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悪を行うことと同情を受けること

別に持っているブログをたまたま読み返して、下の記事がなぜか我ながら非常に面白く感じたので、ここにも転載しておく。



悪を働くことと同情を受けること



彼らは盗みを働くかもしれないし、死人の口から金歯を抜き取るかもしれない。でも正面から差し出された贈り物は決して受け取ろうとはしない。というのはほんのわずかでもお情けのにおいのするものには、それが何であれ、彼らは我慢ならないからだ。


「感謝祭の客」(トルーマン・カポーティ 村上春樹訳)より



この部分は非常に面白いと思ったので、思索のネタとする。つまり、悪事を働くことは慈善や同情を受けるより容易である、あるいはその反対の言い方をするなら、他人の慈善や同情を受けるくらいなら悪事を働くほうがマシ、という心理はなぜ起こるのか、である。
実際、他人からの同情ほど嫌なものは無い、というのはかなり普遍的な心理である。

悪事との対比で言うなら、悪事を行うのは或る意味「自分が強者であることの証明」である。実際、悪事の結果は処罰であり、その処罰の可能性を知りながら悪事を行うことは勇気の証明だ、となるわけだ。これが子供がしばしば万引きなどの小さな悪事をしたり、悪事をすることを「仲間入り」の条件とする理由である。悪事が一種の通過儀礼であるわけだ。「これでお前もめでたく悪の仲間入り」である。原始的な部族がバンジージャンプなどで勇気を証明することで大人の仲間入りをするのと変わりはない。「悪事をする俺ってカッケー」と思っていない不良はいないだろう。そして、そういう不良を素敵と思う馬鹿な女の子も膨大にいる。実際、単に勇気という点だけで言えば、悪を行うことは勇気ある行為ではあるのだから、それを男らしいと見るのもあながち間違いだとも言えないのだ。ただ、馬鹿な勇気であり、ロクでもない人間であることの証明でもあるだけの話だ。
さて、では、他人からの同情や慈善を受けることがあれほど不愉快なのはなぜか、と言えば、悪事との対比で分かるように、それは「自分が弱者であることの証明」だからである。弱者だから同情され慈善を受けることになる。ならば、その同情や慈善を突っぱねることでしか「弱者の位置」から抜け出せないのは当然だ。
要するに、悪事を冒すことは自己愛をむしろ喜ばせ、慈善や同情を受けることは自己愛を傷つけるという、「人間は自己愛の動物である」という基本原則でこの問題は解答が出るのである。

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他人を理解すること

「株式日記と経済展望」の引用記事部分だけを転載。
興味深い情報だが、「将来無くなる仕事」の部分は、話を大げさに言っているのではないか、という気もする。
ただし、前半部分は面白い。何に「いいね」を押したかを見れば、その人の嗜好や指向性、あるいは性格の特徴は分かるだろうし、その分析内容は、たとえば夫(妻)が妻(夫)を理解しているより正確だろう、というのは或る意味当然である。
と言うのは、夫(妻)や妻(夫)は自分の配偶者がどんな買い物をしているかなど知らないのが多いだろうし、会話そのものすら夫婦となってから300回も「突っ込んだ」会話などしていないだろうからである。お互いに、相手への遠慮もあるのが多くの夫婦の姿なのではないか。たとえば結婚前の異性関係など、結婚後に相手に聞いたりするものだろうか。
親子の関係にしても、現実は相当に水臭いもののような気がする。つまり、家族でも「遠慮がある」のが上品な家庭の姿だろう。思ったとおりを思った瞬間に言ったり、腹を立てたらすぐに喚いたり殴ったりするような家庭というのはDQN家庭だけではないか。
要するに、我々は家族の真の姿(特に、何を考えているか)など知らないのが当たり前、ということだ。子供のいじめ自殺事件などでも、家族はその子が自殺するまで子供の状況を知らないのが普通だろう。

そして、その事(我々が家族の内面を知らないこと)はべつに不幸なことでも悲しむべきことでもない。家族だろうが、自分とは別の人間なのであり、その真の姿を知ることは不可能である。悩み事など、ある年齢以上なら当人が考え、判断する以外に解決法は無い。相談された時に相談に乗ればいいだけだ。それ以外は余計なお世話というものだろう。それに、他人の暗い内面など知らないほうが幸せなのではないか。悩みを持つ人間が他人に相談をして、悩む人間が二人に増えて、何がいいのか。自分のことは自分でやる、というのは人生の第一のセオリーだ。

要するに、人生、「語らざれば憂い無きに似たり」である。

たまたま相手の目の中を覗き込んで、そこに憂いの色を見るからこそ風情もあり、奥ゆかしいのである。「俺は不幸だ、俺は寂しいんだ」と喚くのはただの馬鹿だ。



(以下引用)




2018年9月30日 日曜日

ぐっちーさん「日本人もGAFAで大量失業する」 今は「確実に訪れる大災害」の前夜に等しい 9月29日 

もはや「単なる巨大IT企業」では片づけられない

そして、これらの企業に共通している点が1つあります。


彼らの資源は無料で入る皆さんの個人情報です。つまり原材料費はタダ同然。


FB20億人のユーザーは誰に頼まれたわけでもなく、喜んで自分のプライベートをFBにタダで売り渡しています。中には子供の写真まで喜んで載せちゃっている人まで世界中にはたくさんいます。彼らはこれを使い、AI(人工知能)を使ってターゲット広告を打って大儲けをしていますから、原価タダ、と言っていい。


皆さんは喜々としてFBにプライベートをさらし、「いいね!」ボタンを平気で押しているでしょうが、この分野の専門家(心理計量学と言う)であるマイケル・コジンスキー博士(スタンフォード大学)の研究によれば、あなたがFBで68回いいね、を押しただけで95%の確率でその人の国籍を当てられ、さらに90%の確率でその人の性的志向まで当てられる、というのです。


もっと言うと150回の「いいね!」ボタンを押すとAIは配偶者よりその本人を理解することができ、300回に達すると本人も気が付いていないような性格やどのような嗜好かを当てられる、というのですから、これはもう笑っている場合ではありません。


実際にケンブリッジ・アナリティカ社はこの手法を使ってブレグジット(イギリスのEU離脱)の投票捜査をしたことが暴露されていますし、アメリカのドナルド・トランプ大統領の選挙にも関与した、と言われています(コジンスキー博士は自らの関与は否定したが、勧誘された事実は認めた)。


これはあくまでも一例ですが、こんな会社がこの10年間に生まれてしまっているわけです。もはや、単なるIT企業ではなくすべての情報をコントロールする巨大な秘密結社のような会社で、われわれの生活に対するその影響は計りしれない。その結果、もはや人間がやる仕事はほとんどないのです。しかもそのスピードは皆さんの想像よりもはるかに速い。


実際、アマゾンはどんどん無人化を進めていますし、アマゾンゴー(商品を取ってレジを通らずそのまま商品をもって出てくれば課金されるレジ無しコンビニ)が出てきた今、全米にいる340万人のレジ係(全米労働者の2.6%とも言われる)は間違いなく職を失うでしょう。


ここの読者はそうでないことを願いますが、多くの日本人サラリーマンは同様にFB、アマゾンなどによって職を失うことになります。リンクトインなどで、グローバルな人材市場で優秀と評価されれば、恐らく何億円なんて給料は、どうってことのない水準だと思います(現在でもそうですから)。そしてその選別は恐ろしいことにAIがやっている。


一方で、「まあ、せいぜいAI程度だな」、と判定されたらそれはもう、何百万人という世界の同レベルの労働者が競合相手になることを意味しています。もはや日本人同士の戦いではすみません。彼らと職を奪い合えば給料が上がることは期待できないでしょう。事実、われわれが雇っているエンジニアの短期アルバイト(大卒、英語も堪能)はインド人で時給500円程度です。


これはもう「リーマン危機の再来」とか言っているレベルではないのです。とんでもない「災害」前夜にいて、それは大地震と違ってかなりの確率で予測できるのです。


実はこのあたりをしっかり解説している本、『the four GAFA』の翻訳がついに出版されました。さすが東洋経済新報社さんであります。『SHOE DOG』(シュードッグ)、新井紀子先生の『AI VS.教科書が読めない子どもたち』に続いて、最近絶好調ですね。


もちろん、このGAFA本も全米ベストセラー。著者のスコット・ギャロウェイはアントレプレナーの大物で、ワタクシも大変お世話になっている人物です。ここに書かれていることはある意味ホラーに見えるかもしれませんが、これが現実なのです。お早めにぜひご一読を


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リバタリアンとしてのH・スペンサー

ハーバート・スペンサーの著作の編著をこの前から読んでいるのだが、なかなか面白い。その解説の中で、彼がリバタリアンだとされているのを読んで、そう言えばそうかな、と思う反面、私のイメージするリバタリアン(要するに、新自由主義者)とは少し違うような気もするので、念のためにリバタリアンについてのウィキペディアを読むと、なるほど、スペンサーの主張とほぼ同じである。私もよく引用する「権力は腐敗する。絶対権力は絶対腐敗する」のジョン・アクトンもリバタリアンだとは知らなかった。
ただし、私は、「弱者や社会の犠牲者(貧困者の大多数)への政府の福祉政策はまったく不要だ。むしろ悪である」とするリバタリアンの主張にはまったく同意しないので、私自身は社会主義的リベラリストの仲間かな、と思う。社会主義とリバタリアンは根本的な意見が違うので、スペンサーが私の「政治思想的仮想敵」であるのは確認できたようだ。ただし、政府による悪(戦争や際限の無い政府業務拡大と、それに伴う徴税強化)についての指摘はまったく同意する。




概要[編集]


リバタリアンは、「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」(ジョン・アクトン)という信念を持っており[1]、個人の完全な自治を標榜し、究極的にはアナキズム同様、国家や政府の廃止を理想とする[6]。 また、自律の倫理を重んじ、献身や軍務の強制は肉体・精神の搾取であり隷従と同義であると唱え、徴兵制に反対する。徴税は私的財産権の侵害とみなすので、税によって福祉サービスが賄われる福祉国家は、否定する。なお、暴力詐欺、侵害などの他者の自由を制限する行為が行われるとき、自由を守るための強制力の行使には反対しない。自然権的リバタリアンと帰結主義的リバタリアン[7]などに分類される場合がある。


アメリカ合衆国では、選挙年齢に達した者のうちの10%から20%が、リバタリアン的観点を持っているとされている。[8]


リバタリアニズムの基本理念[編集]


リバタリアニズムでは、私的財産権もしくは私有財産制は、個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考える。私的財産権には、自分の身体は自分が所有する権利を持つとする自己所有権原理を置く。(→ジョン・ロック)私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。法的には、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想(法の支配/rule of law)を追求する。経済的には、市場で起きる諸問題は、政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義(レッセフェール/laissez-faire)を唱える。


リバタリアニズムにおける自由[編集]


マレー・ロスバードによると、自由とは個人の身体と正当な物質的財産の所有権が侵害されていない事という意味である。またロスバードは犯罪とは暴力の使用により、別の個人の身体や物質的財産の所有権を侵害する事と定義した。[9]


またロスバードは、古典的自由主義者が使用してきた積極的自由の概念は所有権の観点から定義されていないので曖昧で矛盾に満ちており、知的な混乱と、国家や政府が公共の福祉や公の秩序を理由に個人の権利を恣意的に制限する事を許す事に繋がったとして批判している。[10]


所有権、財産権の根拠[編集]


マレー・ロスバードは万人の為の平等な自己所有権を否定した場合の二つの論理的な選択肢を検討し、万人の為の100%の自己所有権だけが唯一正当化可能な普遍的倫理であると結論した。また物質的な財産についても同様に、最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得する事を否定した場合の二つの論理的な選択肢を検討し、最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得する事だけが唯一客観的に正当化可能であると結論した。[11]


ハンス・ヘルマン・ホッペは、人々の間に恣意的で主観的な分類的差別を作る規範は客観的、間主観的に正当化される事は出来ず、それ故に全ての人に等しい権利を認める規範だけが正当化されると述べ、次に、立論には彼の身体の使用を必要とするので、彼の身体を彼の意思のみで使用する事を許す自己所有権原理と両立しない全ての規範を主張する人は、もし人が本当に彼の身体を彼の意思のみで使用する権利を持たないならば、彼はそれを主張する事さえ許されない筈であり、このような主張を行う人はそれを主張するや否や彼自身の主張に反する行動を取っており、実践的な矛盾に陥っていると指摘し、それ故に全ての人の平等な自己所有権を認めるリバタリアニズムだけが先験的に正当化されるとした。また彼は同様の推論から最初の占有者がその物質的な資源の所有権を獲得するとする財産原理も矛盾無しに異議を唱える事は出来ないと主張する。(en:Argumentation_ethics)


リベラリズムとの違い[編集]


リベラリズムは自由の前提となるものを重視して社会的公正を掲げるため、リバタリアニズムと相反する。例えばリベラリズムは、貧困者や弱者がその境遇ゆえの必要な知識の欠如、あるいは当人の責めに帰さない能力の欠損などによって、結果として自由な選択肢を喪失する事を防ぐために、政府による富の再分配や法的規制など一般社会への介入を肯定し、それにより実質的な平等を確保しようとする。


しかし、リバタリアンは「徴税」によって富を再分配する行為は公権力による強制的な財産の没収であると主張する。曰く、ビル・ゲイツマイケル・ジョーダンから税金を重く取り、彼らが努力によって正当に得た報酬を人々へ(勝手に)分配することは、たとえその使い道が道義的に正しいものであったとしても、それは権利の侵害以外の何物でもなく、そうした行為は彼らの意思によって行われなければならない。すなわち、貧困者への救済は国家の強制ではなく自発的な仕組みによって行われるべきだと主張する。

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「人は集団だと非論理的になる」か?

wiredというサイトから転載。ただし、論題が面白いので取り上げただけなので、記事内容は未読であり、私自身の考察が長くなるようなら、記事そのものはカットする予定。
「人はなぜ集団では非論理的になるのか」というのは実に面白い問題ではないか。そのことにうんざりしている人は無数にいるだろうが、それを普遍的問題として考えた人は少ないのではないか。
今、少しだけ読みかけている「ハーバート・スペンサー・コレクション」という文庫本の最初のあたりに、こういう言葉がある。(H・スペンサーは「社会進化論」つまり「優勝劣敗が社会の当然の姿」という意見の持ち主であり、「社会福祉政策は世界の幸福の基盤」という信念の私の仮想敵なのだが、彼の著書自体を読んだことが無いので、確認のために読んでいるわけだ。)


「ある行動の仕方がーーその政策がいかに疑わしく、その善悪の結果がいくら重大なものであってもーーひとたびわれわれの祖先の従うところとなると、大部分の民衆は〈それは正しいことか?〉と自問することさえなく、同じ行動を続ける。慣習というものは、極めて議論の余地がある論点について一瞬も考慮せずに結論に至り、ごく疑わしい命題を公理に変え、ほとんど自明の真理さえも考慮に値しないものとして排除するという、羨望すべき力を持っている」(「政府の適正領域・第一の手紙」森村進編訳)

これは「慣習」についての言葉だが、集団の議論における「鶴の一声」、つまり、権力者やその代理人の一言で集団の意見が決定する、という事実によく似ていて、このことは民主主義を標榜している国でも独裁国家でも変わらない事実である。ただし、権力者が「柔弱」な性格の場合は話が別である。その場合、議論は錯綜し、誰にとっても不平不満の残る結果になりがちなのではないかwww 

要するに、「集団だと非論理的になる」というのは、単に「論議を尽くさない」か、「正しい論理が、不合理な論理を持つ強者によって抑えつけられる」だけの話である、と思うわけだ。
わりと簡単な結論になったようなので、引用記事はそのまま引用してみるが、未読である。

(以下引用)

人はなぜ集団では非倫理的になるのか?

なぜ人間は、集団で行動すると恐ろしい行為に走りやすいのだろうか。集団の一員として競争に参加すると、の「内省」にかかわる領域の活動が鈍るという研究結果が発表された。


TEXT BY KADHIM SHUBBER
IMAGE BY SHUTTERSTOCK
TRANSLATION BY TOMOKO TAKAHASHI, HIROKO GOHARA/GALILEO

WIRED NEWS (UK)



人間が集団になるとどんなに残酷な存在になりうるかについては、誰もが、直接的に体験したことがあるか、あるいは今後体験するかもしれない。1対1の交流は常識によって制御された「人間的」なものであっても、「われわれ」と「彼ら」という概念が入ってくれば、事態は急速に恐ろしいものになりうる。

集団になるとから倫理が奪われる?

なぜ人間は集団で行動すると、恐ろしい行為に走りやすいのだろうか。この疑問については数多くの説があるが、それらの説は大きく3つのカテゴリーに分けられる。第1は、「われわれ」の利益のために「彼ら」を犠牲にして行動するのは「合理的」だから、という説明。第2は、集団のなかに入ると、人間は匿名的な存在になり、個人の責任がごまかしやすいから、という説明。第3は、集団になると、個としての自己意識や、自分なりの道徳観念が薄れるから、という説明だ。


マサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学バークレー校、カーネギーメロン大学のチームはこのほど、この第3の説についてもう少し詳しく見ることにした。その結果、われわれは集団になると、「倫理と関係する脳の領域」の活動が鈍るらしいことが明らかになった。


この研究では、大学生23名が、画面上に一連の文章が表示されるゲームに参加した。すでに個々の被験者自身について調査が行われており、これらの文章はそれらを表示する内容となっていた。それらには例えば、「Facebookに600人以上の友人がいる」などのソーシャルメディアに関するものと、「皆で共有している冷蔵庫から食べ物を盗んだことがある」などの道徳的な問題に関するものが含まれていた。


被験者は、ソーシャルメディア関連のメッセージが表示されたらボタンを押すよう指示された。そしてこのゲームは、別の被験者と個人同士で、または、被験者グループとグループ対戦で賞金を争って対戦するかたちで行なわれると説明されていた。そして、ゲーム中の脳の活動がMRI(核磁気共鳴画像法)を使って観察された。

しかし実際には、ゲームは被験者の注意をそらすためのもので、研究チームの本当の目的は、脳の「内省」にかかわる領域、内側前頭前皮質の活動を観察することだった。



実験結果によれば、チームの一員としてゲームに参加した場合の被験者は、個人として参加した場合に比べて、道徳にかかわるメッセージが表示されたときの内側前頭前皮質の活動が顕著に低かった。


さらにゲーム終了後、研究論文に載せるための対戦相手の顔写真を被験者に選ばせたところ、内側前頭前皮質の活動が低かった被験者は、チームメイトに比べて写りのよくない対戦相手の顔写真を選ぶ傾向を示した。

群集心理はどう影響するのか

「重要なのは、こうした相関性が道徳的なメッセージに特異的だった点だ」と、研究チームは『NeuroImage』誌に発表した論文の中で述べている。「コミュニケーションに関するメッセージでは、<写真の選択>と<脳活動>の反応に相関性はみられなかった」。


興味深いことに、すべての被験者が脳活動において同じような反応を示したわけではない。チームで競争することに非常に強く影響された被験者もいれば、それほど影響を受けなかった被験者もいる。集団のなかに置かれると、より自分を見失いやすいタイプの人と、そうでない人がいると考えられるが、その理由は今回の研究では検証されていない。


研究の筆頭著者ミーナ・シカラは、プレスリリースの中で次のように述べている。「このプロセスだけで集団間紛争を説明することはできない。それでも今回の結果は、少なくとも一部のケースにおいては、自己の道徳基準を積極的に省みることが、『群集心理』の影響を弱めるのに役立つ可能性を示している」

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なぜマルキシズムは嫌悪されるのか

井沢元彦の「逆説の日本史」は面白いのだが、その中に時々出てくるマルキシズム批判や現代の反体制運動への批判(労働運動などもそのひとつとされているようだ)や嫌悪感というのが、どこから来ているのか、考えてみる価値はありそうだ。
というのも、私自身、若いころには共産主義や反体制運動に対して、その内容も知らないうちから嫌悪感しか感じなかったからである。その理由を心理分析すると面白いと思う。
なぜ、まったく無知な人間(庶民であり、マルキシズム的に言えば、搾取される側だ)が、共産主義思想、あるいはマルキシズムに嫌悪感を感じるのか、これは考察する価値はあると思う。

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バイアスのかかった中庸

  1. 「私はいかにして、「党派的だ」と非難されるのを心配することをやめ、党派的発言を愛するようになったか」というタイトルの小論を思い付いた。もちろん、映画「Dr Strangelove」の副題のもじりである。党派性を避けようとする心性そのものが、思考を正常な論理展開から捻じ曲げ、「無理に作った中庸」という奇妙なものにする、ということもありそうだ。
  2. 小田嶋隆 @tako_ashi 9時間前
  1. というよりも、「党派性」というワードを攻撃し、一般人が党派的に振る舞うことへの警戒心と恐怖心を広める言説の普及に腐心しているのは、つまるところ世の中から党派を根絶することによって利益を得る党派、すなわち「現体制」(ステイタス・クォー)だったりするわけですね。
  1. 党派性こそが諸悪の根源であるかのような言説を躍起になって広めようとしている人々の狙いは、多少とも党派的な立場に依拠してものを言っている人間のすべてを「何かに取り憑かれた狂信者」扱いにすることを通じて、起こっている議論そのものを封殺することなのではあるまいか。
  1. 党派性から逆算して問題への解答を導き出す態度や、党派への忠誠を再優先事項として現実への関わり方を決定する生き方が非人間的であるのはもちろんだが、一人の人間が特定の問題について自分の考えを深めた結果として、一方の党派を支持するに至るなりゆきが他人に非難される筋合いはない。
  1. 党派性そのものを悪と決めつける言説は、人々の論争的な問題への関与を抑圧する結果をもたらす。というのも、政治的なイシューは、多かれ少なかれ人々を党派的な立場に分断する傾きを持っているもので、とすれば、党派性を禁じられた人間は、自発思考を断念せざるを得なくなるからだ。
    1. 誰であれ特定の問題について自分の考えを表明すれば、当然、支持なり不支持なりの立場を選択することになる。このこと、つまり、一人の人間が2つの対立する立場のうちの一方に立つことを余儀なくされるなりゆきを「党派性にからめとられる」てな調子で安易に非難する人間を、私は信用しない。



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「女子は殴らないとわからない」か

「AERA」から転載。
記事中の言葉を借りれば、「何の科学的根拠もない」考えなのだが、「女子は殴らないとわからない」というのは、ある種の経験則から出ている言葉ではないか、という気がする。
もちろん、私は女を殴るような男は男の屑だと思っているし、女性に手を上げたことは一度も無い。男にだって手を上げたことは中学生のころに一度、大学時代に一度しかない。大学時代のことは、酔っ払って、何が何だかわからないうちに集団の喧嘩になっていたので、カウントしていいのかどうか疑問である。まあ、要するに、肉体的暴力は嫌いなのだ。特に、弱者に対する暴力行為は、反吐が出る思いがする。
だが、女性は案外、暴力に許容的である気がする。DVをする亭主やヤクザみたいな男に惚れる女性が多いのは、そういう「暴力耐性」が高いのも理由だろう。映画鑑賞をする時などだと暴力シーンを毛嫌いするのに、身近な暴力には案外と許容的な感じがするのが不思議である。宮川選手のコーチもそうだと思うが、「女扱いの上手い」男は、そういう「飴と鞭」の使い分けが上手いようだ。「自分に真剣に向かってくれている」という幻想を与えるのだろう。
さて、「女子は殴らないとわからない」というのは、女性にとっての会話というのは基本的に「感情のキャッチボール」であって、論理的な交渉事ではないと思われるからだ。となれば、相手の言うことを本気で聞いているはずがない。誰だったか、「女は、相手が話している時には、聞いていない。聞いているふりだけして、その間、次に自分が言うことを考えている」と言っていたが、そういう相手に指導をするのは言葉だけでは無理で、「殴らないとわからない」という気持ちになるのは自然だろう。
以上は、女性というものにはまったく無知な人間の妄想だが、私の狭い知見の範囲で考えると、そういう気がする、という話である。

いや、もちろん、以上の妄言は、「だからスポーツ指導に暴力は必要だ」という話ではない。暴力が必要な事象など、世の中には無い。たとえば赤ん坊に焼けたストーブの危険性を教えるのに、指を一瞬だけストーブに触れさせる、というようなのは、暴力とは別のことである。体罰などというのも問題外である。では、女子へのスポーツ指導はどうする、と言われたら、スポーツなど、そもそも必要か、というだけのことだ。あんな「遊び事」のために暴力が肯定されていいはずがない。



(以下引用)

「女子は殴らないとわからない」女子スポーツ界にはびこる非常識

島沢優子AERA



体操女子の宮川紗江選手(右)と速見佑斗元コーチ(左)。速見元コーチは指導で暴力があったことは認めたが、宮川選手が「一緒に2020年東京五輪をめざしたい」と希望しているため、指導再開の意向も示している (c)朝日新聞社

体操女子の宮川紗江選手(右)と速見佑斗元コーチ(左)。速見元コーチは指導で暴力があったことは認めたが、宮川選手が「一緒に2020年東京五輪をめざしたい」と希望しているため、指導再開の意向も示している (c)朝日新聞社






高校部活動で女子が受けた競技別の体罰経験(AERA 2018年9月24日号より)

高校部活動で女子が受けた競技別の体罰経験(AERA 2018年9月24日号より)



 女子のスポーツ界を巡って、体罰やパワハラなどの問題が表面化している。「女子には自律性が足りない」という根拠なき社会認識が問題を助長している。

【高校部活動で女子が受けた競技別の体罰経験はこちら】

*  *  *
 リオデジャネイロ五輪体操女子団体で4位入賞に貢献し、10月開幕の世界選手権(カタール)代表候補でもある宮川紗江選手(19)に暴力を振るったとして、速見佑斗元コーチ(34)が日本体操協会から無期限の登録抹消などの処分を受けた。同協会によると、2013年9月から18年5月にかけ、宮川選手の顔を手でたたく、髪を引っ張るなどの暴力や暴言を繰り返したとされる。会見した速見元コーチは暴力を認め、「不快な思いと恐怖を与えた」と謝罪した。

 一方で宮川選手が、塚原光男副会長(70)と千恵子・女子強化本部長(71)の夫妻からのパワハラを告発。二つの問題が複雑に絡み合う異常事態となっている。

 12年に大阪市の高校生がバスケットボール部顧問の暴力やパワハラ指導を苦に自殺したことなどを機に、スポーツ界は暴力根絶に向けて動き出した。それから6年。いまもって日本代表クラスの選手が暴力指導を受けているという事実は衝撃的だ。

 宮川選手が速見元コーチから平手打ちされる暴力動画がテレビ放映されると「あそこまで殴るなんて」と非難の声はさらに拡大した。特に、体格的に劣る女子選手を男性コーチが殴るという構図は、理解しがたい。

 ところが、スポーツ指導の現場にいる人の感覚は少し異なる。関東地方でミニバスケットボールの指導をする50代の男性コーチは明かす。

「女子への暴力が発覚して処分されるコーチは小学生チームにもいる。大会のベンチを見ればわかるが、女子チームのコーチのほうが暴言もひどい。怒鳴られたら女の子は萎縮する」

 体操の問題が発覚する以前にも、女子レスリングで強化本部長の、水球女子でも日本代表監督のパワハラ騒動があった。

「女子は受け身なので、男子よりも(暴力や暴言等で)刺激して動かさなければ強くならないと考える人は昔から少なくない」(前出のミニバス男性コーチ)

 そんな“スポ根”漫画さながらの空気が、いまもスポーツ界にはびこっている。


事実、日本女子体育大学の佐々木万丈氏の論文によると、ある体育大学の女子学生188人に調査したところ、高校時代にバレーボール部だった学生では84.2%が、ソフトテニス部だった学生では72.7%が、体罰を受けていた(下のグラフ)。

 女子は暴力的指導を受けやすいだけではない。今後パワハラ指導を解決する道のりを考えると、「女子のほうが険しいのではないか」との見方もある。そう指摘する一人が、スポーツ倫理学が専門で全日本柔道連盟コンプライアンス委員を務める日本福祉大学スポーツ科学部准教授の竹村瑞穂さんだ。

「なぜなら、日本では女子のほうが男子より自律性が低いと思われがちだからです。つまり、自分で意思を決定し、判断し、行動を決める力が弱いと見なされやすい。本来は、そこに科学的な根拠は何もないはずなのに、そのように見なされ、指導されることによって、自律性、自立性が欠如した選手が生み出されてしまうといった構造があるのかもしれない。男性指導者と女性選手の関係性では、過去を振り返れば男尊女卑の歴史の中で、女性選手が周りの言うことを聞き、受け身になってしまう環境が作られがちであったのは事実でしょう」

 女子が暴力的指導を受けやすく、かつそれを許容しやすいのには、社会的背景があるのだ。竹村さんによると実際、「女子は殴らなければわからない」という理由で体罰をした事例の報告もあるという。

(ライター・島沢優子)

AERA 2018年9月24日号より抜粋


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