「分裂勘違い劇場」の「ふろむだすく」氏の書いた記事の一部で、氏らしい頭脳明晰な文章だが、これは子供には教えられない「真実」である。
まあ、真実かどうかは別として、要するに「社会的に不都合」であるわけだ。
そして世間の大人の大半は実は心の奥底ではこの事実(でも真実でもいいが)を知っている。
ただ、私はこの記事では「よい」と「悪い」の定義、「善」と「悪」の定義自体が非常に曖昧だと思う。それ無しでこのような議論をしても、遊技的議論にしかならないのではないか。ここで挙げられているニーチェの論もそのひとつだと思う。それほど「虚偽」や「虚偽性」を憎むなら、なぜ虚偽がそれほど「悪い」のか、から議論すべきだろう。私はニーチェをほとんど読んでいないので、その議論が彼の著作の中にあるかどうかは知らないが、ここでの議論の前提として必要だと思う。ちなみに私は虚偽は社会秩序の維持の上で絶対的に必要だと思っている。「真実を追求する」哲学者だろうが、それは知っているはずだ。これは(読んではいないが)「サピエンス全史」で、虚構が文明の根幹だ、と言っているのと同じである。
正直なことが価値が一番高いなら、「仁義なき戦い(広島死闘編)」の中で、自分の欲望の赴くままに暴力をふるい、人殺しを重ねる大友勝利(千葉真一)が一番偉いことになるwww
(以下引用)本当はこの前後も転載しないと議論が不公平だが、論点を明確にするために、ここだけ抜き出す。
私が思うに、「(道徳的な)正しさ」は、元をたどると、次の2つのいずれかに立脚していることが多いです。
(1)社会の多数派にとって損でない。(損得勘定由来)
(2)嘘をつかない。(誠実性由来)
(1)の損得勘定由来の道徳は、長い時間をかけて内面化されているため、多くの人は、それを単なる損得勘定だとは感じず、道徳だと思っています。
「人を殺すのは(道徳的に)正しくない」と言われるのは、(1)損得勘定由来の正しさに反するからです。
実際、「人を殺すのは正しい」ということになったら、いつ殺されるかわからないから、社会生活がとても不便になります。
だから人を殺すことは悪いということにしよう。そうじゃないとみんな困るから。実際に悪いかどうかはともかく、そういうことにしとかないと、不便でしょうがないから。
というのが実情でしょう。
しかし、それは本来、単に人々の損得勘定の話であって、「人を殺すのは悪い」ということが真実かどうかとは関係ない話です。「都合上、悪いということにしている」ということと、「本当に悪い」ということは別の話なのです。
これが原因で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に答えようとすると、欺瞞になってしまうことが多いです。
それについて、『これがニーチェだ』P.26-27では以下のように記述しています。
さて、このようなニーチェの視点からすれば、多くの子供たちが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを立てないのは、誇りによってではなく、奴隸根性と断念によってであることは明白である。もちろん、「聖人」たちはその奴隸根性や断念や、虚栄心や利己心や臆病さを、誇り、尊厳、真の自由、……といった言葉を用いて称賛する。その種の隠蔽工作がすなわち、「暴力、嘘、誹謗中傷、不公正」である。 道徳哲学者や倫理学者も同じである。彼らは「なぜ人を殺してはいけないのか」をはじめとする道徳の根拠の問題に答えようとするとき、結局、それは道徳に反するからだ、というトートロジーしか与えることができない。なぜ道徳的であるべきなのか、という問いに、その方が道徳的であるからだ、と答えることの無力さを感じている彼らは、そこに誇り、尊厳、真の自由、等々の嘘を忍び込ませるのである。
「道徳的に正しい」ことは、それを「道徳的に正しい」ということにした方が、社会の多数派の人が得をするから、それが「道徳的に正しい」ということにしただけであって、それは「真実かどうか?」というと、嘘なことが多いのです。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に答えようとすると、トートロジーになるか、「多くの人がそのような質問をしないのは誇りがあるからだ」とか「道徳的に生きることこそが真の自由なのだ」とかの嘘で隠蔽工作せざるを得なくなるのです。
しかし、それは嘘ではあるけれども、それが嘘であることを、みんなで忘却することによって、この社会は成立しています。
つまり、道徳というのは、嘘と欺瞞で作られた、便利で有益な装置なのだけど、それがそういう装置であることをみなが忘却することによって成り立つ装置なのです。
それが「道徳」の正体です。
そのへんは、永井均さんの『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』も合わせて読むと、わかりやすいです。

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| 10時間前非表示・報告なるほど、稚内プレスの社長でしたか。
部下から『この様な記事は、、、』とは言えなかったんですね。言ったら『誰に対して言ってるんだ!生意気だ』と殴られるか叩かれるかはたまた降格か馘になるかだったんですね。社長の記事読んで理解しました。
thu*****
| 8時間前非表示・報告女性を蔑視し身内に対しては暴力で支配したことを、さも時代の当たり前として語ってるけれど
この方まだ60代みたいですね
30代の頃の反省なんて言ってますけど平成に入ってるじゃないですか
かなり少数派だったと思いますよ
特に昭和から平成への変わり目は、雇用機会均等法やセクハラに注目が集まってた頃ですもの
私の実父、舅は戦中生まれですけど妻にも身内にも、男女関係なく暴力なんてふるいません
私だって父に殴られたり怒鳴られたりしてません、勿論夫にも
虐げられてた女性もあの時代は当たり前だったなんて思わないで
非常に罪深いことをされ特殊な環境にいたんです
pip*****
| 10時間前非表示・報告当方女性。
男女平等っていうけれど、女性が『結婚相手の年収は〇〇円以上ないと』『男のくせにそんなこともできないの』『男なんだから泣くな』などと公言しても大した問題にならないのはいいのかな。
セクハラ行為や発言だって女性が男性にするのはあまり問題視されないし。
結構エグいよ。女性からのセクハラは。
私が新卒で入社した時、男性と同じように責任のある仕事をして同額の給与をもらいたいと考える人と、女性なのだからたとえ給与は低くとも残業や責任のある仕事はしたくないと考える人がいた。
まずはここを何とかしないと男女平等なんて夢のまた夢じゃないのかな。
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| 7時間前非表示・報告こやつはまだ全然分かっていない。
>このところ漸く女性の社会的地位が上がるにつれ国際女性デーが根付きつつあるも世界の潮流の中では
「漸く」「世界潮流」だのが出てくる時点で本心から理解しているわけではなく「流行りモノに飛びついているだけ感」が滲み出ている。そうじゃなくて女性の尊重、というより正確には男女問わない尊重は人類の誕生に遡って適用されるべきものであって、最近の風潮だから従うのでは断じてない。この点はメディアも理解していないように見受けられる。