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弥生とうちゃんと縄文かあちゃんから生まれた日本人

古代日本においては、縄文人が先住民族であり、彼らは自然からの狩猟採集によって生きていた民族である。そこに朝鮮半島からやってきたのが稲作民族であり、これを弥生人と言っておこう。
弥生人は最初、九州に稲作の地を求めたが、土地が痩せている上に毎年の台風の被害によって稲が全滅することが度重なったため、稲作に適した地を求めて東漸した。これが神武天皇の東征であるが、「征」の字から想像されるような「相手と戦って、その土地を奪い取る」ものではなく、縄文人が何の価値も見出さなかった低湿地帯に居住して稲作という変なことをやる変な奴らとして許容されていただろう。つまり、北米インディアンが、土地の所有の観念が無かったのと同様であり、弥生人が縄文人に敵対行動を取らないかぎり、何の問題もなかったのである。それどころか、稲作というのが素晴らしい文化であり、食物を恒常的に生産できると知ったことで、縄文人は弥生人たちの長所を認め、彼らとの混交(婚交)を積極的に求め、いわば、自分たちの「優れた婿」として招くようになっただろう。なお、弥生人は朝鮮半島の戦乱を逃れて日本に渡来しただろうから、必然的に女性の数が少なかったわけだ。だから、縄文人女性との結婚を歓迎した。
要するに、縄文人は弥生人に駆逐されたのではなく、縄文人と弥生人の結婚によって「縄文人の弥生人化」が起こり、それが今の日本人となったわけである。

以上、中堀豊氏の「古事記考・日本語考」に書かれた内容をヒントに私がまとめた日本人論である。ちなみに、中堀氏は医学者だが、古事記や日本語に深い興味を持ち、日本語は縄文語と弥生語のミックスだ、としている。先の書の副題が「縄文かあちゃん弥生とうちゃんの日本」となっているのは、縄文人の母親から生まれた子供が母親に育てられる過程で縄文語の骨格を覚え、大きくなると弥生人的社会の中で弥生語を覚えていく、ということである。特に稲作関係の語彙や社会交際の語彙(敬語の類)は弥生語だろう、と推測されている。

それに関して、別の書物の中で知ったことだが、「城」は朝鮮語でも日本語でも「キ」と呼ばれるらしい。「しろ」というのは、現在の京都府が奈良盆地から見て山の背後の国ということで「山背(やましろ)の国」と呼ばれ、それが「山城の国」と表記されたことで「城」を「しろ」と呼ぶ習慣ができたので、最初は「城」は「き」だったらしい。
それで私が成る程な、と思ったのは、縄文人はおそらく「城」を作る習慣は無かっただろう、ということである。狩猟採集生活では、食物の保存などほとんどなされず、したがって、財産の蓄積も無い。城の必要性などなかったのである。他人の財産を奪い取るより、自然の中で狩猟し採集したほうが早いし平和的で問題も生じない。アメリカインディアンが基本的に平和で、城や砦を持たなかったのと同じだ。
「水城(みずき)」「稲城(いなき)」はおそらく、稲作用の水源地と稲の保存庫の機能が主であり、それを奪う連中(がいるという弥生人的妄想があったわけだ。)から守るために柵や石垣でその周囲を囲ったものだろう。要するに、縄文人には意味を持たない施設である。(「磐城(いわき)」は、岩を積み上げて作ったものだろうから、機能よりは製法に由来する命名か。)

何が言いたいか、というと、もともと日本に住んでいた縄文人は平和的種族であり、そこに朝鮮半島の戦乱を逃れて渡来した弥生人は「財産の観念(物への強い所有欲)」と稲作の知識と戦争技術の知識を持っていたため、縄文人の中で指導的立場に立ったが、それによって平和な縄文時代は終わりを告げることになった、ということだ。で、現在の我々はその縄文人と弥生人の混血であり、どちらの血が濃いかでその基本的性格もある程度決まっているのかもしれない。九州を中心に、気性の荒い性格が西日本には多いのはそのためだろう。スサノオノミコトなど、弥生人の典型だろうと思う。弥生人は稲作をやるから穏やかだ、とはならないのである。






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