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笑いの下種的部分

笑いというのは、理性が理性自身を笑うという面があり、その代表が「ナンセンス」という笑いである。つまり、「センス」を笑いの対象とするわけで、センスとは広い意味では理性的思考、あるいは常識的思考と考えていいのではないか。もっと広義には「硬直した思考」であり、「硬直性」そのものが笑いの対象になるかと思う。読んだことは無いが、昔の哲学者(ベルグソンと言ったか)も硬直性が笑いの対象になる、と言っていた気がする。
とすると、笑いというものが、世の良識(まさに、ボン・サンス、つまりセンスの上等なものだ)を笑い、あるいは嘲笑の対象とするのは当然の帰結だろう。良識というものほど「苦虫つぶした顔」の「禁止の体系」はないからだ。(「禁止の体系」とは、倫理の本質的性質である。)
そして、その禁止の体系が守るのが弱者ではなく強者、つまり権力であることも多い。
したがって、現代のようにSNSなどによって「弱者の発言権」が増大した時代において、笑いが攻撃の対象とするのが弱者であり、権力側がそれを応援するのも当然の流れだということになる。
もちろん、これは悲しむべき傾向だが、笑いの本質そのものが(広い意味では表現行為そのものが)自由を求める行為であり、アナーキーなものなのである。(権力を背景にしたアナーキズムというのも妙なものだが、まあ、足軽雑兵が戦場で盗みや強姦行為をするようなものだ。)


(以下引用)小田嶋師のこの文章の引用は前にもしているかもしれない。言うまでもなく、小田嶋師は現在の笑いを批判しているのであるが、私はその流れが「当然の帰結」だという部分だけに焦点を当てて論じただけだ。しかし、これも言うまでもないが、私もまた現在の笑いを批判しているのだ。



 とはいえ、現在のお笑い芸人たちの芸を見て、それが「体制」や「権力」と戦っている姿だとは思わない。



 お笑いの関係者が「戦っている」「勝負している」「ギリギリまで突き詰めてやる」といったような言葉を使う時、彼らの仮想敵は、「コンプライアンス」であり「PC」であり、ヘタをすると「人権思想」や「良識」そのものだったりする。そういう例を私はこの10年、山ほど見てきた。



 つまり、芸人は、「反良識」「反人権」「反反差別」「反フェミニズム」あたりを志向して芸を磨いた方が、より本格派らしく見えるということで、だとすれば、彼らの「毒舌」が、いつしか弱者や被差別者に向けられようになったのは当然の帰結だったのである。





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