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「存在と時間」

筒井康隆の「誰にでもわかるハイデガー」という本を市民図書館で見かけて、出来心で借りてきて少し読んだのだが、その中に引用されているハイデガーの文章が面白いので、転載する。
先に注意しておけば、この中の「現存在」とは人間を意味するらしい。そういう前提で読めば、書かれた内容は汲み取れると思うが、私が面白いと言うのは、事象を厳密に論じようという意志の下で書かれた文章が、なぜこれほど複雑怪奇な文章になるのかということだ。いや、複雑怪奇とは言っても、下の引用文自体は、論じている事柄は単純なのである。仮に、「現存在」という語を「人間」に置き換えたら、それだけで簡単に了解されるのではないか。
要するに、私は、こういう文章を書こうとする精神の在り方そのものが面白いのだろう。いわば、マルクス兄弟のグルーチョ・マルクスの言動を見るのが面白いのと同様だ。


(以下引用)強調の傍点は省略。


「現存在は、他の存在者のあいだで出来するにすぎない一つの存在者ではない。現存在が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。だが、そうだとすれば、現存在のこうした存在機構には、現存在がおのれの存在においてこの存在へと態度をとる或る存在関係をもっているということ、このことが属している。しかもこのことは、これはこれで、現存在が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解しているということにほかならない。この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在をつうじて、この存在がおのれ自身に開示されているということである。存在了解内容はそれ自身現存在の一つの存在規定性なのである。現存在が存在的に際立っているということは、現存在が存在論的に存在しているということによる」。

(夢人追記)私は、この本をここまでしか読んでいないが、私が浮遊思考のネタにしたいのはこのハイデガーの文章自体なので、この文章を解読してみる。まず、最初に書いたように、「現存在」とは人間のことだ、ということなら、上記文章はおおよそ次のように書き換えられる。


「人間は、他の存在者とのあいだで出来するにすぎないひとつの存在者ではない。人間が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身(自分自身)へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。だが、そうだとすれば、人間のこうした存在機構には、人間がおのれの存在においてこの存在(自分自身)へと態度をとる或る存在関係をもっているということ、このことが属している。しかもこのことは、これはこれで、人間が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解していることにほかならない。この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在をつうじて、この存在がおのれ自身へと開示されているということである。存在了解内容はそれ自身人間の一つの存在規定性なのである。人間が存在的に際立っているということは、人間が存在論的に存在しているということによる」。

まあ、これだけでもかなり分かりやすくなり、「成る程」と思うところもあるだろうが、疑問も出てくる。はたして、人間とはそんな高級なものか、という疑問だ。その辺のDQNも精薄もそんな大層なものか、と疑問に思うのは私だけか。
そこで、「現存在=人間」という解釈は実は間違いであった、という仮説をここで提出しておく。その根拠は、「現存在」と「(他の)存在者」が使い分けられていることだ。
要するに、現存在とは人間一般ではなく、「知的探求をする人間」要するに「哲学者」だ、というのが私の解釈である。つまり、この「存在と時間」が二十世紀最高の哲学書だとされたのは、これが哲学者の知的虚栄心をくすぐる書物だったからだ、というのが私の説であるwww

後で、その方向で上記の引用文を書き直してみる予定である。


(夢人追記2)

「哲学者は、他の存在者とのあいだで出来するにすぎないひとつの存在者ではない。哲学者が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在において自分自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。だが、そうだとすれば、哲学者のこうした存在の在り方には、哲学者がおのれの存在において自分自身へと態度をとる或る存在関係をもっているということが含まれる。しかもこのことは、哲学者が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解していることにほかならない。この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在をつうじて、この存在がおのれ自身へと開示されていることである。存在了解内容はそれ自身哲学者の一つの存在規定性なのである。哲学者が存在的に際立っているということは、哲学者が存在論的に存在しているということによる」。


念のために言うが、私はここに書かれた内容を馬鹿にしているわけではない。哲学者と書いたのは、要するに、意識的かつ論理的に考えようとする人間の意味であり、子供の中にも哲学者はいる。そして、存在了解内容がそれ自身存在規定性である、というウロボロスの蛇のような命題は魅力的だと思う。
























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女賊の金銭哲学

中国古典の「児女英雄伝」は、武田泰淳の「十三妹」の元ネタのひとつだが、主人公であるヒロインが悪党どもを、虫でも殺すように気軽に殺す描写が楽しい小説である。まあ、「キックアス」のあれみたいなものだ。
そのヒロイン、女盗賊である玉鳳の金銭哲学が、私のそれに近いので引用しておく。

なぜ金(カネ)が製造されるかと言えば、流通させるためである。つまり、「金は天下の回りもの」とはそういう意味だし、流通せず、退蔵されているカネは不要なカネであるわけだ。しかも、それが製造された時には実はその正当な所有者は存在しない。別に総理大臣や大蔵大臣に所有権があるわけではない。(銀行が信用創造で作り出すカネは現物すら存在しない。)正当な所有者が存在するとしたら、国民全員なのである。

なお、「女賊の哲学」は、武田泰淳が、客観的視点で描いた自作の「十三妹」を、反対側、つまり女賊の視点を中心に描いたもので、ふたつを合わせて読むと強烈な読後感がある。

(以下引用)


「たとえば、あなたのお金。これは家屋敷を担保にいれてお父上を救け、お上に納めようというのだから『持ち主のあるお金』よ。それから清廉潔白なお役人が、真面目にお役目にはげみ、つましくして残したお金とか、商人がコマネズミのように働いて残したお金、お百姓さんが汗水たらして残した財産、これもみんな『持ち主のあるお金』。
このほかの、例の悪徳役人が恥も外聞もなく人民の膏血をしぼって懐をこやした何万という金、またその手下の顧問とか雇い人たちが、主人がお上の金をくすねれば、自分も負けずに主人の金をくすね、そのあげく主人にまずいことでもあれば、腰にくくりつけてドロンするという、そんな金、それとも、ごろつきどもが役所と手を組んで罪もない人民からまきあげ、金の力で悪事のかぎりをつくす、そんな金、こんな金をみんな『持ち主のないお金』というのよ。
こんなお金を、あたしはいくらかずつ用立ててもらうことにしているのよ。相手が進んで出そうが出すまいがね。まあ、いってみれば、女強盗といったところかしらね」

「だいたいお金は天下の回りもの、運のあるものが神さまにかわって使っているだけなんだから、やれ人のものだ、やれ自分のものだと言ったところで、結局は誰のものでもなく、いま現にそれを本当に必要としている者が生かして使えばそれでいいのよ。生かして使いさえすれば、一万両だろうと無駄にはならないし、それが死に金だったら、一文だってやっぱし無駄づかいということ」




















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努力のコスパ

私は羽生善治は好きだし、下の言葉は正しいと思うが、子供を特定の道に進ませるのは親の意志が子供に大きな影響を与えるだろうし、その道に進むのが最善だったかどうかは分からない。成功した人間にとっては最善だろうが、失敗した人間にとっては最悪なわけで、しかもだいたいにおいてそれが当人の努力不足のためだとされるわけだ。まあ、一流のプロになる人間というのはそうした「努力の才能」を持っているのは確かだろう。「普通の人間」はもっと楽な道を選ぶわけだ。
野球というゲームの無い世界に生まれたイチローや将棋というゲームの無い世界に生まれた羽生善治が、他のゲームの世界でも一流になれた可能性は高いが、あれほどの情熱と意思を持って努力できたかどうか。つまり、レジェンドクラスにはなれなかった気がする。
まあ、「好きこそ物の上手なれ」ということだ。ただし、その反面には「下手の横好き」というのもあるwww

私は、「努力」がその本人に与える苦痛の程度というのが判断の大きな要素かな、と思う。つまり、人にとって「コスパのいい努力」と「コスパの悪い努力」があるという考えだ。当たり前の話だが、教育者や教育界、影響力の強い指導者などに、この考え方が必要なのではないか。
たとえば、イチローを無理やり棋士に育てるとか、羽生善治を無理やり野球選手に育てるような親や教育者がけっこういるような気がする。そして、(一流になった人以外)ほとんどの場合、子供当人自身は自分に何が向いているか判断できないのである。それ以前に、どのような選択肢があるのかも知らないし、その内容を実体験する機会もない。



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「努力は報われない」「修行なんて意味がない」と言う人や自己啓発本が多いですが、ボクは羽生さんの言葉が全てを物語ってると思います。




















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「暴力の快感」対「口先だけのヒューマニズム」では相撲にならない

こういう、「言葉の操作で現実を隠蔽する」偽善性を子供は無意識に見抜いたのではないか。
混血児の「ハーフ」を「ダブル」と言い換える類である。
もちろん、単に子供の本質的な残酷さや暴力性の露呈であるだけかもしれない。前に書いた、いじめられっ子がいじめる側に回って、いじめる楽しさを知った、というのも、馴致(教育、訓練、陶冶)されていない子供は本質的には野獣に近い、ということだ。(言うまでもないが、「暴力」には「言葉の暴力」も含まれる。)



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221/1000
小学生の時の全校集会で「欧米では障碍者をチャレンジャーと呼ぶ」という演説があったが
その日から罵倒目的でのチャレンジャー呼びが大流行して先生がたがチャレンジャー禁止令を出すというゲロ以下のヒューマニズムがぶちかまされていたな
常用語に波及したらどうするつもりなんだろう






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デジタル全体主義(ファシズム)社会

こういうのは、「デジタル全体主義社会」と呼ぶのがいいかと思う。
水源(物事の根っこ)が抑えられているから、そこから一人も脱出できない。
そのうち、現金が廃止されて電子マネーだけになり、銀行口座の無い人間は社会生活不可能になるだろう。
もちろん、それに文句を言う人間は「反社会的存在」として排除される。



山本貴嗣 @atsuji_yamamoto 7時間前

古い自動車ならレストアすれば走れるけど、ソフトはWindowsが新しくなると「道に乗る」ことさえできなくなるからなあ。ある意味ものすごく理不尽。



  • まあWindows親分とタッグで責めてくるしなあ;勝てないからなあ



  • 某社のデジタル作画ソフトって数年すると使えなくなったり新しいみかじめ料を払わないと使えなくなったりで、何か横暴な親分のなわばりで商売させられてる露天商(したことないけど)ってこういう感じなんだろうか、って思います。もうちょっと安心できそうな親分さんのところに行こうかなと;













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トロッコ問題の本質




こういう、「問題の本質から離れた、『気の利いた解答』」は、実は不正解だろう。
トロッコ問題の本質は、「5人(複数人)を救うために1人を犠牲にするのは正しいか」という難問を考えさせることにあり、倫理的問題なのである。何かを知っていれば解決できるという類の問題ではない。
まあ、別に「複数人対1人」にしなくても、海で遭難した時、一人しか掴まれない舟板に二人の人間が掴まった時、相手を殺して自分が助かるという、「緊急避難における殺人は許されるか」という、有名な「カルネアデスの舟板」のバリエーションである。
「トロッコ問題」も、5人が現実に知っている嫌な奴、有害な奴で、1人が自分の好きな人間なら当然、5人を轢き殺させるのが普通の人情であり、「正解」だと思うwww 悪人は存在自体が有害なのだからその存在を抹消するのは善行だろう。だが、他者への完全に正しい判定は神にしかできない。




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今話題のトロッコ問題ですが、ポイントを“中立”の状態にすればトロッコはすぐ脱線して止まり、全ての作業員を助ける事が出来ます!


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善性の自己疎外(象徴化)による無責任化

「疎外」について調べた時に読んだ、この部分(引用予定だった部分だが、引用できない。)は非常に興味深い。善性を自己の外部のもの(神)として象徴化すると、それは「自分には無関係なもの(自分の責任ではないもの)」となって疎外が進行するわけだろうか。つまり、自分の内発的な行動として善行や悪行を行うのではなく、「神の命令や掟」として行動するわけで、或る種の「無責任な行動」になるわけである。「だって、俺の意志じゃなく、神のせいだもんね」ということだ。
こういう(象徴への)責任転嫁はあらゆる組織で生じるが、それは組織の上位層にとって都合がいいだけでなく、下位の人間の「精神安定剤(あるいは麻薬)」にもなるわけである。そして、その結果として無数の善行と悪行が「無責任に」発生する。その意味では明治から昭和初期までの天皇制も宗教組織も同じだろう。


*「疎外」についてのウィキペディア記事、特にフォイエルバッハとマルクス思想の関係についての記述を引用しようとしたが、コピーすると文字化けするので引用ができない。ウィキペディアに疎外されてしまったwww





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酔生夢人
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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