描いているから、私はこのアニメが好きなのだが、それは私には青春というものが存在しなかったからだろう。私は自分の存在そのものに絶望していて、周囲を眺める余裕などまったく無かったのである。まあ、単に「理想の自分でない自分」に絶望していただけの話で、愚劣な絶望だったのだが。
それはともかく、私が、「青春の時期というのは青春時代にしか存在しない」という、当たり前の事実をちゃんと認識していたら、きちんと努力してまともな青春時代を送っていたかもしれない、という思いもある。まあ、別に自分の人生を後悔しているわけでもないが、そういう「まともな青春」への憧れが心の底に残っているのだろう。老人になったのは外見だけだ。
最初の話に戻って、「風景」と「情景」の違いだが、風景とは単に「見えるもの」である。単なる「外界」である。それに対して「情景」とは、「自分の心情で染められた景色」である。
つまり、感受性の強い若いころに見た風景はだいたい情景であり、中年以降に見る風景は風景のままだろう、というのがとりあえずの結論だ。



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暴力とエロス

漫画家でツィートをしている人のツィート内容を見ると、暴力系漫画の作家はネトウヨに親和的で、エロ系漫画の作家は反体制的になる印象がある。これは、暴力系漫画は軍事的内容の漫画を描くことが多く、自分の描くものが自分の思想と矛盾すると精神的破綻を来すので、軍隊肯定思想になり、ネトウヨ化するのではないか。エロ系は、政府によって弾圧され出版禁止になることが多いので、反体制思想に親近感を持つのではないか。
まあ、要するに、「思想は自分の生(生活)にとって有利か不利かで決まっていく」というだけの話で、別に高尚なものではない。というこの私の思想は、「自己愛が人間の思想や精神の根本動機だ」というものだ。その、自己愛を離れたところに生じるものがモラルであり宗教であり哲学だから、人間の動物的生から離れているぶん美しいが常に非現実性はある。また、モラルや宗教の仮面をかぶった他者支配(精神的暴力)や「商売」もある。
もちろん、暴力衝動もエロスも両者とも同じ人間の中にあるわけで、それを自分で意識し、コントロールできるのが「まともな人間」というものである。
まあ、とりあえず、ネトウヨの中で軍隊や戦争そのものを否定する人間はまったくいない。しかし、本物の右翼の中には戦争も軍隊も否定する人間はいるのではないか。そもそも、右翼とは何か、と言えば、自国の文化や伝統や、国家の独立・自立を重視する思想であって、べつに戦争大好き・暴力大好き・大政翼賛会体質の人間のことではないだろう。そして、右左の組織について言えば、組織防衛のために個人を軽視し抑圧するのは、右でも左でも同じようなものである。これを「組織悪」と私は言っており、人間個人における「自己愛」が「組織との精神的同一化」となったものだ。

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見えない物、聞こえない音の意義

これが事実なら、なぜレコードの売り上げがCDを上回ったのか、その理由が知りたいものだ。
私はCDが出始めた当時、その音が味気ないと思ったものだが、いつの間にかその音に慣れてしまい、その操作の便利さからCDでもいいと思うようになったわけだ。CDは人間の可聴域を超える音をカットして作られていると言うが、「聞こえない音」が実は音の色合いに風味を与えていたのではないかという仮説を私は持っている。まあ、私はレコードの雑音(針の擦過音)まで音楽の風味だと思う人間だし、音楽マニアでもないし、耳の解像度が悪いことは何度か書いているので、CDの音とレコードの音の違いは耳のいい人や音楽専門家に研究してもらいたいものである。
仮に、レコードの売り上げ増が、「聞こえない音の意義」が理解され始めたせいなら、私としては長年の持論が証明されたようで少し嬉しい。そして、音だけでなく、「見えないものの意義」が分かる人が世界的に増えて、経済合理主義だけの世界が変わってくるといいと思う。
たとえばレコードの上に針を落とす、その操作は面倒だと思うだろうが、レコードが回りだし、その回るレコードの上に針を注意深く持っていき、静かに落とすという作業は「音楽を聴く」心を集中させるという意義があったかもしれない。便利さや効率性によって切り捨てられてきた「見えない」大事なものがたくさんあったのではないか。

(以下引用)

レコードの売り上げ、CDを抜く 1980年代以降で初めて

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米国で今年上半期、レコードの売り上げがCDを上回った/Stephen Chung/LNP/Shutterstock

米国で今年上半期、レコードの売り上げがCDを上回った/Stephen Chung/LNP/Shutterstock



ニューヨーク(CNN Business) 米国で今年上半期(1~6月期)に発売されたレコードの売り上げが1980年代以降で初めてCDを上回ったことがわかった。全米レコード協会(RIAA)が明らかにした。


RIAAによれば、今年上半期のレコードの売り上げは2億3210万ドル(約246億円)とCDの売り上げ1億2990万ドル(約137億円)を上回った。


レコードはカセットテープやCDなどが登場する前はありふれたものだった。カセットテープやCDが音楽を聴くのに最もよく使われるフォーマットとなったが、それでもレコードの復活が止まることはなかった。2005年以降、レコードの売り上げは増え続けている。RIAAによれば、今年上半期、レコードの売り上げは4%増加した。CDの売り上げは48%の減少だった。


レコードに対する関心が高まっても物理媒体による売り上げの減少を食い止めるには不十分のようだ。物理媒体による売り上げは23%減の3億7600万ドルだった。新型コロナウイルスの感染拡大で、コンサートが中止になったり、店舗が閉鎖されたりして音楽業界には打撃となっている。


物理媒体による売り上げが伸びなくても、ストリーミング市場は拡大し続けている。


有料のものや広告付きのものを含んだストリーミングの売り上げは12%増の48億ドルだった。


今年上半期の売り上げの85%以上がストリーミングによるものだったという。




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利他「主義」は存在しない

私は東海アマ氏の「利他主義」という言葉が大嫌いなのだが、それは、人間(動物)の本能の基本は自己愛だと思うからだ。それが自己保存本能でもある。つまり、自分自身を守るのが生きる原点だということだ。そうでなくて自然の中に生きることは不可能だろう。
だが、人間は文化と文明を生み出し、そこから他者は自分と同等の生きる価値を持っていると認識するようになった。だが、それは「利他主義」ではない。いわば「平等主義」であり、私が最近重要な観念と考えている「フェアネス(公平)」の観念だ。この観念が人間の文化や文明を生み出したのではないかと私は考えているが、それは「利他主義」とはまったく違う。
「利他主義」が本当に存在するなら、たとえばカルネアデスの板のような状況において、まったく見知らぬ他人にその板を渡し、自分は海に沈むことを選ばねばならない。そうであって初めて「利他主義」という言葉が言えるだろう。
人類の歴史において、自己犠牲的行為は無数にあっただろう。しかし、それは利他主義という思想ではなく、「自分よりも、自分の愛する存在のために我が身を捨てる」行為であったはずだ。
利他主義という言葉には、私はまったく荘厳さも真剣さも感じられない。軽薄な「頭の中で作った観念」としか思えない。
なお、山本太郎は善行を苦とせず行う稀な人間だと思うが、彼の行動は「博愛」であって、利他主義とは違うと思う。つまり、他人の苦を自分の苦と感じる稀な人格からの行動であって、主義などという「外付け」の思想ではないだろう。

(追記)私がなぜ東海アマ氏の「利他主義」という言葉にこだわるのかと言えば、それが東海アマ氏の中心思想と思われるのに、それがまったく土台の無いアホ思想であるのが残念だからだ。東海アマ氏の鋭い知性やこれまでの反原発などでの戦いを深く尊敬するだけにその土台があまりに弱いのは、人々の氏への評価を大きく下げかねないのが残念だからだ。言葉は思想の器である。言葉を疎かにした思想は脆弱になるしかない。


(以下引用)


 私も50年代生まれなので、「アフター団塊世代」だ。
 この世代の特徴といえば、めったやたらに子供の数が多かったため、学校に行っても、机も椅子も不足しているから、遅れてゆくと「立ちんぼ授業」を受けねばならなかったほどだ。二人机に三人掛けなんて常識だった。
 1学級に60名なんてザラだった。私の世代ですら、1学級50名近かったのだ。ちなみに、今では30名でも多い方ではないだろうか?

 こんなに子供たちが過密だと何が起きるかというと、序列付けがひどくなる。当時は、まだ戦前の「末は博士か大臣か」という権威主義の価値観が色濃く残っていた時代だったので、教師も親たちも、子供たちに序列をつけて上に這い上がる競争をさせるのが大好きだった。

 もう幼稚園や小学校、中学校を通じて、序列一本槍の教育システムで、何にでも点数をつけて、子供同士でコンプレックスを持たせて競争させるのが教育であると、大人たちも教師たちも、みんな勘違いさせられていたのだ。

 そうして、子供自身も、いつでも自分は全体の何番目かなどと序列を気にかけて、上にゆけば褒められるし、下に落ちれば貶されるし、序列をカサに着て、威張りまくってみたり、序列の低い同級生を小馬鹿にしてみたりと、見栄張りばかりで、人間関係に優しさが失われていった時代だ。

 知的障害のある子供が一般学級に入れば、イジメの標的になるので、この頃には「特殊学級」というのが作られていた。それでも、クラス最下位の子供は、侮蔑され徹底的にイジメられた。
 人々の関心事は、人間の序列ばかりに目が向けられ、わけても学歴で人間を評価する悪しき伝統が定着したのもこの頃だろう。

 こうして、「序列こそ人生の価値」と洗脳された子供たちが、大量に世間に出てくることになった。
 一番序列の上が天皇で、次は東大卒、それから公立大卒、私立大ときて、高卒、中卒は、社会の恥であるかのように思い込まされた人々が、日本社会の中核となり、バブル時代を生み出していったのだ。

 私の通った小中学校は、名古屋市中村区の大門という歓楽街に近かったから、ここで生計をたてるヤクザが非常に多かった。また日本社会の差別システムによって底辺に追いやられた在日朝鮮人の街でもあった。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html

 こんなヤクザの世界にも、序列価値観が押し寄せていて、学校で白い目で見られる劣等感をバネに、学校内イジメ勢力の主役だったし、ヤクザ同士の見栄の張り合いも大変なものだった。
 私は、国鉄勢力だったが、学校でどれだけイジメられたか分からない。今でも同窓会など行きたくない。
 当時、私を一番虐めたYは、あるとき殺人で無期懲役判決を受けたと新聞に出ていた。生徒会長にまでなったO組長の息子は、「二丁拳銃のO」とヤクザ世界で異名をとるほどの有名人だったが、人妻との恋愛が元で、飛び降り自殺した。

 後に、バブル時代に「研修」と称して、社員を街頭に立たせて、自分がどれだけアホか、延々と懺悔させたりした人間疎外の会社経営者も、この団塊世代ではないだろうか?
 凄まじい競争に弄ばれた世代ではあるが、それは日本社会全体の競争力を引き上げていたのも事実だ。
 戦後、日本社会のイノベーションの大半は、この世代がもたらしたものだ。
 
 だが、競争に明け暮れた世代は、自分の評価ばかりを気にする姑息な価値観に洗脳された世代でもある。人に対する優しさを見失った者が多かった。
 人が多すぎると、やはりどうしても、自分の序列と評価ばかり大切にしたがる輩が増えてくるものだ。今の70才代前半がそうだ。

 そして、その子供たちの世代も、「第二次ベビーブーム」となり、やはり一学年50人というすし詰め教育体制で、何もかも競争の価値観を迫られた。
 しかし、この世代は、戦後バブルが崩壊し、ロストジェネレーションを思い知らされる世代となった。

 正社員の道を閉ざされ、必死になってバイトや派遣で生き抜いていても、大不況がくれば、真っ先に企業を追い出され、普段の貢献など、何一つ評価されないまま、公園でのホームレス生活を強要されたのだ。
 みんな40歳代になっても、正社員の安定した生活は許されず、もちろん結婚もできず、派遣先を渡り鳥のように駆け回って、あげく何かあれば捨てられる悲哀の人生を強いられている。

 だが、そんな苦悩の世代のなかから、山本太郎や須藤元気が出てきた。
 また、ちょうど社会的差別から、芸能界スポーツ界に向かうしかなかった在日者と同じように、芸能人、スポーツ人になった者も多く、実力者が揃っている。
 http://sedainet.web.fc2.com/dankaijryumeijin.html

 私は、地を這うような苦悩を強いられてきた、このロスジェネ世代こそ、新しい日本の救世主になるだろうと確信している。彼らは、いわれのない差別に苦しんできたから、自分が差別者になることもないだろう。
 また、人間の序列が、どれほど無意味なものかを思い知らされた世代なのだ。本当の人間性と実力だけを頼りに、新しい世界を作り出す主役になってくれるだろう。

 そもそも、繰り返し書いてきたとおり、「心豊かな良き社会」の正体は、「利他主義」を人生観の基礎に置いた人々の作り出す社会なのだ。
 我々が幼い頃から経験されられた、たくさんの子供たちに序列をつけて選別する「競争社会」は、他人を踏みつけて自分だけが特権階級を手に入れる徹底した利己主義を生むことしかできない。

 団塊世代も、アフター団塊世代も、物心ついたときから競争に晒され、社会に出ても、競争に追い立てられ、自分のことにしか関心を持てないように薫陶された世代なのだ。 いいかえれば、「利己主義」でなければ生きられない時代だったともいえよう。

 だが、団塊ジュニア世代=ロスジェネ世代は違う。理不尽で辛い目に遭い、不条理を押しつけられ耐え忍んできた世代なのだ。
 だから、苦悩の底から、「利他主義」に生きることの大切さを学んでいる。
 利他主義でなければ、まともな、良き社会は作れないことを、身をもって知っている世代だ。

 私は、日本中で起きている震災や台風禍で、すぐに駆けつけてくれる人たちの多くが、ロスジェネ世代であるような気がしている。
 金儲けしか知らない世代に「無償の愛」が分かるはずがない。何ものも得ずに、他人に優しくできるのは、自分自身が辛酸をなめて、利他主義が新しい世界を作り出すことを知っている人々だと思う。

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