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復讐は本当に何も生まないか

大昔の物語や記録を読むと、「復讐」の話が膨大にあるわけだが、なぜ人間は復讐をするのか、つまり、復讐のメリットは何か、そして「復讐は何も生まない」という決め台詞は正しいのか、をだらだらと考えてみたい。

まず、復讐がまったく無かった場合を考えてみよう。
当然、復讐されるのが当然の行為(悪事)をした人間は復讐される心配が無いから安穏に生きられるわけで、そうなると、悪事をした者勝ち、ということになる。
もちろん、法治主義が原則である現代社会では個人個人の復讐を認めるわけにはいかないわけで、国家がその代行をすることになっているが、それが被害者側には常に不満の残るものであるのは想像できる。それは、たとえば殺人事件などで、人を殺した人間が、死刑になることが滅多にない、ということへの不満などだ。
しかし、個人的な復讐を認めたら、復讐された側の遺族は、今度は逆に自分たちが復讐をすることになり、とめどない復讐の連鎖が続くことになる。
まあ、それも面白い社会ではないか、と言うと無責任だと非難されそうだが、「殺人は基本的に禁止だが、正当な理由のある復讐の場合は許可する」という江戸時代の武家社会は案外正しかったのではないだろうか。
それは、復讐が無かった場合の事をもう一度考えてみれば分かる。
復讐のできない社会とは、要するに被害者が泣き寝入りをする社会なのである。それが犯罪者を付け上らせ、悪人こそが大手を振って往来を歩き、弱者(あるいは道徳的な人間)がどんどん生きづらくなる社会なのである。
要するに、現代日本とはそういう社会なのだwww

復讐にメリットがあるとすれば、そういう社会を今現在より悪化することから少しずつでも救うことだろう。



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エゴイズムの文明と和の文明

別ブログに書いたものだが、案外重要な思考素かもしれないのでこちらにも転載しておく。



エゴイズムの文明と和の文明



メモだが、近代の西洋文明というのは、一言で言えばエゴイズム(個人主義)の肯定である。
それがなぜ、和の文明である日本よりはるかに高度な文明に達し、江戸末期に日本は危うく滅びかかったのか、という問題を考えてみたい。
その答えは、おそらく、「現状への不満の表明」つまり、現状への批判が許される(あるいは自然に表に出る)社会かどうかということではないかと思う。
和の文明では、不満の表明は不和の元として各自が腹の中に飲み込むことになる。したがって、社会の改善すべき点が表に出ることもなく、ずっと変わらないことになる。つまり、永遠の停滞だ。
これは日本のみならず、「尚古主義」である儒教思想が覆っていたアジア全体の特徴ではないか。
停滞のアジア、である。
政治的に言えば、悪政の根本原因を変えることなく、部分的な糊塗策だけでその場逃れをする政治が永遠に続くことになる。これが官僚主義の本質であることも言うまでもない。

もちろん、西洋文明でも不平不満の表明は軋轢を産み、弾圧され、場合によってはその不平不満の表明者は処刑される。しかし、個人主義が根本にある限り、恵まれない人々の不平不満の表明は抑えることはできなくなり、上と下の「政治的妥協」が行われることになる。それが社会福祉の増進などになるわけである。





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霜を踏みて堅氷至る

非常に面白い問題提起だが、しかし庶民感覚では昔からこんなものだったと私は思う。おそらく私が19歳20歳だったら、杉田水脈みたいな考え方だったのではないか。
要するに、我々は20歳になるまでにすでに誤った世界像や社会観や歴史観を、教育やマスコミや近隣の大人や先輩によって叩き込まれていて、立派な(アホな)心情右翼として大人になるわけである。
タイトルは、前にも書いたが、「物事は長い布石があって、それが成長して事件として表れるものだ」、ということである。「易経」の中の言葉で、私が大好きな言葉だ。


  1. 小田嶋隆‏ @tako_ashi 10月26日
  1. 念のために言っておくけど「長谷川豊ならびに杉田水脈の主張に共感する層はもはや現代日本人の多数派かも」というオレのtwは、「多数派なのだから尊重されるべきだ」という主張ではない。「いつの間にやら日本はこんな国になっちまったんだろうか」という慨嘆だぞ。あたりまえじゃないか
  1. うーん。「長谷川豊や杉田水脈の言説を支持する人間が現代の日本にはたくさんいる」という内容の私のツイートを読んで、 「オダジマは長谷川豊と杉田水脈の発言に共感している」  というふうに受け止める人たちがけっこういるみたいでですね。
  1. 長谷川豊や杉田水脈の発言について「言葉の選び方が無神経だったけど、言ってることそのものは正しい」とか思っている人間は、たくさんいる。 たくさんいるどころか、「弱者が滅びることは、社会の前進のためにはむしろ良いことだ」くらいに考えるのが、もはや多数派だったりするのだと思うです。
  1. もう少し詳しく述べると「自堕落な人間が自らの愚かさゆえに社会から排除されるのは当然のなりゆきだし、そうやって劣悪な遺伝子が淘汰されることで、結果として社会全体の強度が上がることは、むしろ望ましい展開だ」くらいに考えるのが、現代日本人の典型的な態度なのであろう、ということです。

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「正しいこと」を教えることの危険性

私も含めての話だが、子供が間違ったことをしている時に(たとえば言葉間違いなどの些細なミス)、当人のためだと思って、「正しいこと」を教える人は多いと思う。だが、その時、実は「正しいことを知っている俺(私)って偉い。教えられるお前は俺(私)より下」という気持ちがどこかにあるのではないだろうか。
子供はそれを鋭く感じて、その「正しいとされているもの」を嫌悪するようになるという心理的メカニズムがある、という仮説を今思い付いた。

(以下引用)


さんがリツイート

これプラモ以外の何事にも言えることだと思うんですけど、ビギナーに最初に伝えるべきは正しい手法じゃなくて面白さなんですよね。




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資本主義という「利己主義」思想

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
幾つか疑問なところもあるが、資本主義の本質を見事に剔抉している快文章だ。東海アマ氏の文章はいつも痛烈で力がある。
ただ、私は「利己主義」に対して「利他主義」という概念を置くことにはあまり賛成できない。それだと、社会の全員が聖人君子になることになる。それはありえないことだ。

自分自身の心を冷静に眺めるだけでもそれが不可能なことは誰でもわかるのではないか。
たとえば、ある異性を好きになったとして、自分と同じようにその人を好きになった者がいたら、あなたは「利他主義」で、その人に好きな相手を譲るのか? 餓死寸前の状態で、目の前に一人分の食い物があったとして、あなたは「利他主義」で他人にそれを譲るのか?
奪い合いや殺し合いの状況にならないようにするために、社会全体の制度を改革して全体の幸福水準を上げることを私は「社会主義」と言っている。
単純な話、「奪い合いのジャングル」から「共存共栄の社会」にすることである。
そして新自由主義における政治(安部政治がそれであるのは明白だ。)が「社会のジャングル化」であるのは言うまでもない。



(以下引用)




◆http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-510.html
東海アマブログ  2018-10-15
ビジネス チャンス」 という価値観


より抜粋、

いまどきの人々にとって「ビジネスチャンス」という言葉を聞けば、

人生の努力目標とか、世渡りの尺度とかに関係した、

価値観の根源に位置する言葉のように受け取っている人が

大部分ではないだろうか?

だが、半世紀前まで、人生をビジネスとしてのみ捉える、

この種の価値観は、「強欲」という区分に含まれて、

多くの人々から冷笑され、軽蔑されていたのである。

金儲けしか考えられない人間は、人として何の魅力もない、

愚かな人生を送る人物だという認識が共有されていた。

「ビジネスだけが人生じゃない。

もっと、はるかに大切な価値があるんだよ」

半世紀前に、「ビジネスチャンスを捉えて金儲けしろ」と

世の中で発信しようものなら、底辺の大衆の間では、

一斉にバッシングされた。

金儲けとは、人情世界を拒絶する金持ち、

強欲人種の価値だと思われていた。

「人生も社会も商売ではない、他人のために役立ち、

人を助けることを考えよ」

と説教されるのが普通であった。

人生にとって、もっとも大切な価値は、人の笑顔のために生きる

人情主義であり、すぐれていえば「利他主義」であったといえよう。


明治開国で、たくさんの欧米人が、日本に渡ってきて、

みんな一様に驚いたのが、識字率=教育水準の高さとともに、

道徳的価値観の高さであり、利他主義の浸透であった。
 
http://yukashikisekai.com/?p=7725

http://kenjya.org/nippon1.html


これは、地域社会の寺=鎌倉仏教が、

民衆を精神的に高く導くことを目標に、

寺子屋や講をはじめ、さまざまな機会で、仏教思想を教育し、

浸透しようとした努力の結果
であった。

明治以来の、勤勉で心温かい日本人の価値観を育てたのは、

私は鎌倉仏教であると思う。

日本の仏教の 9割は、比叡山から育った

法然・親鸞・道元・
日蓮らが開いた鎌倉仏教システムの上にあった

そうして、開国後やってきた外国人たちは、

日本人の道徳的高さ、人間性の気高さに驚き、賞賛した。


金儲け最優先の思想は、資本主義経済の必然であって、

ひとたび社会が 資本主義の原理で動き始めたなら、

必ず利他主義を見失って 利己主義に邁進し、最後には、

社会全体が金儲けしか考えられない、

ちょうど 今の中国式の発想に貶められ、やがてレミングの群れのように、

社会全体が、絶望の断崖に転落してゆく運命に至るのだ。

資本主義というのは、株主の金儲けだけを原理として、

拡大再生産しか許されない。

金儲けの勢いを失ったときが、その組織体の死を意味するのであって、

社会全体が金儲けから見放されたなら、

国ぐるみの集団で断崖から飛び降り自殺する運命しか

残されていないのである。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-77.html


それでは、何が間違っていたか? 

といえば、最大の理由は、利他主義を見失ったことであり、

利己主義と金儲けだけが 人生最大の価値観であると

勘違いさせられてしまったことなのだ。

利己主義社会に「持続可能な 未来」は存在しない。

それは、必ず断崖絶壁での集団自殺に至るしかない。

その形態は、戦争であったり、

アメリカ社会のように、市民同士が殺し合う地獄社会であったり、

人が人を欺すことだけが正義と勘違いした中国のような社会であったり、

ウソをついても、どんな汚い手段でも勝てば官軍と考える韓国社会

であったりする
のである。

我々は、中国・韓国・アメリカを見て、何が間違っているのか、

深く考える必要がある。

そうして、日本に「持続可能な 社会」を再生する思想を

再び復活しなければならない。


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イスラム教入門(?)

「混沌堂主人雑記」から転載。
「読めないニックネーム」というサイト(ブログ?)からの引用らしいが、イスラム教をおおまかに知るのに最適な文章だろう。もっと長いようだが、主な部分だけ抜粋した。
ちなみに、私は創造主とかいう存在をまったく信じていない。唯一神(創造主)を信じている点ではキリスト教もユダヤ教もイスラム教も同じであり、それぞれの社会の道徳的基盤になっていたという点では評価するが、他の社会との闘争の原因になったという点ではキリスト教もユダヤ教もイスラム教も同様に悪である。
なお、下の記述は、書いた人物のイスラーム解釈だろうから、「参考にする」程度に読めばいいと思う。



(以下引用)




イスラーム基礎知識

・ラーイラーハイッラッラー
(アッラーの他に神はいない)
=唯一の崇拝の対象である創造主
でないものはすべて崇拝や服従するに値しないと信じること
が最重要教義。

・ムハンマドゥン・ラスールッラー
(ムハンマドはアッラーの使徒である)

(ムハンマドは最高にして最後の預言者
(以降の「俺が新たな預言者だ!」詐欺の防止)

以上は信仰告白文でありこの二つの教義は他の教義の大前提

・法人の禁止。
(宗教法人非課税の禁止)

・利子の禁止。
(ヤソ流中央銀行支配の防止)

・キリスト教会のような
教義を決定する教会組織(モスクは単なる礼拝所)も
聖職者(学者は存在する)も
聖職者階級も存在しない
唯一の正統教義を決定する公会議もない。
正しい教義を決定する正当な手続きや資格は存在しない。
よってキリスト教のような正統と異端の二分法的発想はない。
(内心に踏み込み異端審問をすると地獄行き)

・戦闘員(成人男性)以外の人に物理的攻撃を加えることの禁止。
女性と子供を攻撃することの禁止。
コラテラル・ダメージ(やむを得ないまきぞえの犠牲)
については場合による。
剣の節(多神教徒は殺せ)の適用はかなり限定的。

(廃棄された個所かどうか確かめずに
コーランのあれこれが悪だと叩いている者に注意。
いきなりクルアーンを読んでもダメな理由。
クルアーンを原文で読み、
かつ多数派解釈と少数派解釈を学んだ人を情報源にしないと
デマをつかまされる可能性が高い)

・聖典範囲

クルアーン(最上位の唯一神の言葉)、律法、詩編、福音書。
クルアーン以外はオリジナルと異なる(改竄あり)とする(聖書の矛盾を解決)。

翻訳されたクルアーンは聖典ではなく単なる注釈・解釈書。

ムハンマドの言行録であるハディースも重視するがこれは人の言葉。
(ハディースの内容とクルアーンの内容を混同する者を情報源にしてはいけない)

・イエス(イーサー、ヤスーウ)は実在するが、磔になっていない。
・イエスは十字架上で死んでいないので3日後の復活もない。
・イーサーは被造物たる人間であり預言者の一人。
・アッラーは子を産まないので神の子なんてありえない。
・マルヤム(マリア)の処女懐胎で誕生。
・受肉もありえない。
・人間なので神性もない。
・三位一体もありえない。
・原罪もない。

・イエスは生きたまま、肉体を伴い(グノーシス派の否定)、
天に上げられたので今も生きている。

(キリスト教正統多数派の根幹を否定)

・マスィーフ(メシア)たるイーサー(イエス)は
終末(日時不明)が近づくと再臨し偽救世主ダジャルを殺す。
ダジャルはハディースでは右目が潰れているので左目系。
ダジャルがユダヤ教徒とは限らず
ユダヤ教徒ではない部族に似ているというハディースあり。
部下にユダヤ教徒がいる
(イエスの扱いよりイスラームでは
キリスト教>ユダヤ教)

・性の罪悪視はない。

・「偶像崇拝の禁止=像を作るな、偶像を破壊しろ」ではない。

”・偶像=自己の欲望の投影。
クルアーンは多神崇拝の禁止を繰り返し説いているが、
彫像の禁止は明記されていない。
34章13節には、ソロモン王がジン(幽精)に彫像を作らせた、とあり、
古典注釈書はソロモンのシャリーア(聖法)では彫像は許されていた、と述べている。
またハディースのレベルでは
預言者ムハンマドが幼妻アーイシャが人形で遊ぶのを黙認したという真正な伝承の明文が残されており、
イスラーム法は子供の玩具であれば人形を合法化している。
彫像だけでなく動物の絵も禁じるハディースも数多くあり、
預言者ムハンマドがマッカを征服したときに行ったのがカアバ神殿にあった360体の偶像の破壊であったことはよく知られている。
具象的偶像が原則的に禁じられており、キリスト教や、仏教、ヒンドゥー教のような宗教美術がほとんど存在しないのも事実だが、
ユダヤ教の偶像崇拝の執拗な具象化の拒否、造形、彫像の禁止はイスラームでは緩和されている。
むしろクルアーンは具象的な偶像崇拝の禁止を超えて、多神崇拝が虚偽意識の問題であることに目を向けさせている。

「自己の欲望を自分の神とする者を汝らは知っているか」
クルアーン25章43節

「アッラーの他に汝らが崇めているものは、
汝らと汝らの父祖たちが命名したただの名前に過ぎない」
クルアーン12章40節

イスラームでは偶像とは自己の欲望の投影であり、
偶像崇拝者とは自らの欲望を神に祭りあげて仕える我執の虜にほかならず、
唯物論、無神論、無宗教、
法人概念、実体経済を逸脱した拝金主義等も
人間の我執の幻影への隷属、
形を変えた偶像崇拝。”

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人間選別社会

「混沌堂主人雑記」記事の一節だが、重要な指摘だと思う。
資本主義、あるいは工業化社会の一番凶悪な部分が、ここなのかもしれない。
人間の自然な部分がどんどん「機械的選別をされていく」ということだ。そのために、学校のテストや、あるいは医学なども(社会不適合者を「病人」と定義づけることで)機能している。
昔は、地域地域に「馬鹿」がいたもので、それで別にその地域も問題視はしなかった。馬鹿もいれば常習的酔っ払いも乞食もいる、売春宿もある、というのが昔の社会だったわけだ。
そういった人々は社会の表面から消されてきた。つまり、表面上は「無菌社会」になったわけだ。
社会に適合するかどうか(その基準は誰かが作り、それを暗黙のうちに皆了解している。)というのが人間選別のほとんど唯一の基準になった。だから、人々は自分のそういった負の側面を隠して生きる(もちろん、大金持ちや権力者は別だ。)ようになり、非常なストレスを抱えて生きるしかないわけである。
しかもこれは社会主義国家でも何でもないのである。むしろ資本主義の高度な発達の結果だ。

下に書かれたこととは直接につながらないように見えるが、「人間の点数化とそれによる輪切り、差別」もそれである。昔の身分社会は、大きな差別はあったが、士農工商の大枠の中では、たとえばAはBより2ポイント優れている、というような馬鹿な評価はしなかったはずだ。なぜなら、その2ポイントというのは、条件が違えばいつでも逆転できるものだし、ある面では優れていても他の面では劣るというのが人間だ、という当たり前のことを誰でも知っていたからだ。

宮沢賢治に「虔十公園林」という作品(童話)がある。周囲からは馬鹿呼ばわりされていた精神薄弱(この言葉はあまり適切ではない。要するに、社会的な意味で知能が低い人間だ)の男が、子供たちが遊ぶ姿を見るのが大好きで、子供たちのために小さな林を作り、そこが公園になる、という話で、その最後で、ある人が、「本当に偉い人というのは、この虔十のような人ではないでしょうか」というような言葉を言うのだが、まあ、うろ覚えで書いているので記憶違いかもしれない。とにかく、この虔十のような人間が周囲から馬鹿にされていたのは昔も今も同じではある。だが、昔はそういう人間でもちゃんと社会に居場所があり、寛容な目で見られていたのである。

たった1,2点の差で、有名高校や有名大学に行けなかったという人間は無数にいる。では、彼らがその後の人生で受ける仕打ちは、その1,2点にふさわしい些細な違いだろうか。
高校や大学入試だけの話ではない。わずかな差が残酷なまでの違いを作ることが、私は資本主義社会の本質的な欠点ではないか、と思っている。



(以下引用)





発達障害は、軽度なら障害て言うほどのモノではない・都市部や現代社会でなければ。

あまりに、農村とかの自然と近い暮らしとか、まあまあの距離を開けれる人間関係ならば、大過なのである。

それがあまりに機械化・チームワーク化かされ、大過なかった差異が、大きな「障害」になってしまう。



近代機械化社会や、それを前提にした社会制度は、人間の自然・本来のポテンシャルとは遠くかけ離れた異様なモノというのは大きな間違えでない。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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