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平凡こそが一番幸福

別ブログに書いた文章の一部だが、無能な人間、あるいは特別な才能の無い人間には「平凡な生活が一番幸福」だと私は思っている。死ぬほど努力して高い地位に上るのも結構だが、それで得られるのは単にカネだけであって、幸福そのものではない。カネが無くとも、野の花や日の光を見るだけで幸福なら、それに勝るものはない。
もちろん、才能のある人々の残した仕事によって世界は幸福度を増すわけだが、それは当人の幸福ではない、というのが皮肉である。極端に言えば、有能な人間の不幸(仕事優先のための家庭生活の犠牲)によって無能な人間(家庭生活優先の人間)が幸福になっている、とすら言えそうだ。

(以下引用)


私は、20代の最初のころに、有名人になること、あるいは出世することのプラスマイナスを考え、どちらもそう見えるほどのメリットはなく、デメリットは大きい、という考えに落ち着いた。
もちろん、自分にその能力が無い、という点も考慮してだが、「生活は中か中の上、そして無名人として生きる」のが理想的な人生ではないか、と結論したのである。有名人になることのデメリットは、コミュ障気味の私にはむしろ地獄だろう、と思ったわけだ。四六時中、他人の好奇の目にさらされるのが地獄でなくて何だろうか。金持ちになるのも、周囲の嫉妬を生み、詐欺師や犯罪者を呼び寄せるわけで、その中で自分の精神を守れる保証は無い。
つまり、華やかな存在はその背後に暗黒面がある、ということである。
或る意味、才能を天から与えられることすら不幸なことなのかもしれない。優れた才能の特徴は、偏執的な仕事への献身だが、それは家庭生活の犠牲の上に成り立つのである。


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ジョークの危うさ

安倍総理の例のエレベーター発言についての小田嶋師の記事の一部で、師はあれを「滑ったジョーク」だと見做しているわけだが、まあ、たぶんそうなのだろう。
しかし、下に書かれている「ジョークの考察」は、ジョークを言う側の卑しい(厭らしい)心性を見事に剔抉しており、文章でジョークを書くことの好きな私は頭を掻くしかない。(もちろん、これも「書く」と「掻く」のジョークというか、駄じゃれ。)
私の見るところでは、ジョークとは「異常性を攻撃する」のがその主たる機序であり、体の免疫システムみたいなものだ。だから、悪や偽善を攻撃するのが一番多いパターンなのだが、精神薄弱者とか身体障碍者とかいった「自分ではどうしようもない異常」を背負った人々もその攻撃の対象になることが時々ある。安倍総理が低能だからといって、それを攻撃するべきではない、ということである。攻撃すべきはその道徳的な悪の部分や下劣な品性や悪行なのである。
ドストエフスキーの『白痴』が描いたように、他人から阿呆扱いされる人間が実は無垢・無邪気であり、ほとんど聖人である場合もあるが、すべての白痴が聖人とはかぎらない。
すべての弱者が道徳的に聖人か悪党かのどちらかになるわけでもなく、悪どい弱者も聖人のような弱者もいる、という、当たり前の話だ。

(以下引用)



「悪気」や「嘲笑の意図」を云々する以前に、エレベーターを笑うジョークは、その「構造」として、エレベーターに乗って天守閣にたどりついた階段弱者を貶めたストーリーを包含せざるを得ない。その意味で、エレベーターを笑うジョークは、結局のところ「強者」による共感的な雄叫びとそんなに遠いものではない。



 「戦国の世の秋霜烈日なリアルを体現しているはずの城郭の天守閣に、足元もままならない老人や車椅子に乗った障害者が集っている絵面の滑稽さ」をもって「21世紀的なクソ甘ったれたみんなの善意で世の中を素敵な場所にしましょうね式のバリアフリー社会の偽善性」を批評せしめようとするその「オモシロ」発見の視点自体が、そのまんまホモソーシャル的ないじめの構造に根ざしているということでもある。



 すぐ上のパラグラフは言い過ぎかもしれない。



 ただ、会話の中にジョークを散りばめにかかるコミュニケーション作法が、多分に虚栄心と自己顕示欲を含んだものほしげな態度であるという程度のことは、21世紀の人間であるわれわれは、自覚しておいた方が良い。



 ジョークは、他人を動かすツールとしてそれなりの機能を発揮している一方で、時に意外な副作用をもたらす厄介な劇薬でもある。




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「正義の相対化」という不正義な行為

「ピレネー(山脈)の南には異なる正義がある」
と言ったのはパスカルだったと思うが、これが「正義の相対化」の濫觴だろうか。
正義とは社会社会によって異なる相対的なものだ、というのは基本的には正しい考えだが、普遍的な正義もあるからこそ、どの時代やどの社会でも殺人や悪質な虚偽は不正義とされるわけだ。(他民族や他国民を殺すことは正義である、という思想が古代の「戦争正当化」の思想であるが、同胞を殺すことはどの民族でもどの国民でも不正義だっただろう。そして私は、他国民や他民族を殺すことも悪である、という当たり前の思想がなぜ当たり前になっていないのか、そこに為政者による国民洗脳の恐ろしさを見ている。)
正義の相対化が行き過ぎると悪の擁護になる。今のように上級国民による悪がはびこっている社会で「正義の暴走」を云々する(たいていは上級国民擁護の側の発言である。)のは、それ自体「悪への加担」であるわけで、まあ、要するにお偉いさんの提灯持ちであり、悪の実行者(お偉いさん)以上に醜い。





正義の暴走を懸念するところまではわかる。
たしかに、独善に凝り固まった人間の集団は、ときに、おそろしい行動に出るものだからだ。
ただ、素朴な正義感の発露や、正義に沿ってものを考えることそれ自体を、非難している人たちを見ていると、予防拘禁を正当化していたゲシュタポの姿を思い出す




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「いただきます」は誰へ頭を下げているのか

自分で学校に苦情を言う気は無いし、そんな年齢の子供もいないが、これ、「信じられない苦情」か? むしろ、まともな思考だと思う。
いや、私は虚礼というのが日本社会を息苦しくし、日本人の奴隷性を作ってきたと思っているのだが、そもそも、食事の前後で挨拶をする国は日本以外でどれだけあるのだろうか。「合掌」に至っては、いったい何に祈るのか、不明である。
「いただきます」や「ご馳走様」は、コメを作ったお百姓さんへの感謝の気持ちの表明だという説もあるが、それは嘘だろう。それなら、日本の歴史で百姓階級があれほど残忍に収奪されてきたはずがない。
家族制度の強力だった封建時代には、「いただきます」は、そのご飯を家族に下賜した主体、つまり一家の主人への感謝だったはずだ。私は、一家の主人は「いただきます」と言わなかったと思っている。言えば、「誰への感謝か」という疑問が家族の心に起こり、主人への畏怖の気持ちは無くなっただろう。では、学校の給食で、その食事を下賜した主体は何か。明らかに、「いただきます」の強要は「学校への感謝の強要」だろう。で、実際には給食費を父兄は払っているわけだ。

まあ、虚礼でも礼儀は大事、と思う人が大半だろうが、身の回りの理不尽な事柄に疑問を持つのはもっと大事だ、と私は思っている。そうでないと、社会はいつまでも変わらない。



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もうこれ優勝でいいんじゃないかな(^ ^)





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集団の中の個人

「いつか電池がきれるまで」最新記事の一部だが、非常に賢い言葉だと思う。
よく、(特に宗教関係で)「周囲(社会)を変えるより自分を変えるほうが簡単だ」と言われるが、実は反対だろう。私はよく、「自分ほど信じられないものがあるか」という、『GS美神』の横島忠夫の名言を引用するが、自分で自分を知ることが難しいのは昔から言われている。知らない対象をどう変えればいいのか。また、それは可能なのか。
特に、性格というのは、その性格が自分にとって一番都合がいいからその性格を続けてきたのであり、それを簡単に変えられるはずはない。つまり、自分の性格が嫌いだ、と言う人は、自分に嘘をついている可能性が高い。いや、嫌いかもしれないが、実はその性格が心の奥では「居心地がいい」のである。
とすれば、「自分を変えるより環境を変えるほうが簡単だ」というのは明らかではないか。職場とかなど、簡単に換えられるだろう。家を引っ越すとか、離婚するとかいうのも、「自分ではなく環境を変える」ことである。まあ、自己反省が無いと、環境を代えてもまた同じ事を繰り返すだけだがwww 
もちろん、周囲への責任というものがあるから、安易に「蒸発」(あるいは責任放棄)などするべきではない。ただ、真面目すぎる人間へのアドバイスとして、それほど苦しいなら、環境を変えて生きてみてはどうか、というのはいい忠告だと思う。
自分がいないと仕事が回らない、周囲が不幸になる、というのはたぶん思い過ごしである。会社の経営者が突然死しても、会社というのは誰かがその代わりを務めてうまくやっていく。組織というのはそういうものである。自分が「かけがえのない存在である」と自惚れないほうがいい。
どんなスーパースターでも、いなくなれば、それに代わる存在はすぐに出てくる(あるいは作られる)のである。むしろ、埋もれていた人材が表に出るいい機会になったりする。



(以下引用)




 いやほんと、人間の「性格」だと思われているものの多くは、環境や状況によって変わるんですよ。
 どんなにキレやすい人でも、ハワイのビーチで寝ころびながらキレまくるのは難しい。




 「変えられるものなら、環境を変える」ほうが「自分や相手の性格や考え方を変える」よりも、ずっと、うまくいく可能性は高いのではなかろうか。





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普段は表には顕れないキチガイたち

いろいろな問題を孕んだ事件だと思うが、思いつくままに書くと、

1:自分の生死を他人(それも何の責任も持たない他人)の意見で決める行為。
2:その質問に「死ぬべき」と69%もの人間が答えたこと。
3:その回答によって本当に質問者が死んだこと。

すべて問題だが、私は、この少女のインスタ内容に興味がある。おそらく、「自分が死ぬべき理由」を幾つか挙げた上で、生きるべきか死ぬべきかを問うたのだと思うが、はたして回答者は本気で「死ぬべき」と答えたのだろうか。面白半分で、「本当に死ぬかどうか見てやれ」と「死ぬべき」に回答したような気がする。
そういう軽薄な残酷さ、というのはまさに現代の精神を象徴している気がする。かつて宮台真司が言った「自分と友人以外はみな背景」という精神性であり、SNSの中の「他人」も、生きた人間ではなく、みな背景なのである。或る種の想像力の欠如だ。
なお、この少女の行為を「愚かだ」とする意見には与しない。16歳くらいの人間は他人には分からない苦悩を抱えているほうが普通だろう。思い余って、こういう過激な「解決」を選んだのも、理解はできる。だが、そういう人間に「死ね」と言えば、簡単に死ぬ可能性はあるのである。私は、「死ぬべき」と答えた69%の人間のほうが、キチガイだと思う。現代では、そういう人間たちが正常者として日常生活を送っているのである。SNSによって、それが数的に可視化された事件だと思う





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マレーシアの16歳の少女がインスタで「私は死ぬべきか生きるべきか選んで」とアンケートを行い、69%が「死ぬべき」を選んだ後で自殺したことが判明。若者担当大臣はソーシャルメディアやメンタル・ヘルスの問題を含め、国家的問題として深刻に受け止めなければならないと表明。


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神仏が存在しない世界

これは仮説なのだが、現代社会が無道徳になったのは、全世界的に教育が普及したためではないか、という気がする。この場合は国家的な洗脳目的の「教育」ではなく、純粋に有益な知識を教える、ごく普通の教育の意味である。
要するに、教育を受けると、人間は物事の真偽が見分けられるようになる。そうすると、宗教的な物事は「エビデンス」が無いのだから、科学的ではない、つまり嘘だ、という判断になるのは当然だ。そうすると、社会の道徳性の基礎となっていた宗教心が社会から消えるのだから、その社会は当然無道徳な社会になるわけである。
言うまでもなく、大昔から社会の上層部にいる連中は宗教を単なる国家運営の道具としてしか見てこなかっただろうが、そういう連中でも心の底では神罰や仏罰を恐れてはいた。だから、表面的にではあれ、道徳性の仮面を着けていたわけである。これは偽善ではあっても、行動としては善に等しい。要するに、道徳的行為の基盤は宗教にあったということだ。これはどの社会でも同じだろう。
人間が「科学的な」見方や考え方をするようになれば、魔術や魔法を信じなくなるのは当然だ。だが、それは同時に神や仏をも信じなくなるということだろう。まあ、科学への信頼も行き過ぎると狂信、つまり一種の宗教になるわけだが、それは別の話だ。
さて、人々が神や仏を信じなくなれば、彼らはどう行動するか、と言えば、当然、「自分の利益になることが最大の行動目的になる」わけで、それは昔からそうではあるが、しかし、「自分の利益になるからと言って、他人を害する行動を取れば、その社会の鼻つまみ者になる」わけで、そこにも道徳の基盤はあった。つまり、「他者と協調して生きる」ことが必要な世の中なら、あまりにエゴイスティックな行動はできない、ということだ。
では、現代はどうか。或る人間の生きる「社会」は、分化している。たとえば家庭と職場の分離などだ。行動範囲が大きく広がってもいる。たとえば、家族の前では善良な父親が、会社経営においては冷酷極まる人間だとしても、まったく問題はないわけである。そして、当人の内面でも、これはまったく問題がない。つまり、神も仏も存在しないのだから、法的処罰さえ受けなければ、非道な行為もまったく彼には痛痒を感じさせないわけである。要するに、「良心など存在しない」人間がたくさんいる。
今の自民党のことをここで持ち出すと話が小さくなるが、あの連中のあきれるほどの厚顔さ、破廉恥ぶり、というのは、そうした「神仏が失われ、道徳の根拠が失われた時代」の産物ではないか、と思われる。

なお、私は、悪というのは、悪を行う当人を卑小な存在にし、その生をつまらないものにする、と思っているので「悪は当人にとって不利益である」と考えている。毎度言うが、この世に生まれるのに、安倍総理や麻生大臣や竹中平蔵の人生を送る、というのは最悪だろう。ゴキブリ以下の人生である。ゴキブリは彼らほどの害悪を人に与えていない。





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