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普段は表には顕れないキチガイたち

いろいろな問題を孕んだ事件だと思うが、思いつくままに書くと、

1:自分の生死を他人(それも何の責任も持たない他人)の意見で決める行為。
2:その質問に「死ぬべき」と69%もの人間が答えたこと。
3:その回答によって本当に質問者が死んだこと。

すべて問題だが、私は、この少女のインスタ内容に興味がある。おそらく、「自分が死ぬべき理由」を幾つか挙げた上で、生きるべきか死ぬべきかを問うたのだと思うが、はたして回答者は本気で「死ぬべき」と答えたのだろうか。面白半分で、「本当に死ぬかどうか見てやれ」と「死ぬべき」に回答したような気がする。
そういう軽薄な残酷さ、というのはまさに現代の精神を象徴している気がする。かつて宮台真司が言った「自分と友人以外はみな背景」という精神性であり、SNSの中の「他人」も、生きた人間ではなく、みな背景なのである。或る種の想像力の欠如だ。
なお、この少女の行為を「愚かだ」とする意見には与しない。16歳くらいの人間は他人には分からない苦悩を抱えているほうが普通だろう。思い余って、こういう過激な「解決」を選んだのも、理解はできる。だが、そういう人間に「死ね」と言えば、簡単に死ぬ可能性はあるのである。私は、「死ぬべき」と答えた69%の人間のほうが、キチガイだと思う。現代では、そういう人間たちが正常者として日常生活を送っているのである。SNSによって、それが数的に可視化された事件だと思う





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マレーシアの16歳の少女がインスタで「私は死ぬべきか生きるべきか選んで」とアンケートを行い、69%が「死ぬべき」を選んだ後で自殺したことが判明。若者担当大臣はソーシャルメディアやメンタル・ヘルスの問題を含め、国家的問題として深刻に受け止めなければならないと表明。


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神仏が存在しない世界

これは仮説なのだが、現代社会が無道徳になったのは、全世界的に教育が普及したためではないか、という気がする。この場合は国家的な洗脳目的の「教育」ではなく、純粋に有益な知識を教える、ごく普通の教育の意味である。
要するに、教育を受けると、人間は物事の真偽が見分けられるようになる。そうすると、宗教的な物事は「エビデンス」が無いのだから、科学的ではない、つまり嘘だ、という判断になるのは当然だ。そうすると、社会の道徳性の基礎となっていた宗教心が社会から消えるのだから、その社会は当然無道徳な社会になるわけである。
言うまでもなく、大昔から社会の上層部にいる連中は宗教を単なる国家運営の道具としてしか見てこなかっただろうが、そういう連中でも心の底では神罰や仏罰を恐れてはいた。だから、表面的にではあれ、道徳性の仮面を着けていたわけである。これは偽善ではあっても、行動としては善に等しい。要するに、道徳的行為の基盤は宗教にあったということだ。これはどの社会でも同じだろう。
人間が「科学的な」見方や考え方をするようになれば、魔術や魔法を信じなくなるのは当然だ。だが、それは同時に神や仏をも信じなくなるということだろう。まあ、科学への信頼も行き過ぎると狂信、つまり一種の宗教になるわけだが、それは別の話だ。
さて、人々が神や仏を信じなくなれば、彼らはどう行動するか、と言えば、当然、「自分の利益になることが最大の行動目的になる」わけで、それは昔からそうではあるが、しかし、「自分の利益になるからと言って、他人を害する行動を取れば、その社会の鼻つまみ者になる」わけで、そこにも道徳の基盤はあった。つまり、「他者と協調して生きる」ことが必要な世の中なら、あまりにエゴイスティックな行動はできない、ということだ。
では、現代はどうか。或る人間の生きる「社会」は、分化している。たとえば家庭と職場の分離などだ。行動範囲が大きく広がってもいる。たとえば、家族の前では善良な父親が、会社経営においては冷酷極まる人間だとしても、まったく問題はないわけである。そして、当人の内面でも、これはまったく問題がない。つまり、神も仏も存在しないのだから、法的処罰さえ受けなければ、非道な行為もまったく彼には痛痒を感じさせないわけである。要するに、「良心など存在しない」人間がたくさんいる。
今の自民党のことをここで持ち出すと話が小さくなるが、あの連中のあきれるほどの厚顔さ、破廉恥ぶり、というのは、そうした「神仏が失われ、道徳の根拠が失われた時代」の産物ではないか、と思われる。

なお、私は、悪というのは、悪を行う当人を卑小な存在にし、その生をつまらないものにする、と思っているので「悪は当人にとって不利益である」と考えている。毎度言うが、この世に生まれるのに、安倍総理や麻生大臣や竹中平蔵の人生を送る、というのは最悪だろう。ゴキブリ以下の人生である。ゴキブリは彼らほどの害悪を人に与えていない。





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人間関係と「一期一会」

これは、まさしく虚を突かれた感じがする。この発言者は冗談で言っているのか皮肉で言っているのか、両方なのか。頭がいい人だな、とは思うが、好きにはなれそうもない。まあ、「一期一会」という言葉の「御大層な感じ」を皮肉っているのだろうし、その気持ちは分かるが、利休の「(茶会での)その出会いを一生に一度の出会いだと思って真剣に接しなさい」という教えは、簡単に否定していいようなものだとは思わない。
もっとも、一期一会どころか、毎日会っている相手にも雑な対応をしがちなのが人間のほとんどだろうし、私もその例に漏れないどころかそれ以上に「生活などは召使に任せておけ」(つまり、実生活ではなく、夢想することが俺の人生だ)と思っているが、たまに他人と会う時には真剣に接しているつもりだ。その分、他人から受けた侮辱や自分の犯した人間関係の不始末などは、一生忘れない。つまり、これも「一期一会」ではある。
むしろ、映画やドラマなどで、人と人が簡単に喧嘩したり許し合ったりしているのが不思議で、自分なら、「こういうことを言った(した)相手を一生許さないだろうな」、と思っている。明智光秀の造反も、長年の恨みが爆発したのだ、という説に私は同感である。ドラマなどで、口喧嘩や陰湿な意地悪が延々と続くのも不思議であり、「男なら、口で罵り合うより、さっさと殴り合うか、殺し合えよ」と思うのは、私が西部劇を見て育った人間だからだろう。
ヒトラーにせよスターリンにせよ、彼らを嫌う人間が彼らをさっさと殺していれば良かっただけではないかwww 法治主義がしばしば「悪人のための盾」になるのは困ったものだ。




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「一期一会」という言葉が好きな奴とは、一度しか会わないようにしている。





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富永仲基の「真の道」

私の別ブログに載せた、富永仲基の「翁の文」(私が大雑把に現代語訳したもの)の一部だが、「神無き世界の道徳」としてはこれくらいが常識的で健全で、自分をも周囲をも社会をも幸福にする指針ではないだろうか。もちろん、江戸時代の人間の思想だから、「主君に心を尽くす」「妻を率いる」など、今ではピンと来ない部分もあるだろうが、短絡的に否定せず、外面ではなくその主旨を見るべきだろう。たとえば、「主君に尽くす」とは、組織やプロジェクトチームのリーダーを信じて部下として誠実に行動する、などの意味に取ればいい。「妻を率いる」は、男が先頭に立って家庭を守る、ということと解すればいい。それも、かつては「家庭内存在であった」女性が「社会化」した現代社会では、「なるべくなら」という程度でいいのではないか。

下に書かれたことの、私が考える最重要点だけ先に抜き出しておく。

1.物事の「当たり前」のことを務める。
2.今の仕事を生活の中心とする。
3.心をまっすぐにする。
4.身持ちを正しくする。
5.物の言い方を丁重にする。
6.ふるまいを慎む。

などである。べつに難しいことは何も書かれていないが、これを守ることができたら、実に立派で尊敬できる人間になるだろうな、と思う。そして、そういう人間がほとんどである社会は理想社会だろうな、と思う。いわば「市民的道徳」の理想だ。
まあ、市民的道徳と言うと何だか小さく見えるが、それは儒仏神などのような大仰な飾りがないからそう見えるだけで、平凡だから価値が無い、と思うこと自体が思考の出発点として間違っているのである。(儒教仏教神道の「飾り」については『翁の文』の他の部分で説明されている。)



翁の文(第六節)

それでは、その真の道の、今の世の日本で行われるべき道はどうかと言うのなら、ただ物事の当たり前のことを務め、今の仕事を本として、心をまっすぐにし、身持ちを正しくし、物の言い方を丁重にし、ふるまいを慎み、親がいる者はよくこれに仕え、(翁の自注に言う、六向拝教を見るべし、もっぱら五倫のことを説いている、また儒者もこれを重んじている、また神令にもこの五種を載せておられる、これは真の道は三教の道にも欠かせないものである印である、と。)主君がある者は、よくこれに心を尽くし、子がある者はよくこれを教え、臣下がある者はよくこれを治め、夫がある者はよくこれに従い、妻がある者はよくこれを率い、兄がある者はよくこれを敬い、弟がある者はよくこれを憐れみ、年寄りに対してはよくこれを大切にし、幼い者に対してはよくこれを慈しみ、先祖のことを忘れず、一家の親しみを疎かにせず、人と交わってはまごころからの誠意を尽くし、悪い遊び(注:遊蕩のことだろう。)をせず、優れたものを尊び、愚かな者をあなどらず、おおよそ我が身に当てはめて(考え)、悪いことを人に為さず、鋭く角々しいことをせず、僻んで頑なにならず、せかせかと余裕の無い態度をせず、怒ってもその際限を誤らず、喜んでもその守りを失わず、楽しんでもそれに淫せず(溺れず)、悲しんでも迷いに至らず、十分なことも不十分なことも、みな自分の幸福だと心を満足させ、受けてはならないことは塵ほどのものも受け取らず、与えるべき場合には国や天下でも惜しまず、衣食の良い悪いも、自分の身の程に従い、贅沢をせず、吝嗇でなく、盗まず、偽らず、色を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害の無いものを殺さず、食物を慎み、悪いものを食わず、多くは食べず、(翁の自注に言う、云々:この段の論拠が古典や経などにあることを述べているだけなので省略する。)暇な時には自分の身に利益のある芸を学び、賢くなることを務め、(翁の自注に言う、云々:同様に省略)今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食い、今の衣服を着、今の調度を用い、今の家に住み、今の風俗習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、さまざまな悪いことをせず、さまざまな良いことを行うのを真の道と言い、また今の世の日本で行われるべき道とも言うべきである。


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「条件文」での約束の罠

私は、乙武洋匡という人間は(その言行をネットで知る限り、嫌な性格の人物で)嫌いなのだが、下の発言(記事タイトル)は非常に鋭いと思う。やはり頭はいい人間で、障害者の立場から社会に発信するには得難い人物なのかもしれない。
とは言っても、下の記事(有料記事)を読んだわけではない。この一文だけで内容は想像がつく。中学生の国語の試験で使ってみたい一文だ。

Q:この一文から「頑張れば報われる社会」というメッセージに潜む罠の内容を推定して200字以内で書きなさい。


といった感じ。
もちろん、そのメッセージが「~すれば」という仮定形で書かれている「条件文」であるところに罠があるわけだろう。つまり、

「頑張れば報われる」と約束したけど、あなたは頑張っていないからダメ。

ということで、多くの人間が「報われ枠」から排除されるということだ。当然、頑張ったかどうかは上の人間が恣意的に判断を下すから、報われる人はほんの一握りになる。そして、その結果、「あいつは報われていないのだから、頑張らなかったダメな奴だ」という周囲の評価が彼ら「報われなかった人々」の上に積もっていく。これは一種の地獄かもしれない。
で、今の社会が「年功序列」から「実力主義評価」になったのも、これと同じだ。「評価」は上の人間が恣意的に行うから、上の人間へのゴマすりが上手い「陽キャラ」が高く評価されることになり、世渡りの下手な人間は下に沈んでいく。
そもそも、世の中には最初からハンディを持って生まれた人(家柄、財産などもそれだ。)がたくさんおり、そのハンディは努力で克服できないものも多い。身体的障害などはそれだろう。そういう人が「頑張る」のと普通の人が「頑張る」のとではまったく条件が違う。私は年よりで物凄い鈍足だが、乙武氏と50メートル走をしたら、多分勝てると思うwww  しかし、乙武氏が車椅子に乗っての勝負なら、たぶん負ける。さて、これは「不公平な勝負」だろうか。
要するに、勝負事というのは最初からすべてハンディがあるのであり、その中の上位者(健常者)だけを前提にして社会の「競争」を論じるのはインチキだ、ということだ。
ここでは「競争」と書いたが、この「頑張った人が報われる」は、まさしく競争を前提としているのである。「頑張った人が報われる」という言葉はその背後に「頑張らなかった人は報われないのが当然」を含意しているということだ。
まあ、競争を前提としなくても、条件文というのは、その条件内容が漠然としていたら、それで詐欺ができる。
あなたが親なら、子供にたとえば「お祖父ちゃんちでいい子にしてたらお小遣いをあげる」と約束してみたらいい。幼い子供なら、その「いい子」の定義や内容も分からないまま、必死でいい子にしたつもりになるだろう。そうして後で子供が「お小遣いは?」と言ってきたら、子供の些細なミスを取り上げて「あなた、御挨拶、ちゃんとしなかったでしょ。だからお小遣いはだ~め」とか言うわけだ。子供は確実に親への不信感を持つことになるだろう。
しかし、大の大人の会社員なども案外、この幼児と同じ行動をするのである。自慢ではないが、私もたぶん騙される。




(以下引用)

「頑張れば報われる社会」というメッセージに潜む罠。




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恋愛の「結晶作用」と自己洗脳

「混沌堂主人雑記」所載の「国際秘密力研究」の一節だが、この部分は非常に面白い。私はこれまでこの「国際秘密力研究」はほとんど読んだことが無かったのだが、それは哲学用語や仏教用語が苦手だからというのと、箇条書きの文章が好みではないからだ。
箇条書きというのは、「すべて重要な内容ですよ」と言われているようで気疲れするのである。私は、「真面目さの塊」というのが苦手なのだ。それは私のふざけた文章からも分かるだろう。他人に誤解されようが、軽蔑されようが、下手な冗談や軽口をやめることは私にはできない。それは、私の文章は、私の思考の推移を追っているだけだからである。
その思考の推移の仕方は次のような感じだ。

たとえば、昨夜、NHK交響楽団の演奏を録画してあったのを見ると、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」という曲をやっていて、ハロルドと言えば、「チャイルド・ハロルドの巡礼」、つまりバイロンだな、と連想し、それに続けて、バイロンと言えば、「一夜明けると有名になっていた」だな、と連想し、次に「目覚めると(つまり一夜明けると)毒虫になっていた」のはカフカの「変身」のグレゴール・ザムザだな、と連想し、この両極端が「一夜明けた」結果として存在するのが面白かったのだが、私の頭はこういう連想でしか機能しないから、真面目な思考を長く続けるのは非常に苦手なのである。その代わり、自分の頭の思考推移を眺めること自体が娯楽だ。

それはともかく、下の引用部分は、案外読みやすく、理解もできたと思う。で、

「つまり自分の中で繰り返す表象作用や思考作用が自分自身を洗脳していく」

というのは、まさにその通りだろうと思う。その分かりやすい例を言えば、恋愛の「結晶作用」である。もちろん、スタンダールの「恋愛論」の中心思想みたいな奴だ。要するに、誰かのことが気になって、その人のことを繰り返し考えているうちに、その人に勝手に空想上の美点をどんどんくっつけて行って、恋に落ちることだ。そうなると、相手のあばたもえくぼになるわけである。世の中には「あんな素晴らしい女性(男性)が、なぜあんなつまらない男性(女性)と恋人になったのか」ということがよくあるが、それは本当に恋をしたのではあるが、実は当の相手ではなく、自分で作り上げた幻影に恋をしているということである。
これを言い換えると、「恋愛とは自分で自分を洗脳することである」となるwww

(以下引用)


〇苦楽は正確に言うと五感=眼耳鼻舌身による色声香味触の感受について言う。意識による法(あらゆる事物・存在)の認識(表象や思考)では苦は憂、楽は喜とする。精神的な快と不快である。五感と表象・思考が同列の認識作用と捉えられている。五感と同じく表象や思考でも対象から影響を被るという洞察。

〇思想的に洗脳される場合も文章を読んだり演説や説教を聞いたりなどリアルタイムで五感で情報をキャッチした後に、表象(イメージ)や思考で脳内で繰り返し再生している間に刷り込みが深まっていくのではないだろうか。つまり自分の中で繰り返す表象作用や思考作用が自分自身を洗脳していく訳である。

〇そういう意味では「眼耳鼻舌身意・色声香味触法」として五感(眼識耳識鼻識舌識身識)と表象・思考(意識)を同列に並べたのは鋭い洞察だと言える。何を表象し、思考するかにも気を付けるべきという事だろう。例えば裏組織に踊らされている者は表象や思考=頭の中が滅茶苦茶になっているのだと思う。



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キリスト教終末の予感

「in deep」から抜粋転載。
なかなか面白い事件である。まあ、これで人死にでもあれば面白いなどとは言えないが、キリスト教そのものが世界的にオワコンなのかもしれない。
なお、キリスト教にはカトリック(私は「カソリック」と書くことが多いが、「catholic」の「tho」の発音は「ト」ではなく「ソ」に近いのではないか、と思うからだ。だが、もちろん、一般的には「カトリック」と言われている。)とプロテスタントの2大宗派があるが、簡単に言えばカトリックは「教会主義」で、プロテスタントは「聖書主義」と考えるのがいいのではないか。庶民のほとんどが文盲だった時代には、教会が聖書の知識を独占して、それを勝手に捻じ曲げた教義(「三位一体説」などはそれだろう。)を庶民に教えていたわけだ。グーテンベルクの印刷機の発明で聖書が普及すると、教会の教義への疑問が生まれ、聖書だけが本物のキリストの教えだ、という思想の人々が出てきてそれがプロテスタントとなったということだろう。
下の記事で、「教会は(教会が冒涜される)その理由がわからない」とあるが、私には、イスラム教への差別事件などから人々がイスラム教やその他の宗教について調べ、それとの比較で宗教そのものやキリスト教や教会という存在への疑問が生まれてきた結果ではないかと思う。(ネット時代の今だからこそ、疑問点や未知な事柄を簡単に調べられ、それが人類全体の知的レベルを高めている可能性がある。私自身、高校生のころより今の方が新しい事柄を知ることは多い。ゴーリキーを真似れば、本とネットが「私の大学」である。しかも、その「学習」は何の苦労も無いから、勉強という「勉め、強いる」ものではなく、むしろ娯楽である。)
なお、下の記事の中で

同組織の上級監督官は、ニューズウィークの取材に対し、これら一連の攻撃の動機は不明なことが多いが、一部、アナーキストやフェミニストグループによる反キリスト教的な暴力の問題と直面していると語る。

とあるのは、カトリックの「上級国民」たちの頭の悪さを示しているように思う。「フェミニズム」や「アナーキズム」を敵視するところが、まさに現体制から利益を得ている上級国民らしいところだ。特に、アナーキズムとは「無政府主義」であり、別にテロリストを意味していない。「政府が無くても、国民は自律的に幸福な社会を作れる」という思想である。教会への冒涜的行為とは何の関連性もない。

ついでに言っておくが、私はこの世界から宗教(あるいは神仏への信仰)が消えたらどうなるのか、危惧している。「神無き世界の道徳」を人類は打ち立てられるのか、という問題は、若いころからの私の思考課題(というか長年の宿題)なのである。




(以下引用)




CATHOLIC CHURCHES ARE BEING DESECRATED ACROSS FRANCE—AND OFFICIALS DON’T KNOW WHY
newsweek.com 2019/03/21


フランス全土でカトリック教会が冒瀆され続けている。しかし、教会側はその理由がわからない


フランスで、2019年の初めからカトリック教会に対する攻撃が急増している。



それらの行為の中には、放火と冒瀆(神聖なものを汚す)ことが含まれる。



破壊者たちは、教会の彫像を打ち砕き、礼拝所を打ち倒し、そして、聖体を巻き散らすか破壊し、十字架を破壊し、反カトリック的感情の高まりの懸念をフランス国内で引き起こしている。



3月17日の正午のミサの直後、歴史的な建造物であるパリのサン=シュルピス教会で火災が発生したと報じられた。負傷者はいなかったが、パリ警察は、消防隊員たちがこの火災が放火らによるものだと確信していることから、放火であるかどうかの調査をおこなっている。



サン=シュルピス教会は、17世紀に建てられ、ロマン派の画家ウジェーヌ・ドラクロワによる 3作品を収蔵しており、米映画「ダ・ヴィンチ・コード」の舞台として使用された。



2月には、フランス北西部のウイユにある聖ニコラス・カトリック教会で、聖母マリアの像が打ち壊されているのが発見された。



同じ 2月には、フランス中南部ラヴァールの聖ラヴァール大聖堂で祭壇の布が燃やされ、十字架と聖人たちの像が破壊された。この襲撃後、ヴァールの市長は、以下のような声明を出した。



「神はきっとお許し下さる」



続いて、フランス南部のスペイン国境近くのニームにあるノートルダム・デ・エンファン(「聖母の子」の意味)教会の祭壇が略奪され、教会の十字架に、人間の排泄物が塗られるという事態が起きた。



さらには、カトリック教徒たちがイエス・キリストの体であると信じている、教会にあるパンから作られた奉献物が教会の外にゴミのように捨てられていた。



この教会の司教は、声明で以下のように述べた。



「十字架のしるしと聖餐のパンが重大な冒瀆を受けました。この行為は私たちの教区社会に非常に大きな影響を与える出来事です」



「この行為は、深い信仰の中にある私たち全員を傷つけるものです」



フランスでは、2月だけで、カトリック教会やキリスト教と関係した宗教施設への攻撃が、47回記録されている。



また、ヨーロッパのカトリック教会への問題行動を統括している組織(Observatory of Intolerance and Discrimination Against Christians)によれば、2019年の最初の 2ヵ月間でのカトリック教会への攻撃は、昨年と比べて 25%増加しているという。



同組織の上級監督官は、ニューズウィークの取材に対し、これら一連の攻撃の動機は不明なことが多いが、一部、アナーキストやフェミニストグループによる反キリスト教的な暴力の問題と直面していると語る。



上級監督官は、以下のように言う。



「教会あるいは、教会の象徴に対してフランス国内で敵意が高まっているように感じています。そして、教会への反感は、キリスト教そのものへの反感より強いようなのです」



「今起きている一連の攻撃は、教区とカトリック教徒たちにとって本当に神聖な象徴に対して行われています。奉献された聖餐のパンへの冒涜はカトリックとキリスト教に対する非常に個人的な攻撃であり、これは、教会の外壁にスローガンをスプレーで落書きするよりも重大な攻撃なのです」



フランスは長く世俗主義の伝統を持っていたが、フランスは文化的にキリスト教の国であると見られてきたので、宗教の象徴としての教会への攻撃は、権威と愛国心への攻撃でもあると監督官は言う。



2月9日には、ブルゴーニュ地方のディジョンにあるノートルダム教会の祭壇が破壊された。ここでも、聖体拝領のパンが、地面にばら撒かれた。



フランスのエドゥアール・フィリップ首相は、2月にフランスの教会指導者たちに会い、声明の中で次のように述べた。



「このような破壊と冒瀆行為は私に衝撃を与えている。これは満場一致で非難されなければならない」

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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