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宗教と我欲

「神戸だいすき」ブログ記事の一部である。
神戸だいすきさんの我の強さ(これを沖縄方言では「ワンカラワンカラ」(我から我から、俺から俺から)と呼ぶが)は、彼女の文章を読んでいれば自ずと分かるし、私はこういうキャラクターが大の苦手なのだが、成功者には多いタイプだろう。しかし、それが自分の欠点でもあることを神戸だいすきさんは分かっているようだ。そして、「宗教者こそ欲が深い」というのは面白い視点である。ただし、これはその宗教の創始者より、その末流の宗教組織の団員に多い、という話ではないか。また、新興宗教だと、その組織自体がカネ儲け手段になっていることも多いだろう。
まあ、個人的に何かを信じるのと、何かの教団で活動をするのは別の話だろうが、「神仏の力を借りて、自分の欲望を実現したいという人格」というのは、確かに非宗教者以上の我欲の強さだろう。また、無宗教の他人まで自分の信じる宗教に強引に勧誘する宗教組織もある。表面では、「それが相手を救う道だ」ということだろうが、迷惑な話である。それが仏教なら「ほっとけ(仏)」だww ただし、「般若心経」を愛好するという点では私も私なりの仏教徒なのである。新約聖書や、旧約の伝道の書や雅歌や箴言も好きだ。知恵の言葉は、宗教であれ何であれ人生の指針になる。

(以下引用)


それと、もう一つの真理は、なかなか受け入れがたいものだったけど
「宗教をやるひとこそ、一般の人以上に欲が深い」

これは、先輩が教えてくれた。
「なにか、自分に大幸運が舞い込んだら、軽々しく人に話してはいけません。妬みを買います。
まして、教団内での抜擢なんかは、同朋に話してはいけません。
神仏まで、つかって自分の願をかなえたいと考える人間は、宗教にみむきもしな人たちより、はるかに欲が深い。ゆめゆめ油断しないこと」

最初は、驚いたよ。でも、これは真実。残念ながら真実。

強欲でなければ「神仏」まで、私物化しようとは、考えない。触らぬ神に祟りなし。

う~ん。先輩は、そういって「己の我欲を、清めること、どこまでいっても、自分がかわいいその心を清めること」を、強調したのだけど。

なかなかね、己を顧みて、己の非を清めるのは、並大抵ではない。

もう、ずっと前だけど、何年も願いがかなわないのは、なぜだろうと(実際は、己が強欲だっただけなんだけど)考えながら、修行に向かっていたのね。

駅で乗り継ぎの時、人にぶつかりそうになりながら、隙間を縫って先を急ぎ、我勝ちに、改札口をすり抜けながら

「はっと、気づいた」

私・・・じぶんさえよかったら、よいと考えている・・・・
私、自分が一番でなければ、我慢ができない・・・
私・・・ほかの人を押しのけて、前に出たい。


ああああ~これじゃあ、悪因縁が切れないのも、当たり前だ。私って「我」の塊じゃないか!!


どひゃ~どうしよう・・・・おろおろ考える。

「そうだ、気が付いたのだから、これから、”どうぞお先に”と、周囲の人々に譲ることにしよう!!」

おお!よい、思い付きだ!!そうだ、そうだったんだ。


それから、改札口の前では、一歩下がって、譲る。どこでも、かしこでも、譲る。

「え~!私って、よいこじゃん!」段々得意になる。

こんな立派なことに気づいて、それを実践している私ってステキ!

お寺に到着したころには、得意満面。

今日こそは、ほめてもらえると確信する。

あの日のことは、生涯忘れないよ。

私は、修行の場で「どうぞお先に、どうぞお先に」と、胸の中で唱え続けて、ほめてもらえると思っていた。

左から一人一人の修行を指導する霊能者が、近づいてくる。

さあ、次が私の番だ!

「どうぞお先に。どうぞお先に、これから、私は、皆に譲ります」と、熱心に祈る。


瞬間、霊能者は踵を返して、もと来た方向に戻っていった。

「え?私が、先やのに!」瞬間、のど元に「私の方が先や」という言葉が、登ってきた。

霊能者は一言も、発さなかったけど、

私には、神仏の声が聞こえた。

「あなたの”どうぞお先に”は、口先だけのことですよ。」

私は、その時、新約聖書の一説を思い出したよ。
「私は、この人を知りません。」
「私は、この人を知りません、」
「私は、この人と、関係ありません」

ペテロが3回否んだとき

「コケコッコー」と、一番鶏が鳴いた。

「お前は、一番鶏が鳴く前に、3度、私を否むであろう」という、キリストの言葉を思い出して、ペテロは激しく泣いた。


ペテロは、鶏の声を聴くまで、自分は、忠実で清廉潔白な信者だと信じていたのです。

でも、その時、己の罪に気づいた。自分では、キリストに忠実なつもりだった。

でも、自分は、ただ、命が惜しくて主人を裏切る汚い人間であることを知ったのです。


私もあの時、己の汚さを認めた。

誰よりも、私は、欲深い。欲深いから、神仏まで利用して自分の欲を達成しようとしている。自分は、そういう人間だった。

ある意味、あの日は、私の修行の原点だったかもしれません。

私が一番、私はこうしたい…欲が強ければこそ、前に出て、どんな苦しみにも耐える。
でも、これは、反面、自分さえよければ、他人なんか、どうでもいいという冷酷な面を隠している。

生涯かけても、この強欲を消すことはできないだろうけど、生涯、その自分を正しく見つめることはできる。

一番鶏が時を告げるごと、私は、自分の悪を思い出し、ペテロと一緒に泣くのです。

ローマ法王庁聖ペテロ教会。

ペテロの名前をかたりながら、いったい、何万回キリストをうらぎったことか?!

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社会改革の契機としての浄土教

私は日本仏教の内容についてまったく無知なので、無数の宗派の違いもまったく分からない。せいぜいが、本尊とか呼ばれる仏(この「仏」も私にはよく分からない。本来は悟りに達した人間が仏で、どんな俗人でも仏になる可能性を持っていると思うのだが、阿弥陀仏とか大日如来とかいうのは何なのか、が分からない。)の違いや、拠り所とするお経が違う、という程度の理解で、宗派ごとの「最大の相違点」つまり、この宗派とあの宗派はまったく相容れないから別の宗派を立てた、という相違点がまったく分からないのである。特に浄土宗と浄土真宗の違い、日蓮宗と法華宗と創価学会の違いなど、まったく分からない。まあ、創価学会などは宗教というより一種の政治組織だろう、という気はする。それでも「教義」はあるだろうから、他宗との教義の根本的相違点は何なのか、そこが分からないのである。
つまり、阿弥陀仏とか大日如来とかいった「拝む対象」は、単なる象徴で、その違いは問題ではない、という立場に立てば、それぞれの「御経」、つまり「中心思想」の違いが問題になると思うのだが、それは宗派を分けて争うほどの違いなのだろうか。同じ宗派ですら東本願寺と西本願寺が違うなら、何がいったい違うのか。まさにカオスである。それで日本に仏教が生き残っていること自体が不思議なほどだ。まあ、私は「仏教は『般若心経』だけでいい」という思想なので、どの宗派の思想的闘争も「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」としか思わないのだが。

とりえあず、前に載せた浄土教についての「革命的問題提起」を再掲載する。赤字にしたのは、浄土教の「通俗的理解」である、と筆者はしている。だが、それが巨大な影響力を持っていると思うので赤字にした。

しかし、衆生が阿弥陀仏への〈信〉を「自然」の生成への内在として実践し、その必然を留保なく肯定するとき、浄土教は神話的世界から脱却し、「自然」の論理と倫理を説くすぐれて現実的な教えへと変貌を遂げる。

上に引用した部分が私が理解できない部分であるが、考察はまた改めてやりたい。要するに「自念の論理と倫理」が具体的にどういうものかが分からないのである。

(以下引用)色字は酔生夢人による強調。



現代の日本社会における浄土教についての一般的理解がどのようなものであるかは、容易にまとめることができる。浄土教とは西方極楽浄土への「往生」を説く大乗仏教の一形態であり、死後にこの現実世界とは隔絶した彼岸に往き生まれることを教えの中心とし、そのための手段として念仏を位置づけ、それを称える人間を阿弥陀仏という同じく現実世界には不在の超越的存在が摂取しその慈悲深い心で浄福を授けてくれると考える、そんな宗教であるというのが広く共有されている図式であるだろう。今日の世俗化社会にあって、それは端的に神話的世界観の表現であり、それを前にして問われるのはその非―現実的な物語を信ずるか信じないかという選択だけであると言ってよい。




だが、そのような理解に立つとき、私たちは浄土の教えをたんなる精神的ないし心的領域における救済論に矮小化することになる。なぜなら、そのとき私たちは近代的な理性の範疇と前近代的な説話の範疇とを区別したうえで、後者をそれが想像界にもたらす平安と慰めにおいてのみ肯定し顕揚していることになるからだ。そして、なるほど現代社会が宗教を許容するのは、その効果が精神的―想像的なものであるかぎりにおいてだと言える。すなわち、宗教が現実的な力をもつことは現代市民社会において望ましいことではなく、宗教者の側がその教えをみずから無力化することと社会の側がその教えの無力さを前提とすることが共犯関係にあり、その帰結として宗教の無害な安全圏への囲い込みが生じているというのが今日の状況である。宗教が現実的な力をもつとき、それは――宗教的原理主義に対する社会の警戒に現れているように――危険だと見なされるのである。




しかし私たちは、このような区別、このような境界画定に甘んじていてよいのか。否、法然が「凡夫」往生を約束したとき、親鸞が「屠沽の下類」との連帯を宣言したとき、そして一遍が「他力称名に帰しぬれば、自他彼此の人我なし」と断言したとき、それらの言葉が社会の現実を見据えたものであり、そのヒエラルキーや差別や搾取の諸構造を打破する根本的変革の意志に貫かれていたことを忘れるべきではない。この偉大な宗教家たちにとって、その〈信〉は社会秩序とその常識、その規範化する通念に抗う闘い以外のものではなかった。だが、そうだとすれば、現代の私たちが打破すべき常識・通念はどこにあり、どのような構造をしているか。




超越への欲望とそれに起因する人間中心主義を解体すること――最重要の賭札はそこにある。そして、浄土教におけるその具体的課題は、なによりもまず阿弥陀仏を超越的〈一者〉と見なす通念的理解を突き崩すことに存する。実際、阿弥陀仏を西方十万億土の彼岸にいる存在、それもキリスト教における人格神イエスと同じような唯一の超越者と見なし、それを人間的形姿によって表象することは、今日最も広く行われており、教団としての浄土宗における公的教義さえもそのような理解を支持している。しかし、これは完全な誤謬、しかも日本浄土教をキリスト教と同じ一神教的構造をもつと人々に誤解させその教えを神話的物語に縮減する点で、きわめて大きな弊害をもたらす根本的に誤った認識である。




阿弥陀仏とはなにか。言うまでもなくそれは「無量寿」「無量光」という本来的に物質性を一切もたない「法身」であり、衆生済度のために時と場所に「応」じて仮の身体となって現れる「応身」、さらに仏となるための果てしない修行を積んだ結果「報」れて現れる「報身」とは、いずれも衆生の理解を容易にするための方便に過ぎない。この点を明確化すべく錬成されたのが、法然・親鸞・一遍における「自然(じねん)」概念である。




「自然」とはなにか。それはスピノザが「神あるいは自然(しぜん)」というテーゼにおいて示した「能産的自然」にきわめて近いなにかである。すなわちキリスト教における神が、最高度の知性と自由な意志においてあらゆる産出の選択を可能性としてもつ超越者であるとすれば、スピノザ的「神」はまったく反対に、事物のそれぞれに変様し、様態化する「内在的原因」であり、それはあらゆるものを必然という様相において産出する。そしてそれゆえに、私たち人間存在にできるのは、ただその「自然」の生成に内在することだけであり、その必然を肯定することだけである。法然のあとを承けて親鸞が「自然(じねん)」とは「おのづから」「しからしむ」はたらき、すなわち「行者のはからひ」の外で作動する自律的な生成のプロセスだと述べるとき、それはまさにスピノザ的「自然(しぜん)」の原理を指していると言ってよい。「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり」と言うとき親鸞は、阿弥陀仏がいかなる擬人化される存在でもないことをはっきり認識している。すなわち、「自然」である阿弥陀仏とは、形相なき力能にほかならないのである。




そのような「かたち」なき生成する力として認識し直された阿弥陀仏は、したがって、浄土教における〈信〉のあり方そのものに変更を迫り、私たち衆生に現実を変革する力を与え返してくれるだろう。阿弥陀仏を超越的〈一者〉として表象し、その疑似人格的意志によって救われたいと欲望するかぎり、浄土教は神話的説話体系にとどまり、その救いの力はどこまでも精神的―心的な慰藉であるほかない。




しかし、衆生が阿弥陀仏への〈信〉を「自然」の生成への内在として実践し、その必然を留保なく肯定するとき、浄土教は神話的世界から脱却し、「自然」の論理と倫理を説くすぐれて現実的な教えへと変貌を遂げる。実際、阿弥陀仏がその仮定され捏造された超越的意志によって衆生を救うという論理は、衆生がみずからの超越への欲望を阿弥陀仏に投影し、阿弥陀仏をみずからの似姿として理解してしまうことから生じる妄念に過ぎず、それは衆生を人間中心主義的なイデオロギーの内部に閉じ込め続けるだろう。そのイデオロギーの最も深刻な現れが、今日の世界における自然環境破壊であることは言うまでもない。「自然(じねん)」=「自然(しぜん)」から超越してあり、そのすべてを対象化し操作し利用し続けることが可能だと信ずる傲慢――その典型が、たとえば「持続可能な開発目標SDGs」という空疎なスローガンである。




しかし、この妄念から目覚めるとき、衆生はまったく新たな認識を獲得し、まったく新たな世界を生き始めることができる。




たとえば「浄土」――それはもはや、はるか彼岸に位置する実在性を欠いた幻想の領土ではない。そうではなくそれは、阿弥陀仏の大慈悲の力が貫徹しているすべての実在の場、衆生が称名念仏の声とともに生成変化していくすべての内在性の平面となるだろう。




たとえば「往生」――それはもはや、死の瞬間に来迎する阿弥陀仏によって摂取され来世における安楽を約束されることではない。そうではなくそれは、衆生がこの世界において念仏を称えることで阿弥陀仏の「本願」の構造にほかならない閉じざる未来完了の中へ身を投げ入れ、新たな誕生を繰り返しつつ、この穢土そのものを「浄土」へと生成させていくプロセスと化すだろう。いかなる超越への欲望も知らない内在性の領野に立ち現れる、この真の仏国土……。







宗教が本来的にもつ現実的な力を回復すること――ここにこそ、今日の日本浄土教の使命と課題はある。







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西洋の道徳と東洋の道徳

「シロクマの屑籠」というブログ(筆者はおそらく精神科医)から一部転載。
「21世紀の道徳」という本の書評のようなもので、全体が面白いが、長いので割愛する。なお、私は道徳や倫理は社会秩序の維持の役目(もちろん、それは極端な自由主義者には「束縛」「拘束」と思われるわけだ。しかし、道徳や倫理は人の内面しか拘束しないし、それも当人がその道徳を受け入れた場合だけである。)が大きいというのは自明の話だと思うので、「21世紀の道徳」について考察するなら、それが「強者の道徳」、つまり優れた人間にしか適用できない道徳であってはならないと思っている。万人が、というのは無理としても社会の最大多数が受け入れて自ら従う道徳が「21世紀の道徳」であるべきだろう。
たとえば傲慢と貪欲が社会全体に不幸をもたらす、ということなどは、無知無教養な人間には「教えられたことも無い」だろうし、教えても鼻でせせら笑うだろう。つまり、社会的権力においては強者であっても、それが道徳性を持たないことは多いだろうと思う。「強者の道徳」というのは、「どういう意味で強者なのか」が問題となるわけだ。

(以下引用)

たとえばこの『中世の覚醒』には、アリストテレスの再発見も含めた知の拡大にあわせて自分たちの道徳や倫理や哲学をアップデートさせていった中世の人々の活躍が記されている。私の理解では、西洋哲学はこうした知の拡大や(新世界の征服や地動説・ニュートン力学の発見なども含めた)世界の拡大にあわせて弛まずアップデートし続け、哲学と宗教が切れた(とされている)以降もアップデートを続けてきた。だから私の理解では、『21世紀の道徳』で紹介されているアップトゥデイトな書籍たちも、その正統な末裔である。
 
しかし、そうやってアップデートされてきた西洋の道徳や倫理や哲学の歩みは、統治と二人三脚の歩みでもあった。植民地支配→産業革命→ウィーン体制やベルサイユ体制→ポストコロニアリズムといった時代ごとの正当性の移り変わりの根拠の歩みでもあっただろう。時代時代に最適化された道徳や倫理や哲学は、ある部分において歯止めになりつつ、ある部分において大義名分となって統治の片棒を担いできた。今日でもそのはずだし、ポリティカルコレクトネスの周囲で起こっている政治闘争もまた、その統治を巡る実践的闘争だと私は理解している。
 
そういう意味において、あれらは絶対に虚学でも虚業でもない。
欧米を、いや、世界を主導し統治する、統治者の営みの一端ではなかったか。
 
こうした歴史的経緯を振り返るにつけても、いや、西洋以外でも道徳や倫理や哲学が生臭く動員されてきたことを思い出すにつけても、道徳や倫理や哲学を語るとは、政治的なことであり、統治にコミットすることでもある。高尚であるがゆえに、なまぐさによって利用され、時にはなまぐさを利用することすらある、そういう間柄であると私は思い込んでいる。マキャベリの政治哲学ほど露骨でなくてもだ。
  
ベンジャミンさんの語る道徳や倫理や哲学は、強者のソレであるのだけど、それと不可分である統治とののっぴきならない関係が、同書には記されていない。それが、意識されたうえで記されていないのか、それとも無自覚のまま記されていないのか、一読者である私にはわからない。ついでに疑問を書いてみると、アメリカやヨーロッパでいまどきの道徳や倫理や哲学を議論している人たちは、自分たちの議論が統治と根深く結びついた、そういう意味で実践的な営為であり、なまぐさであることをどこまで理解し、どこまで自己言及しているのだろうか? 理解はしているけれども言及はしないのが作法なのか、それとも正真正銘の無自覚なのか、誰か教えてほしい。
 
でもって、アメリカやヨーロッパに出自を持たず、そうした統治の言説を拝聴している後進世界の人間のなかには、そのあたりの自覚があるのか無いのか、知ったうえで頬かむりしているのかそうでないのか、知りたい人間が時々いるんじゃないだろうか。
 
と同時に、マインドの水準ではベンジャミンさんの考えを概ね肯定しながら、ソウルの水準では大乗仏教とアニミズムに根ざしている東洋人としての私は、欧米に決して届かない悔しさをも思い出す。
 
道徳や倫理や哲学を語り、また統治と結び付けてきたのは西洋世界だけではない。
 
インドや中国、日本や南米のおけるそれらも、統治とのっぴきならない関係を結んできた。たとえそれが、キリスト教と西洋哲学がたもとを分かった頃と同等の発展段階*2に至らなかったとしてもである。 
 
では、インド伝来のウパニシャッド哲学の潮流がギリシア哲学やスコラ哲学の潮流に伍し得たか? たぶんノー。
では、天台宗や曹洞宗や浄土真宗で語られていたことが、今日の日本の統治を支えているか? たぶんノー。
 
大昔に、仏教の僧侶が「西洋哲学が発見してきたことは唯識や俱舎がずっと前に通過したことである」と述べたのを聞いて、そうだそうだと思っていた時期があった。けれども今はそんなにイノセントにはなれない。たとえば唯識は構造主義に似ているかもしれないが現代の統治のコンテキストに結びつけられるものではない。浄土真宗とプロテスタントについても同様である。
 
唯識や浄土真宗が現代社会の統治の実践と結びついた、いわば21世紀の哲学の一部として活きているかといったら、私は死んでいると思う。控えめに言っても、西洋哲学ほどには生きていないし、西洋哲学ほどにはワールドワイドな統治にかかわるイシューとはみなされていない。
 
欧米世界の動物愛護についてもそうである。少し古い本だが、『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』という書籍のなかで、ヨーロッパに渡った日本の歴史家がこんなことを書いている。
 


 
 かれらはしばしば、日本人は動物に残酷であると非難する。竹山道雄が、「日本人でも小鳥ぐらいなら頭からかじる」といって、反対に残酷だと逆襲されているのも、その一例である。
 このような相違は、「残酷」という言葉の意味・内容が、日本人とヨーロッパ人ではまるでちがうからである。動物愛護というと、日本人は、ともすれば、動物を人間と同じように扱い、動物を絶対に殺さないことだ、と考えやすい。なかには菜食主義を動物愛護の極致だと主張したりする人もたくさんある。
 欧米諸国の動物愛護運動は、そうではない。そこでは動物を殺すこと自体はけっして残酷ではない。残酷なのは不必要な苦痛をあたえることである。
 (中略)
 事実、ヨーロッパ人なら、飼犬などの面倒をみきれなくなると、あっさりと殺してしまう。しかし、日本人はちがう。殺すのは残酷だと考え、だれかが拾ってくれるのをあてにして、生かしたまま捨てる。その結果は野犬の増加である。ヨーロッパ人にはこれがわからないという。かれらにとって、飼犬を野犬にするぐらい残酷なことはないのである。


 『肉食の思想』は20世紀に書かれた書籍であり、ヴィーガニズムが日本にやって来る前の書籍である点に留意していただきたい。しかし、ここに記されたヨーロッパの動物愛護は、たとえば日本人になじみ深い(大乗仏教の)慈悲の考え方とは根本的に異なっているし、ヨーロッパの食文化や生活とコンテキストを共有している。その後継であるヴィーガニズムもまた、同様にコンテキストを共有しているだろう。表向き、ヴィーガニズムが精進料理や慈悲に似ているとしても、それは似て非なるものだし、欧米に格別の関心を持たない日本人には容易に飲み込める思想ではないはずである。少なくとも私は、自分のなかにある慈悲や菩薩道の考え方とヴィーガニズムの間に、重ならない何かをいつも予感している。
 
そしてヴィーガニズムがワールドワイドになり得るとしても、慈悲や菩薩道がワールドワイドになり得るとは到底思えないのだ。そしてこれらは、大乗仏教の衰退とともに(思想として)化石になっていくのだろうと悲観する。
 

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「自由」論 1

「自由」について考察しようと思うが、先に「自由意志」について考えてみる。

ドストエフスキーの「死の家の記録」の中にこういう一節がある。

『囚人』という言葉の意味は自由意志のない人間ということである。

では、「自由意志」とは何か。それは「意志の自由」である。「自由に意志することができる」ということだ。それは、「思考の自由」とは別だ。ここで「意思」と「意志」の違いが問題になる。
「自由に意思すること」は囚人にでもできるが、「自由に意志すること」は囚人には不可能だ。それは、「意志」とは、「何かをしようとすること」だからだ。当然、あらゆる行動が命令と監視の下にある囚人には「自由意志」はほとんど許されない。
これは、何かに似ていないか。あらゆる行動が命令と監視の下にある生活。言うまでもなく、「学校生活」だ。あるいは「軍隊生活」だ。あるいは、会社などもそれに近い。ただ、その中で許可される「自由」や「自由意志」の分量が違うだけである。
つまり、「集団や組織の中に在ること」は必然的に何かの拘束を生じるのである。その拘束の度合いによって「奴隷度」あるいは「囚人度」が異なるわけである。

さて、では「自由」であれば即座に幸福になるか、と言えば、当然そんなことはありえない。集団や組織に属することで得られる「目的物」もあるのである。つまり、「意志の目標」が何であるかが問題だ。「自由」自体が目標なら、話はとても簡単だ。「完全に独り」になればいい。「集団や組織に属すること」が必然的に拘束を生むのだから、世捨て人や隠者になれば自由になる。しかし、そのような自由では「物質的幸福」はほとんど不可能だろう。世界に貨幣が生まれて以来、物質的幸福はカネで得るものと決まっている。あるいは権力によって得ることも多いだろう。ヤクザが市民を脅して何かを巻き上げるなどである。
つまり、この世界では「カネ」と「権力」が「自由獲得の手段」だと言える。「死の家の記録」の別の場所で「貨幣とは鋳造された自由である」と言っているのはそういうことだろう。「権力」に関して言えば、監獄の所長や学校の校長は、囚人や生徒には無い自由を満喫できるわけである。
まあ、権力に従うのも他人に権力をふるうのも嫌いだ、という私のような人間は世捨て人や隠者になるのが一番だろうが、それでも最低限のカネは必要であるわけだ。

「自由」についてはまだまだ考察する必要があるだろうが、いったんここで切り上げる。





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過剰適応

「はてな匿名ダイアリー」記事で、これは実体験談だと思う。細部のリアリティがある。
「勉強への過剰適応」という言葉はまさに言い得て妙である。対人関係では、東大生より、高校で遊びまくったか、あるいは部活で運動ばかりしていたFラン大学生の方がはるかに上なのではないか。社会に出て必要な能力はもちろん学力ではなく対人能力だ。
まあ、天才というのも、或る種の過剰適応だろうが、その人生が凡人の人生より幸福だった例は少ないようだ。もちろん、創造の喜びは日常生活の幸福に勝る、という考えも可能だろうが。

(以下引用)

2018-03-14

東大学生生活は本当に病むから気をつけたほうがいい

東京藝術大学の学生生活は本当に病むから気をつけた方がいいを読んで思うところがあったので書きます


皆さんは東京大学を知っていますか?知っていますよね。


百数十万人の同い年に生まれ子供のうち、3000人くらいしか入れない大学です。


そこに入るには、日本トップクラス学力を要するといわれています


芸術よりも、お勉強の道を選ぶ人は多いので、まあ、入学するには最難関の大学の一つですね。



東大に入ると、せっかく東大に入ったのに自信がなくなるのは、当たり前です。


なんせ、駿台模試とか東大オープンとかで、自分の点数(440点満点で220点くらい)から見ると理解困難な点数(330点とか)を取っていた秀才リアルに目の前にいるのです。


人の学力をけなすような低劣な人格だったらまだ溜飲が下がるってもんですが、そういうのに限っていいやつなんだな。


そういう秀才を目の前にして、ひがんで屈折してしま自分の、人格的な弱さと、その根底にある学力の弱さに涙した東大一年生は何百人もいるはずです。


誰もそんな恥ずかしいことは口にしませんが、そうやって自分のせいで人間不信になって、大学に来れなくなったり第二外国語をさぼって放校になる駒場生は何十人もいます



それでも、学力という、偏差値という唯一の物差しを信じて人生18年生きてきた東大生は、病むほどに勉強します。


だって進振りがあるんだもん。教養の平均点を偏差値に置き換え、平均点の優劣で人生が決まると思って勉強します。


病むほどに点数は上がります。病むほど勉強しないと、同級生秀才たちには太刀打ちできないのです。


東北の某県で無敵を知られた秀才君も、九州男子を蹴散らし英語無敵を謳われた彼女も、ここではただの一東大生。


そんなレベルは、男女御三家(武蔵を除く)やツッコマには掃いて捨てるほどいるのです。



田舎から出てきた東大生は、東京というものに強い憧れを抱いていたんですね。


特にテレビで見る東京はとてもお洒落キラキラしていて・・・


クリームがいっぱいに乗ったパンケーキ、お洒落ブティックとかドラマで見る東京恋愛に、ただ漠然といいなぁ素敵だなぁと胸にトキメキを馳せておりました。


現実は、そんなキラキラしていません。


実験し大教室に通う毎日と、倒しても倒しても出てくる自分より賢い同級生の前にひれ伏す毎日を過ごします。


東京という街は、そういうところなんですよね。


実際、東京大学に対しても大きな憧れを抱いていました。その理由はやはり「日本トップ国立大学から」というのがあったと思います


そういう理由大学にきてしまったので、憧れの理想現実の差に心を痛めました。


日本トップの授業があるわけでは無いし、合格たからと言って自分学力日本トップになるわけでは無かったからです。


大切なのは自分が将来何になりたいかであって、東大は通過点でしかないということを身にしみて感じています



これを書いているのは、40代おっさんです。


この年になるといろいろなものを見てきました。


キラキラしていた秀才が、国家公務員試験を上位で合格し、某省で組織防衛に身も心もさいなまれ書類の書き換えの何が悪いと言い放つ姿も。


誰もがかなわないと思った研究者が、研究に疲れ果てたタイミングで引っ掛かった男に身も心も搾取され、売春でその彼に貢ぐようになってしまった姿も。


勉強ができたから、当然のように理学部物理学科に進学しあるいは司法試験に受かったのに、それらの職が本来求める対人調整能力がなかったがゆえに、人生で唯一得意な受験勉強で食ってくために予備校講師になった姿も。


18歳の時に知り合ったキラキラした秀才が、そういう風にして、堕ちていく姿をたくさん見てきた。


きっと彼らも、キラキラして見えたけど、東大にいた四年間に何か病むことがあって、そうして社会に出たときに、単に幸せを追求することができなくて、不幸せになっていったんだと思う。



上には上がいる。


そして、一つの物差しで「上」を計ろうと思うと、全体として自分が如何にあれば幸せになれたのかということが分からなくなってしまうのだと思う。


勉強が出来過ぎたがゆえに、勉強物差し人生幸せになれると思い込まされる。


そして、自分より勉強ができる数多の秀才出会ったが故に、もっと上に行きたくて勉強して、結果、勉強への過剰適応で世の中に適応できない若者を量産する。



それが東大


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キリスト教社会主義

まあ、私はずっと前からイエス・キリストは社会主義者だ、という趣旨のことを言っていたのだが、イエスの言行を見れば、それは明白なのではないか。つまり、真面目なキリスト教徒であれば、自分がカネ儲けをするために、一般大衆を搾取し苦しめることはありえないわけで、有名な政治学者の言う「資本主義はカルヴィニズムの精神から生まれた」というのが真っ赤な嘘でなければ、「カルヴィニズムは実はキリスト教ではない」と言えるだろう。
言うまでもないが、マルキシズムは完全な無神論であって、宗教そのものを否定している。ここでも「共産主義と社会主義はイコールではない」と言えるだろう。
マルキシズムの宣伝文句である「科学的社会主義」という言葉ほど世界を毒した言葉は無い。「絶対性」を自惚れることが害悪をもたらすことは宗教でも科学でも同じことだ。つまり、他者への同情や共感の欠如とそれは近いのである。ある種の宗教や宗派が他の宗教や宗派を悪魔のように憎悪することはよく見られることだ。それを狂信と言う。マルキシズムやその運動者たちにもその狂信性が見られたのは良く知られたところだ。
だが、マルクスの、資本主義がその悪(極端なエゴイズム)のために自壊していくだろう、という予言だけは現実化しつつあるようだ。

(以下引用)

日本大百科全書(ニッポニカ)「キリスト教社会主義」の解説

キリスト教社会主義
きりすときょうしゃかいしゅぎ
Christian Socialism


キリスト教信仰思想のなかに社会主義思想をみいだし、それに基づいて資本主義の抱える社会労働問題の解決を図ろうとする思想と運動の総称。ただし資本主義の矛盾を批判し、教会事業の一環として労働組合や協同組合を設立するなどして社会労働問題の独自の解決を志向しているカトリック教会の活動は広義のキリスト教社会主義の一種とみられないことはないが、キリスト教社会主義とはいわない。したがってキリスト教社会主義は新教の国に限られている。その発端は1840年代の終わりごろイギリスで『キリスト教社会主義者Christian Socialist誌(1849創刊)を中心に、社会主義は本来キリスト教の事業であるとして、労働者の自主的闘争を否定し、労働者の啓蒙(けいもう)活動や協同組合活動を展開したモーリスキングズリー、ルッドローらの活動である。それはまもなく消滅したが、しかしスイス、オランダ、ドイツにも類似した活動が広がっていった。とりわけドイツでは、社会民主党の躍進に対抗して労働者階級への社会主義の影響を阻止するために、シュテッカーを中心とする保守的・国粋的なキリスト教社会主義や、F・ナウマンを中心とする自由主義的な福音(ふくいん)社会主義が19世紀後半に展開された。そして第一次世界大戦後ワイマール・ドイツでは、キリスト教社会主義の一つの注目すべき流れとして宗教的社会主義Religiöser Sozialismusがパウル・ティリヒを中心に主張された。それは、社会主義の宗教的根源を明らかにし、資本主義的な生産と消費の原子化された過程における人間の非人格化と物化の危険を指摘し、それを克服する神学とその実践的提言を行った。さらにそれは、社会主義を倫理課題として規定して社会主義運動への意志の倫理的根拠づけを与えたことで、受動主義に陥っていたドイツ社会民主党の活性化に寄与するところがあった。


 他方、新大陸のアメリカでも、1860年代から1890年代にかけて、プロテスタントの間でキリスト教社会主義が台頭していたが、1890年代にアメリカの神学校に留学中であった村井知至(ともよし)、安部磯雄(いそお)、片山潜(せん)がこれに影響されて帰国後、社会主義思想の研究と普及に努め、日本の創生期社会主義運動に大きな影響を与えた。しかし社会主義運動の成長とともに、キリスト教社会主義と同時に受容された社会改良主義やマルクス主義が運動の支配的潮流になるにつれて、キリスト教社会主義者は脇役(わきやく)に追いやられるか、脱落していった。その代表的な人は、上記の人々のほかに木下尚江(なおえ)、賀川豊彦(とよひこ)などである。


[安 世舟]


『古屋安雄・栗林輝夫訳『ティリッヒ著作集 第1巻 キリスト教と社会主義』(1978・白水社)』



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「所有」「所有権」の人間精神に与える影響

今、ドストエフスキーの「死の家の記録」を読んでいるが、思った以上に面白い。流刑地の監獄の記録という、辛気臭い題材で、これまでは読む気がしなかったのだが、やはりドストエフスキーが書くと面白い。
で、まだ数ページしか読んでいないのだが、その中で印象に残った言葉がある。

「(労働と)合法的な正当な所有権がなければ、人間は生活することができず、堕落して野獣と化してしまう」

という言葉だ。
また

「金(かね)は鋳造された自由である」「金(かね)がポケットの中でじゃらじゃらしていさえすれば、たとえそれを使うことはできなくても、もうなかば気持ちが安まるのである」

という言葉も印象深いが、まあ、これは特に珍しい言葉でもない。誰でも同じように感じているだろう。
で、私が考察したいのは、まずは「所有」と「所有権」の区別、という問題で、その両者が人間の精神に与える影響、ひいては「共産主義」をその面から考えてみたいということだ。
これは、日が変わってから考えよう。まずは一休みして深夜のコーヒーでも飲んでからだ。

さて、「所有」のことは政治や社会に興味のある人間なら誰でも関心があるが、実はたいていの人は「所有権」についてはあまり考えたことが無いのではないか。それは、普通の人にとっては、二本足で歩くのと同じくらい自明な権利だと思っているからだろう。だが、その所有権はどうして手に入れるかと言えば、カネによってである。まあ、これも自明だ。
では、共産主義社会では所有や所有権はどうなるかと言えば、おそらく「所有」はあるが「所有権」は無い、と見るべきだろう。所有権は個人にではなく国家に属するのである。しかし、所有する物無しでは生活は不可能だから、生活物資は分配される。あるいはカネが与えられて、それで購入する。家屋も貸与されるだろう。しかし、その家屋の所有権は国家に属するはずだ。
では、そういう社会では「合法的な所有権が無ければ、人間は生活することはできず、堕落して野獣化する」ことになるのかどうか。ここが私が考察するところだ。
「死の家の記録」はシベリアという流刑地の監獄での話だ。だから、そこの住人は最初から「堕落した野獣的な人間」である可能性が高いわけだが、それは「所有権」が無いからそうなったのだろうか。あるいは、所有権が無いことは、優れた性格の人間でも堕落した野獣的な人間にするのだろうか。(ドストエフスキーは「労働」も人間の品性を維持する大事な要件だと考えていると思われるが、その問題は今は棚上げにしておく。)
一般論として、人は自分の所有する物に愛着心を持つだろう。そして大事にするだろう。結婚という制度も男女が互いに相手を所有することだ、と考えることも可能だ。そのことと、お互いが別の人格を持つことは矛盾はしないだろう。では、自分が何も所有していない場合、人の心(精神)はどうなるか、というのが私が考察したいことだ。

仏教では物欲(所有欲)は忌避される。物欲の少ない人間ほど高級な人間だとされる、と言ってもいいのではないか。たとえば良寛などである。竜安寺の「吾、唯だ足るを知る」もそれだ。天皇だろうが将軍だろうが、仏教徒の目には俗物(俗人)としか見えないのではないか。これは初期キリスト教でも同様である。「金持ちが天国に入ることはラクダが針の穴を通るより難しい」という言葉は、人間が物欲のために信仰を疎かにすることを戒めたものだろう。まあ、それらの宗教は膨大な貧困者を慰めることで現世の秩序を維持する装置だった、と皮肉に見てもいいが、最初から問題としている「所有権が無いことは人間を堕落させる」かどうか、という疑問へのひとつの回答にはなり得るだろう。しかし、非宗教の次元では、確かに人間を堕落させそうである。なぜそうなるか、を考察してみる。

まず、「所有」とは何か、と言えば、それは「自我の拡大」だ、というのが私の考えだ。私は、「人間は利己心の動物だ」という思想だが、人間は同時に「想像力を持つ動物」でもある。つまり、利己心だけで行動したら自分や周囲にとって破滅的な結果を生むことが想像できるだけの頭脳はあるわけだ。その想像力の無い人間が犯罪者になり、また残忍な利己主義者でも時には上手く立ち回って成功者になったりする。利己心の無い人間はほとんどいないのであり、利己心自体は否定されるようなものではないが、その行き過ぎが社会を不幸にするわけだ。それが「新自由主義」だ、と言ってもいいだろう。
では、「所有とは自我の拡大だ」とはどういう意味かと言うと、裸の人間、つまり何も所有していない人間の力の範囲は周囲1メートル程度だろう。それがたとえば刀を持ち、銃を持つことで力の範囲を拡大できる。あるいは車を持つことで行動範囲を拡大できる。これが、「所有とは自我の拡大だ」という意味だ。無形のものでも、たとえば知識を持つことで自我の拡大ができる。宇宙物理学者の思考範囲は宇宙全体に及ぶし、それは宗教家でもそうだろう。
では、「所有」が限定された人間はどうなるかと言えば、当然、自分の勢力範囲が著しく限定されるわけで、その範囲以外の事柄は「考えても無駄」となる。つまり、自ら想像力を捨ててしまうわけだ。これが旧ソ連などで起こった現象(特に芸術方面の不振)だろう。想像しないということは創造もできなくなるわけである。また、「必要(要求されたこと)以上に働いても無駄」だから、労働意欲はほとんど無くなるだろう。つまり「懲罰によってしか働かない労働者」が大半になる。これはシベリアの監獄の懲役人たちの姿そのままではないか。旧ソ連の崩壊の主因は実はそこにあったのではないか。

念のために言うが、私は資本主義の異常に肥大したエゴイズムという「悪徳性」を心から批判するものであり、特にその究極の姿である新自由主義の批判者である。だが、「所有」や「所有権」の持つエネルギーを無視したら、それこそ「諸行無常」の滅びの世界になる可能性はあるだろう、と言ったまでのことである。
私自身、聖書(伝道の書)や般若心経の「空」の思想に強く惹かれる性格の人間なので、上に書いたことは自戒でもある。

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