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希望(あるいは欲望)があるから苦悩があるwww

清水幾多郎の言葉に(うろ覚えで数字もいい加減だが)「人生問題の8割以上は経済問題である」というのがあって、まさしく真実だな、と思う。つまり、経済問題が解決されたら、人生は実に楽なものになるわけで、それでもまだ苦悩があるとしたら、それは自分自身が勝手に作り出した「妄想的苦悩」だと私は思っている。
たとえば、「人を愛して相手に愛されない苦しみ」などというのはまさに「自分が勝手に作り出した苦悩」である。私はゲーテはわりと好きだが、「若きウェルテルの悩み」という作品は「失恋して自殺する奴の話? アホか」としか思えなくて、読んでいない。
そのような「妄想による苦悩」に真面目に悩んでいる人も多いと思うが、その苦悩の原因をさらに考えると、「希望」という奴が元凶かもしれない、と思う。(希望は実は欲望と同じことであり、欲望をきれいに言ったにすぎない。つまり、以下に書くことは仏教の教えの基本のようなものだ。)

若いころに好きだったサイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道(原題は、「幽かな冬の翳」とした方が適訳かと思う。)」という歌の中に、

When I looked around my  possibility, I was so hard to please

という一節があるが、若い人の苦悩というのはまさに「自分自身の可能性を信じ、その対象を探し求めること」そのものの中にあるのではないだろうか。その可能性が何なのか分からないから苦しいのである。で、そういう時にたいていの人は何かできることをするのではなく、悩むだけなのだ。そして、「下手の考え休むに似たり」で、何一つ得られないまま歳月が空しく過ぎ去り、さらに苦悩と焦りは深まっていく。
夢にしても希望にしても、現在手にしていないものである。当然、それを得たいという気持ちが心を苦しめることになるはずだ。夢や希望は人生を救うものでもあるが、実はそれこそが苦悩の原因でもあるわけだ。

まあ、仮に、自分がこの世に存在しなかった場合の世界というのを想像してみれば、現在の生がどんなに不満足なものだろうが、「自分自身が最初からいない」よりはマシであり、この世に生まれて良かった、とたいていの人は思うのではないか。今現在手にしているもの、自分の周囲にあるものは、「この世界に生まれなかった生命(あるいは人間以外のもの、虫か何かに生まれることでもいい)」にとってはどれほどの宝物だろうか。これが「諸法の空相」の意味だ、と私は考えている。つまり、「空」という相(フェイズ)に於いて、この世界の万象を眺めることである。

要するに、「汝の手に耐ゆることは力を尽くしてこれを為せ。そは汝の往かんとする黄泉には業(わざ)も謀り事も知識も知恵も在ることなければなり」「生ける犬は死せる獅子に勝る」(どちらも旧約聖書「伝道の書」より)ということだ。
言い換えれば、自分の手にはどうにもならないことは悩んでも無駄、ということであり、どんな人生でも完全な無よりはマシだということである。




(以下引用)


私の好きなインドの覚者の言葉に「人生は生きていくだけで十分に苦行だ。新たに苦行を作り出す必要などない」というのがあって、ほんとそうって思います。




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脳内世界と現実世界

「つぶやきコミューン」から抜粋転載。
頭の中の世界の方が現実の世界より現実的であるという人間が現実と接触するとこうなる、という例である。
彼のような人間は、コミュニケーション能力絶対主義思想の現代では「人格障害」とされるわけだが、私などは、自分も同じであるだけに、こういうのも個性だと思うし、当人が頭の中で幸福だと思うなら幸福な人生だと思う。

何億円のカネを得ようが、世界を征服しようが、無数の美女と寝ようが、頭の中が俗物ならくだらない人生である。毎度言うが、どんな名家や金持ちの家に生まれようが、安倍や麻生の人格を持ってこの世に生まれることほどの不幸は無い。
二十代で脊椎カリエスにかかり、三十代で死ぬまで病床にあった正岡子規の人生は、アレクサンダーやシーザーやロスチャイルド一族などの人生の数万倍の価値がある。


(以下引用)







トルストイに憧れ、莫大な遺産は若い芸術家らに分与し、田舎でのロハスな生活を送りながら、生徒に聖書を教えて過ごすことを夢見たヴィトゲンシュタインだが、実際の教師生活は思いどおりにならなかった。生徒との距離感がうまくつかめなかったのだ。彼の授業のスタイルは、体罰も当然の古い授業スタイルであった。そのため、結局は体罰問題が表面化し、教師を辞める羽目になる。



 



 学校の外では、子供にも村人にも無関心だった。生徒に道で出会って挨拶されても、知らん顔。そのくせ生徒には挨拶を強要した。挨拶しなかったら、ビンタをくらわせていた。(…)


 えこひいきも激しかった。エンゲルベルトとかビンダーとかレオポールトなど勉強のできる数人には、ギムナジウムに進学させるために、無料で特別に補修していた。お菓子やパンをほうびにして。(…)


 一〇時に終わる授業が一一時や一二時まで延びることもあった。生徒にとっては学校なんて、仕方なしに通う場所だから、とても迷惑だった。


 ヴィトゲンシュタインは勘定をコントロールするのが苦手だった。すぐ興奮して、汗をかき、鼻を鳴らし、ハンカチをギーッと噛んだかと思えば、自分の眉のうえに跡が残るほど強く爪を押しつける。そういう自虐は、まだご愛嬌だった。


 アンナ・ブレナ~は、むずかしい宿題がよくできていたので、黒板で計算問題を解くように言われた。けれどもアンナが解けなくてまごまごしていると、たちまち平手打ちが飛んできた。(解説)



 



ヴィトゲンシュタインの小学校教師への転身は、居場所を求めてだったが、居場所を見つけることができなかった。そんなヴィトゲンシュタインのふるまいを、精神科医の福本修は発達障害の一種であるアスペルガーの視点からとらえようとする。



 



 ヴィトゲンシュタインはアスペルガー者で、「心の理論(theory of mind)」がなかった。相手の意図を理解したり、相手の視点を共有したりすることがなく、自分の心の状態を相手に伝えることをしない。ふるまい(事象の状態)と心理(心の状態)の関係が予測できない。自分の視点を他人の視点に転換できないので、相手の立場に立って意味を理解すrことができない。


 正しい行為に極度の関心をもつのはアスペルガー者の特徴である。ヴィトゲンシュタインは、その時々の「倫理的意思」で動いているが、戦場では他の兵士たちにうんざりし、学校では生徒にうんざりする。兵士になる・教師になるという外的な出来事にこだわったけれど、自分がやろうとしていることの実際を知らず、現場で柔軟に適応・対応できなかった。(「解説」)







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「無邪気」と「道徳」

別ブログに書いたものだが、ここにも載せておく。
なお、私が複数のブログを持っているのは、ネットブログというのはプロバイダーの判断で(たいていはどこかからの指令や苦情のためにだろう。)ブログ主への連絡も無しに突然閉鎖されることがよくあるからである。


(以下転載)

善の方向への洗脳



我々は、子供というのを「無邪気」である、と考える。
では、幼児というのはどういうものかというと、自らの欲望にのみ忠実であり、他者(外界)への忖度というものはまったく無いのである。理性の存在しない状態とも言える。
で、そういう状態が無邪気、つまり「思い、邪(よこしま)無し」とされるわけだが、邪(よこしま)とは、「横ざま」であること、曲がっていることで、つまり思いがストレートに外界に出されていないことだから、幼児や子供はまさに無邪気だということになる。
しかし、社会秩序の面から見ると、これは実に困った存在であり、思いのままに「善悪をわきまえず」行動されては他者の迷惑になるのは当然で、幼児などはその「思い」を自分で実現する能力が「泣くこと」以外には無いから安全な存在なのであって、幼児に強大な能力を与えたら、この世の魔王と言える存在となるだろう。
そこで、我々は幼児が少し物事を理解できる三歳くらいから、子供に善悪を教える。
要するに、善悪というのは、人間社会維持のための道具なのである。
その普及のための便法として作られたのが宗教や哲学である。さらに言えば、神や仏という観念である。道徳や倫理の初期概念が先にあって神や仏が作られたのであって、その逆ではない。人間が神や仏を作ったのであって、神や仏が人間を作ったのではない。

倫理というのは、いわば「善の方向への洗脳」と言ってもいい。
その洗脳が無ければ、人間の社会は野獣の世界になるのであって、洗脳だから悪いと決めつけるべきではないわけだ。

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LGBT特区www

どこの誰が提唱したのか知らないが、LGBT特区という構想があるようだ。いわゆる、「発展場」というのは聞いたことがあるが、町全体を発展場にする構想なのだろうかwww 性的に普通の嗜好の持ち主が間違ってそこに迷い込んだら地獄だろう。
まあ、他人の嗜好にどうこう言うのもあれだが、LGBTが勢力拡大(という言い方自体、批判されるとは思うが)したことで、同性間の普通の友情までが性的な偏見の目で見られるようになったのではないかと危惧する。なぜ、人間関係を性的嗜好や性欲と切り離して考えられないのか、そのほうが私には不思議である。
男が男に憧れる、とか女が女に憧れるというのは、その相手とセックスしたいというものではまったくない。私にはホモっ気はまったく無いが、私が子供の頃に好きだった映画スターは三船敏郎やジョン・ウェインのような野性的な、あるいは無骨な風貌の「男らしい」男優であり、女優などは(特に西部劇や冒険活劇映画では)「邪魔な存在」としか思わなかった。要するに、「男ならこうありたい」という理想像として憧れるのであり、男の子というのは本来、そういうものだろう。(当然、そういう映画のヒーローは男らしい行動を取り、そこから子供たちは男としてのモラルを学んだのである。)
現在のようにすべてが性的な目で見られ評価される時代に、男は「漢」でいられるだろうか。
今の男の子が憧れる対象はジャニーズ事務所的なホスト顔の連中なのではないかwww 




  1. 「いきなり全国一律での自由化は困難なので、まずは限定つきで」というのは、善意ではあるのかもしれない。ただ「特区」の「特別に許容する」「特例として許す」語感は、同時に「本来なら排除されるべき」を含意してもいる。よって「特区」は、基本的人権を含む事案には向かないと思う



  2. 「LGBT特区」からは「一定の地域内でのみ自由を与える」ニュアンスが漏れ出してしまっている。これはとりもなおさず「一般の世界では自由や人権を認めない」ということでもあれば「LGBTを一般から隔離する」決意でもある。こういのは「恩着せがましい差別」と呼ぶべきなのだろうね。しかも無邪気な。


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背信とは何か

物事を論理的に考えるには、「問題となっている事柄を分けて捉える」ことだ、というのが私が高校生のころにデカルトの「方法序説」を読んで得た思考鉄則で、これは私が学んだことの中で一生を通じてもっとも有益なことだった。その後、「荀子」を読んで、言葉が正確に定義されないままに議論を行っても無駄だ、という「正名論」にも感銘を受け、何かを考える場合は、使用されている言葉の定義が何かということから考える習慣をつけるように努力してきた。
世の中の思想的混乱は、だいたいはこの2点があいまいであることから来ているようだ。つまり、「複数の要素を持つ事柄を丸ごと論じている」か、「言葉そのものが曖昧である」かである。
下でこれから書く「背信とは何か」についても、その2点での思考が中心となっている。

先に、「背信」を二つに分けておく。

1:意図的な裏切りとしての背信。
2:誠実に努力したが運が悪かったり能力不足などのために結果を出せなかった場合の背信。

の二つであるが、おそらく多くの人は頭の中でこの二つを分けていないと思う。

スポーツ新聞を読む人は良く知っているだろうが、大事な試合などで序盤に滅多打ちされ、敗戦の主な原因になった投手をスポーツ紙は「○○投手背信投球」などと書くことが多い。
私はこうした見出しに非常な不快感を持つ者だが、それがなぜか、ということが以下の議論の主題である。
さて、背信とは「信頼に背くこと」である。それはいい。だが、背信という言葉は、実際には「裏切り行為」のニュアンスが籠められているのである。実際、「信頼を裏切った」のだから、「背信」と言われて当然だ、と言う人もいるだろう。だが、「裏切り」という言葉は、明らかに「モラルに反した行為をした」という含意があり、それは「背信」でも同じなのである。
要するに、監督の期待(信頼)に応えることができなかった投手は「裏切り者」である、というのが「背信投球」の含意であるわけだが、そこで考えたいのが「信頼に応えられなかったこと」や「期待を裏切ること」はこうした悪罵を投げつけられて当然の行為なのだろうかということだ。人間である以上、その日の調子もあって、相手打線に打ち込まれることもあるし、投球が思いのままにコントロールできないこともある。それが、これほど非難されるようなことなのか、ということを私は言いたいわけだ。
言葉に神経質すぎる、と私自身が批判されそうだが、言葉は思考の基本道具であり、思考は感情を動かすものだ。つまり、マスコミなどが使う言葉は大衆を洗脳するのである。だから、我々はマスコミの使う言葉にはどんなに神経質になってもなりすぎることはない。

実は、本題はその先にある。
「背信」において非難されるべきは、本当は、「信じるべきでない相手を信じた人間」、つまり、野球であれば打ち込まれた投手ではなく、その投手に試合を任せた監督ではないか、ということだ。ところが、関西のスポーツ紙で「能見背信投球」とか「藤浪背信投球」という見出しは毎日のように見るが、「金本背信采配」という見出しは見たことがない。関東でも同じだろう。「内海背信投球」とか「澤村背信投球」とかはあっても「高橋背信采配」は見出しにならないはずだ。だが、敗戦の最大の責任者は監督であるのは言わずと知れたことである。
要するに、不祥事があった場合、経営者の責任がほとんど問われないのと同じことなのである。すべては現場の責任になり、その現場でも、本当は命令者の責任であるのが実行者だけの責任とされる。
「泣いて(涙を振るって)馬謖を斬る」という言葉がある。
諸葛孔明のファンである人々には済まないが、敗戦の本当の責任は、馬謖という無能な将をこの戦の責任者として任命した孔明にあるのではないか。馬謖が単なる口先だけの男であり、いわゆる「学校秀才」にすぎなかったとして、非難されるべきは、大事な戦にそういう男を将にした孔明である、と私は思う。いわゆる「任命責任」だ。本当の責任は任命者にこそある。
「泣いて馬謖を斬る」という言葉も、「本当の責任者の責任を見えなくした」害悪のある言葉だと思う。どこの組織でも、一番のトップは自分は責任を取らず、下の者に責任を押し付けるものだ。その代表的な例がこの孔明と馬謖のエピソードだと思う。













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ビジネスの怖さ

ビジネスというのは多くの場合騙し合いだし、その世界では騙されるほうが悪いのである。要するに、そういう覚悟の無い人間や人を見る目の無い人間がビジネスをやるべきではない。
簡単な比喩を使えば、紳士服を着た猛獣たちがうろつくジャングルだ。
契約書も読まないで契約するような人間は、裸でライオンや虎の前に平気で出る人間である。つまり、人間ではなく人肉という餌にすぎない。




さんがリツイート

もうこれで何人も後輩が食い物にされかけてるの止めたからほんっっっとうに気をつけて、やばいところは平然と「有料で売るけど貴方に印税ありません」とか「原作権貰います(こっちが好きに改変できますし好き勝手に使えます)」とか書いてあるからなマジで





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歴史的には、「発達障害」でない科学者や学者や文学者のほうが稀だろう

実際、創造的な偉業を成し遂げた人の多くは「周囲と協力して何かを成し遂げた」のではなく、一人でその偉業を成し遂げたのであって、それを「天才」とかつては言っていたが、今はそれが「発達障害」になったわけだ。
要するに、社会適応(他人との交渉)ができない人間のことを「発達障害」としているわけだが、べつに他人との交渉だけが人生や仕事のすべてではない。昔の職人や農民には(あるいは武士も含めて)口が重くて他人との交渉が苦手な人が多かったが、現代ではそういう人々は「発達障害」扱いだ。現代では口達者なだけの不誠実な人間がどんどん出世するから大企業は軒並み潰れていく。


(以下引用)


発達障害(何かの才能に秀でていて集中力抜群一人でいることを苦にしないメンタル)


2018年11月21日:22:00




1: 風吹けば名無し 2018/11/19(月) 22:48:42.50 ID:NsdWpnpW0
あれ…健常者より上じゃね?



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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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