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現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如

まだ生煮えの思想だが、自己引用しておく。孟子が言う「惻隠の情」が社会倫理の土台ではないか、ということだ。つまり、子供が井戸に落ちそうになっているのを見たら、「まともな人間なら」驚き、それを救うだろう。そこで子供が落ちて溺れ死ぬのをゲラゲラ笑って見るような人間と、たとえば、従業員の給与を生活不可能な水準まで削りに削り、それで自分の報酬だけを高額にする会社経営者はまったく同じだろう、ということである。弱い人間をいじめて喜ぶ生徒や学生も同じ精神である。他者への共感や同情の欠如、冷酷なエゴイズムが、悪の本質だ、というわけだ。


現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如


「悪」について考察する。
悪を倫理で取り扱う困難さは、「悪は個人的には利益を生むことが多い」という事実に基づいている。つまり、「悪が成功すれば、その実行者には利益を与え、社会全体には不利益を与える」のである。この不都合な事実を明言した倫理学者や哲学者や宗教家はほとんどいないと思うが、この事実を知らない人間もまたほとんどいない。だから、石川五右衛門ではないが、「世に盗人(悪人)の種は尽くまじ」であるわけだ。企業家や政治家など、世間で大成功をおさめ、警察に逮捕もされない大悪党はゴマンといる。つまり、警察や検察は「正義の味方」ではなく「権力の手下、権力の護り手」であるからである。このことを言明する宗教家や倫理学者もいない。しかし、自分の身に置き換えて考えれば、自分が警察や検察の人間なら権力者に立ち向かうことがまず不可能であることは容易に分かるはずだ。
簡単な話だが、善は善に反する行為はできないのに対し、悪は、必要な場合は善(偽善)もやすやすと行えるのである。現実世界では善は悪に勝てないのが道理だろう。
そこで、倫理が扱えるのは「個人的道徳」のレベルの問題だけという、情けない話になる。しかし、それは果たして小さなことなのか。つまり、倫理というのは自分の人生の導き手としてダメな案内人なのかどうか、もう少し考えたい。
私が世間の悪人たちを見ていて思うのは、その精神の卑しさである。そういう卑しい精神で一生を送る、その人生とは、巨万のカネがあろうと惨めな人生、生きるに値しない人生だ、と私は思う。
「卑しい精神」と言うとあまりに漠然としているが、「他者への尊重、愛情、優しさ、同情、献身」が欠如した精神と言えるだろうか。別の言い方をすれば「自己愛」だけが精神を満たしている人間、エゴイスト、特に残酷なエゴイストである。これは、まさに「悪」の特徴なのだ。
例を挙げるなら、『悪霊』のスタヴローギンである。彼は「何事も為しうる」能力と財産と身分を持ち、超絶的な美男子である。にも関わらず、人間に位階をつけるなら、彼はあの作品の中の人物で最下位になるだろう。それは、彼が他者をまったく尊重せず、他者を平気で踏みにじることのできる人間だからである。単に興味本位で、安月給の下級官吏のひと月の給料を盗んで恥じない人間なのである。それで一家が困窮することも分かり切っているわけだ。他人の不幸を平気で見ていられる人間を、私は人間の屑だと思う。企業経営者などにもその手の人間は多いのではないか。で、そういう人間の人生は楽しいのか、生きる価値があるのか、ということだ。
ここで、善というのを何か凄いことのように思うかもしれないが、要は「他者の尊重、敬愛」があるかどうかというだけのことだ。その反対になるのが高慢な自負心だろう。自己愛だけで満たされた人間は他者を尊重するはずがない。逆に、どんなわずかなものであれ、人間は自己犠牲を行う時、一番美しい。おおげさな言い方をすれば、自己犠牲をする時、人間は神に近づく、という印象すらある。『悪霊』の中で、シャートフが殺される前夜のシャートフとキリーロフの描写は、神々しさを感じさせる。これは、下級官吏の給料を盗む時のスタヴローギンの下劣さと対照的である。
つまり、善とは他者の尊重である、というのが私のテーゼだが、それは「美しい」行為でもあるわけだ。当人がその美しさを知らない時ほど、その美しさは輝かしい。悪を行う時人間は醜く、善を行う時、美しい。それだけでも倫理の価値は十分なのではないだろうか。
だが、これはまだ考察不十分な思想であるので、もう少し考えたい。

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「正しさ」を決めるのは誰か

とあるスレッドのコメントの一部だが、「ポリティカルコレクトネス」への本質的批判として、世間に広めたい言葉である。
この「(正しいかどうかを)誰が決めるんだ」というのが一番のポイントだろう。そこが曖昧なまま、「誰か」の決めた「正しさ」が世界を覆っていく。今のコロナ詐欺も似ている。

(以下引用)

しかし「政治的正しさ」って言うのも意味の分からない言葉だよな。
  「正しさ」なんて結局は相対的なものなのに、
  何が正しくて何が間違ってるかなんて誰が決めるんだ。

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現代倫理学(2)人間の倫理

現代倫理学(2)人間の倫理(善悪の定義と派生的考察1)


神の存在は不可知だから、我々に可能なのは「人間の倫理」を考察することである。それによってこの世界をより良いものに変えていけるなら、そういう考察は無意義ではないだろう。

さて、倫理の基本は「善とは何か、悪とは何か」である。古い言葉で言えば「勧善懲悪」が倫理の目的だが、問題は、その「善」と「悪」が明解な定義がされていないことだ。
この定義は単純なものである必要がある。それでないと社会全体の人間の指針とはなりえないからだ。つまり、「分からないままに従う」という、従来的な倫理(神の倫理はそれである。)ではなく、社会全体が納得して従う倫理を構築する必要があると私は思っている。そういう倫理が無いから、あらゆる宗教が破綻した後にこの無道徳な世界が生まれてきたのだろう。
たとえば、「嘘をついてはいけない」という倫理は、今では子供ですら信じていない。総理大臣を初めとして嘘が平気で罷り通る社会で、誰がそんな倫理を信じるものか。
また、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある若者の質問に居合わせた大人たちが誰ひとり答えられなかった事件は記憶に新しい。それも、世界中で戦争やテロや大量殺人事件が頻発する世界では、誰も納得できる答えを持ち合わせていなかったからだろう。

私が提起する「善悪の定義」は、下のようなものだ。その定義から派生する考察課題とその答えなどを番号付けしていく。定義自体は非常に単純なものだ。

定義1:善とは生の肯定、そしてこの世界の肯定である。
定義2:悪とは生の否定、そしてこの世界の否定である。

「生の肯定」が「この世界の肯定」になるとは限らない、という意見も出るだろうが、私はこれはほぼ同義になると思っている。1-aがその説明である。
以下が、定義1から発生する考察である。

1-a:生の肯定とは、世界の肯定である。つまり、この世界を「生きるに値する世界」と観じることである。
1-b:自己の生を肯定し、尊重することは、他者の生をも肯定し、尊重する「義務」を伴うべきである。
1ーc:bにおける「義務」がすなわち「倫理」である。(反論者のためにbとcを分けておく。)
1ーd:倫理は社会的存在としての人間が社会を維持する土台である。
1-e:従って、「なぜ人を殺してはいけないか」に対する答えは、「殺人は社会全体の破壊、あるいは崩壊につながるから」である。(言うまでもないが、「人を殺してもいい」という社会は全員の殺し合いになり、崩壊する。)
1-f:「なぜ社会を破壊してはいけないのか」に対する答えは、「社会は人が生きる基盤であり、そう質問するあなた自身が生きる基盤だからだ」である。
1-g:上記e、fは、貧困と抑圧、社会への不満によって「自分が死んでもいい」という自暴自棄に陥った人間(いわゆる「無敵の人」)に対しての抑止力にはならない。よって、社会は「無敵の人」を生み出さない制度、すなわち福祉制度の充実が必要になる。
1-h:ではあるが、「世界を肯定する者」は、自分が死ぬからといって世界そのものを破壊はしない。それは、彼がこの世界を愛しているからだ。(ここに文化の意義がある。文化とは本来的には世界への愛を生み出すものなのである。世界への嫌悪や破壊を促す創作物は倫理的には批判されていい。もっとも、それへの罰則を導入すると、ファシズム的社会になるので注意が必要だ。法律と異なり、倫理は本来、罰は伴わないのである。)

定義1に対する考察は以上である。

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現代倫理学(1)神の倫理

別ブログに書いたものだが、こちらにもそのシリーズを載せておく。「神を前提としない倫理」の考察は、私自身の宿題のひとつなのである。

(以下自己引用)

現代倫理学(1)神の倫理


(1)神の倫理

或る随筆というか、イギリス文学評論集のような本で読んだのだが、イブリン・ウォーの「ブライズヘッドふたたび」の中で、登場人物の一人である女性がこういうことを言うらしい。

「私はこれからも悪いことをして神に許されながら生きていくのでしょう」

これは、倫理の根幹に深く関わる問題だと思うので、これを考察の出発点にしてみる。
まず、いくつかの命題や考察ポイントを立ててみる。

1:倫理には「神(創造神)を前提とする倫理」と「神を前提としない倫理」がある。
2:絶対的な強制力を持つ倫理は「神を前提とする倫理」である。
3:「仏」、あるいは「非創造神」を前提とする倫理は「来世」が必須条件である。
4:「神仏を前提としない倫理」の「強制力」は「法律」より弱い。
5:「法律」は「倫理」とは別の強制力があるが、その強制力の前提は「暴力」である。
6:「神仏」は、その存在証明が不可能であるために、「宗教」なのである。
7:存在が証明された神仏は、信仰の対象ではなく、ただの「暴力装置」である。
8:神仏以外でも反抗が絶対不可能な倫理もまた「暴力装置」であるかもしれない。

これ以外の考察ポイントは適宜追加することにして、最初の出発点に戻る。
この女性は「神を信じている」。にも関わらず、「悪いことをして生きている」。そして、それが「神に許される」と思っている。
では、
1:そのような神(悪を許す神、つまり悪を許容する神)とは何なのだろうか。
2:また、その「悪いこと」がなぜ「悪い」と判断する(できる)のだろうか。

この女性の宗教はカトリック(カソリック)であるらしい。その前提で上記2点を考察する。
カトリックの教義はローマ教会の教義であり、それは原始キリスト教、つまりキリスト本来の教えとは別だろう。新約聖書の中でキリストは「これこれの行為は罪である」という発言は特にしていないと私はかすかに記憶しているが、要は「父なる神を信じない」ことが罪なのであり、「父なる神の意思を曲解する宗教者は大きな罪を犯している」としているようだが、キリスト自身の「倫理概念」は旧約聖書の教え(ユダヤ教)に則っていると思われる。しかし、旧約聖書の十戒の厳密な適用には反対であったらしい。イエスの神(自分の父)は、愛と寛容の神だったと言っていいのではないか。そうなると、カソリックの教えでは何が罪とされているのか。おそらく、ユダヤ教(旧約聖書の十戒)が踏襲されていると思われる。
しかし、ユダヤ教の神、つまり十戒という倫理の根幹の存在は、非常に厳しい、恐ろしい神であり、その戒律に違反することは現実に死罪に相当することもある。たとえば、安息日に働いたということですら重罪なのである。これは「神の言葉をないがしろにした」からである。それが「神を前提とする倫理」としては普通なのであり、神自身が「自分の戒律の運用は適当でいいよ」とするはずはないのである。それでは戒律の意味など無くなるはずではないか。
とすれば、冒頭の女性の言葉は、「私は神の教えを裏切るが、神はそれを許すだろう」ということになる。これは、カソリック的には許容される思想なのだろうか。
ここで思い出すのは「第三の男」のハリー・ライムである。語り手(狂言回し)のホリーがハリー・ライムに「君は昔は神を信じていたはずだが」と言うと、この悪党は「今でも信じているよ」と言うのである。その宗教はカソリックである。
ここで注意したいのが、カソリックの「告解」である。
罪を犯しても、神父(教父?)の前で告解したら、その罪は許されるという、不思議な儀式である。これがカソリック教徒の社会的精神安定剤であるらしい。
つまり、一週間悪の限りを尽くしていても、日曜日に教会で告解をすれば、その犯した罪はすべて許されるということだ、と私は理解しているが、そのような都合のいい宗教があるというのが不思議そのものである。もちろん、神父(教父?)は聞いた内容については守秘義務がある。
まあ、私はカソリックに詳しくはないので、誤解もあるだろうが、「神の倫理」の抜け穴としてこういうものがあると理解しないと、冒頭の女性の言葉はまったく不可解なものになるだろう。

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スタヴローギン考

スタヴローギンとはどういう人間か、と考える際に一番の手がかりは、チホン僧正が彼を「土壌から引き離されておられる。(神を)信じておられない」と言っていることだろう。「土壌、あるいは大地から引き離された人間」というのはドストエフスキーの小説の中にしばしば出て来る言葉だが、それは何を意味するか。それは「世界から遊離した人間」ということだろう。
世界との関係が希薄な人間はたくさんいるし、思索に耽る人間ほどそうなりがちだ。そしてそういう人間は他者との関係も当然希薄なのであり、「自分(の心の中)しか見ていない」から、彼にとって他者は実は人形のようなものか道具のようなものになる。
倫理の基盤は、自分自身が世界とつながっていることだろう。他者(他の存在)を物としか見ていない人間には実は真のモラルは持てない。他者を尊重する気持ちなど無いからだ。
だが、モラルの話をする前に、「美」の話をしよう。
「悪霊」を読んでいて多くの人がたぶん見落とすのは、この作品には「自然の美」の描写がまったく無いことだ。そもそも西洋人は小説の中で自然の美を描くことはほとんど無いのだが、自然の美への感動は、日本人にとっては実は宗教と同じ働きを持っている、という奇抜な説を私はここで提出する。
スタヴローギンが神を信じなくても、彼が自然の美に感動できる人間だったら、あそこまで彼の精神は荒廃しなかっただろう、と私は見ている。と言うのは、自然の美への感動とは、「この世界への感動」であり、この世界の肯定だからである。それは、西洋人にとっても、「この世界を作った創造主への信仰」になるだろうが、創造神など仮定しなくても日本人は自然の美に感動し、それだけでこの世界とこの人生を肯定できるだろう。もちろん、自然に限らず、「自分以外の他の存在の肯定、共感、感謝、愛情」が倫理の土台にはあるわけだ。
ついでに「善」とは何か、「悪」とは何かについて単純な定義をしておく。
「善」とは「この世界を肯定し、愛し、守ること」であり、「悪」とは「この世界を否定し、嫌悪し、破壊すること」である。つまり、善とは生の顔であり、悪とは死の顔だ。ここでは善の仮面をかぶった悪や、一見悪に見える善のことは論じない。
まだ書くべきことはいろいろあるが、無理に文章を長くする必要もないから、この話はここでいったん打ち切っておく。

(夢人追記)だいぶ前に書いた「全能と無能」云々という記事の一部を自己引用しておく。

澁澤龍彦の或る評論というか、随筆のようなものを読んでいたら、

「化け物は全能なので、何かを望めば即座にそれが手に入る。したがって、『あきらめる』ということだけが不可能であり、そこが人間が化け物に優越しているところである」

という趣旨のことが書いてあり、興味深い逆説だな、と思ったが、まあ、単なる言葉遊びと思う人のほうが多いだろう。
これを「化け物」ではなく、「全能の神」に置き換えたら、人間という無能な存在は、その無能さゆえに神に勝っている、ということになる。まったく、全能の神であることほど退屈なものはないだろう。人間は無能だからこそ、何かを得るために努力をする。その過程でいろいろな喜びに遭遇するわけだ。とすれば、望めば即座にすべてが手に入る全能の神は退屈さのあまりニヒリズムに陥るのではないかwww 



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あなたの「悪霊」は何か

ここ数ヶ月は読書をする時間がほとんど取れなかったのだが、昨日は一日余暇ができて、読みかけの「悪霊」を完読した。まあ、高校時代の理解度を40%としたら、60%くらいは理解できたかな、という感じで、特に社会主義関係の部分や脇役の魅力の理解は深まったと思う。若いころは小説をエンタテイメントとしてしか読まなかったので、人物造形の魅力、特に脇役の描写など目が行かなかったのである。「主人公」的存在であるスタヴローギンの、「全能にして無能」という印象は、若いころに感じた印象と同じで、この作品のキモは理解していたようだ。
なぜ「全能」なのに「無能」なのかと言うと、「やればどうなるか分かり切っているからやる意味が無い」のである。つまり、神様と同じだ。ただし、その「全能」は実はかなり限定的で、彼は本質的に自分をコントロールできていない。自分の感情や意思をすべてコントロールできると過信しているが、その「プライド」、言い換えれば「自己愛」だけは制御できていないのである。つまり、ほとんどあらゆる人間が自己愛によって動いているのと、その点では変わらないわけで、そこがたとえばキリストなど、あるいはこの小説の脇役的な様々な人物より「実は卑小な人間」であるわけだ。シャートフやキリーロフや、あるいはビッコのキチガイ女などのほうが、彼よりはるかに高潔な人間なのである。
では、そうした高潔な人々がどうなるかというと、上記の3人とも殺されるか自殺するのである。そこがまさにリアルそのものである。そして、その3人を死に追いやった犯人のピョートルはどうなったかというと、無事に逃げ延びるのである。そこがまたリアルだ。このピョートルは、実に下種そのものの悪党なのだが、世間的活動能力という点から言えばスタヴローギンよりはるかに超人的で、この作品の「裏の主人公」であると言える。まあ、実社会で成功するのはこういうタイプだろう。
なお、「悪霊」とは社会主義思想のことだろう、と前に書いたが、それは少し訂正する。確かにこの作品の中で一部の人間を過激活動家にし、犯罪的行為に向かわせたのが社会主義思想(つまり、閉鎖的身分社会を破壊し、新しい世界を作る意思)ではあるが、スタヴローギンの心の中の悪霊はまったく別で、チホン僧正は彼に「あなたのすべての誇り、あなたの悪霊」と言っているのである。また、「罪を認めることを恥じなかったあなたが、なぜ悔恨を恥じられるのです?」「(悔恨を)恥じ、恐れておられる!」と言っている。まさに彼の「誇り」が彼の悪霊なのである。罪を認めることは彼の誇りを傷つけないが、悔恨は誇りを傷つけるのだ。強さに誇りを持つ人間にとって、罪は、力を発現した結果にすぎないが悔恨は弱さを認めることなのである。
そうした、「自分自身で制御できない自分の心や感情」が「悪霊」だと言っていいかと思う。


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キリーロフの哲学的自殺

「悪霊」の最後近くまで読んで、キリーロフが自殺する直前にピョートルに自分が自殺する理由を説明する場面に来たのだが、やはり難しい理論である。

1:神は存在しないと知ったら、その人自身が神と同じで、すべてが自由になる。
2:だが、自殺できない人間は、(自殺が不可能であるという一事によって)、自由であるとは言えない。
3:真に自分が自由であることを証明するには自殺する必要がある。

というのが私の解釈だが、まだキリーロフの長口舌の途中なので、この解釈でいいのかどうか、とりあえずメモだけしておく。もちろん、自分の理論に縛られること自体、「自由でない」ことだ、という反論は可能だろうが、キリーロフにはもう少し深い理屈がありそうだ。

なお、ドストエフスキーが理解しづらいのは、彼が「ロシア正教」を絶対的な宗教だと信じていたところで、私などには、どこにその優越性があるのか、さっぱり分からないのである。ネットで調べても、ロシア正教の(キリスト教他宗派と異なる)中心的思想は分からないのだ。
まあ、何より、「小説として」抜群に面白いのだから、それだけで十分ではある。日本(明治時代くらいがいいか)を舞台にしてテレビドラマ化してくれないだろうか。NHKあたりなら可能なのではないか。スタヴローギンは「超ハンサムだが、どこか仮面のような顔」であるから、若いころの仲代達矢が最適だろうが、今なら誰だろうか。

(追記)某ツィートで拾ったものだが、上の記事とシンクロした話題(言うまでもなく、キリーロフと正反対の、「常識的」思想だが)なので、参考まで。なお、無神論者(ただし、ユダヤ・キリスト教の創造主を信じていないという意味の無神論で、私なりの「神」観はある。)の私としては、勝手に「皆さん」扱いされて祝福されるのは不愉快であるwww ここは「信者のみなさん」と限定してもらいたい。

「これを手放しても、生きてゆくことはできる」と気づくたびに、私たちは少しずつ自由になってゆきます。「すべて手放しても、生きてさえいれば何とかなる」と気づいたなら、そのとき、私たちは完全な自由に到達するでしょう。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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