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スタヴローギン考

スタヴローギンとはどういう人間か、と考える際に一番の手がかりは、チホン僧正が彼を「土壌から引き離されておられる。(神を)信じておられない」と言っていることだろう。「土壌、あるいは大地から引き離された人間」というのはドストエフスキーの小説の中にしばしば出て来る言葉だが、それは何を意味するか。それは「世界から遊離した人間」ということだろう。
世界との関係が希薄な人間はたくさんいるし、思索に耽る人間ほどそうなりがちだ。そしてそういう人間は他者との関係も当然希薄なのであり、「自分(の心の中)しか見ていない」から、彼にとって他者は実は人形のようなものか道具のようなものになる。
倫理の基盤は、自分自身が世界とつながっていることだろう。他者(他の存在)を物としか見ていない人間には実は真のモラルは持てない。他者を尊重する気持ちなど無いからだ。
だが、モラルの話をする前に、「美」の話をしよう。
「悪霊」を読んでいて多くの人がたぶん見落とすのは、この作品には「自然の美」の描写がまったく無いことだ。そもそも西洋人は小説の中で自然の美を描くことはほとんど無いのだが、自然の美への感動は、日本人にとっては実は宗教と同じ働きを持っている、という奇抜な説を私はここで提出する。
スタヴローギンが神を信じなくても、彼が自然の美に感動できる人間だったら、あそこまで彼の精神は荒廃しなかっただろう、と私は見ている。と言うのは、自然の美への感動とは、「この世界への感動」であり、この世界の肯定だからである。それは、西洋人にとっても、「この世界を作った創造主への信仰」になるだろうが、創造神など仮定しなくても日本人は自然の美に感動し、それだけでこの世界とこの人生を肯定できるだろう。もちろん、自然に限らず、「自分以外の他の存在の肯定、共感、感謝、愛情」が倫理の土台にはあるわけだ。
ついでに「善」とは何か、「悪」とは何かについて単純な定義をしておく。
「善」とは「この世界を肯定し、愛し、守ること」であり、「悪」とは「この世界を否定し、嫌悪し、破壊すること」である。つまり、善とは生の顔であり、悪とは死の顔だ。ここでは善の仮面をかぶった悪や、一見悪に見える善のことは論じない。
まだ書くべきことはいろいろあるが、無理に文章を長くする必要もないから、この話はここでいったん打ち切っておく。

(夢人追記)だいぶ前に書いた「全能と無能」云々という記事の一部を自己引用しておく。

澁澤龍彦の或る評論というか、随筆のようなものを読んでいたら、

「化け物は全能なので、何かを望めば即座にそれが手に入る。したがって、『あきらめる』ということだけが不可能であり、そこが人間が化け物に優越しているところである」

という趣旨のことが書いてあり、興味深い逆説だな、と思ったが、まあ、単なる言葉遊びと思う人のほうが多いだろう。
これを「化け物」ではなく、「全能の神」に置き換えたら、人間という無能な存在は、その無能さゆえに神に勝っている、ということになる。まったく、全能の神であることほど退屈なものはないだろう。人間は無能だからこそ、何かを得るために努力をする。その過程でいろいろな喜びに遭遇するわけだ。とすれば、望めば即座にすべてが手に入る全能の神は退屈さのあまりニヒリズムに陥るのではないかwww 



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あなたの「悪霊」は何か

ここ数ヶ月は読書をする時間がほとんど取れなかったのだが、昨日は一日余暇ができて、読みかけの「悪霊」を完読した。まあ、高校時代の理解度を40%としたら、60%くらいは理解できたかな、という感じで、特に社会主義関係の部分や脇役の魅力の理解は深まったと思う。若いころは小説をエンタテイメントとしてしか読まなかったので、人物造形の魅力、特に脇役の描写など目が行かなかったのである。「主人公」的存在であるスタヴローギンの、「全能にして無能」という印象は、若いころに感じた印象と同じで、この作品のキモは理解していたようだ。
なぜ「全能」なのに「無能」なのかと言うと、「やればどうなるか分かり切っているからやる意味が無い」のである。つまり、神様と同じだ。ただし、その「全能」は実はかなり限定的で、彼は本質的に自分をコントロールできていない。自分の感情や意思をすべてコントロールできると過信しているが、その「プライド」、言い換えれば「自己愛」だけは制御できていないのである。つまり、ほとんどあらゆる人間が自己愛によって動いているのと、その点では変わらないわけで、そこがたとえばキリストなど、あるいはこの小説の脇役的な様々な人物より「実は卑小な人間」であるわけだ。シャートフやキリーロフや、あるいはビッコのキチガイ女などのほうが、彼よりはるかに高潔な人間なのである。
では、そうした高潔な人々がどうなるかというと、上記の3人とも殺されるか自殺するのである。そこがまさにリアルそのものである。そして、その3人を死に追いやった犯人のピョートルはどうなったかというと、無事に逃げ延びるのである。そこがまたリアルだ。このピョートルは、実に下種そのものの悪党なのだが、世間的活動能力という点から言えばスタヴローギンよりはるかに超人的で、この作品の「裏の主人公」であると言える。まあ、実社会で成功するのはこういうタイプだろう。
なお、「悪霊」とは社会主義思想のことだろう、と前に書いたが、それは少し訂正する。確かにこの作品の中で一部の人間を過激活動家にし、犯罪的行為に向かわせたのが社会主義思想(つまり、閉鎖的身分社会を破壊し、新しい世界を作る意思)ではあるが、スタヴローギンの心の中の悪霊はまったく別で、チホン僧正は彼に「あなたのすべての誇り、あなたの悪霊」と言っているのである。また、「罪を認めることを恥じなかったあなたが、なぜ悔恨を恥じられるのです?」「(悔恨を)恥じ、恐れておられる!」と言っている。まさに彼の「誇り」が彼の悪霊なのである。罪を認めることは彼の誇りを傷つけないが、悔恨は誇りを傷つけるのだ。強さに誇りを持つ人間にとって、罪は、力を発現した結果にすぎないが悔恨は弱さを認めることなのである。
そうした、「自分自身で制御できない自分の心や感情」が「悪霊」だと言っていいかと思う。


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キリーロフの哲学的自殺

「悪霊」の最後近くまで読んで、キリーロフが自殺する直前にピョートルに自分が自殺する理由を説明する場面に来たのだが、やはり難しい理論である。

1:神は存在しないと知ったら、その人自身が神と同じで、すべてが自由になる。
2:だが、自殺できない人間は、(自殺が不可能であるという一事によって)、自由であるとは言えない。
3:真に自分が自由であることを証明するには自殺する必要がある。

というのが私の解釈だが、まだキリーロフの長口舌の途中なので、この解釈でいいのかどうか、とりあえずメモだけしておく。もちろん、自分の理論に縛られること自体、「自由でない」ことだ、という反論は可能だろうが、キリーロフにはもう少し深い理屈がありそうだ。

なお、ドストエフスキーが理解しづらいのは、彼が「ロシア正教」を絶対的な宗教だと信じていたところで、私などには、どこにその優越性があるのか、さっぱり分からないのである。ネットで調べても、ロシア正教の(キリスト教他宗派と異なる)中心的思想は分からないのだ。
まあ、何より、「小説として」抜群に面白いのだから、それだけで十分ではある。日本(明治時代くらいがいいか)を舞台にしてテレビドラマ化してくれないだろうか。NHKあたりなら可能なのではないか。スタヴローギンは「超ハンサムだが、どこか仮面のような顔」であるから、若いころの仲代達矢が最適だろうが、今なら誰だろうか。

(追記)某ツィートで拾ったものだが、上の記事とシンクロした話題(言うまでもなく、キリーロフと正反対の、「常識的」思想だが)なので、参考まで。なお、無神論者(ただし、ユダヤ・キリスト教の創造主を信じていないという意味の無神論で、私なりの「神」観はある。)の私としては、勝手に「皆さん」扱いされて祝福されるのは不愉快であるwww ここは「信者のみなさん」と限定してもらいたい。

「これを手放しても、生きてゆくことはできる」と気づくたびに、私たちは少しずつ自由になってゆきます。「すべて手放しても、生きてさえいれば何とかなる」と気づいたなら、そのとき、私たちは完全な自由に到達するでしょう。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父

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生の苦しみ、死の苦しみ

「悪霊」の中でキリーロフという男が、「生きることも死ぬことも同じだと知る者だけが真の自由を得る」という趣旨の言葉を言うのだが、これは仏教的な思想に思える。
と言うのは、「四苦八苦」の中には「生まれること自体が苦の原因である」という思想が入っているからである。「四苦」はいわゆる「生病老死」であるが、「生」が他の「老・病・死」と並列されているところが西洋人には理解できないところではないか。もちろん、論理的に言えば、「生」の中に「老・病・死」が含まれる、あるいは「生」と「死」は対立するもので、「生」の中には「老・病」という苦があると考えるのが普通だろう。しかし、生きることの中にはそれ以外にも無数の苦しみがあるのであり、いちいちそれを項目として立てるより「生」という苦、とするのが観念として面白い。まあ、苦を細別した「八苦」というのもあるが、私は「生病老死」という大別法が好きである。

ところで、我々は実際に死ぬまで死を経験することは不可能なのである。なのに、死ぬ前から、その未知の体験を死ぬほど(笑)恐れるわけだ。これはナンセンスな恐怖ではあるが、未知の事柄は常に我々を恐怖させるのであり、それについて何かを知っているつもりである者だけが、その恐怖から免れるわけである。宗教とは、そうした「来世への幻想」がほぼ不可欠なのではないか。逆に言えば、本来の仏教、つまりブッダの教えの中に、そうした「来世への幻想」が無いとすれば、仏教とは宗教ではなく哲学だろう、と私は思っている。もちろん、日本で生まれた仏教はまた別である。


(以下引用)

四苦八苦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦(ドゥッカ、dukkha)の分類。


根本的なドゥッカを(しょう・ろう・びょう・し)の四苦とし

  • 生苦(jāti dukkha)[1] - 生まれることに起因する苦しみ。
  • 老苦(jarāpi dukkha)[1] - 老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
  • 病苦(byādhipi dukkha)[1] - 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる仏教問題。
  • 死苦(maraṇampi dukkha)[1] - 死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。

根本的な四つの苦に加え、

  • 愛別離苦(あいべつりく、appiyehi dukkha)[1] - 愛する者と別離すること
  • 怨憎会苦(おんぞうえく、piyehi dukkha)[1] - 怨み憎んでいる者に会うこと
  • 求不得苦(ぐふとくく、yampiccha dukkha)[1] - 求める物が得られないこと
  • 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。


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「価値論」

別ブログに載せてある文章で、もしかしたらこのブログにも既に載っているかもしれないが、何度読んでも我ながら素晴らしい内容の文章(www)なので、載せておく。一種の「人生論」だ。
なお、これを再読する前に考えていたのは、ヘンリー・ダーガーとフランツ・カフカについての文章だが、それはいずれ書きたい。やはり「価値論」である。

(以下自己引用)


価値観について


 


 


 


第1節 社会的価値観と個人的価値観


 


 人間と動物の相違は、人間には価値の意識があることで、その価値の意識が人生を複雑にも面白くもする。ある意味では、人生の諸問題は価値の意識から来ると言える。


 


 何を価値があるとし、何を価値が無いとするかは、社会的な合意がある反面、個人的なものでもある。それが「価値観」だ。一般的には、価値観は個人的なものだと思われているようだが、実は


 


1 社会的に合意された価値観が、個人の価値観の大部分を占めている。


 


我々が文化生活を享受できるのも、この価値観の共有から来るのである。(ここで、事例を挙げるなら、たとえば、美人・美男子の基準は、時代と社会によってほぼ決定され、個人的な趣味はそれほど決定的な要素ではない、などがそれだ。あるいは、能力のある人間は、価値があり、能力のない人間は無価値であるとされるのは、ほぼどの時代、どの社会でも変わらないだろう。そこで、たとえば、「弱さ」を価値あり、とする人間がいたとしても、それは個人的な偏向にしかすぎないとされるのである。)しかし、また、


 


2 価値観を共有することはこの社会の収奪システムの中に組み込まれることでもある。


 


我々は、「価値あるもの」を手に入れるために働き、金を出してそれを購入する。社会の上位にいる人間は、下の人間のそうした馬車馬的労働の成果を吸い上げ、消費者からは金を巻き上げて、自らの快適な生活を維持していく。かつては王侯貴族が行い、現在では大資本家(及び、その協力者である政治家や官僚)が行っている、これが社会の収奪システムである。(社会の収奪システムは、先進国と後進国との間でも維持されている。後進国がいつまでも後進国であるのは、すべてがシステム化されているからである。)


その収奪システムから逃れる簡単な方法は、自分だけの価値観によって行動することである。つまり、社会が価値ありとするものに背を向けて生きることだが、しかし、完全にそれを行うと、社会の文化的産物をすべて拒否することになり、原始人の生活になる。


 この、「共通価値観」と「個人的価値観」との摺り合わせが、人生を生きていく上での最大のポイントになる。「共通価値観」の肥大した人間は周囲に流され、社会の収奪システムの奴隷となるし、「個人的価値観」が肥大しすぎた人間は、周囲から孤立し、変人扱いされることになる。


 


第2節 価値観と性格


 


 離婚の原因として、よく「性格の不一致」という言葉が出るが、性格とは、実は価値観でもある。人生を生きていく上で、何を価値があるとするかという根本が違っていたら、共同生活が成り立つはずはない。一方は都会生活を好み、他方は自然の中の生活を好むとすれば、生活すべき場所すら異なることになる。どちらかに従えば、当然、もう一人は不満を抱えていくことになる。


 そして、「十人十色」とか、「蓼食う虫も好きずき」とか言うように、価値観は多様なものである。たとえば、同じように漫画を好んでいても、その好む漫画の傾向が同じとは限らない。趣味については、片意地な偏食家が多いのである。自分の趣味を絶対的に肯定していない人間は、ほとんどいない。趣味については、誰もみな、自分を精神的貴族だとみなしているのである。


 


 我々の人生がどのように彩色されるかは、快不快の気持ちによるが、何を快とし、何を不快とするかは価値観に左右されていることが多い。簡単な例では、労働と遊びの相違である。我々は労働を不快な義務と思い、遊びを快楽だと思っている。だが、スポーツは、スポーツ選手にとっては労働であり、観客にとっては遊びだ。プロ野球選手がシーズン・オフにゴルフをやれば、それは遊びである。このように、同じ行動が苦痛にも快楽にもなる例は多い。その原因は、物事をとらえる姿勢にある。それを価値観と言うのは不適切かもしれないが、ある価値観をもって接するから、あるものを価値があると思ったり、また無価値だと思ったりするのは事実だ。これを価値観と言わないで、「肯定的態度」と「否定的態度」と言ってもいい。


 


我々は通常、快不快を動かしがたい前提条件と考えがちだ。つまり、ある対象とそれへの快不快は密接に関連していると考えている。だが、そうだろうか。我々があるものを肯定したり、否定したりするのは、実はただの習慣にすぎないのではないだろうか。


 もちろん、物事に対する趣味は、我々の性格そのものと言ってもいいくらいに固定的であるのが常だが、しかし、趣味は変わりうるものでもある。つまり、短期間には動かしがたいが、時間をかければ変えうるものだ。趣味と同様に性格も変えられる。つまり、


 


3 我々が自分の性格としているのは、我々がそれを自ら選んできた結果だ。


 


「その性格」であるのが我々自身にとって心地よいから我々はその性格を続けているのである。(つまり、快感原則は人生の根本原則だが、何を快とし、何を不快とするかは変えうるのである。)これは外面的な性格演技だけの話ではない。ドストエフスキーの作中には、よく卑屈な小市民が出て、自らを卑下するが、その卑下する自分に、実はある心地よさを感じているのである。たとえ、自分の不甲斐なさのために娘を身売りさせ、自分が最低の父親である、と泣いていても、そのような自分の存在をどこかで肯定しているのである。これが、人間の自己愛である。我々が自分の性格にうんざりしながらも、けっしてそれを変えないのは、実はそれが自分にとって「居心地がいい」性格だからである。


 しかし、繰り返すが、性格は変えがたいものでありながらも、可変的なものでもある。たとえば、ここに内省的な人間がいたとしよう。彼を軍隊の中に放り込んで、一年間も鍛えれば、彼は立派なロボット的兵士になるだろう。それが戦場ならなおさらだ。なぜなら、決められた行動に従わないかぎり、彼の生存は保証されない以上、彼には内省の余地は無いからである。少なくとも、彼は自分の内省癖を、それがゆるされる時間まで棚上げにする習慣を身につけるだろう。そして、やがてはその内省癖そのものがどうでも良いものになっていくはずである。我々の性格も趣味も習慣の問題にすぎない。兵士の中に哲学者がいないとは限らない。だが、勝れた兵士ではありえないだろう。兵士として生き延びるためには、我々は動物的な反射(通常は「命令~服従」の反射。戦場では「危機~戦闘行為」の反射)で生きるしかないのであり、自らの内面への深い思索などしていては生きてはいけないだろう。


 


第3節 物の価値


 


 第1節で「社会的価値観」について述べたが、実は、価値の相場は合理的に形成されるわけではない。


 誰でも、黄金は価値があると思っている。だが、その価値は主として「希少さ」によっているのである。誰かが言っているが、黄金より土が少なかったら、土のほうが価値が出るだろう。希少さとは無関係に、実際に土のほうが価値があるとも言える。なぜなら、黄金の上に作物はできないからだ。我々は土に価値があるなどとは思わない。それは周りに膨大にあるからだ。だが、飢饉が来れば、作物を生やしてくれる土地の価値が、はっきりとわかるはずである。そのとき、黄金が、いかに無価値かもわかるだろう。問題が少し違うが、インカ帝国にもしも黄金がなければ、スペイン人たちはインカ帝国を滅ぼさなかったかもしれない。インカ帝国にとっては、黄金は災いを招く存在であった。インカ人自身にとっても黄金が、価値がそれほどあったとは思われない。なぜなら、スペイン人に略奪されるまでは、彼らにとって黄金はありふれた存在だったからである。そのへんの石ころと同じ比率で黄金があれば、誰が黄金を崇めるだろうか。(このことを敷衍すれば、世界中の人間が美男・美女になった世界では、美男・美女の存在価値は無いことになる。)


 土と同様に、我々がその価値に気付かないものが、空気と水である。我々が生存できるのは、ひとえに空気と水と土のおかげであり、それ以外のものは生きる上では剰余にすぎない。もちろん、文化とはその剰余のことではあるのだが、少なくとも生存上の第一義的なものは、この三者なのである。


 さて、この人間社会では、黄金は価値があるとされている。そこで、黄金を独占した人々は、その相場を自分たちで決めることで、他人の上に立ち、優雅な生活を送ることができるわけである。つまり、社会の構成人員を「黄金は価値がある」と教育すれば、その後はほぼ永遠に富の独占ができるわけである。


 いや、黄金はそれ自体価値がある、と異論を述べる人もいるだろう。何しろ、容易に加工できる「美しい」金属で、しかも時の浸食を受けない。だから黄金には絶対的な価値があるのだと。なるほど、それらの美点は確かにある。特に、貨幣を作る上で、黄金はいい原材料だろう。そうした価値を否定はしない。貨幣経済の上に成り立っているこの社会を維持する上で、黄金は重要な要素には違いない。しかし、黄金の持つ価値は、必要以上に吊り上げられているのではないだろうか。他の貴金属や宝石なども同じである。


 では、芸術品の価値はどうだろうか。ゴッホの絵とセザンヌの絵は、どちらがどれくらい上なのだろうか。我々素人からは、その価値の差はわからない。三つ以上の数の数えられない土人同様に、どちらも「たくさん、たくさん」という評価しかできないのである。しかし、現実には、ゴッホの「この絵」は幾ら、セザンヌの「この絵」は幾ら、と評価がちゃんとついている。では、その値段は誰がつけるのか。ここで登場するのが「専門家」である。彼らは専門家同士のギルドを作り、その内部でさまざまな物に値段をつけ、それを素人に売りつける。物の値段、物の価値はこのようにして決まっていくのである。生きている間は1,2枚しか売れなかったゴッホの絵も、誰かが提灯持ちをし、評価をつり上げていった結果、生きていた時のゴッホ自身では絶対に買えないような巨額の値段がついていったわけである。正直言って、私はたとえばセザンヌの絵に価値があるようには思えない。印象派以前の古典派の絵なら、その技術の巧拙だけでも、ある程度の価値判断はできる。だが、その相場として、果たして食事一回分の値段が適当か、それとも庶民の一生の稼ぎに相当する金額が妥当かはわからない。そして、専門家たちは、後者が妥当だと言うのである。


 なるほど、芸術作品に巨万の金を出す人間がいるのは確かだ。だが、それは、彼らにとっての金が、庶民にとっての水や土と同様の安価な物だというに過ぎない。自ら紙幣を印刷できる人間には、紙幣は紙切れと同様だろう。


 問題は、こうして値段がつけられると、その対象品は、それからは庶民の手には決して届かないものになることである。


 我々の住むこの社会では、こうした「価値のピラミッド」が作り上げられている。一着100円のシャツもあれば、一着数千万円の衣服もある。1000円の腕時計もあれば、数百万円の腕時計もある。しかも、後者の方が性能は悪かったりする。


 とすれば、社会的な価値というものは、その大半は幻想的なもの、あるいはもっと端的に言えば、詐術だと言ってもいいのではないだろうか。実は、これがこの文章を通して私が言おうとしていることなのである。


 つまり、社会的価値とは、個人的な主観から出発して、それが社会的な広がりを持つにつれて様々な詐術が加わり、やがて壮大な幻想のピラミッドになったものである。


 もちろん、個人の主観の段階でも、すでに幻想だ、と岸田秀的に言ってもいい。だが、ここで洒落たつもりの言い方をするなら、それ(「価値という幻想」)は「価値ある幻想」かもしれない。幻想には違いないが、幻想が無価値だとは言えない場合もある、ということである。


 


第4節 生きる価値


 


 つまり、価値は幻想かもしれないが、それによって我々は人生を生きる価値のあるものにしているのである。我々は自分を取り巻く様々な物に価値づけをすることで、自分の人生を価値あるもので満たすわけだ。たとえば、漫画の好きな人間は、それを価値ありとしている。スポーツ観戦の好きな者は、それを価値ありとしている。周囲に対してそうした価値を感じられなくなった状態が、ニヒリズムである。ニヒリズムとは、つまり価値の喪失なのである。「空なるかな、空なるかな、空の空なるかな、すべて空なり」というわけだ。そうなれば、人生そのものも無価値で、生きるに値しないということになる。


 ここで、最初に戻って、実は価値とは自分が決めるものだ、ということに思い至れば、この人生が価値がない、というのは、実は自分がそう決めたというだけのこととなる。そうしたニヒリズムには一種のロマンチックなイメージもあるから、それに陶酔するのはいいが、それを本気で信じるのは、自分で神様を作り出して、その神様を信じ込んで殉教するようなものである。


 


 我々は、自分の人生やこの世界を価値ありとすることもできれば、無価値だとすることもできる。一つ一つの事柄に対する価値判断も同様だ。要するに、価値判断にはもともと何の根拠もいらないのである。問題は、そうして下された価値判断が社会的な広がりを持ってきた場合である。価値とは、原則として比較である。絶対評価ではなく、相対評価なのだ。その評価のピラミッドがこの世を一種の地獄にすることもある。つまり、価値の体系の下層に置かれた存在にとって、価値ほど呪わしいものはない、ということになる。


 価値が主観の範囲に納まっていれば、価値は人生の輝きを作る。だが、それが客観のふりを始めると、それは地獄となる。我々は他人の作った価値観の泥沼に足を取られて、やがては自らやその周辺の物事を無価値な存在とするようになるのである。だが、価値とは本来、主観から始まったものでしかない。「客観的価値」も誰かの主観が他人を巻き込んでいっただけなのだ。ならば、再び我々は、価値判断を自らの手に取り戻してもいいのではないだろうか。


 


 アメリカン・コミックのポパイの口癖は、「俺は俺さ」である。つまり、他人がどうであれ、俺は自分の考えで行動する、という宣言だ。そのような、自分自身が拠り所である強い自我を持った人間は、現代には少ない。リースマンの言う、「他人志向」型の人間がほとんどだ。いつも、他人がどう思うかを気にして、おどおどと振る舞うのである。


 自分が「価値有り」と思う事柄は、果たして本心からそう思っているのか。それとも他人の価値観に従っているのではないか。もしも、それが本当に自分の心からの考えなら、他人がどう言おうと、「俺は俺さ」と言えるはずだ。


 もちろん、社会の決めた価値観に従って生きるのは楽かもしれないし、安全かもしれない。しかし、人生をトータルして考えた場合、他人の価値観に従った生き方が満足を与えるかどうか、怪しいものである。まして、その「社会的価値観」が、一部の人間の利益のために作られ、維持されてきたものなら、それによって不利益を得ている人間が無数にいるはずである。要するに、社会の底辺にいる人間の不幸の土台には不公正な社会的価値観があると言うことだ。それは不幸な人々の物質的不利益の原因でもあり、精神的不利益の原因でもある。


 なぜ「足が長い人間はカッコいい」ということになっているのか。「足が短いほうがカッコいい」という考えがなぜ「正しくない」と言えるのか。それは、ただ長い間に形成された「社会的価値観」のためである。欧米人種的な体型や容貌は美しく、アフリカ人やアジア人は美しくないという価値観が、あらゆるメディアを通じて、我々の心に植え付けられてきたからである。ならば、我々「醜い人種」は、「足が短く、鼻が低く、平面的な顔のほうが美しい」という主張をしてもいいのである。金で計る価値にしても同じことであり、誰もが贅沢品に無意味な出費を渋るようになれば、企業は安くて良い品を作ることに努力するようになるだろう。学生の場合なら、「成績」というただ一つの価値観で自分を測るかぎり、その底辺にいる人間は不幸になるしかない。運動能力や芸術の才能があればまだいいが、それも無い場合はどうするか。「そんなのはみんな他人が勝手に作った価値観だ。俺には俺だけの価値がある。他人がどう言おうが関係ない」と思えばいいのである。


 


4 「I am what I am.」(俺は俺さ。)


 


 この言葉には、地面にしっかりと足をつけて生きる人間の気迫がある。


 


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「赤」とは何か

3つ目は国民に対する不信感。少数民族や共産主義者の反乱を警戒するあまり、国軍は長年、市井の人々に疑いの目を向けてきた。


これは「徽宗皇帝のブログ」に載せた記事の一節だが、政治支配層にとって共産主義というのは恐怖の対象である。だから全力を振り絞って共産主義弾圧をしてきたわけだ。
そして、「国民敵視」というのも、上層国民の共通性である。なぜなら、彼らの力(財産)は国民からの富の収奪が基盤だから、国民が彼らを敵視するだろうと恐れているからである。つまり、国民への自らの恐怖を転写したのが彼らの「国民敵視」であるわけだ。それを象徴するのが「アカ」という言葉だ。自分たちを倒す恐れのある存在はすべて「アカ」と呼ばれるだけのことで、そこには本来の共産主義とは無縁の人々も含まれるのである。
下に、清沢冽(きよし。本当はサンズイ)の「暗黒日記」の数節を載せる。最後の「右翼化した左翼だ」は笑わせる。いったい、右翼とか左翼とかの定義は何なのか。上級国民の地位を脅かす「革命」を彼らは恐れるだけで、実は右も左も関係ないのである。(右翼は基本的に現体制を守るものであるが、その守るべき対象がそれぞれ異なるわけである。226の反乱将校たちは資本家を倒すことが皇室や国民のためである、と考えていたフシがある。では、太平洋戦争時の国家官僚は左翼だったか。資本家にとって都合の悪い「国家統制」を「赤」と呼んでいたわけだ。)

(以下引用)

同君(夢人注:半沢玉城。外交時報社長)は現在を「赤」と資本家の戦いなりといい、その旨、三菱本社に行って、話したという。資本家の不満は甚大だ。小林一三氏が官僚の赤化をいうに顧みても、彼らは非常な反感を有している。

資本家側が、現時の官僚を赤と呼ぶものが多い。小林一三氏がそうであり、半沢玉城がそうだ。

今朝の新聞では、株式取引所が官営になったことを報ず。国家社会主義ますます進行す。資本家側より共産化云々の批難出でん。

実業家は全体として、現在の統制を「赤」であり、その指令によって動いていると固く信じている。

戦争の深化にしたがって「革命」的徴候を見る。すなわちそれは「赤」である。小山亮という代議士の如きはその典型だ。右翼化した左翼だ。






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イエスという男

「紙屋研究所」の記事の一部で、長いので前半のほとんどを省略する。
私が「徽宗皇帝のブログ」に載せている「革命者キリスト」に近い内容と思える或る本についての記事である。私は「イエス・キリストはキリスト教徒ではない」と言っているのだが、それは、イエス・キリスト本人の思想と、イエスの死後にキリスト教団が作り上げた「キリスト教」は大きな隔たりがあると思うからである。(特にローマ教会の「三位一体説」とか「原罪説」などはイエス自身の思想とまったく無関係のはずだ。)これは一度でも新約聖書を読んだ人間には明白な事実だと思うのだが、キリスト教社会では、論じること自体がタブーになっているような気がする。しかし、ある程度、イエス自身の思想が新約聖書のどのあたりにあるのか(まあ、イエスの発言だけをピックアップしてもかなり分かるとは思うが)、学者が研究はしているようだ。

なお、田川自身は「キリストは社会改革家ではない」という意見のようだが、明白に「宗教改革家」であるわけだから、「宗教革命家(私の言葉では「革命者」)」と言えるのではないか。

(以下引用)


田川建三『イエスという男』


 リモート読書会では田川建三『イエスという男』を読んだ。


 

イエスという男 第二版 増補改訂

イエスという男 第二版 増補改訂

  • 作者:田川 建三
  • 発売日: 2004/06/10
  • メディア: 単行本
 

 


 もちろんなんでもハイハイと言う「イエスマン」のことではなく(笑)、キリスト教の始祖とされているイエスのことである。


 どういう本か。


 イエスを神の子でありまた宗教家であるとするイメージを一方の極とすれば、他方でイエスをローマ支配と闘った社会革命家とするイメージの極があり、この両極のイメージを排して、イエス像を打ち立てようとしている。


 当時イエスが活動したパレスチナユダヤ教が支配している土地であり、政治・経済・宗教が一体となっていた。「イエスの活動はやはりユダヤ教批判を本質としていた」(p.167)とある通り、イエスは当時のユダヤ教を批判するのだが、それは、宗教が生活のこまごましたところまで支配をしていたからである。イエスはその支配に反対して、叫びをあげる。


 しかし、その支配への反対(反逆)は、宗教だけでなく、政治や経済へのおかしさへの反逆となってくる。このために、宗教批判を中心としながらも、社会経済構造への反逆ともなって現れてくる。


 他方で、支配への反対は、その支配にかわる、首尾一貫した新たな宗教や政治経済の体系を提示するわけではなかった。あくまでもイエスの反対は鋭い斬り込みをするものだが、あくまでも反対にとどまるものだった。いわば「逆説的反逆者」だったのである。


 


 イエスの言動から新たな宗教を組み立てようとした原始キリスト教団は、イエスの宗教支配への批判を、「ユダヤ教批判」へと読み替え、ユダヤ教を批判して新たな普遍的宗教を作り出したのがイエスだとする。こうしてイエスは「キリスト教の先駆者」であるという扱いを、キリスト教内部で受けていく。


 そして、イエスが行なった社会経済構造への批判は骨抜きにされて、宗教的な説話として読み替えられてしまう。


 


 田川建三は、こうしたキリスト教側のイエスの歪曲に逆らって、「イエスキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である」(p.11)という規定を行う。「歴史の先駆」とは、宗教・社会経済などが一体となった抑圧体制への批判者だったという意味であろう。


 しかし、イエスが社会革命家であったという議論にも田川建三は与しない。


 イエスをローマ支配に反対した社会革命家と描くのは、無理がありすぎるというのである。


 


 イエスキリスト教の宗教家とみなす考えも、社会革命家として描く考えも、どちらもイエスを無矛盾の、論理一貫した、体系的考えの持ち主として前提しすぎていると田川は批判する。1世紀の思想が、あるいは人間の思想がそもそもそんな無矛盾の、論理一貫した、体系的なものであるはずがなく、後からこじつけるのはやめろ、といいたのだ。


(中略)

ぼくの中のキリスト教像が変わった

 ぼくが読んで一番興味深かった点は、実は本書の主張よりももっとずっと手前のところ。


 え、そんな初歩的なところ? と驚かないでほしい…。


 田川によれば、聖書学ではイエスが言った言葉はどれで、どの部分が後から加わったか、福音書を書いたマルコとかマタイが付け加えたのか、ということがまあだいたいわかるんだよ、ということだった。また、福音書を書いた人によって、当時の教団が主張していたことの何を強調しようとしたかもわかる。


 イエスの言ったことが断片的にまずある。


 次にマルコが20〜30年後にそれを福音書にする。またQ資料(現在は失われている)というイエス語録ができる。


 50年くらいしてから、Q資料からマタイ福音書とルカ福音書ができる。


 ルカ福音書は1人の著作者による月並みなイエス観。


 マタイ福音書ギリシア語を話すユダヤ人の教会の学派的作業。


 こういう潤色を逆に遡って剥いでいくと、最後に「客観的にイエスの発言を確定しうる」(p.29)。「ある程度以上に本格的に福音書研究にたずさわった学者たちの間では、どの伝承がイエス自身にさかのぼるかという点では、非常に多く一致している」(同)。


 ただ、言葉は残っても、それがどんなシチュエーションで発せられたかは、記録者の色が出ているので、解釈が違ってくる。


 こうして見た時に、田川は、イエスは「愛」などという言葉はほとんど使っておらず、マタイやルカがあとで付け加えたんだと言う。同じく「神の国」とか「原罪」とかいった、ぼくらがキリスト教の根本概念だと思っていることも福音書で付け加えられたものだとする。


 これが本当か嘘かはわからない。


 だけど、こうした田川の聖書学についての話を聞いていると、なんとなく「イエスのもともと言ったことを、20年後、50年後の人たちや教団が、ある種の意図をもって再解釈したり、教義体系に組み直したんだな」というイメージができてくる。


 ぼくはキリスト教というのは、聖書を中心に教義や解釈がはじめからわりとしっかりしていて、非常に細かいところを学派的に争っているのかと思っていたのだけど、田川のいうようなイメージでとらえると、イエスの活動と、その後の福音書を書いた人たちや初期の教団との間にはだいぶ溝があって、むしろ福音書や初期教団のプリズムによって、イエスの言動、あるいは「キリスト教」を見させられているんだなと感じた。


 仏教では、シャカがそもそもどんなことを言ったのか、何を考えたのかということは、『ブッダのことば』のような本で読むことはできる。しかし、もはや現代日本仏教徒である日本人が「新約聖書」のような形で手にすることはない。


 

 


 「大乗非仏」説のように、日本に伝わった仏教が相当大きな解釈の変更を受けたことに似ていると感じた。日本で最大の信者を誇る浄土真宗や浄土宗など浄土系の仏教は、“個人が真理に覚醒して精神をコントロールする”というもともとのシャカの教えの姿(一種の無神論である)からかけ離れて、「阿弥陀如来」という一種の神様にひたすら祈るという、キリスト教イスラム教に似た一神教の姿に変わり果ててしまった。


 キリスト教にそういうイメージはなかったのだが、田川の本を読むと同じような変容を遂げているのだという感想を持った。


 まあ、改めて考えてみると、『新約聖書』についてイエスの言行録+伝記とも言える「福音書」だけでついついぼくのようなシロートはイメージしてしまうんだけど、実際には手紙(書簡)類がいっぱい入っていて、例えば「コリント人への手紙」を読むと初期教団が分裂騒ぎを起こし、それに対してパウロが「お前らなあ…」とモノを言っている中身になっている。つまりイエスではなくパウロの思想に基づいて書かれていることになる。


 法然の有名な「一枚起請文」も、自分が死んだ後、教義をめぐる分裂が起きるんじゃないかという懸念をもって、「いやー、ひたすら念仏を唱えるっていうのが根本であって、それ以外になんか秘儀みたいなものはないよ」という法然の教え(浄土宗)のエッセンスを書いている。でもそれはシャカの教えとはもはや何の関係もない。それって、法然版の「コリント人への手紙」じゃないのか、と思う。


 


 そんなふうに、やっぱりキリスト教といえども、イエスの言動とは実はそれほど近い存在ではなく(田川はむしろ正反対だとさえ考えている)、のちの教団による解釈、その積み重ねで宗教ができているんだなと思い至ったことが、ぼくにとっての本書の収穫であった。


 

 


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