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「スメラミコト」の語源を考える

別ブログに書いたものだが、ここにも載せておく。
毎度言うが、私は思考そのものを楽しんでいるのであり、下の文章には別に政治的な意味は無く、私が突然右翼になったわけでもない。ただ、自分の納得できない説が「学界の定説」扱いされているのが不愉快なだけである。

(3月30日追記)歴史学者(?)保立道久のツィートである。まあ、「澄む」説が有力視されなくなったのは結構だが、梵語が語源というのも怪しげではある。この件に限らず歴史の「定説」などいつでも変わるものだ。テストのためにそれを覚えさせられる学生は可哀そうである。

最近の仕事で分かりやすいのは、私も『日本史学ーー基本の30冊』(人文書院)で紹介した安藤礼二『場所と産霊』だと思います。また歴史学の方でも、スメラミコトは梵語スメルから来たというのが定説化しています(中野高行『古代国家成立と国際的契機』(同成社)など)。澄むではないということです。


(以下自己引用)


「天皇」をなぜ「スメラミコト」と言ったか





まだ思想が熟していないのだが、「天皇」の和語を「スメラミコト」というのを、学者の多くは「澄む」と「御言葉」が語源だとみなしているようで、私はそれに違和感を持つ。
そもそも、「澄む」が語源なら、「スメラ」の「ラ」は何なのだ。「澄む」の活用語尾に「ら」など存在しないだろう。落語の「ちはやふる」ではないが、「ら」くらいまけろ、と言われても、「いや、まからねえ。説明しろ」である。
それに、「ミコト」の語源が「御言葉」だというのもかなり怪しい。「天(神)の御言葉を伝える」存在だというのなら、天皇はただの「ミコトモチ(国司)」(天皇の御言葉を持ち伝える者)の同類ではないか。「ミコトモチ」の「ミコト」と「スメラミコト」のミコトが同じだとは信じがたい。そもそも、日本書紀や古事記で天皇は神意を問うのに臣下や巫女などのアドバイスを受けており、天皇自身に天の御言葉が下る例は少ないのではないか。いや、「天皇」とは、天の代理人ではなく、「天皇自身が天の王である」という意味だろう。まあ、「天」とは何か、というのはまたいずれ考えたい。
「み」が「御」であるのは最上位の存在への敬意を示す意味で妥当である。
私は、「こと」は「言」ではなく、「事」ではないか、という可能性を考えている。
「物」と「事」の違いは、「物」が物質的存在であるのに対し、「事」は「行為、力の作用」の意味合いが強いことだと思う。言い換えれば「力」である。天皇の「霊力」(と仮定される権威)を「こと」と言ったのではないか、というのが私の考えだ。
で、「すめら」に戻ると、これは今は不人気な説だが、一部で言われるように「すべる(統治する)」が天皇の本質を表すものとして最適なのではないか。ちゃんと「ら行」の語尾もある。「め」は「べ」の音便変化だろう。
つまり、「この世を統治なさる偉大なお力」というのが「すめらみこと」の意味だったのではないか、というのが私の考えである。
ただし、「皇祖」のことを「すめろぎ」と言うのはなぜか、それはまだ考えていないが、「ぎ」は「基」ではないか、という気もする。そのころには漢文も知られていたから、「基」が音読みされてもおかしくないと思う。



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戦争は海外から「輸入」された

別ブログに書いたものだが、ここにも転載しておく。
私の考えでは、大和朝廷は朝鮮半島からの渡来人が主体となってできたものだ、ということであり、皇室の祖もおそらく渡来人だろう。まあ、日本人というのは縄文人と弥生人の混血でできており、渡来人の血は日本人全体に広く拡散しているのだから、皇室の祖を問題視する必要性などまったく無いと私は思っている。
要するに、私が下の文章で言いたいことは、「戦争は支配者が作り出す」という当たり前のことである。さらに言えば、戦う前に降伏するのは少しも愚かではない、ということだ。神武が東征する間に出逢う部族を殺し尽くしていたら、兵力消耗によって大和朝廷自体が途中で消えていただろう。そして、降伏して生命をまっとうした部族も、戦って消えていただろう。


(以下自己引用)



日本書紀の神武東征記を読んでいて不思議に思うのは、近畿に着くまで、戦闘らしい戦闘がほとんど無かったことだ。その理由として考えられるのは

(1)神武軍の「威に恐れて」相手が戦わずして降伏した。
(2)交渉によって平和裏に友好関係が作られた。
(3)何かの代償(おそらく文化的贈答品や技術伝承)によって友好関係を作った。
(4)相手側が最初から神武軍を敵と見なさなかった。あるいは上位存在と見た。

などが考えられ、(4)はたとえば第二次大戦後の米軍兵士たちを日本人が敵と見なかったことに似ているのではないか。つまり、支配者が、何者かを敵と認定し、敵対心を鼓舞しなければ、日本人はその何者かを敵と考える性質は無かった、ということだと思う。その温和さ、平和を好む性質は現在でも同じだろう。闘争性が日本人に生まれるのは「財産の蓄積」が生じて後のことであり、奪われる「財産」など無い狩猟漁労生活では、他の部族を敵と認定する必要は無いからだ。(財産蓄積が可能な)稲作文化が始まっても、闘争などする意義はほとんどなかっただろう。「敵」を皆殺しにして稲を奪っても、単に短期間の利益でしかなく、長期的には労働者がいなくなり、自分たちが困窮するだけである。稲は労働者とセットでの財産なのだ。別の言い方をすれば、労働者こそが真に貴重な財産なのだ。
そして、近畿に至って激しい戦争が発生するのは、そこに既に「王国」が存在し、その支配者はおそらく国と国が争う経験を重ねてきた朝鮮半島の出自だっただろうと推測する。たぶん、北九州経由の大陸朝鮮系部族の大和朝廷とは別に、日本海から北陸経由で近畿に入った大陸朝鮮系部族だろう。だから、神武伝の中でその首長は「自分たちも天孫である」と言っていて、神武もそれを認める発言をしている。



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「権力」とは何か

「権力」とは何か

私は「権力」という漠然とした概念に昔からモヤモヤしたものを感じていたのだが、先ほど、その定義に一番いいのではないか、という言葉を思い付いた。
それは「権力とは操作能力である」ということだ。
たとえば、あなたがパソコンをまったく使えない状態から、使えるようになった場合、あなたは「パソコンを使える操作能力を持った」わけだが、それは広い意味でのあなたの力(能力)が拡大したということであり、それが「権力」なのである。つまり、あなたはパソコンに対して「権力」を持ったのである。言い換えれば、「何かを操作することで自分の力が拡大される」ことが権力だ、ということである。これを社会的文脈で言えば、「他人や組織を操作することで自分の力を拡大する能力」が権力だ、ということであり、これはまさに現実に使われている「権力」の内容とまったく同一だろう。

妻に頭の上がらないダメオヤジが、家の中で妻に使役されているなら、その家庭の権力者が妻であることは言うまでもない。また、国家権力者がキチガイやエゴイストだと国が破壊されるのも言うまでもない。これは、社会的文脈での「権力」は、「操作能力」ではなく権力者の二代目三代目であることで付与されることのある「操作資格」でしかないからである。つまり、操作者という地位が、まったくの無能者や不適格者に与えられることも社会的には無数にある、ということで、「権力とは操作能力である」という定義も怪しくなってくるが、「権力とは操作能力、あるいは操作資格である」と少し長い定義にしておこう。








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「マグカップに六分目」

別ブログに書いたものだが、日本社会へのアドバイスにもなるかと思うので、ここにも載せておく。会社や組織の責任者はこういう考えであるのがいいのではないか。

(以下自己引用)



「マグカップに六分目」説



生活の知恵というより、人生の基本思想、あるいは生活設計みたいな話なのだが、「コーヒーはマグカップを使い、六分目くらい入れるのを原則とする」のがいいのではないかと思う。つまり、必要な時は八分目九分目くらい入れるが、普段は六分目くらいで使うということだ。
我々がコーヒーを飲む時、実は最初の一口二口で満足の九割は得ていると思う。後は惰性で飲むだけで、三分の一から五分の一くらいは冷めてしまってから飲むのではないか。それではコーヒーの真の味わいは無くなっているわけである。つまり、マグカップになみなみと入れることで、かえってその機能(大きさという機能)がマイナスになっているわけだ。
会社なども、人員や仕事内容に余裕が無いと、少しのアクシデントで会社機能がストップし、倒産してしまう。それを「自転車操業」と言う。つまり、常に漕いでいないと倒れるわけだ。
「SHIROBAKO」は素晴らしいアニメだったが、アニメ制作会社のこの「自転車操業」を肯定しているような印象もあり、会社の危機は一部の人間の怠慢や我儘から来るという間違った印象を与える可能性もある。それなら、無数のアニメ会社の倒産や経営危機は常に人災なのか。そうではなく、「自転車操業」が平常運転であるという、その体質そのものが根本原因だろう。それが、アニメーターその他の異常な低給与にも結び付いているわけだ。誰かが搾取しているから下が低給与だというわけでもないと思う。
ただし、危機に追い込まれないとその人間の潜在能力は開花しない、ということもおそらく事実であり、私などは、その潜在能力(笑)を一度も開花させずに一生を終わるのではないかと思っているが、私のように気が弱い人間だと、若いころに追い込まれると簡単に自殺したような気もする。
まあ、そこで「マグカップに六分目」説を出したのである。

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進次郎構文(明瞭かつ無意味な発言)

「進次郎構文」を意図的に書く(作る)のは難しい、というツィートを見たが、原理そのものは簡単である。要するに「A=A」あるいは「Aである。ゆえにAである」という、トートロジー(同義反復)的な文章にすればいい。

簡単に言えば

「われ思う。ゆえに我あり」ではなく、

「我思う。ゆえに我思う」と言えばいい。

これは論理的には完璧であるから、「無意味な発言である」以外には、批判される余地はない。(まあ、正確に言えば、この「ゆえに」は間違っているわけだが、)基本的に、「A=A」という発言ならば論理上は批判の余地はないから、政治家がその場しのぎをする上での便利な(と言うより悪質な)新発明だろう。
だから進次郎は賢い、というのではなく、政治家が堂々とこういう話し方をしていて、それがひところは次期総理候補ナンバーワンとされていたという事実が恐怖である、ということだ。私が少し前に言った「現代社会から論理(論理性に対する価値意識)が消えた」という一例だろう。
彼が女房や恋人(愛人)に対してどういう話し方をしているか、見てみたいものだ。もっとも、日常会話に論理性や言葉の正確さを求めるのは一部の頭の固い(私のような)人間だけか。

なお、「我思う。ゆえに我あり」に対して、ある作家(だったと思う)が、「この論理は間違っている。正しくは『我思うと我思う。ゆえに我ありと我思う』と言うべきだ」と言っているww

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笑いの下種的部分

笑いというのは、理性が理性自身を笑うという面があり、その代表が「ナンセンス」という笑いである。つまり、「センス」を笑いの対象とするわけで、センスとは広い意味では理性的思考、あるいは常識的思考と考えていいのではないか。もっと広義には「硬直した思考」であり、「硬直性」そのものが笑いの対象になるかと思う。読んだことは無いが、昔の哲学者(ベルグソンと言ったか)も硬直性が笑いの対象になる、と言っていた気がする。
とすると、笑いというものが、世の良識(まさに、ボン・サンス、つまりセンスの上等なものだ)を笑い、あるいは嘲笑の対象とするのは当然の帰結だろう。良識というものほど「苦虫つぶした顔」の「禁止の体系」はないからだ。(「禁止の体系」とは、倫理の本質的性質である。)
そして、その禁止の体系が守るのが弱者ではなく強者、つまり権力であることも多い。
したがって、現代のようにSNSなどによって「弱者の発言権」が増大した時代において、笑いが攻撃の対象とするのが弱者であり、権力側がそれを応援するのも当然の流れだということになる。
もちろん、これは悲しむべき傾向だが、笑いの本質そのものが(広い意味では表現行為そのものが)自由を求める行為であり、アナーキーなものなのである。(権力を背景にしたアナーキズムというのも妙なものだが、まあ、足軽雑兵が戦場で盗みや強姦行為をするようなものだ。)


(以下引用)小田嶋師のこの文章の引用は前にもしているかもしれない。言うまでもなく、小田嶋師は現在の笑いを批判しているのであるが、私はその流れが「当然の帰結」だという部分だけに焦点を当てて論じただけだ。しかし、これも言うまでもないが、私もまた現在の笑いを批判しているのだ。



 とはいえ、現在のお笑い芸人たちの芸を見て、それが「体制」や「権力」と戦っている姿だとは思わない。



 お笑いの関係者が「戦っている」「勝負している」「ギリギリまで突き詰めてやる」といったような言葉を使う時、彼らの仮想敵は、「コンプライアンス」であり「PC」であり、ヘタをすると「人権思想」や「良識」そのものだったりする。そういう例を私はこの10年、山ほど見てきた。



 つまり、芸人は、「反良識」「反人権」「反反差別」「反フェミニズム」あたりを志向して芸を磨いた方が、より本格派らしく見えるということで、だとすれば、彼らの「毒舌」が、いつしか弱者や被差別者に向けられようになったのは当然の帰結だったのである。





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「公共空間の裸婦像」問題

別ブログに引用した記事(の一部)だが、私もこの「公共空間の裸婦像」問題は、なぜ誰も論じないのか、心の奥底で疑問を持っていた。いや、ああいうのはエロだとかけしからんとか言いたいのではない。なぜ公共ポスターの萌え絵(オッパイや股間を強調している)はあれだけ批判されて、公共空間の裸婦像はフェミニストなどから問題視されないのか、不思議だからである。「芸術」は許される、とか、「ゲイジュツ」をエロと見る視線がケシカラン、とか言われるだろうが、子供などの目からは同じことである。漫画より彫刻が芸術性が高いとも私はまったく思わない。
まあ、最近の子供は目が肥えているから、公園の裸婦像など(公園に限らない。下の記事中の「平和の群像」などもそれ。)は「汚いオバサンの裸」としか見ないかもしれないwww なお、男の裸も醜い、というのが私の意見だが、若い間は女も男もまだ見られると思う。ただし、醜いとか美しいというのは「文化的洗脳」の結果にすぎず、また主観性(個人的趣味)が大きい。すべての裸が美しいなら、ファッション産業など無意味だろう。(裸の醜さを隠すために)服を着ているから文明人顔できるのである。
なお、公共空間の抽象的彫刻も、たいていはグロテスクで、風景に調和しないと私は思っている。

(以下引用)




戦後日本の彫刻を考えるうえで、長崎は最も重要な場所である。



昨年、このような一文からはじまる小論を書いた★1。小説家であり評論家でもあった堀田善衛が「あれが表象するものは、断じて平和ではない。むしろ戦争そのものであり、ファシズムである」と評した北村西望作《平和祈念像》と、北村の直弟子・富永直樹作《母子像》の師弟による二つの大型彫刻、浦上天主堂の被爆聖像、世界各国から寄贈された平和の彫刻群、そしていわゆる《母子像》裁判……。彫刻であふれた爆心地・長崎から、「人間にとって彫刻とはなにか」という「彫刻の問題」を抽出する試みだった。




富永直樹《母子像》1997年 [撮影:金川晋吾]



2014年から長崎の原爆碑と爆心地一帯の彫刻を調査している。数回の長崎滞在において、いまだに忘れることのできない言葉がある。爆心地の遺構をめぐるツアーガイドとともに「爆心地公園」を歩いたときのことだ。公園の一画に、薔薇の花がちりばめられた服を着た女性が、病んだおさなごを抱えた巨大な彫像がある。この下でふと思い立ち「この彫刻はなんですか?」とガイドの方に尋ねた。本当はこの《母子像》という彫刻について、作者・富永直樹氏の経歴や、建立をめぐる激しい反対運動、そして撤去を求めた裁判といった、込み入った事情を多少は知っていた。しかしそのことは隠して、観光客のように質問をしてみたのだ。ガイドの方はこのように答えた。



「この彫刻は見なくていいです」。さらにこのように続けた。



「こんなへんなものを建てちゃって」



まるで雷に打たれたようだった。なぜなら、ある種の彫刻を前にして「この彫刻は見なくていい」「こんなへんなものを建てちゃって」と誰より思ってきたのはお前自身ではないかと突きつけられたように聞こえたからだ。ある種の彫刻とは、さまざまな場所に設置されたアニメキャラクターの銅像や、裸体彫刻のことである。特に公共空間の女性裸体像に対して、彼女たちをどのようにまなざせば良いのかと考えあぐね、答えは見つからず、長いあいだ意識の外に追いやり、「見なくてもいい彫刻」とすることで深く考えないようにしてきた。



長崎でその後ろめたさを自覚したとき、公共空間の女性裸体像に向き合おうと私は決意した。やがて調査を進め、その出自が明らかになるにつれて、「見なくてもいい彫刻」はひるがえってこう言っているのだと思い至るようになった。「彫刻を見よ」と。



あの裸の女たちはどこからやってきたのか。彼女たちの物語を語りたい。


軍人像から平和の女性裸体像へ


頁



リノベーションされた台石と菊池一雄作《平和の群像》の前に立つ菊池一雄(右)と吉田秀雄(左)
[出典:『電通 一〇〇年史』電通一〇〇年史編集委員会、2001年、171頁]



1951年、皇居濠端の三河田原藩上屋敷跡、三宅坂小公園に《平和の群像》が建立された。《平和の群像》の正式名称は「広告人顕頌碑」という。広告人顕頌碑は電通(当時の正式名称は日本電報通信社)が建設し、東京都に寄贈された広告功労者顕彰のための記念碑で、台座の上には東京藝術大学彫刻学科教授・菊池一雄が「愛情」「理性」「意欲」をテーマとして原型を制作した三体の裸婦彫刻《平和の群像》が据えられた★2



『電通 一〇〇年史』および『電通創立五十周年記念誌』によれば、この《平和の群像》こそ、この国の公共空間に初めて誕生した女性裸体像である。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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