英語試験延期で自民に賛否 「身の丈」発言の萩生田氏に怒りの声も - 産経ニュース
萩生田文科相の「身の丈」発言が大きな話題になっている。僕は英語試験問題とは違うところでごく個人的な経験からこの発言に憤りを覚えた。
現実であれ、ネットであれ、誰かに対して「身の丈にあったことをしていろよ」と言いたくなるようなときでも、その言いたい気持ちを押し殺して、代わりに「頑張ってほしい」と言うようにしている。なぜか。かつて「身の丈」と言われたときの怒りが僕のなかにまだ残っているからだ。「身の丈にあった生活をしろ」と言われたとき僕はまだ可能性のある10代の若者で、偉ぶってる年長者に噛みつくエネルギーに溢れていたことは認めるけれども、もし、あのときすでに今のような可能性のない枯れ切った45才中年であっても同じように憤っていただろう。
父親が首を吊ってしまってその葬式をとりおこなったあと、不味い寿司を食べながら「これからの生活どうする?」って母と弟と悩んでいたとき、ほとんど面識のない父方の親戚から酒の勢いで「身の丈にあった生活にしろよ。オヤジがいなくなったのだから」と言われた。「身の丈」云々は悪い意味のフレーズではないが、そこからは悪意しか見出だせなかった。父は北陸出身だが関東に出てきてからは、僕の知るかぎり北陸の親戚とはほとんど交流がなかった。実際、僕には父方のイトコがいるはずだが年齢が近いこと以外、名前はおろか性別、正確な人数は今も知らない。それくらい僕とは「距離のある」人たちだった。
言葉は距離で変わる。「身の丈にあった」と誰かに言うとき、一般的に「お前は貧乏だから、能力不足だから相応にしなさい」を意味をもっている。僕が憤ったのは「お前んち貧乏だから貧乏なりの生活をしろよ」と図星指摘されてプライドを傷つけられたからだ。貧乏と決めつけるのはずいぶんと失礼じゃないか。だが、それだけじゃない。たとえば、もしこの言葉を近しい人から言われたらどうだろう。「君のことをよく知ってるからあえて厳しいことを言うけれども君の経済状況を考えたら今の生活をあらためて身の丈にあったものに変えなきゃいけないよ」これは助言だ。言葉は距離で変わるとはこういうことだ。
件の大臣にせよ、父方の親戚にせよ、遠いところにいる人間が寄り添う姿勢もなく「身の丈」などと言ってくるから頭に来るのだ。そもそも自分のことは能力であれ経済力であれ自分がいちばんわかっている(本人の知らない能力や財産もあるが)。よく知らない、遠くにいる、なんだか偉そうな身の丈オッサンには「お前に言われなくても分かってるわ!」と言い返したくなる。ナウい言葉でいえば「おまいう」なのだ。
現実は不公平だったり、思い通りにいかなかったり、さまざまだ。でも、皆、そんな現実で何とかしようともがいている。残念ながらうまくいかないことのほうが多い。そういう人間の、どうにもならない、もどかしさややりきれなさもわからず、「身の丈」のひと言で蓋をしてくる面の皮の厚い輩は控えめにいってゲリクソだろう。ちなみに件の北陸の親戚は十数年前に商売でしくじって相談を持ちかけてきた。リベンジのチャンス。だが僕は、「身の丈にあった生活をしなさいよ」という代わりに「身の丈にあった慎ましい生活をしているので援助するなんてとてもとても」と断りを入れ、それっきりあちら様とは断絶。これが僕の、身の丈にあった戦い方なのだ。(所要時間17分)