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バイアスのかかった中庸

  1. 「私はいかにして、「党派的だ」と非難されるのを心配することをやめ、党派的発言を愛するようになったか」というタイトルの小論を思い付いた。もちろん、映画「Dr Strangelove」の副題のもじりである。党派性を避けようとする心性そのものが、思考を正常な論理展開から捻じ曲げ、「無理に作った中庸」という奇妙なものにする、ということもありそうだ。
  2. 小田嶋隆 @tako_ashi 9時間前
  1. というよりも、「党派性」というワードを攻撃し、一般人が党派的に振る舞うことへの警戒心と恐怖心を広める言説の普及に腐心しているのは、つまるところ世の中から党派を根絶することによって利益を得る党派、すなわち「現体制」(ステイタス・クォー)だったりするわけですね。
  1. 党派性こそが諸悪の根源であるかのような言説を躍起になって広めようとしている人々の狙いは、多少とも党派的な立場に依拠してものを言っている人間のすべてを「何かに取り憑かれた狂信者」扱いにすることを通じて、起こっている議論そのものを封殺することなのではあるまいか。
  1. 党派性から逆算して問題への解答を導き出す態度や、党派への忠誠を再優先事項として現実への関わり方を決定する生き方が非人間的であるのはもちろんだが、一人の人間が特定の問題について自分の考えを深めた結果として、一方の党派を支持するに至るなりゆきが他人に非難される筋合いはない。
  1. 党派性そのものを悪と決めつける言説は、人々の論争的な問題への関与を抑圧する結果をもたらす。というのも、政治的なイシューは、多かれ少なかれ人々を党派的な立場に分断する傾きを持っているもので、とすれば、党派性を禁じられた人間は、自発思考を断念せざるを得なくなるからだ。
    1. 誰であれ特定の問題について自分の考えを表明すれば、当然、支持なり不支持なりの立場を選択することになる。このこと、つまり、一人の人間が2つの対立する立場のうちの一方に立つことを余儀なくされるなりゆきを「党派性にからめとられる」てな調子で安易に非難する人間を、私は信用しない。



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「女子は殴らないとわからない」か

「AERA」から転載。
記事中の言葉を借りれば、「何の科学的根拠もない」考えなのだが、「女子は殴らないとわからない」というのは、ある種の経験則から出ている言葉ではないか、という気がする。
もちろん、私は女を殴るような男は男の屑だと思っているし、女性に手を上げたことは一度も無い。男にだって手を上げたことは中学生のころに一度、大学時代に一度しかない。大学時代のことは、酔っ払って、何が何だかわからないうちに集団の喧嘩になっていたので、カウントしていいのかどうか疑問である。まあ、要するに、肉体的暴力は嫌いなのだ。特に、弱者に対する暴力行為は、反吐が出る思いがする。
だが、女性は案外、暴力に許容的である気がする。DVをする亭主やヤクザみたいな男に惚れる女性が多いのは、そういう「暴力耐性」が高いのも理由だろう。映画鑑賞をする時などだと暴力シーンを毛嫌いするのに、身近な暴力には案外と許容的な感じがするのが不思議である。宮川選手のコーチもそうだと思うが、「女扱いの上手い」男は、そういう「飴と鞭」の使い分けが上手いようだ。「自分に真剣に向かってくれている」という幻想を与えるのだろう。
さて、「女子は殴らないとわからない」というのは、女性にとっての会話というのは基本的に「感情のキャッチボール」であって、論理的な交渉事ではないと思われるからだ。となれば、相手の言うことを本気で聞いているはずがない。誰だったか、「女は、相手が話している時には、聞いていない。聞いているふりだけして、その間、次に自分が言うことを考えている」と言っていたが、そういう相手に指導をするのは言葉だけでは無理で、「殴らないとわからない」という気持ちになるのは自然だろう。
以上は、女性というものにはまったく無知な人間の妄想だが、私の狭い知見の範囲で考えると、そういう気がする、という話である。

いや、もちろん、以上の妄言は、「だからスポーツ指導に暴力は必要だ」という話ではない。暴力が必要な事象など、世の中には無い。たとえば赤ん坊に焼けたストーブの危険性を教えるのに、指を一瞬だけストーブに触れさせる、というようなのは、暴力とは別のことである。体罰などというのも問題外である。では、女子へのスポーツ指導はどうする、と言われたら、スポーツなど、そもそも必要か、というだけのことだ。あんな「遊び事」のために暴力が肯定されていいはずがない。



(以下引用)

「女子は殴らないとわからない」女子スポーツ界にはびこる非常識

島沢優子AERA



体操女子の宮川紗江選手(右)と速見佑斗元コーチ(左)。速見元コーチは指導で暴力があったことは認めたが、宮川選手が「一緒に2020年東京五輪をめざしたい」と希望しているため、指導再開の意向も示している (c)朝日新聞社

体操女子の宮川紗江選手(右)と速見佑斗元コーチ(左)。速見元コーチは指導で暴力があったことは認めたが、宮川選手が「一緒に2020年東京五輪をめざしたい」と希望しているため、指導再開の意向も示している (c)朝日新聞社






高校部活動で女子が受けた競技別の体罰経験(AERA 2018年9月24日号より)

高校部活動で女子が受けた競技別の体罰経験(AERA 2018年9月24日号より)



 女子のスポーツ界を巡って、体罰やパワハラなどの問題が表面化している。「女子には自律性が足りない」という根拠なき社会認識が問題を助長している。

【高校部活動で女子が受けた競技別の体罰経験はこちら】

*  *  *
 リオデジャネイロ五輪体操女子団体で4位入賞に貢献し、10月開幕の世界選手権(カタール)代表候補でもある宮川紗江選手(19)に暴力を振るったとして、速見佑斗元コーチ(34)が日本体操協会から無期限の登録抹消などの処分を受けた。同協会によると、2013年9月から18年5月にかけ、宮川選手の顔を手でたたく、髪を引っ張るなどの暴力や暴言を繰り返したとされる。会見した速見元コーチは暴力を認め、「不快な思いと恐怖を与えた」と謝罪した。

 一方で宮川選手が、塚原光男副会長(70)と千恵子・女子強化本部長(71)の夫妻からのパワハラを告発。二つの問題が複雑に絡み合う異常事態となっている。

 12年に大阪市の高校生がバスケットボール部顧問の暴力やパワハラ指導を苦に自殺したことなどを機に、スポーツ界は暴力根絶に向けて動き出した。それから6年。いまもって日本代表クラスの選手が暴力指導を受けているという事実は衝撃的だ。

 宮川選手が速見元コーチから平手打ちされる暴力動画がテレビ放映されると「あそこまで殴るなんて」と非難の声はさらに拡大した。特に、体格的に劣る女子選手を男性コーチが殴るという構図は、理解しがたい。

 ところが、スポーツ指導の現場にいる人の感覚は少し異なる。関東地方でミニバスケットボールの指導をする50代の男性コーチは明かす。

「女子への暴力が発覚して処分されるコーチは小学生チームにもいる。大会のベンチを見ればわかるが、女子チームのコーチのほうが暴言もひどい。怒鳴られたら女の子は萎縮する」

 体操の問題が発覚する以前にも、女子レスリングで強化本部長の、水球女子でも日本代表監督のパワハラ騒動があった。

「女子は受け身なので、男子よりも(暴力や暴言等で)刺激して動かさなければ強くならないと考える人は昔から少なくない」(前出のミニバス男性コーチ)

 そんな“スポ根”漫画さながらの空気が、いまもスポーツ界にはびこっている。


事実、日本女子体育大学の佐々木万丈氏の論文によると、ある体育大学の女子学生188人に調査したところ、高校時代にバレーボール部だった学生では84.2%が、ソフトテニス部だった学生では72.7%が、体罰を受けていた(下のグラフ)。

 女子は暴力的指導を受けやすいだけではない。今後パワハラ指導を解決する道のりを考えると、「女子のほうが険しいのではないか」との見方もある。そう指摘する一人が、スポーツ倫理学が専門で全日本柔道連盟コンプライアンス委員を務める日本福祉大学スポーツ科学部准教授の竹村瑞穂さんだ。

「なぜなら、日本では女子のほうが男子より自律性が低いと思われがちだからです。つまり、自分で意思を決定し、判断し、行動を決める力が弱いと見なされやすい。本来は、そこに科学的な根拠は何もないはずなのに、そのように見なされ、指導されることによって、自律性、自立性が欠如した選手が生み出されてしまうといった構造があるのかもしれない。男性指導者と女性選手の関係性では、過去を振り返れば男尊女卑の歴史の中で、女性選手が周りの言うことを聞き、受け身になってしまう環境が作られがちであったのは事実でしょう」

 女子が暴力的指導を受けやすく、かつそれを許容しやすいのには、社会的背景があるのだ。竹村さんによると実際、「女子は殴らなければわからない」という理由で体罰をした事例の報告もあるという。

(ライター・島沢優子)

AERA 2018年9月24日号より抜粋


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精神勝利法www

「ネットゲリラ」から転載。
公正を期すならば、ネトウヨに限らず、ネットで政治について熱く語る無力な下級国民(つまり、あなたであり私である)は皆、阿Qに近い。私も自分のブログで上級国民をあれこれ批評批判することで「精神的な勝利」を得ているわけだろうwww
もっとも、私は青年時代から、「(外面的事実ではなく)精神の中で起こることが本物の体験である」という主義で、これはアルチュール・ランボーの言葉に啓示を受けてそういう思想になったものである。



(以下引用)


ところで魯迅の書いた阿Q正伝というのは言うまでもない、大傑作なんだが、社会の落ちこぼれ、落伍者の阿Qが、意味もわからないまま「革命」に便乗して大騒ぎ、あげく、無実の罪で処刑されるという話です。

彼は、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。

魯迅は本作で、無知蒙昧な愚民の典型である架空の一庶民を主人公にし、権威には無抵抗で弱者はいじめ、現実の惨めさを口先で糊塗し思考で逆転させる彼の滑稽な人物像を描き出し、中国社会の最大の病理であった、民衆の無知と無自覚を痛烈に告発した。物語の最後で、まったくの無実の罪で処刑される阿Q、その死にざまの見栄えのなさに不平を述べる観衆たちの記述は、同胞の死刑に喝采する中国人同胞の姿にショックを受けた作者の体験を反映する。

なんで魯迅は、21世紀の日本のネトウヨを知っていたのかねw 毛沢東はこの小説を高く評価していて、なるほど、実生活で欲求不満を抱えた無知な大衆を感情で扇動して動員し、政敵を潰すというのは、阿Q正伝を裏読みしていたからこそ、出て来た戦略だw



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神道の発生とその意味

別ブログの過去記事を読み直して、我ながら面白いと思ったので、ここにも転載しておく。
ただし、文中の「東郷神社」や「乃木神社」は名前から日露戦争の東郷や乃木を祭ったものだろうと推測しただけで、実際に調べてはいない。私の書いた記事はだいたいそんないい加減なものであり、考察自体を楽しんで書いたものだ。




神道の発生とその意味

司馬遼太郎の「この国のかたち」の中に「ポンぺの神社」という話があるが、これが日本における神道の起こりを暗示する話である。
それは、江戸期にオランダ人ポンぺから蘭学(主に医学)を学んだ山口の人が、ポンぺの学問の深さと教育への熱意に感動し、郷里に帰ってから実家の庭に祠を作り、それを「ポンぺ神社」として毎日拝み、家族にも拝ませた、というような話である。もちろん、ポンぺ本人の知らないことである。

「唐突だが、右の祠に対する未亡人やその孫の感情と儀礼こそ、古来、神道とよばれるものの一形態ではないだろうか」と司馬遼太郎は書いている。

この言葉は非常に示唆的だと思う。
神道の本質は何か、納得のいく説明をした人は少ない。自然現象などを恐れて、これは何かが祟るのだ、と思って、祟りを受けないようにと祭ったのが神道だ、という解釈もあるだろうし、森羅万象に魂があるとするアニミズムの一種だ、とする人もいるだろう。
だが、古代の神道はともかく、近代の「東郷神社」や「乃木神社」に見られるように、普通の人間を神として祭るのが日本の神道の特徴であり、それなら、無名の人間の人格や行為に大きな感動を受けた人が、その人間を神として祭ることもあっていい。むしろ、それが日本的な「神」だったのではないか。(我々は「神」を、まず西洋的な絶対神としてイメージするから日本の神道が理解できなくなるわけだ。)
要するに、何かへの「畏敬の念」というのが先にあり、それを形にしたのが祠であり神社であるわけだ。
西洋の宗教のように教義や(フィクションとしての)神が先に存在するのではなく、自分が畏敬する存在が「神」になるのである。
「神」とは要するに「上(かみ)」と同義だったのではないか、と私は思う。すなわち、自分より高みにいる存在である。
自分のまったく及ばないような何かを持つ人間(あるいは動物でも自然現象でもいい)を畏敬する気持ちが神道の本質だ、ということである。
なぜ、その畏敬の気持ちを祠のような物や礼拝などの儀礼にするかと言えば、それを目に見て拝むことで、自分の畏敬の気持ちをその度毎に新たにするという、一種の知恵だと思う。拝むことで精神が高まり、勇気も得られる、ということだ。
これが、多くの神社が特に軍人を祭る理由でもある。(国策としてそういう「軍神」を祭ることの弊害は今は措いておく。)
死者であるというだけで神になるのではない。




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神道の「癖」

別ブログに書いた、富永仲基「翁の文」現代語訳の最後の章だが、冒頭は前章の続きなのでカットして転載する。
仲基による仏教儒教神道批判は痛烈だが、彼の言う「真の道」の内容が不明だ、という仲基批判もある。だが、要するに、「常識」で判断し行動する、というだけのことである。判断できないことは周囲や前例に従えばいいが、批判精神を持ちながら従えばいいわけである。(言うまでもなく、その「常識」が社会的洗脳であることもたくさんあるのだ。)
なお、「幻術」は仏教の癖、「文辞」は儒教の癖である。「隠すこと」と「幻術」は似ているが違う。



翁の文(第十六節)


さてまた神道の癖は神秘・秘伝・伝授で、ただ物を隠すのがその癖である。およそ隠すということは偽り盗むことの基で、幻術や文辞は、見ても面白く、聞いても聞きがいのあることで、許されるところがあるけれども、(神道の)この癖だけは非常に劣っていると言うべきである。それも、昔の世は、人の心が素直で、これを教え導くのに(神秘・秘伝・伝授の)便宜もあっただろうが、今の世は末世で、偽り盗む者が多い中に、神道を教える者が逆にその悪を擁護することは非常に道理に逆らうことと言うべきである。あのあさましい猿楽(能)や茶の湯のような事に至るまで、みなこれを見習い、伝授印可をこしらえ、それどころか値を定めて(宗匠たちの)口すぎのためにするようになっている。まことに悲しむべきことである。ところが、これをこしらえた理由を聞くと、根機(訳者注:何かを理解するために十分な能力や適した時期、くらいの意味。)が熟さない者には容易に伝えにくいためである、と答える。これも理屈が立っているように聞こえるが、そのようにたやすく伝えにくく、また値を定めて伝授するような道はみな真の道ではないと心得るべきである。


「翁の文」終


訳者注:趣旨とはあまり関係ないが、能や茶の湯が「あさましい」(驚く意だが、その対象はたいてい下劣なものであり、現代の「あきれる」「いやしい」に通じている。)ものとされているのが面白い。芸能などが長年続いていくと、その家元や弟子たちによってそのジャンルや流派が「荘厳化」されていくわけである。この詐欺的行為が「仏教」「儒教」「神道」の「意味不明さの根底にあるもの」だと見、「三教(諸派)の宣伝活動の結果」と見たのが「翁の文」の主旨と言えるかもしれない。三教についての膨大な研究の末に「王様は裸だ」という声を上げたのが「翁の文」であり、富永仲基という思想家は、誰もが薄々感じていたことを初めて口に出した、あの子供なのである。




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なぜ美人は「美」なのか

容姿の美醜というのは不思議なもので、時代や国によって違うようでもあるし、世界的な共通性もあるような気もする。西洋人の鼻は高すぎると我々は思うし、東洋人の鼻は平べったすぎると西洋人は思うのではないか。口は大きくても小さくても、どちらのタイプの美人もいる。目は西洋風に大きいほうが現代的だが、細くて一重の和風美女も悪くない。しかし、東洋でも西洋でも、美人とは認めがたい顔というのもあるような気がする。それがなぜなのか、美学者に論じてほしいところだ。もっとも、「吾輩は猫である」の迷亭以外に、本当に美学者というのがいるかどうか知らないが、論じるに値するテーマだろう。
下の記事の女優が誹謗中傷を受けたというのは、災難ではあるが、誹謗中傷した側の心理は何となく理解できる気もする。
人間というのは、他人に対し、「その人にふさわしい取り分」というのを何となく想定しており、美人でない人間が「女優」として成功すると不愉快になるのではないだろうか。つまり、「分際を超えた」からである。この「分」というのをルース・ベネディクトは日本人特有の思想と見たが、下の記事を見ると、どこの国にもある気持ちだという気がする。
もちろん、顔だけの問題ではなく、人種差別という部分も大きいだろうが、顔の美醜というのは、何が基準なのか分からないのに何となく共通に「これは美しい」「これは醜い」と区別されるものがあるのが不思議である。
まあ、映画館のスクリーンで長時間眺めるのだから、多くの人が美しいとか魅力的だと感じる可能性の高い顔の俳優を主演や重要脇役で使うのが興行としては正解だ、という当たり前の話である。ちなみに、私は人気俳優でも嫌いな顔というのがあって、そのために見ることができない映画がたくさんある。キムタクの映画などもそうであるが、「ハウルの動く城」は顔ではなく声だけだから我慢して見た。

(以下引用)


ネットの誹謗中傷が、ある女優を追い詰めた。「自分自身よりも彼らの言葉を大切にしていた」

「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」で、アジア系の女性として初めて主要キャラクターを演じたある女優。ネットリンチに晒された数カ月後、初めて口を開いた。



「私のからだは、私のものじゃない。自分がどう思おうと、誰かが認めてくれなければ、私はきれいじゃない。そう思い込むよう、騙されていたことに気付きましたーー」


映画「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」で、アジア系の女性として初めて、スター・ウォーズ映画の主要登場人物を演じた女優ケリー・マリー・トランが8月21日、ニューヨーク・タイムズへ寄せた寄稿が注目を集めている。


トランさんは今年6月、20万人超のフォロワーがいる自身のインスタグラムに投稿した内容を全て削除した。


人種や性別、容姿にまつわる差別的なコメントが、大量に投稿されていたからだ。


賛否両論の作品、憎悪は個人へ


トランさんは、カリフォルニア州サンディエゴ出身のベトナム系アメリカ人。


「最後のジェダイ」では、暗黒面と対峙するレジスタンスのエンジニアで、大切な人を守るために奔走する女性、ローズ・ティコ役を演じた。


作品は世界興行収入1420億円を超える大ヒットとなったが、評価は賛否両論。


一部の熱狂的なファンが、「最後のジェダイ」をシリーズの「正史」から外すよう署名運動を始めるなど、物議を醸していた。


そんな中、作品への憎悪は、外見や性別、人種を理由に誹謗中傷するコメントとなって、トランさん個人にも向けられた。


スター・ウォーズ作品に関わった俳優に、強い批判が向けられることは初めてではない。


第7作の「フォースの覚醒」から主演女優を務めるデイジー・リドリーさんも、誹謗中傷が殺到したため、インスタグラムを削除。


ジャー・ジャー・ビンクス役のアーメド・ベストさんも、猛烈な嫌悪感をぶつけられたのちに、自殺を考えたとツイートしている





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弥生とうちゃんと縄文かあちゃんから生まれた日本人

古代日本においては、縄文人が先住民族であり、彼らは自然からの狩猟採集によって生きていた民族である。そこに朝鮮半島からやってきたのが稲作民族であり、これを弥生人と言っておこう。
弥生人は最初、九州に稲作の地を求めたが、土地が痩せている上に毎年の台風の被害によって稲が全滅することが度重なったため、稲作に適した地を求めて東漸した。これが神武天皇の東征であるが、「征」の字から想像されるような「相手と戦って、その土地を奪い取る」ものではなく、縄文人が何の価値も見出さなかった低湿地帯に居住して稲作という変なことをやる変な奴らとして許容されていただろう。つまり、北米インディアンが、土地の所有の観念が無かったのと同様であり、弥生人が縄文人に敵対行動を取らないかぎり、何の問題もなかったのである。それどころか、稲作というのが素晴らしい文化であり、食物を恒常的に生産できると知ったことで、縄文人は弥生人たちの長所を認め、彼らとの混交(婚交)を積極的に求め、いわば、自分たちの「優れた婿」として招くようになっただろう。なお、弥生人は朝鮮半島の戦乱を逃れて日本に渡来しただろうから、必然的に女性の数が少なかったわけだ。だから、縄文人女性との結婚を歓迎した。
要するに、縄文人は弥生人に駆逐されたのではなく、縄文人と弥生人の結婚によって「縄文人の弥生人化」が起こり、それが今の日本人となったわけである。

以上、中堀豊氏の「古事記考・日本語考」に書かれた内容をヒントに私がまとめた日本人論である。ちなみに、中堀氏は医学者だが、古事記や日本語に深い興味を持ち、日本語は縄文語と弥生語のミックスだ、としている。先の書の副題が「縄文かあちゃん弥生とうちゃんの日本」となっているのは、縄文人の母親から生まれた子供が母親に育てられる過程で縄文語の骨格を覚え、大きくなると弥生人的社会の中で弥生語を覚えていく、ということである。特に稲作関係の語彙や社会交際の語彙(敬語の類)は弥生語だろう、と推測されている。

それに関して、別の書物の中で知ったことだが、「城」は朝鮮語でも日本語でも「キ」と呼ばれるらしい。「しろ」というのは、現在の京都府が奈良盆地から見て山の背後の国ということで「山背(やましろ)の国」と呼ばれ、それが「山城の国」と表記されたことで「城」を「しろ」と呼ぶ習慣ができたので、最初は「城」は「き」だったらしい。
それで私が成る程な、と思ったのは、縄文人はおそらく「城」を作る習慣は無かっただろう、ということである。狩猟採集生活では、食物の保存などほとんどなされず、したがって、財産の蓄積も無い。城の必要性などなかったのである。他人の財産を奪い取るより、自然の中で狩猟し採集したほうが早いし平和的で問題も生じない。アメリカインディアンが基本的に平和で、城や砦を持たなかったのと同じだ。
「水城(みずき)」「稲城(いなき)」はおそらく、稲作用の水源地と稲の保存庫の機能が主であり、それを奪う連中(がいるという弥生人的妄想があったわけだ。)から守るために柵や石垣でその周囲を囲ったものだろう。要するに、縄文人には意味を持たない施設である。(「磐城(いわき)」は、岩を積み上げて作ったものだろうから、機能よりは製法に由来する命名か。)

何が言いたいか、というと、もともと日本に住んでいた縄文人は平和的種族であり、そこに朝鮮半島の戦乱を逃れて渡来した弥生人は「財産の観念(物への強い所有欲)」と稲作の知識と戦争技術の知識を持っていたため、縄文人の中で指導的立場に立ったが、それによって平和な縄文時代は終わりを告げることになった、ということだ。で、現在の我々はその縄文人と弥生人の混血であり、どちらの血が濃いかでその基本的性格もある程度決まっているのかもしれない。九州を中心に、気性の荒い性格が西日本には多いのはそのためだろう。スサノオノミコトなど、弥生人の典型だろうと思う。弥生人は稲作をやるから穏やかだ、とはならないのである。






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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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