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文明の根幹としての「フェアネス」の観念

別ブログに書いたものだが、わりと重要な思想だと思うので、ここにも載せておく。
かりにフェアネスが人類文明の根幹だとすれば、「新自由主義」という、エゴイズム全肯定思想は、やがては世界全体を滅ぼす(人類を衰退させる)思想である、ということになるだろう。つまり、他人を犠牲にすることで自分だけが栄えることは、やがては自分自身をも滅ぼすということだ。他者の存在しない世界ですべてを独占するという喜劇である。

(以下自己引用)

動物的本能と人間的本能



フェアネスの観念というのは文明社会だけのものではなく、原始的社会にも存在するもので、人間的知性の発生とともに生まれた「人間としての本能」と言えるのではないだろうか。つまり、動物的知性(生物的本能を主とする)とは異なる、「人間としての本能」が存在するという仮説だ。この本能が法律を生み出し、道徳を生み出し、民主主義を生み出し、「人間らしい文明」を生み出したという仮説だ。
「フェアネス」が人類文明の根幹だ、というのが私がここで提出する仮説を端的に言ったものだが、フェアネスは「公正」と訳されているように、「公」という概念を含んでいる。つまり、個人の主観ではなく、ほとんどの人に同感を持って共有されうる観念や判断が「フェアネス」、つまり「公の目から見て正しい」ということだ。ここで、主観と客観が区別され、それは科学の出発点でもある。つまり、文明の基本だ。

私がこれを思いついたのは、或る本の中に

「近親者が死ぬと自分の体を傷つけることを民俗学では哀悼傷身とよび、同様に髪を切ることを哀悼断髪とよんでいます」

という記述があり、なぜ、自分の身体や髪を「犠牲にする」ことが哀悼の意を表す原始民族の(あるいは現代でも一部にはある)風習となったのか、と考えると、そこに「公正」の観念があるのではないか、と考えたからである。つまり、愛する人が死ぬという「不正」に対し、自分が何も犠牲にしないままで生きているということを「不正」と考えることが哀悼傷身や哀悼断髪の根幹にあると私は思うのだが、ここには自分自身だけが特別な利益を受けるべきではないという「公正」の観念が含まれていると考えたわけである。

パソコンが不調なので、書いたものの校正ができないため、この稿はここまでにしておく。



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