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再掲載「女賊の金銭哲学」

過去記事を再読していたら、今の日本と言うか、安倍政権にぴったりの内容の記事があったので再掲載しておく。

(以下自己引用)

女賊の金銭哲学

中国古典の「児女英雄伝」は、武田泰淳の「十三妹」の元ネタのひとつだが、主人公であるヒロインが悪党どもを、虫でも殺すように気軽に殺す描写が楽しい小説である。まあ、「キックアス」のあれみたいなものだ。
そのヒロイン、女盗賊である玉鳳の金銭哲学が、私のそれに近いので引用しておく。

なぜ金(カネ)が製造されるかと言えば、流通させるためである。つまり、「金は天下の回りもの」とはそういう意味だし、流通せず、退蔵されているカネは不要なカネであるわけだ。しかも、それが製造された時には実はその正当な所有者は存在しない。別に総理大臣や大蔵大臣に所有権があるわけではない。(銀行が信用創造で作り出すカネは現物すら存在しない。)正当な所有者が存在するとしたら、国民全員なのである。

なお、「女賊の哲学」は、武田泰淳が、客観的視点で描いた自作の「十三妹」を、反対側、つまり女賊の視点を中心に描いたもので、ふたつを合わせて読むと強烈な読後感がある。

(以下引用)


「たとえば、あなたのお金。これは家屋敷を担保にいれてお父上を救け、お上に納めようというのだから『持ち主のあるお金』よ。それから清廉潔白なお役人が、真面目にお役目にはげみ、つましくして残したお金とか、商人がコマネズミのように働いて残したお金、お百姓さんが汗水たらして残した財産、これもみんな『持ち主のあるお金』。
このほかの、例の悪徳役人が恥も外聞もなく人民の膏血をしぼって懐をこやした何万という金、またその手下の顧問とか雇い人たちが、主人がお上の金をくすねれば、自分も負けずに主人の金をくすね、そのあげく主人にまずいことでもあれば、腰にくくりつけてドロンするという、そんな金、それとも、ごろつきどもが役所と手を組んで罪もない人民からまきあげ、金の力で悪事のかぎりをつくす、そんな金、こんな金をみんな『持ち主のないお金』というのよ。
こんなお金を、あたしはいくらかずつ用立ててもらうことにしているのよ。相手が進んで出そうが出すまいがね。まあ、いってみれば、女強盗といったところかしらね」

「だいたいお金は天下の回りもの、運のあるものが神さまにかわって使っているだけなんだから、やれ人のものだ、やれ自分のものだと言ったところで、結局は誰のものでもなく、いま現にそれを本当に必要としている者が生かして使えばそれでいいのよ。生かして使いさえすれば、一万両だろうと無駄にはならないし、それが死に金だったら、一文だってやっぱし無駄づかいということ」

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「俺が一杯の紅茶を飲むためなら世界が滅んでもいい」

「いつか電池が切れるまで」から転載。
前と後ろをかなり切ってあるので、冒頭部分が意味不明かもしれないが、並列されたうちのひとつは例の岡村発言で、もうひとつは「コロナ騒ぎで高価なカツオが安価で食べられて嬉しい」という話である。
ブログの記事タイトルに書いたのはドストエフスキーの「地下生活者の手記」に出てくる主人公のモノローグで、誰の心にもそういう部分は多少なりともあると思う。ただ、「紅茶」と「世界」という巨大な懸隔のある物を比喩にしたために、それが強く印象付けられるわけだ。

(以下引用)


 どちらも「他者の苦境のおかげで自分が利益を得られる話」です。
 ただ、この2つの事例への世の中の評価というのは、正反対になっているようにみえるわけです。




 僕は冒頭のエントリを読んで、この話を思い出したんですよ。
 『ヒトラーとナチ・ドイツ』(石田勇治著/講談社現代新書)より。




fujipon.hatenadiary.com




 僕は「ナチ党政権下のドイツは、ずっと、息苦しい、暗黒時代だった」と思い込んでいたので、この本を読んで、驚いたのです。
 でも、当時の様子を知ると、たしかに、「戦争が始まる前までは、多くのドイツ人にとって、『良い時代』と感じられていたのかもしれないな」という気がしてきます。
 それは、太平洋戦争前の日本にも言えることなのだけれども。




 いくらなんでも、ナチ党のユダヤ人(や障害者、ロマたちへの)絶滅政策は酷すぎるだろう、とは思う。
 なぜ、反対の機運が盛り上がらなかったのか? やはり、ナチ党が怖かったのか?
(それでも、強制収容所での「虐殺」については、ドイツ国民に隠されていたそうです。さすがに反発を招くだろう、ということで)
 ナチ党政権下のドイツ国民が、あからさまな人種差別政策を受け入れてしまった理由のひとつを、著者はこのように説明しています。



 国民が抗議の声をあげなかった理由に関連して、ナチ時代特有の「受益の構造」にふれておこう。それはいったいどんなものだったのだろうか。
 先にも雇用についてふれたように、ヒトラー政権下の国民は、あからさまな反ユダヤ主義者でなくても、あるいはユダヤ人に特別な感情を抱いていなくても、ほとんどの場合、日常生活でユダヤ人迫害、とくにユダヤ人財産の「アーリア化」から何らかの実利を得ていた。
 たとえば同僚のユダヤ人がいなくなった職場で出世をした役人、近所のユダヤ人が残した立派な家屋に住むことになった家族、ユダヤ人の家財道具や装飾品、楽器などを競売で安く手に入れた主婦、ユダヤ人が経営するライバル企業を安値で買い取って自分の会社を大きくした事業主、ユダヤ教ゲマインデ(信仰共同体)の動産・不動産を「アーリア化」と称して強奪した自治体の住民たち。無数の庶民が大小の利益を得た。




(中略)




 ユダヤ人財産の没収と競売、所有権の移転は、細部にいたるまで反ユダヤ法の規定にしたがって粛々と行われ、これに携わった国税庁・市役所などさまざまな部署の役人も良心の呵責を感じることなく仕事を全うできるシステムができあがっていたのだ。ユダヤ人の排斥を支える国民的合意が形成されていたとはいえないにせよ、ユダヤ人の排斥を阻む民意は見られなかった。




 多数派にとって、自分に「ちょっとした利益」があれば、少数派を排斥する、あるいは、排斥しなくても、「見捨てる」ことは、そんなにハードルが高いことではなかったのです。
 それは、いまの世の中でも、同じなのだと思う。

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善は美

「神戸大好き」記事の一部だが、「美は善や正義と結びついている」というのは面白い。私の思想もこれに近いが、「美」というものを短絡的に捉えるべきではないと思う。たとえば、老人の顔というのは基本的に醜い。人間は健康なものや強いものを美しいと感じるように本能にプログラムされているようなので、老人という、死の象徴のような顔や身体は醜く思うのではないか。しかし、世の中には優れた人格がそのまま顔に現れているような、「神々しい」老人というのもいる。私にとっては上皇ご夫妻がそれだ。
また、「立派な」顔の老人もたくさんいる。やはり、その生き方が顔に出ているのである。これもひとつの「美」だろう。その一方で、顔立ち自体は絵に描いたように美しいのに、不快感を与える美男美女もいる。芸能人には特に多い。まあ、美というのは「社会が押し付ける美の基準」に合っているだけの美と、下の記事にあるように「善や正義」と結びついた美がある、ということだろう。


(以下引用)


だから、私が読まなくなったものもあります。
当時は右翼・保守・愛国・日の丸だったので読んでいたのに読まなくなったものが、ありますね。

安倍政治に絶望して、思想を変えたんです。

唖蝉坊さんなんか、大好きだったけど、遠のいてしまった。

それと、いかにも差し迫っている恐怖をあおるようなものは、嫌いで読みません。

この前、どこかのユーチューブで耳に残ったことがあります。
「人間は”明るさとやさしさ”が好きなようにできているので、悪党の子分になっても、その暗い悪事についていけなくなる人が、必ず出てくるんです。
だから、スノーデンが出てくる。」


悪事は、必ず破綻します。
人間と言うものは、そう、プログラムされているからですって。

それと人間の脳にある「美醜を見分ける部位」と「正邪を見分ける部位」は、同じ場所なんだそうです。

つまり善や正義は美しいのです。

だから、人間は自然に「美を好むように」「善と正義を愛する」のです。

その本性を永遠に覆い隠すことはできない。

最後は真善美を求めていく。

だから、最後に悪は滅びるのです。

だから、今は、どんなに暗くても、最後は悪は滅びる。

最後に愛は勝つ。そういうメッセージを、どこかに埋め込みたい、それは、きっと無意味ではないと思うのです。

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「組織悪」についての或る一文

私の兄のブログの一節で、兄は私とは正反対に共産主義や共産党が大嫌いという人間なのだが、組織(基本的に、利益追求のために人が集まるものだ。その大半は私的利益の追求である。)そのものが人間を腐敗させる、という思想は私に似ている。そして、ここに書かれた理想は、まさに社会主義そのものなのだが、当人はおそらく社会主義も大嫌いだ、と自分では信じているのだろう。
財産や所得に上限を設けて、それ以上は貧しい人や不幸な人を救う資金にすれば地上の天国は即座に実現するのである。


(以下引用)文章の一部の重複部分をカットした。


時々思うことだか、世界が平和になるにはどうしたら良いだろうと考えるが、1番良いのはすべての組織をなくすことだと思ったりもする。

組織をなくすとは、兎に角全ての組織だ。

当然企業もない、だから利益集団何かみんなで潰すわけで、武器もないの、武器らしきものを誰かが作っていたら、それをみんなで辞めさせるわけだ。

兎に角、みんなの協力だけはすぐ集まるわけで、日頃からの集団化はゼロと言う地球にするわけだ。

昔々の、古代よりも前の時代の、組織のない地球にするわけで、リーダーもいない、全て個人と、みんなの繋がりだけの地球だ。



それが理想だとは思うが、永遠にあり得ないので、ある程度は現代にも即した考えで、ある程度の利益と集団化は認めるが、不労所得は一切認めないし、例の10億円までの個人の資産の枠を決めたわけで、後の利益の半分を、可哀想な人々や、残り半分は、企業の維持と研究資金にすればいいと思ったわけだ。

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「破壊」は創造の起点(4月30日追記)

「in deep」過去記事の一部だが、破壊とは創造の起点であり、幸福な、幸運な出来事なのだ、と肯定的に考えるというのは、精神的に非常に良さそうである。
何しろ、目にする記事目にする記事、毎日「何人死んだ」「何人死んだ」だけなのだから、よほど自分で気をつけて、これらは洗脳なのだ、と心をしっかり持たないと鬱で死ぬ人が厖大に出るだろう。なあに、死ぬことだって、娑婆苦からの離脱だと思えば幸福なのだがwww
ただ、死んだ後で、「あっ、間違い。やり直しさせて」といかないのが欠点だ。

(4月30日追記)「ネットゲリラ」記事中のこのコメントが、実にタイムリーで、成る程、コロナ騒動が無くても、AI革命によって世界は今のようになっていたのだな、と思う。AIとコロナを結んだこの発想は凄い。あるいは、ビル・ゲイツの人類削減計画も、AIによって不要になる無数の人間の処分を考えたものだろうか。もちろん、私のようなヒューマニストが「大多数の人を処分」という残酷な政治をまったく肯定しているわけではない。そうではなく、本気でBIを導入することを世界的に考えるべきだろう、ということだ。「AIとBIは表裏一体であるべき」というのは標語になりそうだwww

AI社会が到来すれば、大多数の人が不要になる。
だから、その時のために破壊神が大多数の人を処分してる最中としか思えない。


(以下引用)

今の資本主義は、かつて、大恐慌とかリーマンショックとか、いろいろと乗り切ってきましたが、今回の段階はいろいろとちがうものとなるでしょう・・・いや、あとで書きますが、こういう「〇〇でしょう」という消極的な考え方が、私たち人間社会の停滞を招いていました。

「この世は私たち自身が作っている」ということを考えますと、すべては「断定」でなければならないのだと思います。

「金融は消滅する!」

「自然と植物に囲まれた真の人間の生活の時代が来る!」

「新しい地球の時代が始まる!」


強く強く思い、考える

そして、その次に、どんなことが起きても、通常「否定的」とされることが起きても、起きるすべてのことは不幸なことなのではなく、「次の地球の時代」に向かう最も幸せな道なのだということを思い、考える

もちろん、反対に、「今の地球のままでいたい」と思うのならば、それを強く思う。どちらがいいかなんてのは、人それぞれでちがうわけですから「こう考えなさい」という方向はひとつもありません。

この世界は、あるいはこの宇宙はひとつのように見えて、まったくひとつではないのですから、いかようにも人それぞれの「確信した宇宙」を選択できるはずです。

いずれにしても、行動より何万倍も強い「思う」「考える」ということを主体にして生きる。

そして、何年何十年かかるかはわかりませんが、今のすべてのシステムの崩壊という「歓喜の時代」がやってきます。

なぜ、随所に「幸福」とか「歓喜」と入れているのかというと、たとえば私などは、この世の中で、「ひとつのこと」を勘違いして生きていたのです。

その「ひとつのこと」とは、

「破壊」は「誕生に対しての愛」と同義である

ということです。

このことを考えることを私たちは阻害されていたために、私たち人間は、新しい地球を創造できない状態に陥っているように見えます。

しかし、この「破壊が愛であること」は後で書きます。

いずれにしても、今のシステムの崩壊が連鎖的に起きていくはずです。


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個人のテリトリーを社会が侵食すること

別ブログに引用したものだが、重要な指摘だと思うのでここにも転載。筆者は精神科医(医療者側)らしいので、「マスクファシズム」や「健康ファシズム」への懸念を非常に婉曲に言っていることに注意。

(追記)この「犯人」はマスクだけはしていたと称賛されるのではないかwww

白マスクだけの全裸男を女子高生が目撃 鹿児島市の空き地付近 県警が注意喚起 #西日本新聞 nishinippon.co.jp/item/n/599163/


(以下「シロクマのブログ」より引用)


マスクをつけることが感染予防に貢献する仕草とみなされ、マスクをつけていないことが周囲への感染に無頓着な仕草とみなされれば、マスクをつけていない人に対する世間の目線、人々の心証は変わる。ひいては「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いも変わる。
 
たとえばヨーロッパでは、長らく、マスクをつけることは社会的に許容されない仕草だった。日本では、インフルエンザや花粉症の季節を迎えるたびにたくさんの人がマスクをつけるし、郊外汚染の激しい途上国でもマスクをつけて出歩く人は多い。しかしヨーロッパでマスクをつけて出歩くのは社会的に許容されない仕草だった。ところが今回の感染騒動をとおして、「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いが激変した。おそらくこの騒動が終わった後も、そうした社会的な位置づけや意味合いの変化は尾を引くことだろう。
 
そして日本では、冒頭で引用したツイートの方が察しておられるように、「マスクをつけるという仕草」は他人や世間への配慮、パンデミックな状況下において功利主義に適い、危害原理にも抵触しない、市民にとって望ましいものに変わりつつある。マスクをしていない人の咳き込み、マスクをしていない人のくしゃみに対する周囲の目線は、2か月前より厳しくなっている。公共交通機関において、マスク無しでくしゃみをした人に対する周囲のぎょっとした目線に驚いてしまうこともあった。
 
みんながますますマスクをつけるようになった結果として、2020年4月現在、「マスクをつけるという仕草」は感染予防に貢献するだけでなく、自分が世間に配慮している人間であること・他人に感染させるリスクを慮った道徳的人間であることをディスプレイする手段としても役立つようになっているのではないだろうか。
 
私たちは、ウイルスに狙われる自然科学的で生物学的な存在であると同時に、世間に生き、周囲からの評価や評判を意識せざるを得ない社会的な存在でもある。社会や世間に適応する個人にとって、マスクをつけて感染症対策をするということも重要だが、マスクをつけて世間体を守るディスプレイをすることも、それなりに重要なものだ。
 
そのうえ、幸か不幸か、マスクは顔につける品である。
顔は、他人の視線が集中する場所であると同時に、他人に対してメッセージを発し続ける場所でもあるから、顔の目立つ場所に装着するマスクはディスプレイの効果がとても大きい。であれば、医療関係者や為政者の意図していなくとも、マスクが他者配慮や道徳性のシンボルとしての意味合いを(勝手に)帯びることに不思議はない。
 
 


ラジオ体操にみる「健康でなければならない世の中」

 
社会や世間から「かくあるべし」という圧力がかかっている状況下では、自然科学的な目的は社会科学的な目的としばしば結託する。
 
一例として、戦前の日本で励行されていたラジオ体操を挙げてみる。
 
 

「健康」の日本史 (平凡社新書)

「健康」の日本史 (平凡社新書)

 
 


 ラジオ体操は、家族や職場に集う人々が全国一斉に、「同じ時間」「同じリズム」「同じ動き」で行う体操であったため、人々に連帯感を感じさせるにはたいへんよくできたものでした。簡易保険局はラジオ体操を考案する際に、「民族意識」を高める目的で行われる、チェコスロバキアの「ソコル」を手本にしたといいます。
(中略)
 ラジオ体操の広がりによって、人々の考える「健康」に一つの変化が生じました。体操や運動が「連帯感」などの精神的側面の向上も重視するようになったため、「健康」が身体に生理的な異常を持たないという意味に加えて、国民としての道徳的貢献としても要求されるようになるのです。
 簡易保険局に寄せられた感想文の中で、当時の山梨県知事鈴木信太郎は「不健康は不道徳」というタイトルの文章を寄稿します。その中で鈴木は「私の考えでは、不健康は自分一人の不幸であるばかりでなく、社会的にも不道徳であると思う」といいます。
(中略)
 さらに、「不健康は国に対してもすまないし、社会的にも不道徳である。愛国心のない人であるといっても差し支えないと思う。自身の健康に注意して、絶対病気にかからないようにするのが国家社会に対しての義務である」と述べています。
 鈴木の感想は、たんに彼一人の個人的見解であったわけではなく、この時代の雰囲気を反映したものでした。鈴木は健康になることが、国家社会に対する「義務である」といっています。つまり、この時点で私たちは、「健康になるかどうか」を自分で決定することができなくなったのです。
 たとえば、あなたが怠惰な生活を送ったり、やけっぱちや自暴自棄で不健康になることは「不道徳」として禁じられます。しかもその理由は、あなた自身を不幸から守るというよりも、国家社会に与える不利益を未然に防ぐためです。この時代の「健康」とは、いいかえれば国家に利益をもたらす献身的な行為を意味するようになったのです。
『「健康」の日本史』より


 
ラジオ体操が浸透していった頃と現在では国家の体制が違っているし、ラジオ体操による健康増進とマスクによる感染予防では目的も違っている。しかし、健康を守るべきか否かが個人の問題から社会の問題へとシフトしている点や、健康の名のもとに皆が同じ方向を向き、ある種の連帯感、いや、空気が生まれている点は共通している。
 
医療者が世間や道徳を意識しているか否かにかかわらず、こぞってマスクを着用する人々はそれらを世間の慣習と結び付け、道徳とも結びつける ── これに類することは戦前にもあったし、公衆衛生の黎明期にもあったことだから、起こる可能性の高いこと、いや、起こっている可能性の高いことだと私は踏んでいる。
 
現在の日本では、"自粛"や"要請"や"推奨"といった言葉がメディア上を駆け巡っている。表向き、どれもソフトな言葉だが、それが空気と結合する社会では個人に強い圧力を与え、私たちの慣習や感性にも大きな影響を与えずにいられない。そういう状況のなかで私たちはマスクを争うように買い求め、できるだけ着用しようと心がけている。
 
こうした状況の延長線上として、今まで以上に健康と道徳が結びついた社会、衛生と道徳が結びついた社会を連想するのはたやすい。伊藤計劃の『ハーモニー』は、そうした健康ディストピア社会を舞台とした作品だったが、今まで遠いSF世界だった『ハーモニー』が、最近はすっかり間近に感じられるようになってしまった。医療と福祉に関心と影響力とリソースが集中する状況が長く続き、そこに道徳や功利主義や危害原理が結びついたままの状況も長く続いたとき、どういう社会の地平が待っているのか。考えると怖くなる。もう、SFの気分でそういうことを考えられない。


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「スメラミコト」の語源を考える

別ブログに書いたものだが、ここにも載せておく。
毎度言うが、私は思考そのものを楽しんでいるのであり、下の文章には別に政治的な意味は無く、私が突然右翼になったわけでもない。ただ、自分の納得できない説が「学界の定説」扱いされているのが不愉快なだけである。

(3月30日追記)歴史学者(?)保立道久のツィートである。まあ、「澄む」説が有力視されなくなったのは結構だが、梵語が語源というのも怪しげではある。この件に限らず歴史の「定説」などいつでも変わるものだ。テストのためにそれを覚えさせられる学生は可哀そうである。

最近の仕事で分かりやすいのは、私も『日本史学ーー基本の30冊』(人文書院)で紹介した安藤礼二『場所と産霊』だと思います。また歴史学の方でも、スメラミコトは梵語スメルから来たというのが定説化しています(中野高行『古代国家成立と国際的契機』(同成社)など)。澄むではないということです。


(以下自己引用)


「天皇」をなぜ「スメラミコト」と言ったか





まだ思想が熟していないのだが、「天皇」の和語を「スメラミコト」というのを、学者の多くは「澄む」と「御言葉」が語源だとみなしているようで、私はそれに違和感を持つ。
そもそも、「澄む」が語源なら、「スメラ」の「ラ」は何なのだ。「澄む」の活用語尾に「ら」など存在しないだろう。落語の「ちはやふる」ではないが、「ら」くらいまけろ、と言われても、「いや、まからねえ。説明しろ」である。
それに、「ミコト」の語源が「御言葉」だというのもかなり怪しい。「天(神)の御言葉を伝える」存在だというのなら、天皇はただの「ミコトモチ(国司)」(天皇の御言葉を持ち伝える者)の同類ではないか。「ミコトモチ」の「ミコト」と「スメラミコト」のミコトが同じだとは信じがたい。そもそも、日本書紀や古事記で天皇は神意を問うのに臣下や巫女などのアドバイスを受けており、天皇自身に天の御言葉が下る例は少ないのではないか。いや、「天皇」とは、天の代理人ではなく、「天皇自身が天の王である」という意味だろう。まあ、「天」とは何か、というのはまたいずれ考えたい。
「み」が「御」であるのは最上位の存在への敬意を示す意味で妥当である。
私は、「こと」は「言」ではなく、「事」ではないか、という可能性を考えている。
「物」と「事」の違いは、「物」が物質的存在であるのに対し、「事」は「行為、力の作用」の意味合いが強いことだと思う。言い換えれば「力」である。天皇の「霊力」(と仮定される権威)を「こと」と言ったのではないか、というのが私の考えだ。
で、「すめら」に戻ると、これは今は不人気な説だが、一部で言われるように「すべる(統治する)」が天皇の本質を表すものとして最適なのではないか。ちゃんと「ら行」の語尾もある。「め」は「べ」の音便変化だろう。
つまり、「この世を統治なさる偉大なお力」というのが「すめらみこと」の意味だったのではないか、というのが私の考えである。
ただし、「皇祖」のことを「すめろぎ」と言うのはなぜか、それはまだ考えていないが、「ぎ」は「基」ではないか、という気もする。そのころには漢文も知られていたから、「基」が音読みされてもおかしくないと思う。



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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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