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「所有」「所有権」の人間精神に与える影響

今、ドストエフスキーの「死の家の記録」を読んでいるが、思った以上に面白い。流刑地の監獄の記録という、辛気臭い題材で、これまでは読む気がしなかったのだが、やはりドストエフスキーが書くと面白い。
で、まだ数ページしか読んでいないのだが、その中で印象に残った言葉がある。

「(労働と)合法的な正当な所有権がなければ、人間は生活することができず、堕落して野獣と化してしまう」

という言葉だ。
また

「金(かね)は鋳造された自由である」「金(かね)がポケットの中でじゃらじゃらしていさえすれば、たとえそれを使うことはできなくても、もうなかば気持ちが安まるのである」

という言葉も印象深いが、まあ、これは特に珍しい言葉でもない。誰でも同じように感じているだろう。
で、私が考察したいのは、まずは「所有」と「所有権」の区別、という問題で、その両者が人間の精神に与える影響、ひいては「共産主義」をその面から考えてみたいということだ。
これは、日が変わってから考えよう。まずは一休みして深夜のコーヒーでも飲んでからだ。

さて、「所有」のことは政治や社会に興味のある人間なら誰でも関心があるが、実はたいていの人は「所有権」についてはあまり考えたことが無いのではないか。それは、普通の人にとっては、二本足で歩くのと同じくらい自明な権利だと思っているからだろう。だが、その所有権はどうして手に入れるかと言えば、カネによってである。まあ、これも自明だ。
では、共産主義社会では所有や所有権はどうなるかと言えば、おそらく「所有」はあるが「所有権」は無い、と見るべきだろう。所有権は個人にではなく国家に属するのである。しかし、所有する物無しでは生活は不可能だから、生活物資は分配される。あるいはカネが与えられて、それで購入する。家屋も貸与されるだろう。しかし、その家屋の所有権は国家に属するはずだ。
では、そういう社会では「合法的な所有権が無ければ、人間は生活することはできず、堕落して野獣化する」ことになるのかどうか。ここが私が考察するところだ。
「死の家の記録」はシベリアという流刑地の監獄での話だ。だから、そこの住人は最初から「堕落した野獣的な人間」である可能性が高いわけだが、それは「所有権」が無いからそうなったのだろうか。あるいは、所有権が無いことは、優れた性格の人間でも堕落した野獣的な人間にするのだろうか。(ドストエフスキーは「労働」も人間の品性を維持する大事な要件だと考えていると思われるが、その問題は今は棚上げにしておく。)
一般論として、人は自分の所有する物に愛着心を持つだろう。そして大事にするだろう。結婚という制度も男女が互いに相手を所有することだ、と考えることも可能だ。そのことと、お互いが別の人格を持つことは矛盾はしないだろう。では、自分が何も所有していない場合、人の心(精神)はどうなるか、というのが私が考察したいことだ。

仏教では物欲(所有欲)は忌避される。物欲の少ない人間ほど高級な人間だとされる、と言ってもいいのではないか。たとえば良寛などである。竜安寺の「吾、唯だ足るを知る」もそれだ。天皇だろうが将軍だろうが、仏教徒の目には俗物(俗人)としか見えないのではないか。これは初期キリスト教でも同様である。「金持ちが天国に入ることはラクダが針の穴を通るより難しい」という言葉は、人間が物欲のために信仰を疎かにすることを戒めたものだろう。まあ、それらの宗教は膨大な貧困者を慰めることで現世の秩序を維持する装置だった、と皮肉に見てもいいが、最初から問題としている「所有権が無いことは人間を堕落させる」かどうか、という疑問へのひとつの回答にはなり得るだろう。しかし、非宗教の次元では、確かに人間を堕落させそうである。なぜそうなるか、を考察してみる。

まず、「所有」とは何か、と言えば、それは「自我の拡大」だ、というのが私の考えだ。私は、「人間は利己心の動物だ」という思想だが、人間は同時に「想像力を持つ動物」でもある。つまり、利己心だけで行動したら自分や周囲にとって破滅的な結果を生むことが想像できるだけの頭脳はあるわけだ。その想像力の無い人間が犯罪者になり、また残忍な利己主義者でも時には上手く立ち回って成功者になったりする。利己心の無い人間はほとんどいないのであり、利己心自体は否定されるようなものではないが、その行き過ぎが社会を不幸にするわけだ。それが「新自由主義」だ、と言ってもいいだろう。
では、「所有とは自我の拡大だ」とはどういう意味かと言うと、裸の人間、つまり何も所有していない人間の力の範囲は周囲1メートル程度だろう。それがたとえば刀を持ち、銃を持つことで力の範囲を拡大できる。あるいは車を持つことで行動範囲を拡大できる。これが、「所有とは自我の拡大だ」という意味だ。無形のものでも、たとえば知識を持つことで自我の拡大ができる。宇宙物理学者の思考範囲は宇宙全体に及ぶし、それは宗教家でもそうだろう。
では、「所有」が限定された人間はどうなるかと言えば、当然、自分の勢力範囲が著しく限定されるわけで、その範囲以外の事柄は「考えても無駄」となる。つまり、自ら想像力を捨ててしまうわけだ。これが旧ソ連などで起こった現象(特に芸術方面の不振)だろう。想像しないということは創造もできなくなるわけである。また、「必要(要求されたこと)以上に働いても無駄」だから、労働意欲はほとんど無くなるだろう。つまり「懲罰によってしか働かない労働者」が大半になる。これはシベリアの監獄の懲役人たちの姿そのままではないか。旧ソ連の崩壊の主因は実はそこにあったのではないか。

念のために言うが、私は資本主義の異常に肥大したエゴイズムという「悪徳性」を心から批判するものであり、特にその究極の姿である新自由主義の批判者である。だが、「所有」や「所有権」の持つエネルギーを無視したら、それこそ「諸行無常」の滅びの世界になる可能性はあるだろう、と言ったまでのことである。
私自身、聖書(伝道の書)や般若心経の「空」の思想に強く惹かれる性格の人間なので、上に書いたことは自戒でもある。

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