筒井康隆の「誰にもわかるハイデガー」を読了したが、思考素材として面白い。まあ、「存在と時間」というハイデガーの代表的著書の解説だが、確かにかなり分かりやすく解説している。
ただ、巻末付録の大澤真幸による補足的解説によると、「存在と時間」はハイデガーが書く予定だった内容の半分も書いていないらしく、本題の「存在と時間」そのものについてはほとんど触れていないようだ。そして、その根本的な狙いは「存在の意味は時間である」というテーゼを証明するところにあったらしい。だが、それに触れる前にこの著書は未完のまま終わったという。
この、大澤真幸の解説もかなり興味深いもので、私の印象で言えば、結局は「存在と時間」という書物はキリスト教的な意識がその根底にある、「キリスト教哲学」ではないか、と思われる。つまり、終末論的な見地から人生の意義や倫理の根拠を探そう、というものではないか。簡単に言えば、「死を見つめることで生の意味を考える」ということで、要するにキリスト教世界で昔から言われてきた「メメントモリ(死を忘るな)」を土台にした哲学だろう。要するに、キリスト教倫理学だ。
まあ、死を土台に置いて人生の意義を考えるというのはべつにキリスト教の専売ではないと思うし、たとえば「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」など、まさに死を前提とした人生哲学で、ただそれが武士だけに限定されているだけだ。
しかし、死を直視することで生きることの苦難を克服するというのは武士ではなくとも可能だろうし、仏教の偉大な僧なども、始祖の仏陀をはじめ、「生病老死」の四苦の精神的克服が人生の課題だったわけだ。武士などは、まさに「いつどこで死ぬことになるか分からない」という、死の本質に向かい合うこと自体が生きる覚悟であったわけだ。
現代の人間でも、たとえば癌などで余命宣告された人間が実に穏やかにその運命を受け入れて死んでいったという事例は多いはずである。それこそ、偽宗教家には真似のできないことである。
いろいろと考察したいことはあるが、「存在の意味は時間である」というテーゼについてだけ考えてみる。では、空間はどうなるのだ、と誰でもすぐに疑問を持つだろうが、このテーゼ自体は正しいと思うし、むしろ空間を排除したところに私は面白さを感じる。
もちろん、一般的な存在というのは空間的存在だ。だが、すべての存在が空間的というわけではない。つまり、非空間的な存在を含めるなら、むしろ「存在とは時間的かつ空間的なものだ」と言うほうが誤りだろう。たとえば、我々の想念というのはまったく非空間的なものだ。では、それは存在しないか、といえば、立派に存在しているのである。しかも、ひとつの想念は次々に新たな想念を生んでいく。我々の頭はまさに無数の想念が生起し存在しているのだ。
或る想念が生じたために、別の想念が生まれるというのは、まさに我々の頭脳、あるいは心の中で想念の「縁起」がほとんど無限に続いているということであり、その中には我々を善に向かわせる想念もあれば悪に向かわせる想念もある。まさしく、我々は自分で自分の心の中に善の種や悪の種を植えているのである。
では、「存在の意味は時間である」というテーゼそのものはどういうことか。
まあ、単純に、「或るものが生じて、それが消滅するまでを存在と言う」という解釈でいいのではないか。それは、時間の経過を必然的に伴い、また変化を特性とする。
そこからまた何かの哲学が導き出せそうだが、ここで筆を止めておく。
ただ、巻末付録の大澤真幸による補足的解説によると、「存在と時間」はハイデガーが書く予定だった内容の半分も書いていないらしく、本題の「存在と時間」そのものについてはほとんど触れていないようだ。そして、その根本的な狙いは「存在の意味は時間である」というテーゼを証明するところにあったらしい。だが、それに触れる前にこの著書は未完のまま終わったという。
この、大澤真幸の解説もかなり興味深いもので、私の印象で言えば、結局は「存在と時間」という書物はキリスト教的な意識がその根底にある、「キリスト教哲学」ではないか、と思われる。つまり、終末論的な見地から人生の意義や倫理の根拠を探そう、というものではないか。簡単に言えば、「死を見つめることで生の意味を考える」ということで、要するにキリスト教世界で昔から言われてきた「メメントモリ(死を忘るな)」を土台にした哲学だろう。要するに、キリスト教倫理学だ。
まあ、死を土台に置いて人生の意義を考えるというのはべつにキリスト教の専売ではないと思うし、たとえば「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」など、まさに死を前提とした人生哲学で、ただそれが武士だけに限定されているだけだ。
しかし、死を直視することで生きることの苦難を克服するというのは武士ではなくとも可能だろうし、仏教の偉大な僧なども、始祖の仏陀をはじめ、「生病老死」の四苦の精神的克服が人生の課題だったわけだ。武士などは、まさに「いつどこで死ぬことになるか分からない」という、死の本質に向かい合うこと自体が生きる覚悟であったわけだ。
現代の人間でも、たとえば癌などで余命宣告された人間が実に穏やかにその運命を受け入れて死んでいったという事例は多いはずである。それこそ、偽宗教家には真似のできないことである。
いろいろと考察したいことはあるが、「存在の意味は時間である」というテーゼについてだけ考えてみる。では、空間はどうなるのだ、と誰でもすぐに疑問を持つだろうが、このテーゼ自体は正しいと思うし、むしろ空間を排除したところに私は面白さを感じる。
もちろん、一般的な存在というのは空間的存在だ。だが、すべての存在が空間的というわけではない。つまり、非空間的な存在を含めるなら、むしろ「存在とは時間的かつ空間的なものだ」と言うほうが誤りだろう。たとえば、我々の想念というのはまったく非空間的なものだ。では、それは存在しないか、といえば、立派に存在しているのである。しかも、ひとつの想念は次々に新たな想念を生んでいく。我々の頭はまさに無数の想念が生起し存在しているのだ。
或る想念が生じたために、別の想念が生まれるというのは、まさに我々の頭脳、あるいは心の中で想念の「縁起」がほとんど無限に続いているということであり、その中には我々を善に向かわせる想念もあれば悪に向かわせる想念もある。まさしく、我々は自分で自分の心の中に善の種や悪の種を植えているのである。
では、「存在の意味は時間である」というテーゼそのものはどういうことか。
まあ、単純に、「或るものが生じて、それが消滅するまでを存在と言う」という解釈でいいのではないか。それは、時間の経過を必然的に伴い、また変化を特性とする。
そこからまた何かの哲学が導き出せそうだが、ここで筆を止めておく。
PR