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感情と論理

音楽表現や情的表現(詩など)の分野は社会認識力や論理性とは別次元の能力で、むしろ後者の能力が欠如した人間のほうが前者の表現能力が高いことはよくある。これは、グルジェフ(ロシアの神秘思想家)が、「知性のセンターと感情のセンターは異なる(ちなみに、性欲のセンターも異なる)」と言っているのが的を射ていると思う。
論理性とは「(思考過程が)正か誤(不正)か」の基準で思考するものであり、感情性(感動)は「好きか嫌いか、快か不快か」の基準で思考するものだろう。何かが快感を与えると認識した時に、そこに論理性を交えず、飛躍的にその快感の中心に到達できるのが感覚的人間だと思う。
白井氏は論理的人間であるだけに、「偉大な詩人に偉大な知性を期待する」という、子供じみた間違いをしたのだろう。まあ、偉大な詩人の知性は偉大ではあるが、白井氏の期待する類の知性ではない、ということだ。文学史(芸能史、文化史)を見れば、人間のクズのような人間が偉大な作品を作った例はゴマンとある。そもそも、文学や芸術は現実では得られない妄想を作品の中で実現することだろう。そこでの偉大な知性とは、常人を超えた妄想を思考できる能力であり、偉大なキチガイだとも言える。


白井 聡/Shirai Satoshi(新刊『武器としての「資本論」出しました!)
実にその通りだと思います。偉大な詩人には偉大な知性を期待したくなってしまう。要するに私は、ひどくがっかりしたのです。
引用ツイート
小田嶋隆
@tako_ashi
·
「間違った人間に才能が宿ったケース」の実例なら、いくらでも挙げられます。でもあえて沈黙を守ります。「才能のあるクズの話」は、ファンを怒らせるからです。特定の誰かの才能に惚れ込んでいる人たちは、彼または彼女が才能に見合った立派な人格者であることを期待するものなのですね。
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読書という体験は人間を変える

今でも、学生や児童への推薦図書という習慣はあるのだろうか。たとえば、「夏休み推薦図書」とか。まあ、ああいったリストを渡されて真面目に読んだ生徒はほとんどいないのではないかと思うが、あれはあれで、頭の片隅に「こういう真面目な本は読んだほうがいいのだろうな」という気持ちを残すと思うので、悪い習慣ではなかったと思う。文学的な作品は「他者の内面への想像力」を育てる、ほとんど唯一の手段だと思うからだ。テレビドラマや映画では内面描写がかなり困難であり、それは漫画でも同じだろう。子供のころに宮沢賢治や浜田広助や新見南吉や小川未明などの童話(の内面描写)を読むことで、自己犠牲とか他者への愛情とか人間の弱さ、苦しみ、喜びなどを理解した人間と、そういう文章にまったく無縁で成長した人間では、「人間の質」が違うと私は思っている。人間になるか、「愛情もカネで買える」と言うような、冷酷なモンスターになるかだ。
とは言え、「夏休み課題図書」を出した教師たちが、自分で本当にそれらの本を読んでいたとは私は思わない。どうせどこかから探してきたリストだったのだろう。そうでなければ、「読むのに一年かかりそうな長い作品」を50冊も指定するはずがない。もっとも、本当に読むのに一年かかるか、というと、そんなはずはないだろう。たとえば「大菩薩峠」なんて、長いことは長いが、あまりに面白いので私は読み終わるのが残念なほどだった。おそらく、長いだけでなく退屈な作品だから「読むのに一年かかる」のだろうから、そんなのは読む必要はないと思う。「戦争と平和」にしろ、「カラマーゾフの兄弟」にしろ、とてつもなく面白いのだから、若くて体力のある時代に読むべき本だろう。それらの中には読む前と読んだ後では「頭の中身」ががらりと変わるものもある。あるいは「世界の見方」が変わる、と言ってもいい。



おてんばベッキー
@lafoliee
『10代はこれを読め』みたいなリストはぼくの学生時分にもあったが『ジャン・クリストフ』とか『ベートーベンの生涯』とか読むのに一年かかりそうな途方もなく長い作品が50連ねてあったりした…こういうリストを作るひとはアホだと思った方がいい…10代を無駄にしてしまうよ

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明治維新とグローバリズム

海音寺潮五郎の「寺田屋事件」を読んでいるのだが、幕末の情勢を改めて考えると、現代の我々にはとうてい実感できない激動の時代だったのだろうなあ、と思う。学校の授業で聞く、維新前の尊王攘夷が一転して明治政府で開国方針に転換したことなど、「へえ」としか思わないが、当時の人間は相当に首をひねったのではないか。現代人だと、明治政府の中枢の人間が西洋社会を自分の目で見て「開国すべきだ」と実感したからそうなった、で納得するだろうが、当時の人間には明治政府による裏切り行為と思われたのではないだろうか。何しろ、相手は東洋の国々を侵略し、中でもイギリスなどは「阿片戦争」という悪辣な行為を行う連中である。それとまともに付き合えるはずがない、と思うのが自然だろう。攘夷論というのは、そういう西洋国家への不信感と危機意識によるもので、単に後進国家(日本)の異人嫌いというものではない。開国すると日本は西洋国家に侵略されるという危機意識があったはずだ。
孝明天皇の異人嫌いというのはよく知られているが、それは生理的嫌悪ではなく、開国によって「西洋に侵略され、占領されるか、そこまで行かなくても西洋文化が流入し、日本が日本であるアイデンティティ(すなわち、皇統)が失われるのではないか」という考えからのものではなかったかと思う。それは少し後に太平洋戦争の敗戦で(天皇という制度が象徴天皇制になった以外は)現実化したわけだ。まあ、日本人全体にとっては、太平洋戦争の敗戦は民主主義の導入となって、幸福な出来事だったと私は思っているが、それで死んだ膨大な人間にとっては幸福どころではない。
孝明天皇が急死せずに明治維新後まで生きていたら、明治政府の開国方針には大きな支障となっていたはずで、やはり孝明天皇の死は開国主義者、現代で言えばグローバリストによる暗殺だったのではないか、というのは自然な推理だと思う。

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連続する事象の真の因果関係

ネットゲリラ氏の記事を読んで、この年になって「風邪は人に移すと治る」の理由がはっきり分かった。つまり、風邪を引いた人が治る時期に、その人から移された人に風邪の症状が現れるという、タイムラグだったわけだ。
こうした俚諺や迷信にも、何かの理屈があるわけで、面白い話だと思う。もちろん、「移したから治る」と言葉通りに捉えると迷信になってしまうが、しかし、その因果関係をいったん棚上げして、事象の連続性だけを考察すると、「風邪には潜伏期間がある」という、実に科学的な話になる。寺田寅彦などが随筆に書きそうなテーマだ。
さらに言えば、感染症の大半は自然治癒し、自然終息する、という、ある意味ではこの世の奇跡(天の恩恵)とすら言える現象が、この「風邪は人に移すと治る」の中に含意されている。感染症が自然終息しなかったら、人類はとっくの昔に滅びていたわけである。


(以下引用)

はたして本当に減っているのか

| コメント(6)

感染者の伸びが停まった感じなんだが、はたして本当に減っているのか、たかが数日の数字だけでは判断できない。というか、東京だけはピークアウトっぽいけど、地方がまだ増えている最中。こういうのを「風邪は人に伝染すと治る」と言うね。トンキンはコロナを地方にバラ撒いて「伝染すと治る」を実践した。地方都市はどこも、トンキンからのコロナ持ち込みに頭を抱えている。

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「未来は暗い。思うに、それが未来にとって最良の形なのだ」

「紙屋研究所」記事の一節で、全体はフェミニズムに関する文章だが、下記のヴァージニア・ウルフの言葉は、絶望と混迷しか見えない現在の世界へ、或る種の希望を与える言葉かもしれない。
二十世紀末は(冷戦の終了により)、未来予測は可能で、容易だという調子の言説が幅を利かせていた印象が私にはある。ところが、二十一世紀に入り、資本主義の暴走が始まると、かえって未来は混沌としてきた。そして、新コロ騒動は最後の一撃である。だが、未来の暗さは、そこに大きな可能性を秘めている暗さだ、と思うことは、空元気でも元気を与えるのではないか。


(以下引用)


  だからこそ、ソルニットにとって、わからないもの・謎は変化するものであり、開かれたものだという確信がある。だからウルフの「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」という言葉を彼女は愛するのである。


 しかし、


「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」。それは驚くべき宣言だった。いつわりの直観や、暗澹たる政治とイデオロギーの物語の投影によって、不可知のものを知っているふりをする必要はない、という主張だ。「思うに」という一節にあらわれているように、その言葉は闇を祝福し、自らの主張の不確かさすら認めることを厭わなかった。(本書KindleNo.1023-1027)


 


 ぼくは「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」などと最初、ソルニットは訳がわからないことを言っているとしか思えなかった。しかし、未知のものに対して自由で開かれている精神を保つということでありそれが批評的精神でもあるということを考えればそれは得心がいった。


 加藤周一平凡社の『世界大百科事典』で「批評」の項を執筆しているのだが、彼は


ヨーロッパ語では、批評という語の形容詞(たとえばフランス語のクリティークcritique)は、名詞と同じ意味のほかに、〈危機的〉という意味に用いられることが多い。……批評の機能と〈危機的〉との間には事実上の関係がなくもない。……批評精神は、特定の価値の体系が危機に臨んだときに活動的となるから、批評精神の敵視とは、危機的時代の歴史であるということができる。(前掲書25、p.517)


と、一見こじつけのようなことを書いて、ルネサンス、市民革命、そしてマルクス・エンゲルスまで紹介している。これはソルニットが紹介したウルフの「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」という一文の批評精神に通じている。

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生命の「経済的」価値

Keppyとやら称する人物のツィートを小田嶋師がリツィートしたものだが、Keppy氏の考え方は、人間の生命を金銭的(経済的)価値で計る思想で、その中に「時間」も金銭化されている。つまり、実に現代的な経済合理性の前にモラルが踏みにじられているわけだ。この思想で行くと、四十年で死ぬ人間より八十年生きる人間の価値は二倍ある、となりそうである。ところで、モーツアルトは四十前で死んだと思うが、その生命の価値は八十過ぎまで生きている石原慎太郎の半分だろうか。若くして死んだが偉大な業績を残した人間は無数におり、その反対に、周囲に迷惑をかけ通しで八十九十まで生きた人間(政治家に多い)もゴマンといる。
もちろん、偉大な業績など残さなくても、生きることの価値は、当人にとっては計り知れないものだ。要するに、他人の生命の価値を云々する資格など、誰にも無い。それは、他人を殺す権利は誰にも無い、というのと同じである。宗教や法律がどうであれ、自衛のため以外で他の人間を殺す権利は誰にも無い。したがって、最大の悪は戦争であり、人を殺し合いや自殺に追い込むような政治である。生きる権利はあらゆる人権の基盤だ、というのは当たり前の話である。

と私は思っているが、しかし、「自殺」する権利もまたある、とも思っている。ただし、それは周囲の人間を悲しませ、非常な迷惑をかける可能性の高い行為だろうという前提での話だ。そして、難病のために毎日耐え難い苦痛に苛(さいな)まれながら、短い人生で偉大な業績を残した正岡子規や中江兆民を私はこの上なく尊敬している。

(以下引用)

5年を50年に変えればあなたもほぼ間違いなく死ぬ人間ですよ。
引用ツイート
KEPPY
@toujirou_wwww
·
返信先: @tako_ashiさん
じゃあ俺が言うよw 「ほうっておいても5年で死ぬ人間の命を何百万円もかけて延命する意味ありませんよね?」

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自分の生命は誰のものか

当人も別ツィートで言っているが、短い字数で論じられる問題ではない。ならば、ツィッターで呟くことも控えるべきだろう。短い文で言った内容が、その人の端的な意見だ、ということになる。ここでは、「人は己の意志で自己の生死を決めることが出来るのか(いや、できない)」が呟き主の考えだ、となる。で、それに対し、「安楽死は自分の意志で自分の生死を決めることだけではなく、他人の生死を決める状況も含むし、またどういう状況でそれが判断されるかにも左右される」と言うしかない。しかも、「そうよね、専門家だし」に至っては思考停止であり、この問題について呟く意味もない。「専門家」に「死ね」と言われたら従うのか?
なお、「人は己の意志で自己の生死を決めることができるのか」にはふたつの意味があり、「決めていいのか」という倫理上の問題と、「決めることが可能なのか」という可能性の問題がある。後者は当然、よほどの状況(植物人間や、難病などでそれに近い肉体的状況の人間)でないかぎり可能に決まっている。前者が問題の核心だが、前に書いたように、自分を創造神の被造物と仮定するキリスト教系(一神教系)の信者でないかぎり、決めていいにきまっている。昔の侍の自決は当時の侍の「道徳」に則った行為がほとんどであり、それは間違いだ、という権利は誰にも無い。芥川や太宰の自殺を批判する権利も誰にもない。かと言って、それらを称賛するにも当たらない。自殺は馬鹿な行為だ、という意見を持つのはいいが、それはその人の主観的判断にすぎない。



(以下引用)



安楽死、生命倫理、人は己の意志で自己の生死を決めることが出来るのか。昔、従弟とそういう話したこと有るなあと思ったら日経に載ってた。そうよね、専門家だし。 <「生きる権利支えて」ALS患者ら「安易な安楽死」批判:日本経済新聞
「生きる権利支えて」ALS患者ら「安易な安楽死」批判
ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者の嘱託殺人事件を受け、ALS患者らは「長年の支援活動で患者が生きる選択肢が広がっている」と呼びかけている。回復の見込みのない患者は安楽死を望むことがほとんどとい
nikkei.com
午後4:26 · 2020年7月25日Twitter Web App






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酔生夢人
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男性
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仙人
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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