私も「自分ほど信じられないものがあるかー」という横島忠夫(@「GS美神」)の名言が大好きなので、この「自己肯定感」という言葉が世間で猛威を振るっていることに違和感を覚えていた気がするが、自覚してはいなかった。その無意識の違和感を見事に説明した記事である。
とりあえず、その一部だけ掲載するが、「自分の醜さを(夢人注:特にその内面を、と私は解釈する。)一番知っているのは自分なのだから、その自分を好きになれるはずはない」というのは実に厳しい指摘で、つまり自己肯定感の持ち主や自己肯定感論者は自己欺瞞者か、口先だけの人間である、と言えるのではないか。(追記:モラルの無い悪党である自分を心底から自己肯定している人間は、自己欺瞞者ではなくサイコパスと言う。)
ついでに言っておけば、これはべつに自己否定せよ、と言っているわけではない。自己否定は自己改造や自己変革への道だが、それが行きすぎると自殺するしかなくなるのである。だが、基本的に、厳しい思索(哲学、宗教、文化的創造)は自己否定から始まると思う。ふだん気楽に生きるぶんには自己肯定も自己否定もどうでもいい。時々他者が勝手にあなたを肯定したり否定したりするので、それに負けないように図々しくなり、世間と戦えばいいだけだ。「タフでなければ生きられない」とはそういうことだ。
(以下引用)
ある地方都市で講演終了後に語り掛けてきた女性は言いました。アルコール依存症の彼女は、自助グループに通って3年断酒をしています。
「親から虐待されてきた私は、親から愛されなかったんだから自分で自分を好きになろうとして努力しましたが、どうしてもできません。そのことでグループの仲間からも批判されたりして苦しいんです、どうすれば自分を好きになれるでしょう」
またある人は言いました。「どうしても自己肯定感を高めることができません。今、高めるための本を読んでいますが……そのとおりにやってもできないので、ますます自己肯定感が低くなって、苦しいんです」
このような発言がすべてを物語っている気がします。
そもそも他者とのあいだで生じた苦しみ、そのことから生まれたさまざまな問題(依存症やトラウマ的症状)をなんとか解決し、少しでも楽に生きるために生まれたはずの自己肯定感という言葉が、その人を苦しめることになっているのではないでしょうか。
当初は、どのような子どもも教師や親から肯定的に受け止められる、ということを目的として生まれたはずの「自己肯定感」が、ほっとして息がつけるようにするための言葉が、しゃにむに獲得する目的になってしまっていること、これは「自分で自分をなんとかする」というそもそも無理なことをやろうとしたからではないでしょうか。
私自身、自分を好きかという問いを投げかけたことはありません。無意味だと思うからです。でもあえて答えるなら、こんな自分を好きなはずがないでしょうと答えます。だいたい、醜い点をいちばんわかっているのが自分なのですから、好きになるはずがないでしょう。