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「正義の相対化」という不正義な行為

「ピレネー(山脈)の南には異なる正義がある」
と言ったのはパスカルだったと思うが、これが「正義の相対化」の濫觴だろうか。
正義とは社会社会によって異なる相対的なものだ、というのは基本的には正しい考えだが、普遍的な正義もあるからこそ、どの時代やどの社会でも殺人や悪質な虚偽は不正義とされるわけだ。(他民族や他国民を殺すことは正義である、という思想が古代の「戦争正当化」の思想であるが、同胞を殺すことはどの民族でもどの国民でも不正義だっただろう。そして私は、他国民や他民族を殺すことも悪である、という当たり前の思想がなぜ当たり前になっていないのか、そこに為政者による国民洗脳の恐ろしさを見ている。)
正義の相対化が行き過ぎると悪の擁護になる。今のように上級国民による悪がはびこっている社会で「正義の暴走」を云々する(たいていは上級国民擁護の側の発言である。)のは、それ自体「悪への加担」であるわけで、まあ、要するにお偉いさんの提灯持ちであり、悪の実行者(お偉いさん)以上に醜い。





正義の暴走を懸念するところまではわかる。
たしかに、独善に凝り固まった人間の集団は、ときに、おそろしい行動に出るものだからだ。
ただ、素朴な正義感の発露や、正義に沿ってものを考えることそれ自体を、非難している人たちを見ていると、予防拘禁を正当化していたゲシュタポの姿を思い出す




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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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