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マイクロアグレッションは、別名「小さな(マイクロ)攻撃性(アグレッション)」。人と関わるとき、相手を差別したり、傷つけたりする意図はないのに、相手の心にちょっとした影をおとすような言動や行動をしてしまうことだ。「微細な攻撃」とも訳されるマイクロアグレッションがなぜ相手を傷つけるかというと、その言葉や行動には人種や文化背景、性別、障害、価値観など、自分と異なる人に対する無意識の偏見や無理解、差別心が含まれているからだ。
具体的には、このようなものがマイクロアグレッションと呼ばれる。わかりやすいように、海外で起こることと日本で起こることを分けていくつかの例をあげてみよう。
海外
日本
もちろんこれ以外にも事例はあるが、これらは無意識の攻撃性をはらんでいる。中には、自分もやってしまっていた!と思うものがあるかもしれないし、何が悪いの?と思うこともあるだろう。
たとえば「君は日本人っぽくなくて大胆な考え方をしていいね!」という発言の裏には、日本人は典型的に保守的であまり大胆な行動をしない、という先入観がある。一見褒められているようだが、このような発言は時間が経つと「ひょっとして馬鹿にされてる……?」とじわじわ効いてくるものだ。
一見外国から来たような人でも、もう長く日本に住んでいるかもしれないし、外国語よりも日本語の方が得意かもしれない。見た目で判断し、話せないだろうという偏見を持って接することが問題なのだ。
マイクロアグレッション(Microaggression)という言葉自体は、1970年代にアメリカの精神医学者であるチェスター・ピアス氏が提唱したものだ。もともとアメリカでアフリカ系でない人々が、アフリカ系の人々を苦しめているようすを見て同氏が「侮辱だ」と捉えたときにできた言葉で、マイノリティに対してちょっとした悪意や偏見を持って行う行動、言動を指す。
また、2000年代にコロンビア大学教授のデラルド・ウィング・スー氏がこの言葉を再定義した。同氏は人が無意識の差別攻撃を受けたときの精神的悪影響に関する研究のなかで、マイクロアグレッションを「特定のコミュニティに属しているというだけで否定的なメッセージを向けられる、日常的なやり取り」としている。
日本では、在日コリアン青年連合(KEY)が2013年前後に行ったヘイトスピーチに関する調査の中で「差別未満」というカテゴリーを設けていた。差別とまではいかないが、聞いた人々が不快な思いをするような発言のことを指すものである。
マイクロアグレッションは、差別の一種である。しかしやっかいなのは、発言をした相手が「差別している」という意識がないことも多いということだ。些細な日常の会話であり、むしろ本人なりに褒めたつもりなのかもしれない。
こうした隠れた攻撃性に気付き、声をあげた人が「考えすぎだ」「スルーすればいい」「そんなに気に入らないなら出ていけ」などと非難を浴びることさえある。特定の人々が嫌い!というわかりやすい差別ではなく、見る人によっては差別に見えない細かなやりとりだからこそ、多数派である人々は無視できる、という不公平な構造があるのがマイクロアグレッションである。何年たっても無意識な差別を受けて、「自分はアウトサイダーである」と思わされることは、自尊心が喪失し、うつ、気力の低下、仕事の生産性などさまざまな悪影響につながる。
その一方で、マイクロアグレッションという概念に批判的な声もある。アメリカで社会学を研究するブラッドリー・キャンベル氏とジェイソン・マニング氏は、2018年に共同で出版した著書『Rise of Victimhood Culture(被害者文化の台頭)』の中で、マイクロアグレッションは「被害者意識(Victim mentality、何か問題が起こったときに即座に自分はその被害者・犠牲者だと思うこと)」を助長させ、当人同士で問題解決する力を低下させ、被害者・加害者といった二者の道徳的な対立を生み出すとしている。
とはいえ、マイクロアグレッションを誰かに行うのは本意ではない。その対策としては、シンプルだが発言をする前に一度振り返ることだ。この発言は相手に対して失礼にあたらないだろうか、無知やちょっとした関心から質問していないだろうか、相手の返答に自分は何を期待しているのだろうか?
一番大切なことは、コミュニケーションを取る相手を尊重することである。相手は自分と同じ人であり、自分の関心を満たすコンテンツではない。どのような人間関係にも言えることだが、これを徹底することでマイクロアグレッションを防ぐことが可能になる。
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【参照サイト】マイクロアグレッション概念の射程
「本書(『神学・政治論』)は、哲学する自由を認め ても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざま な論考からできている」——スピノザ『神学・政治論』のエピグラム(吉田量彦訳)
……自由とは,徳あるいは完全性であり,したがっ て,何事にせよ人間の無力を示す事柄は人間の自由に数えることができない。 だから人間は,存在しないことも出来る,あるいは理性をもたないことも出来る,という理由で自由であるとは決して言われ得ない。自由であると言われ得るのは,彼が人間的本性の諸法則に従って存在し・活動する力を有する限り においてのみである。このようにしてわれわれが人間 をますます多く自由であると考えるに従って,われわれは彼が,理性をもちいないことも出来る,また善の代わりに悪を選ぶことも出来るということをますます もって言えなくなるのである。そして絶対に自由に存在し・理解し・活動する神もまた 必然的に,すなわち自己の本性の必然性に従って存在し・理解し・活動するのである。神がその存在すると同じ自由性をもって活動することは疑 いないところであるから。こうして神は,自己の本性の必然性によって存在すると同様 に,また自己の本性の必然性によって行動する,言いかえれば絶対に自由に行動する。
...Est namque libertas virtus seu perfectio. Quicquid igitur hominem impotentiae arguit id ad ipsius libertatem referri nequit. Quare homo minime potest dici liber propterea quod potest non exsistere vel quod potest non uti ratione, sed tantum quatenus potestatem habet exsistend & operandi secundum humanae naturae leges. Quo igitur hominem magis liberum esse consideramus eo minus dicere possumus quod possit ratione non uti & mala prae bonis eligere; & ideo Deus, qui absolute liber exsistit intellegit & operatur, necessario etiam nempe ex suae naturae necessitate exsistit intellegit & operatur. Nam non dubium est quin Deus eadem qua exsistit libertate operetur. Ut igitur ex ipsius naturae necessitate exsistit, ex ipsius etiam naturae necessitate agit, hoc est libere absolute agit.
出典:スピノザ「国家論」Pp.103-104: 『スピノザ・思想の自由について』訳注・畠中尚志、理想社、1967年
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