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先天的サイコパスと後天的サイコパス

「ハフィントンポスト」記事の一部で、例の目黒の5歳児死亡事件の父親に関するものである。
ネットスラングで言うところの毒親というものだろう。子供にとって害悪でしかない親のことである。その一方で、子供は生存を親に依存せざるを得ない立場であり、こうした状況では子供を救うことは極度に困難になる。児童相談所や家庭裁判所が家庭の内情を知ること(特に子供本人からの聞き取りなど)が難しい上に、親から子供を引き離すことも人権侵害に当たる可能性が高いからだ。
不思議なのは、子供を死に至らせるまで虐待する親(実父ではなかったようだが)の心理である。母親の方も、自分が生んだ子供でありながら、虐待に加担し(少なくとも黙認し)ていたわけだが、主犯は父親の方と思われる。当人は、その虐待を本気でしつけや教育と思っていたのだろうか。その「教育」内容が下に書かれたものである。

私は、世の中の人間の3%は生まれつきのサイコパスだと思っているが、この事件の父親のようなのはそういうサイコパスかどうか、判断しにくい。つまり、当人自身は教育に関する或る種の「主義」で行動しており、その意味ではネトウヨ層とほとんど同じだからである。子供への異常な対応以外は案外まともな生活を送っていたのではないか。つまり、生まれつきのサイコパスではなく、誰でもそうなる可能性がある「後天的に形成されたサイコパス」なのだろう。そういう後天的サイコパスを含めれば、世の中の10%くらいはサイコパスかもしれない。
厄介なのは、表の顔だけを見れば、そういう人々はまともに見えることである。例の日大タックル事件の内田監督や井上コーチも「後天的サイコパス」「隠れサイコパス」と言えるのではないか。


(以下引用)


5歳児に対し過大な期待「モデル体型を維持」

父親は、児相の聞き取りに対し「きちんとしつけないといけないから」と繰り返し説明していた。

県の職員は「5歳児に対して、父親が過大な期待をしていた。とにかく養育や作法について、強いこだわりが見えた」という。

細かなこだわりは、結愛ちゃんの言動からも推し量られた。結愛ちゃんは職員に対し「勉強しないと怒られるから」と伝えていた。

人に会うときは、しっかりおじぎをして、あいさつをしないといけない。

ひらがなの練習をしないといけない。

はみがきは自分でやり、怠ってはいけない。

太りすぎてはいけない。

また、雄大容疑者は体重に対しても異常に気にするそぶりがあり、優里容疑者に「子どもはモデル体型でないと許さない。おやつのお菓子は、市販のものはダメだ。手作りしろ。野菜中心の食事を作れ」と言っていたという。

また、一時保護を解除したときにした「祖父母の家に定期的に預ける」という約束も、「祖父母は子どもを甘やかす。歯磨きすら一人でできなくなる。だからもう行かせたくない」などと言い、だんだんと預けることがなくなったという。

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「ちびくろサンボ」と黒人蔑視

「インドやアフリカの人の肌を白く描けって、それこそ逆の差別で侮辱だろう」はまさに正論であるが、表現規制問題は、その表現された事柄が差別に当たるかどうかの判断が難しいので出版社が「えーい、面倒くせえ。黒人は一切漫画に出すな」としたのだと思う。組織の上部層は何よりも組織防衛(要は上層部の自己防衛だが)を最優先するので、下の人間(この場合は表現者である漫画家)に負担をすべて押し付けて我が身を守ったわけである。

私はロフティングの「ドリトル先生」シリーズが好きなのだが、その中に、黒人部族の王子が白い肌に憧れて膚を白くする薬をドリトル先生に作ってもらうというようなエピソードがあり、それが黒人蔑視だというので欧米で問題になったことがある。これはどう決着がついたのだろうか。それに比べると「ちびくろサンボ」には特に黒人蔑視の思想は無いと私は思うのだが、こちらは世界的に発禁になったはずである。どこが黒人蔑視なのか。サンボの行動が愚かしいなら、それは「子供だから」であり、「黒人だから」ではないはずだ。虎が木の周りをグルグル回っているうちに溶けてバターになる、という愉快な発想だけでも、児童文学史に残るべき作品だと思うのだが。




「ちびくろサンボ」発禁事件当時の表現規制はすごかった。ビビった出版社の「自主規制」で、ちょうど『シンバッド』のインド篇を描いてた私は編集者の意向でインド人の肌からトーンを全部はがして白い肌にさせられた。インドやアフリカの人の肌を白く描けって、それこそ逆の差別で侮辱で失礼だろう。





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紋切型文型は紋切型内容を予測させる

夜中にコーヒーを淹れながら考えたのだが、文型によって、文の内容自体が予測されるような文というのがあるのではないだろうか。いわゆる紋切型の文型は、紋切型の内容を予測させる、ということだ。

「~は…だ(なり)」という文型は、明らかに、何かの定義をする、もしくは判断を下す文型(命題文と言う。)で、しかも「偉そうな断定」だろうという予測をさせる。だから、(志ん生の冗談だったと思うが)「目は人間のマナコなり」という断定が、その偉そうな言い方と、内容の無さのギャップで笑わせるのである。
「~が…だ」という文型は、これも何かの定義をする文型だが、「~は…だ」という言い方との違いは、「古い命題への異議申し立て」であり、「こういう考え方って新しくてステキでしょ」という匂いがプンプンしていることだ。だから、CMのキャッチコピーに使われる。そこで、「毎日がエブリディ」という、いかにもキャッチコピーらしい無内容な文句が、切れ味の鋭いジョークになる。これは(そう意図してのものではないだろうが)CM業界の嫌味さを皮肉ったジョークになっているわけだ。

上に挙げた文型は二つとも命題文だが、命題文における「は」と「が」の違い(と言うより、国語学における「は」と「が」の違い)が、はっきり出ているように思う。

命題文以外にも紋切型の文型を考えてみたいが、今は特に思いつかないので、これだけにしておく。

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被害者まで悪いとされる「喧嘩両成敗」論法

  1. たくさんのコメントがついたツィートで、そのほとんどは子供や学生の頃に、この息子さんのように、被害者の方は少しも悪くないのに被害者まで謝らされたケースである。こうした「喧嘩両成敗」論法は学校教育に蔓延している教育法(喧嘩裁定法)らしい。要するに、被害者まで謝らせれば、事が大事件に発展しないで治められるというズルい方法である。その理不尽さは、下のともき氏のリプライで明確に示されている。こうした教育を受けることで、日本人は「(上長に訴えても無駄だから)不満を抑え、飲み込み、怒りだけを心の中に貯めこむ」奴隷根性を幼いうちから育てられるのである。





    カワシマキノコ @hx7cFaIN4hQTqu0 6月5日
  1. うちの子、休み時間に上級生が投げたボールが顔に当たって保健室で冷やしていたらしく、その件で先生が電話をかけてきたのだけど「ボールを当てた子も悪いけど、ボールが当たる場所にいたあなたも悪いよねって言い聞かせてお互いにごめんなさいって言っておさまりました」って美談のように言うので
  2. 147件の返信 13,321件のリツイート 16,668 いいね

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批判精神の欠如と批判を表明しないことが社会を地獄にする

文芸の批評は、それが作品の売れ行きに関係するから、プロ批評家はどの作品に対しても、できるだけポジティブな批評をするのが望ましい。しかし、アマチュアの批評は「正直な発言ができる」ところに最大の長所があるのだから、その長所を捨てた批評にはほとんど意味がない。
まして政治批評は、社会を良くしたいからこそ批評し批判するはずだ。それ以外に政治批評の意義があるだろうか。
ならば、正直な発言をするしか政治批評の意味はないし、正直な発言とは批判がほとんどになるのも当然である。つまり、「鼓腹撃壌」のエピソードにあるように、政治が理想的なら庶民は政治について考える必要も語る必要も無いのだから。


(以下引用)



さんがリツイート

いや、それでは「批評」が成立しない、変なことになりますよ。






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絵画の意義

  1. こういう、スーパーリアリズムの極限のような作品を見ると、驚嘆するとともに、いったい絵画の意義とは何だろう、と疑問にも思う。この絵が皿に乗っていたら、箸が出るかもしれないが、この絵を部屋に飾っておきたいと思うかどうか。





    さんがリツイート
  1. 5月4日
  1. 明るいとこと暗いとこを強調して立体感を出していきます。最後に絵の具で光を入れて完成です
  2. 423件の返信 58,319件のリツイート 169,239 いいね
  3. 取り消す


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色即是空 空即是色

「紙屋研究所」の過去記事の一節だが、私は「色即是空 空即是色」を唯心論的に解釈している。
まあ、唯心論的とは大げさだが、要するに、世界は解釈する者の心次第である、ということだ。

「色」はあらゆる現象を意味している、と定義しておくと、「色即是空」というのは、解釈する者が存在しなければ、解釈する者の視点による認識も存在せず、つまりある意味では世界も存在しないという意味になる。しかし、事実の上からは、解釈する者、たとえばあなたや私がいなくても、この世界はちゃんと存在している、ということは、私やあなた以外の誰かが死んだ後でも世界が存在していることから確認できる。言い方を変えれば、誰かが死んだ時に消滅するのは、その誰かの世界であり、他の人の世界ではない、ということだ。その意味では個人の死はひとつの世界の死ではある。で、現世に生きて理屈や感情に囚われた現在の自分ではなく、この世界を「死者の目」で眺めてみると、この世界は、自分が存在しないにも関わらず、何一つ変わらないままで美しく素晴らしい。これが「空即是色」である。
そのように、自分がいなかった場合の世界を思考実験的に眺めることが「諸法空相」である。空観によって世界の現象やそのメカニズムを眺めるということだ。そうして眺めたら、それは「不生不滅 不垢不浄 不増不減」である。私自身が存在しないのだから、汚いもきれいも生まれるも滅するも増えるも減るも無意味になる、ということだ。つまり、あらゆる「人間的な価値観」はたいした意味は無い、と分かる。従って、「是故空中無色 無受想行色 無眼鼻耳舌身意 無色声香味触法」となる。(このあたりの経文はうろ覚えである。)

まあ、いずれにしても、「般若心経」というのは、この世界の四苦八苦に絶望した人間に対し、「お前は死にたいか。お前が苦しいのはお前が存在するからだ。では、お前が存在しない世界を想像し、それを無心に眺めてみろ。世界はお前が存在しなくても素晴らしい。それが感じられないのはお前が苦しんでいるからだ。だが、その苦しみのほとんどは、それを苦しみだとしか認識しない、お前の心のためではないのか」と説いているように思う。

まあ、簡単に言えば、物事の感じ方はすべてその人の心次第、という単純な話だ、と私は解釈する。

(以下引用)

 ぼくがはじめて般若心経の口語訳を読んだのは大学時代で、岩波文庫の中村元訳である。
 このお経の、もっとも本質的な部分であり、いちばん有名な部分、
 色不異空、空不異色。
 色即是空、空是即色。
は、つぎのような訳になっている。
「物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ物質的現象で(あり得るので)ある」
 なんとなく、むずかしそうなことをいっているように聞こえる。
 清水義範の小説も、基本的に、この中村訳の影響を出ていない。

 ぼくも、はじめの「色不異空……」という音読みよりははるかにわかりやすくなったから、なんとなくそういう解釈をしていたのだけど、よく考えると意味不明といえなくもない。
 実体のない物質的現象なんてないだろう。

 このギモンをといてくれたのが、橋本左内『牧師が読む般若心経』(白石書店)だった。
 橋本氏は平和運動などをしているキリスト教の牧師で、マルクス主義にも理解がふかい。
 彼の訳と解説によって、ぼくのギモンは氷解した。
「形あるすべてのものは、形ないすべてのものへと消えて存在しており、
 形ないすべてのものは、形あるすべてのものへと現れて存在します」
 つまり、これは古代の弁証法的な自然観のひとつで、たとえば、植物が種から成長し、やがて木になり、最後には朽ち果てて、土となりながらまたその土壌が別の生命をはぐくむという、姿は、おそらくこのような自然観を形成したにちがいなかろうとおもう。
 人間は、つい、その変化や発展の瞬間を切り取って、そこに固執ししてしまう(たとえば、植物の花がさいている状態だけを植物の姿だと思ってしまうように)のだが、この般若心経は、そうした自然や社会、人間の意識のたえまない変転の全体をとらえろという智慧にみちている。
 「これだ」といって、固定できるような形がないこと、これが「空」という意味なのである。
 カラッポとか、無とか、という意味ではない。

 全編こんな調子で、ぼくにはこの唯物論的な解釈に、ものすごく合点がいった。

 仏教とは、もともとこんなかんじで、なにか超越的な神の力というものをおがんで解決するといったところがないもののような気がする。自然や社会の法則をしって、それにそった生き方をすることで解放されるのだ、という教えだから、ぼくは、極端な話、仏教とは無神論ではないかと思う。




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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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