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近代帝国主義イデオロギー

『帝国主義の解剖学』を読んで考えた浮遊思考を幾つか。

・基本的に、現在のネトウヨ心理というのは、帝国主義時代の帝国の無知な大衆の持っていた「帝国主義心理」とほぼ同一であると見てよい。つまり、帝国主義とは、「現在の問題」なのである。笑うべきは、かつての帝国が凋落した現在でも、「帝国主義心理」は大衆の間に厳然と残っていることだ。それは、もちろん、その方が右翼的性質を持った政党(ほとんど保守政党はそれである。)には都合がいいので、彼らはマスコミや教育を通じて国民のそうした傾向を助長し煽動するからだ。

・同書にある、「近代帝国主義イデオロギー」についての杉本淑彦氏の定義。(色字は夢人による強調)
植民地とは直接の経済的利害得失関係のない宗主国民衆一般に、膨大な公的資金の投下が必要となる植民地維持拡張政策を受け入れさせる論理」(同書P88)
植民地維持拡張政策には膨大な公的資金投下が必要になり、しかも、それは宗主国一般民衆の利害関係とは実は無関係な話だ、というのは、あまり誰も指摘していないことのように思う。すなわち、植民地経営とは一般国民にとっては「税金の無駄遣い」であったにも関わらず、それが国民全体の利益であるかのように思わせたのが「近代帝国主義イデオロギー」の役割であったわけである。
もちろん、それと併行して、宗主国による植民地経営は「文明の恩恵に浴する」植民地の現地人にとっても幸福である、という「偽装人道主義」イデオロギーも用いられた。日本帝国支配下の朝鮮についてもネトウヨがしばしば言う「日本の支配下で朝鮮は文明国化した」はまったく同じ論理(屁理屈)であるのは言うまでもない。或る国が文明化するかどうかは、その国の国民自身が選び取ることであって、他国の強制による「文明化」は単なる「宗主国(侵略国)の都合によるインフラ整備」でしかない。

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馬鹿を煽動するのは容易

ヒトラーが、なぜ「第一次大戦でのドイツはユダヤ人の裏切りによって敗北した」と言っていたのか、その根拠を知りたくてネットを探しているうちに、それとはあまり関係ないが、「ネトウヨ(つまり、低レベル右翼)はこうして作られる」(ヒトラーの手法)がなかなか面白いので転載しておく。林何とかという、おそらく学者さんの講演の一部である。
なお、若きヒトラーを組合に勧誘に来た組合員の言葉は、まさに安部政権下の日本を現わしているようだ。いや、資本主義国家はだいたいそんなものだろう。だが、言っていることは正しくても、対人的なゴタゴタで信用を失うというのが左翼運動の悪しき特徴であるのはどの時代のどの国でも同じであるようだ。
ちなみに、ネトウヨの作り方、というのは、赤字で示した次の言葉だ。もちろん、これは低レベル左翼の作り方でもある。

「大衆は大衆自身がそれぞれもっている精神的弱さ、怠惰、無能、失敗、病気、怨念、嫉妬など転訛するべく我を忘れるような強烈なイデオロギーを求めている」



(以下引用)赤字部分は夢人による強調。



当時、ヒトラーは建築現場の日雇い現場で働いていました。とこ



ろがある日一人で昼食をとっているところに労働組合の活動家がやってきて「国家は資本主義階級の仮構であり、祖国はブルジョアジーが労働者階級を搾取するための道具である。法律の権威はプロレタリアを弾圧する手段であり、学校は奴隷要因と奴隷所有者を飼育するためある」と説得するのです。



このヒトラーを説得しようとした一労働組合員の言葉は、私(林



順治)にはつい最近聞いたことのように錯覚を覚えます。つい最近



とはいって私が1960年代の学生のころですが、全学連の運動家



が休講中の教室に入ってきて始めるアジ演説とそっくりだからで



す。



その事はさておき、ヒトラーは社会民主党員の言うことよく理解



することができませんが、興味があったので本やパンフレットを読



んでから、ヒトラーは社会民主党員にたびたび質問をし、議論する



ようになります。すると彼らは暴力とテロ行為に出たのです。社会



民主党員の数人がヒトラーに向かって「建築現場を立ち去るか、こ



こから落とされるか、どちらが好いか」と詰め寄ってきたのです。



ヒトラーは社会民主党員のこのようなやり方を彼なりの分析をしていますが、きわめて示唆的です。というのはこれに類するようなやり方が日本の学生運動や労働組合の一部で1970年代の初めまでは行われていたからです。ヒトラーは『わが闘争』で恐るべき次のようなことを言っています。



「もし社会民主党員に対してもっと真実さに満ちた、しかも同じような残虐な実行力をもったイデオロギーで対立すれば、たとえ非常な苦しい闘争の後でもきっと勝利するにちがいない」と。



なぜなら「大衆は大衆自身がそれぞれもっている精神的弱さ、怠惰、無能、失敗、病気、怨念、嫉妬など転訛するべく我を忘れるような強烈なイデオロギーを求めているからだ」と。



何か後のヒトラーのナチの暴力とテロをまざまざとみるようですが、ヒトラーがこのやり方を社会民主党員から学んだというのでから、半分は本当の話でしょう。しかしこのような運動組織論を17、8才のヒトラーが体得したとは思われません。おそらくミュンヘン一揆までの体験を生かし、今後の選挙活動の予告として『わが闘争』に綴ったものでしょう。





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「直葬」と私の人生観

私は、両親が60歳くらいで亡くなっているので、60歳を超えた時から、自分もそろそろかな、と思って、残りの人生は余生だと思っている。若いころはかなり悲観主義者で、20歳くらいで死んだほうがいいかな、と思っていたので、60歳まで生きれば十分以上だ。まあ、若いころにいつも憂鬱だったのは、「生活への不安」「将来への不安」「自分への自信の無さ」などが主な原因で、それらの「鬱感情」を何とか誤魔化しながら案外長く生きてきたわけである。まあ、昔思ったよりは悪くない人生だったと思う。動物や虫に生まれる可能性もあったのだから、人間に生まれただけでも幸運というものだろう。
で、死ぬ時には遺体は「ゴミ」として処理してほしい、と前に書いたのだが、それが無理なら「直葬」というのがいいかな、と、この記事を見て思ったわけだ。
なお、現在の私は別に早死にしたいと思っているわけではない。早く死のうが遅く死のうが同じことである。たとえば、愉快な学生生活を送り、大学卒業と同時に車に轢かれて死んだとしたら、それは最高に幸福な一生だったのではないか。他の人がその死を「早すぎる」「残念だ」と思うのは勝手だが、それは当人とは無関係である。また、何か素晴らしい事業をしようが、のんべんだらりと怠けて一生を終えようが、死ねば同じことだ。社会への貢献というのは、「その人がいたことで、世の中がほんの少しでも良くなった(幸福になった)」で十分だ。また、貢献が無くても、周囲や社会に迷惑をかけさえしなければいいのである。

(以下引用)








(写真=ユニクエスト提供) © Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 (写真=ユニクエスト提供)

「こういう弔いの形もありなんだなと思いました」


 東京都在住の田中一也さん(仮名・59歳)。おととし、11歳年上のいとこをがんで亡くした際に、通夜や葬儀・告別式をしない“お別れ”を経験した。あっさりした性格だったいとこは生前から、「死んだときは、一切何もしなくていい」と意思表示していた。


 都内の病院で田中さんや家族がいとこをみとった翌日、遺体は病院からいとこが住んでいた千葉市の火葬場へ直行。田中さんを含む近親者7人が火葬場に集まり、火葬を終えた後、近くの葬祭会館で軽く食事をして解散した。ものの1時間半で全てが終わった。


 九州出身の田中さんにとって葬儀といえば、通夜から多くの親戚や知人が集まって、1泊2日で行うイメージ。だからいとこの弔い方には驚いたという。


「読経も戒名もなし。すしは“竹”。ビール中瓶1本でお別れだった。その後、出勤できたぐらいあっさりとしていた」


 一抹の寂しさはあったものの、いとこの闘病生活は1年強におよび、心の準備はできていた。近親者でみとったので、故人と向き合えたという感覚もあった。


「これぐらいシンプルでいいのかもしれない。(通夜、葬儀・告別式をやる一般的な)葬儀で若い僧侶の説法に感動することもないし、通夜の食事もおいしいわけではないし。僕が死んだときも直葬にしてもらおうかと思うこともあります」(田中さん)


 形式的な儀式を極力省いた葬儀のかたち「直葬」がいま、都市部を中心に増えている。直葬とは、故人が亡くなった後、安置所か自宅に遺体を運んで安置し、その後、直接火葬場に移し、荼毘に付すという方法。近親者のみで行う。会葬者を呼んで通夜や告別式を営み、それから火葬する一般的な葬式に比べて、お金もかからない。


「ここ15年ほどで“葬儀はシンプルにしたい”という明確なポリシーを持った人が増加傾向にあります」


 こう話すのは、終活や葬式の相談・施行などを行う「葬儀を考えるNPO東京」代表の高橋進さんだ。かつて直葬は、故人が身寄りのない人や困窮者の場合に、自治体が葬儀費用を賄って行われる方法だった。


「今は、故人の遺志や家族の意向で選ぶ傾向にあります。中には菩提寺があっても直葬を選ぶ人もいるほど。それだけ従来の葬儀のあり方に疑問を持つ人が増えている証しでしょう」(高橋さん)


『葬式は、要らない』などの著書で知られる宗教学者の島田裕巳さんは言う。


「直葬が広がる背景には、死んだ人の扱いはなるべく簡単に済ませるべきという考え方が強まっていることもあります。血縁意識の低下から、“絶対に葬儀に呼ばなくてはいけない人”という存在もなくなってきている。都会のみならず、地方の葬儀も簡素化が進んでいる実態を見れば、そんなに遠くない未来に葬式そのものが消滅する時代が来るかもしれません」


 これまで累計15万件を超える葬儀を担当し、全国で葬儀ブランド「小さなお葬式」を展開するユニクエストによれば、現在、直葬(プラン名「小さな火葬式」)を選ぶ人が4割であるのに対し、「通夜、告別式ともに実施」を選ぶ人が3割、「告別式のみ実施」を選ぶ人が3割と、すでに同社では直葬が主流だ。


「喪主として一度大掛かりな一般葬を経験して、それを疑問に感じたことから、直葬を選ぶケースが増えています。大きな葬式だと会葬者の対応に追われ、ゆっくり故人と向き合う時間もなく、本当にこれで良かったのかと後悔が残ることもあるそうです。そうした方は、次に近親者が亡くなったときには、直葬などシンプルな葬儀を選ばれることが少なくありません」(ユニクエスト広報担当者)


 多くの会葬者を招いてその対応に追われる一般葬と比べて、故人とゆっくり向き合う時間を作ることができるのもメリットなのだ。また、葬儀費用を大幅に抑えられることも利点の一つ。一般葬の場合、平均額は約178万円。一方、直葬は平均15万~30万円と、6分の1以下に抑えることができる。通夜の飲食費や斎場の式場料、祭壇費用などがかからないためだ。


「通夜の飲食もそれを楽しめるわけではないし、香典返しも果たして本当に必要なのかと、疑問に感じる人が増えるのも当然の流れです」(島田さん)


 では、直葬を選びたい場合、具体的にどうすればいいのか。火葬許可証の申請など役所で行う死後の手続きは遺族がやることも可能だが、遺体の搬送などは荷が重い。儀式を省いたとしても葬儀会社などプロに頼むのが一般的だ。


「棺など必要なものも個別に手配すると手間がかかり、費用も高くつくことが多いので、葬儀社に頼んだほうが安心。悲しみの中、作業に追われるより、故人と向き合う時間を大切にしたほうがいい」(高橋さん)


 直葬を希望する場合、最低限必要な次のような物品やサービスがセットになった一番シンプルなプランを選べばよい。遺体の安置場所を確保し、病院や施設など亡くなった場所から、故人の遺体を寝台車にのせ、自宅や一時的な安置場所に搬送する。遺体を棺に納め、安置する。法律で定められた時間の死後24時間以上経過してから、火葬場の予約時間に合わせ、霊柩車で火葬場へ出棺する。もちろん、物も用意してくれる。遺体を入れる棺、棺用布団、故人に着せる仏衣一式、遺体保冷のためのドライアイス、枕飾り一式、骨壺、そして遺体をのせて移動する寝台車や霊柩車だ。(本誌・松岡かすみ)


※週刊朝日  2019年2月15日号より抜粋







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「一番嫌いなのは努力」

「谷間の百合」さんのブログ記事を全文転載。(容量関係で写真はカット)
私は、前に書いたように「近代の病としての『生き甲斐』症候群」というテーマの文章を書くつもりだったが、下の記事で書かれているのが、まさに私の言いたいことである。

総理大臣も乞食も、「起きて半畳、寝て一畳」であり、一度に飯が100人前食えるわけではないし、百畳のベッドがあろうと寝ている間に使うのは畳一畳分だ。一流レストランの美味い食事だろうが、自分で作る原価150円もしないうどんを食うのと美味さにさほど違いは無い。周囲に気を使わないだけうどんの方がマシであるかもしれない。一流の女優になろうが、そこに至るのに枕商売をしなければならないのなら売春婦と変わりはない。男優も同じだ。スポーツの名選手など、死ぬほどの努力をしてその地位に到達するのだが、見ている観客はテレビの前で何ひとつ苦労もしないでそのプレーを楽しめる。幸福なのはどちらで賢いのはどちらだろうか。(もちろん、その道が好きで、一流になり、その努力自体が楽しかったのなら、それは素晴らしいことである。)

なお、私は「輪廻」はあまり信じないが、むしろ「人の影響は何らかの形で永遠に残る」という「精神不死論」を信じている。ある英詩の中にあったと思うが、死は二度あり、肉体の死が一度目、そしてすべての人から忘れられるのが二度目の死であり本当の死である、という趣旨の思想がある。だが、私は、その人間の残したものは子供や友人や知人や、文章や作品を残したらその読者や鑑賞者の中に何かの痕跡を残し、それが様々なヴァリエーションとなって世界を少しづつ変えていく、と思っている。つまり、精神は不死である、ということだ。たとえば私の中には江戸時代の「共産主義者」安藤昌益の魂がわずかに入っているのである。
もちろん、良い影響だけではなく悪い影響も含めて「精神は不死」だということだ。


(以下引用)



木枯し紋次郎が到達した境地。

木枯し紋次郎の中村敦夫さんが出家得度しておられるのは知りませんでしたが、「日刊ゲンダイ」のインタビュー記事を読んで、その「悟り」の一端を知ることができました。
人は「悟り」というものを自分とは縁のない境地だと思っているようですが、それは日常と背中合わせにあるものでそれに気が付くかどうかだとわたしは思っています。
記事から一部抜粋したものを以下に転載します。

「一番嫌いなのは努力。努力するとロクなことはない。朝起きてマラソン始めたら心臓マヒを起こしたりね。目先のことでビクビク、くよくよせずに、時間を長くゆったり生きる。あまり過激な努力をしないことです。みなさん、自分を査定して、高く見積もり過ぎる傾向があると思いますよ。そりゃ、そこそこ成功している人はいるだろうが、そんなに変わらないでしょう。金に汚いかどうかの違いだけです。私は動物の一匹として生まれてしまった。死にゆく運命です。生を受けたことは、そんな幸せな贈り物ではないが、当たってしまったわけだから、ゆっくり楽しめるものは楽しむ。死後の心配する人がいるけど、「あんたどっから来たんだ」ってね。人間の存在なんて暫定的な存在だと思う。いろんなこと分からなくていいんですよ。全部分かってうまくやろうという貧乏根性を捨てること。そうすれば、人生、別のことが見えてくると思います。」




「あんたどっから来たんだ」というのは「死をみること帰するがごとし」で死は「来たところに帰る」ことだと言っておられるのです。(岡潔はそれを「懐かしいところに帰ること」だと言いました。)
したがって、人間の存在が暫定的というのも死んだら終わりという意味ではなく輪廻転生のことを言っておられるのだと思います。
中村さんの言われる貧乏根性、わたしにはよく分かります。
オリンピックや万博に血道をあげるのも貧乏根性です。
(わたしはそれを田舎者根性だと言ってきました。)
子どもに勉強しろと言うのも貧乏根性です。
どうせ、死ぬまでの人生、どうしてゆっくり楽しもうとしないのでしょうね。
努力なんかしなくていいのです。
わたしも、ブログを書く以上本を読んだり勉強しなくてはいけないかなと思った時期もありましたが、考えてみたらわたしは勉強をしたという記憶がありませんでした。
だから いままで通り見たこと聞いたこと感じたことを書くだけでいいのだと開き直ったところでした。
全部分かってうまくやろうという貧乏根性を捨てれば、別のことが見えてくる、それが「悟り」なのだと中村さんは言いたいのではないでしょうか。
どう生きるべきかなんて考えることは余計なことなのです。
何も考えず、日常するべきことを淡々とするだけでいいのだと。
日本人と言うべきか現代人と言えばいいのか、人は生活をしていないように思います。
生活以外のことで生きているというか、生かされているように思えてなりません。
奴隷として。
生活をしていないのですから「悟り」は遠のくばかりです。



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いじめ問題の究極の解決方法

私は本気で、いじめ被害で自殺するような子供は、ぜひこういう行動に出てほしいと思っている。それは「英雄的行為」だとすら思う。
そして社会もこのような行為はいじめへの「正当防衛」だという目を持ってほしい。親も、それを恥じるのではなく、「よくやった。私は君を誇りに思う」とハリウッド映画でよくあるセリフで称えてほしいものである。
たとえ相手を殺し、子供が前科者になったと言っても、国自体が犯罪国家のようなところでは、前科者とは言っても「誇れる」前科というのもあるだろう。日本人の逃げ腰の事なかれ主義が、日本を犯罪国家にしているのである。被害者が逃げてばかりいるから加害者を増長させ犯罪的行為が蔓延する。その萌芽は学校で作られているのだ。「復讐は何も生まない」というのは大嘘である。




別高校に通っていた私の友人もクラスの不良からしつこくいじめにあっていたが、ある日、またからかいに来た不良を隠し持ったスパナで顔面滅多打ちにし、馬乗りになっていじめっ子の額が割れて血ダルマになるまで殴り続けたら、以降は誰からもいじめられなくなったらしい。




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宗教と哲学

アイザック氏の指摘は頷けるが、本来そこには「哲学」というのがあるはずで、その哲学が無力だから宗教の代わりになっていないし、また哲学は哲学で、人に有益な影響だけを与えるとも限らない。
ある意味、日本人の事大主義も事なかれ主義も拝金主義も無責任主義も、「邪悪な哲学」だとも言える。それらは、「自分の人生をより良く生きたい」という素朴な考えから生まれ、「そのためには(自分が一番大事なのだから)他人はどうなってもいい」という利己主義によって邪悪化するわけである。
宗教のいいところは、そういう邪悪さが「聖賢の言葉や教え」によって(利己主義というのは動物の本能である「自己保存本能」に立脚しているだけに根治はできないが)信仰者の納得の上で一応排除されることだが、それが「この宗教を信じない連中は敵である」となると、いっぺんに邪悪化する。

なお、そのうち「近代の病としての『生きがい』信仰」というテーマで記事を書いてみる予定なので、備忘のため記しておく。要するに、近代人はほとんどみな精神病(生きがい病)だという内容だ。

  1. さんがリツイート

    「○○するだけで全て上手くいく!」系の本が売られているのを見ると、
    現代日本人は無宗教なんじゃなく、宗教が座るはずの場所が空位なのでそこを必死で探してる段階なだけなんだなあ。という気付きがある


  2. さんがリツイート

    東京で一人暮らししないと彼氏できないじゃん!!!!!!東京は万能都市!!!!行くだけで全ての成功につながる!!!!!!!東京駅に行けば芸能人とすれ違う可能性!!!!!!!!!はやく東京いかなきゃ!!!!!!!!




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リゴリズム

センター試験で国語の試験に定規を使って全科目失格になった話も、「50円で逮捕」の話も、近代日本(あるいは戦後日本、あるいはここ数年)の異常な「庶民への厳格主義」の例だが、そういう厳格主義は「上の人間への大甘さ」とペアになっている。
ところで、厳格主義を「リゴリズム」と言うと思うのだが、正確には「道徳的厳格主義」とでも言うべきもののようだ。
私は、「ゴリゴリズム」と覚えている。いかにも、ゴリゴリと厳めしい感じだからだwww

(以下引用)


リゴリズム(英語表記)rigorism


翻訳|rigorism


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

リゴリズム
rigorism

厳格主義,厳粛主義と訳される。一般には規則,特に道徳的規則の厳守を主張する立場を総称し,禁欲主義や修道生活などをもさす。厳密には次の2つの立場をいう。まず 17~18世紀の道徳問題決疑論で神や教会の法を最も厳密に解釈する倫理神学者の立場。オランダでジャンセニストが蓋然論者に対する厳格主義者と呼ばれたのがこの言葉の初めとされる。もう1つはカントの実践哲学の立場で,道徳法則を尊重し,神や人に対する愛や嫌悪などではなく,ただ法則への尊重の念からそれを遵守することを求めること。カントはこれを禁欲主義や苦行と区別している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報





日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

リゴリズム
りごりずむ
rigorism英語
Rigorismusドイツ語
rigorismeフランス語

厳粛主義、厳格主義。放任主義の反対。カントは、道徳説において善と悪とを峻別(しゅんべつ)する態度をリゴリズムとよび、なんらかの形でその中間をも認める立場を放任主義と名づけた。カントの場合、実践理性から発する定言的道徳法則のみが善の根拠であり、それ以外の行為を、自愛の原理に基づくものであるときめつけて、道徳的価値をいっさい認めないのであるから、当然リゴリズムの立場となる。一般には道徳的価値をすべて精神的なものに帰し、感性的なものを悪の根源とみなして排撃する立場をリゴリズムとよぶ。それゆえリゴリズムはまた享楽主義とも対比される。その点で著名なものに、ストア学派、ジャンセニスムがあり、いずれも禁欲的傾向を有する。カントの思想はこの傾向をもたないが、シラーはこの点を誤解し、次のような詩を書いた。
 私はすすんで友人たちのためにつくす。
 しかしあゝ喜びをもってそれをするのだ。
 そこで私は疑い悩む、自分は道徳的人間ではないのではないかと。[武村泰男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例



精選版 日本国語大辞典の解説

リゴリズム

〘名〙 (rigorism) 道徳的に厳格な規律を設定し、それに従おうとする主義。快楽を否定し、禁欲的態度を守ろうとする。厳格主義。
※竹沢先生と云ふ人(1924‐25)〈長与善郎〉竹沢先生と虚空「カント的厳格主義(リゴリズム)は到底先生の執り能はざる処であった」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報



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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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