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カネの支払いの生み出す「上下関係」

芸能界には興味も無いし、テレビ界にも興味は無いが、テレビ局とタレント(芸能人)の関係に変化が生じつつあるのかもしれないし、ひいては社会における組織権力と個人の関係に変化が生まれていることを示すのかもしれない。テレビ局のデイレクターは「組織権力」を背後にして、自分をタレントより上だと考え、無礼な態度を取ったのだろうが、タレントは、自分(テレビに出る側)とテレビ局(テレビに出す側)は対等だ、と考えたわけだ。そして、これは西野の考えがまっとうだと思う。
テレビに出す側は、「カネを払うのだから、当然こちらが上だ」と考える。しかし、テレビに出る側は「依頼されて出るのだから、カネを貰うのは当然である。お互いに上下関係は無い。」と考える。
一般社会でも、カネを払う側は、なぜか自分は相手より上だと考えるのだが、カネを払うのはその対価を得ているから払うのであり、べつにカネを払う側が上という論理は成り立たないはずである。
これは、労働者と雇用者との関係でも同様だ。会社側がカネ(給与)を払っているのだから労働者より上だ、という理屈は成り立たないはずである。労働者は労働という対価を払っている。しかし、カネという明白な形を持つものの方がイメージが強いために、カネを払う側が上位存在である、と考える「空気」が資本主義社会には潜在的にも顕在的にもあるように思う。これはモンスター客などにも共通して見られることである。
なお、カネの生み出す権力は、カネを無視する人間、カネを無視できる人間の前では無力である。上役の理不尽な命令に堂々と反抗できる人間は、その仕事を辞めても困らない資産を持つ人間だけだろう。「恒産無ければ恒心無し」とは、そういうことである。


(以下引用)

途中退席のキングコング西野「テレビ側の俺様姿勢」

日刊スポーツ 4/30(日) 10:24配信

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 お笑いコンビ、キングコングの西野亮広(36)が、番組ディレクターの不快な態度を受けて収録中に途中退席した件で、テレビ局側の“落ち度”を指摘した。

【写真】自腹で1万冊購入していた絵本「えんとつ町のプペル」を持つ西野

 西野は29日のブログで、読売テレビの情報番組「朝生ワイド す・またん!」の取材を受けたことを報告。その番組ディレクターから「お高くとまってんスカぁ?」などと無礼な言葉をぶつけられたことに不快感を覚え、「インタビュー途中でマイクを置いて帰りました」と明かしていた。

 この件について30日に更新したブログで、これまでメディア側には「『(タレントを)出してやっている』『(店を)取材してやっている』というテレビ側の俺様姿勢」があったと指摘。しかしネットが発達した現在、SNS等で個人も情報を発信できるようになったことから「テレビと個人がウィンウィンの関係でないと、テレビに出演する理由がなくなりました。テレビが『悪戯に煽って、感情を逆撫でし、不用意な発言を誘発させて、その部分だけを刈り取って電波に流す』という下品な技を決め込んでくるのなら、ハナからテレビを排除できる時代になったわけです」とテレビと個人との関係の変化について分析した。

 そして、今回の件について「スゲー簡単に言うと、『マスコミを経由する理由が昔ほど無くなった』というところ。今回、読売テレビさんは、時代がこのフェーズに移ったことを踏まえていなかったのでしょう」と指摘した。



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「完成させようと思うと雑になる」

ももせいづみという人の「暮らしの旅あるき」というブログから転載。

深い話である。


(以下引用)



ももせいづみのつづれ書き~

12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。

2016.04.24 Sunday 14:26
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4月から美大の学生になった。
美大といっても、大学生と一緒に通う形のもんじゃなくって、ムサビが社会人向けにやっている各種学校のほう。
普通に19歳と一緒に美大に入るには、私にはほかの生活がありすぎるので、1年分のカリキュラムを、私は週2日づつ2年かけてやってる。

これは人生のリベンジなんである。
とにかく、どうやったって絶対絵を描きたくて、学びたいのは美術で、ほんでもって高校の美術の先生も「君は絶対美術系に進みなさい」って言ってくれてたにもかかわらず、親に強固な権力行使をされて普通大学にしか学費を払ってもらえなかった。ってか、それ以外は選択の余地なしで、父親のDVも恐ろしかったので、そうするしかなかった。

今の時代、得意なものを探せ、やりたいことをみつけろ、進路を早めに定めろってさんざん言われてるのに、当時、それをちゃんと高校一年生から定めていた私は、ちっともやりたいことなんて選ばせてもらえなかった。
コツコツためたおこずかいとバイト代で、1人で内緒で代ゼミの美大用のデッサン教室に通った。
ほいでも、何をいっても、まったくぜんぜん聞いてもらえなかった。超進学校で、担任も味方してくんなかったよ。「うちは美大のノウハウないし、行きたいなら自分でなんとかすれば」って。


てやんでえ。



最初にやりたいことからつまづいてしまったあと、人生をいっぱい迂回して、
デザイン事務所に入ってみたり、イラストで仕事したり、WEBデザイン仕事にしたり
子ども育てながらは、いろいろ創作系の教室やらセミナーを探しては参加した。
周辺をぐるぐる回ってはみたけど、やっぱりぜんぜん違うのだ。

自分は「美大」に行きたかったんだよ。
「美術」を学びたいの。「技術」じゃなくって。


ということで、リベンジなんである。




で、リベンジしてみて、ほんとにうれしいなあ、と思うことがあったので書いてみる。




最初の課題は、円柱と四角柱を木炭で、ただ延々とデッサンするってものである。
木炭なんて何十年ぶりに持った。

ほで、描き出した。
モチーフはこんなもん。



最初に先生から言われたのが

「デッサンは完成させようと思うな。思った瞬間に、雑になる」

つまりのところは、「完成させる」ことを目的にすると、どうしてもなるべく早く完成することを目指すので、いろいろなことがおざなりになり、ろくなことがないということらしい。

で、とりあえずは線が何本重なってもいいから形を取ることを繰り返せ、と。
しばらくデッサンって何か、構図がいかに大切かって話しを聞いて、とにかく対象物をよく見ろと繰り返され

それで先生いなくなって、それから20人ほどいるおいらたちは、ぽかんと放っておかれ
その日は終わって翌日になり
まだまだ放っておかれ

さすがにもうわかんねーよ
ってかもう7時間も描いてるのに、指導なしかよ。
ほったらかしかよ、と、その場にいる人たちの
気持ちの中がざわざわとしてきた。

ほで、中にちょいデッサン歴のある子がいて、その子が陰影を付け出したので
みんなつられるように陰影を付け出し

それにしても、私はもう自分のデッサンはほぼ完成していると思っているので
にあと何をしたらいいのかがてんでわからず
陰影を付け出しても、それが正しいのかどうかもてんでわからず

「教えてもらわなくっちゃ、わからないじゃんよー」

なんてことを隣の人と話していた。
いまここで書くととってもこっぱずかしい気がするけど
自分は一応デッサンの経験があるもんで、ちゃんとうまく描けている(と思っていた)のだ。
受験のためのデッサン、一通りしたわけだし>かなり前だけど。
円柱と四角柱ぐらい、お茶の子さいさいであろう。これで十分、と。

ら、そんなところに



ひとりの先生がやっと、やってきた。

んだもんで、みな周りに集まって
「教えてくれ」
「私の絵はどこがおかしいのか」
「影の付け方はこれでいいのか」


と、にわか騒がしくなった。
そしてたら先生は、「みなさん、ちょっと進め方が早すぎます」という。

早いも何も、もう円柱と角柱の形取り1枚だけで9時間ぐらい描いてるよ。
意味わかんない。
先生が一人一人を回り出したので
私が「もう自分のどこが悪いのかぜんぜんわかりません。この場所がちょっとゆがんでるみたいで
ずっと直してるんですが、どうでしょう」と言ったら

「ちょっと左に傾いてますね」という。

嘘だ。絶対平行だ。私の目にはそう見える。
なので、定規で測ってやった。

曲がってた。3mm。

すごい。私の目は、その傾きが見えてなかった。



「形は一カ所だけ直しても意味がないんです。何かがおかしいなと思うときは、たいてい全体が
 どこか違っています。違っている場所をすべて、少しづつ修正する。それが基本です」

と言われた。
ものすごく深淵なことを言われた気になる。
何かがおかしいと思うときは、そこだけを直しても直らない。
おかしくないと思っている場所も、少しづつ歪んでいるから、全体に手をつけなくてはいけない。
仕事のプロジェクトとか、人間関係とか。
なんか全部に通じる気がしてきた。
いや、わかんないけど。もっと単純なことかもしれないけど。とにかく深いような気がしてきた。


なんで、全体を見直して少しづつ修正をはじめる。
少しづつ、なんだか整合されてくる。
うむー、深いと思っていた頃、描きはじめて10時間ほど経ったところで
真打ちの先生が登場して、全体を見てまた

「早すぎる」

と言った。



木炭でただ円柱と角柱の形を取り続けて10時間経って、「早すぎる」。
ほええ。

デッサンは完成させようと思ってはいけない、雑になると言われたことを思い出し
そして、そういえばこの人に、一番最初に言われたのが


「描き方を教えるのは簡単だ。でも、大事なのは自分で気づくことだ。教えられることに慣れた人間は、自分だけの力で同じことができなくなっていく。気づく目を持つには、対象物と徹底的に向き合う時間が必要なんだ」

ってことを思い出す。



なんか自分

いままでの人生、常に、答えだけを欲しがっていたのかも。

教えてもらわなくちゃわかんないじゃん! とぶーたれた自分って、まさにデッサンで
「やっちゃいけないこと」をしてたんだなーって思う。

思えば仕事しながら、ほんとにいつも
いかに早く完成させるか
効率よく進めるか
なるべく多くのことを時間内にこなすか

みたいなことばーっかり考えてきたなーって思う。
本意じゃないところで、なんだか時短のプロみたいになっちゃったところもあるし
時代的にはライフハックが流行して、効率よいことに価値が見いだされ続けてきたわけで

そんな風になっている自分の感性に、しみじみと入ってくることがいっぱいあるなー。
デッサンするだけで。

ほいで、全体をちょいちょい修正して、なんだかもう完成じゃん? と思ってた私のデッサンだけど
そこから先生が

「カルトンを対象物の前に置いて、距離を取って10分以上見ろ。すぐに動いてはいけない。
長い時間、ふたつを見比べてみろ」

というので、そういうのをしてみた。


ちがうちがう。
ぜんぜんちがう。

あそこ曲がってる。
あそこの長さ違う。
円柱じゃなくて楕円形かも。2mmぐらい。

明るさの差がおかしい。
テーブルの線の位置も違う。

もう違うところだらけだった。


数時間前には、もう何も修正する必要もない、完成だと思っていた自分の絵なのに。

たぶん、教えてもらうことは簡単だったのだろうけれど
大事だったのは、いま、自分で気づけたことなんだ。
そのために、12時間必要だった。
いや、まだまだ必要だけど。でもとりあえずは、気づいた。
ほっとかれた時間、意味があった。すごい。



デッサンの教室は、いくつか通ったことがある。
でも、どれも時間内に完成させることが大切で、完成を目指して時間配分をした。
特に受験系のデッサンは時間配分がとても大事で、完成させなくちゃいけないから。
カルチャースクール系の場所では、先生がていねいに描き方やコツを教えてくれた。

そういうことじゃなかったんだ、ってはじめてわかった。
それは、やっぱり、ふんだんに使える時間があるからこそ、なんだろうと思う。
で、それだけの時間がないと、「腑に落ちる」形で気づかないことって、いっぱいあるのかもしれない。

だってね、完成系として最初の円柱と角柱のデッサンされたものが必要なのであれば
一番確実で簡単なのは、写真に撮ってトレースすることなんだよ。
​仕事だったら絶対そうする。それが通用すれば、デッサン力なんて必要ないってことになる。
時代は、ちょっとそんな傾向にあるような気もする。


いまの子どもたちはほんとに時間がなくって
なるべく早く答えを得て
時間内に多くを処理して
効率よく学ぶことが繰り返されていて

仕事をしたらしたで
とにかく早めの納期で手を動かすことばかりを繰り返してしまう。

その前の「見る」こと
「気づく」ことに
自力でたどり着く時間も、サポートもなくて

そん中で、いろんな想像力や、気づく力が衰えてしまってるんじゃないかなーって思う。



大事なのは、気づくこと。

大事なのは、ただただ、見ること。


★ がっつり対象物と向き合って、時には距離を置いてじーっと見つめてみるだけで、正しいと思っていたことが、ぜんぜん違っていることに気づく。

★ 違っているなと思った時は、一カ所がおかしいのではなくて、全体が少しづつ違っているから、全体に手をつける必要がある。

★ 教えてもらうだけでは力はつかず、長い時間をかけて自分で「気づいた」時はじめてそれは自分の力になる。

デッサン一枚で大切なこと、いっぱい教わった気がします。


いま日本の学校からは急激に美術の時間が減らされているそうだけど
美術を学ぶことは
想像力を養うってことなんだよね。

で、その想像力ってのは、見て、気づいて、時間をかけて養われる。



おいらも頑張る。
 

 

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「感動ポルノ」と「涙のカツアゲ」

これには大反対。一見、「ポルノを下に見るのは差別だ」と立派なことを言っているように見えるが、「感動ポルノ」とは、「安っぽい感動を狙った、下種な作りの番組」を言うのであり、まさにその「ポルノ」である、という部分が大事なのだ。つまり「劣情を刺激する」と言うポルノに対する言葉通り、「感動ポルノ」もある意味、「劣情を刺激している」のである。
まあ、「劣情とは何か」という話になると、また別の議論になる。性欲に劣情というものは無い、と主張するエロリスト(私の造語である。エロで世界を破壊しようとするエロテロリストであるwww)の策略に乗ってはいけない。それを認めたら、獣姦も幼児姦も正しい、となる。
つまり、「批判のために差別的ニュアンスの言葉を使う」というのは真っ当な戦略であり、その言葉の選び方によって、批判のインパクトは大きく変わる、ということである。
「感動ポルノ」のインパクトの大きさに対し、「涙のカツアゲ」には何のインパクトも無い。
そもそも「感動する側が、乗せられていることを知らずに、感動してしまっている」のだから、脅迫行為である「カツアゲ」とはまったく別の話である。みうらじゅんにしては、言語センスが無さすぎ。駄作である。

なお、ポルノなどへの「表現規制問題」とは、また話が別である。「表現規制」は、国民が政府に対して決して認めてはならないものだ。悪用されたら、いくらでも国民を縛ることができる。表現はあくまで自主規制にとどまるべきである。ただし、愚劣な、社会的に悪影響を与える表現はぞんぶんに罵倒すればいい。その罵倒もまた「表現」である。青少年保護のための表現規制については、また個別案件になるだろう。




             さんがリツイート

『感動ポルノ』より『涙のカツアゲ』のほうを使いたい。 みうらじゅん先生の造語だけれど。 ポルノを低く見ている意識が見える無神経な言葉より、感動を強要している感じがよりするので( ´ ▽ ` )ノ


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昨日は夢である。明日は幻でしかない。




そこにたどりつこうとあせってはいけない。

「そこ」など、どこにもないのだから。

本当にあるのは「ここ」だけ。






ネイティブアメリカンのブラック・ウルフ・ジョーンズという人の言葉らしい。
他の人の類似の言葉は幾つかあるが、この言葉は簡明で、いい。

なお、記事タイトルにしたのはカリダサというインドの詩人の「黎明への挨拶」という詩の一節。確か、デール・カーネギーの本で昔読んだ記憶がある。
ネットに載っているかどうか、後で調べて、あるようなら追記する。

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頭の良し悪しと指向性

頭の良し悪しとか、「地頭がいい悪い」というのは何なのか、少し考えてみる。
まず、「地頭がいい」というのは、学校の勉強はできないが、状況に応じた理解力や判断力はいい、ということかと思う。したがって、「東大卒は地頭がいい」という言い方は、「地頭」という言葉の使い方としては間違っているのではないか。
もちろん、地頭のいい人間が勉強をしたら、東大にだって入れるかもしれないが、勉強などにはまったく向かないタイプの頭の良さ、というのもあるのではないか。芸能界や不良ややくざの世界で頭角を現す人間や、あるいは戦国時代の優れた武将などは、「学問的頭脳」ではなく、地頭が良いタイプだろうと思う。もちろん、度胸の問題もあるが、それはここでは論じない。

私は学校の勉強も苦手で地頭も悪いのだが、物事を大局的に見ることと、直感的な正否の判断というのは割と優れているのではないかと自惚れている。だから、これまで書いたブログ記事の中でも、それほど間違ったことは書いていないと思っている。人間を見る目もわりとあるつもりだ。これまで他人に下した評価を変える必要があった経験はほとんど無い。
ただし、今でも分からないのが、「容貌で頭の良し悪しを知る方法」で、これは写真などを見ても、その人物が頭がいいか悪いかはほとんど判断できない。まあ、精神薄弱者くらいになると特有の顔つきがあるが、顔で分かるのはその人の人格であって頭脳ではない。そして、人物判断で重要なのは人格の方なのである。

人間、ほとんどの人はIQが90から110くらいの間で収まるのがふつうで、現実生活をやっていくのに頭の良し悪しなど、あまり関係は無いのではないか。
もちろん、学問研究では頭の良し悪しは大事だろうが、科学者の世界でさえ、「あまり頭の良すぎる人間は研究者には向かない」とも言われているくらいなのである。まあ、「頭が良すぎると先読みをしすぎて、未知の世界に踏み込むことをしないで安全確実な道を選ぶから大発見はできない」ということらしいが、これは頭の良し悪しというよりは、「指向性」の問題だろう。
私が将棋をやったら将棋のプロに何万回やっても1回も勝てないだろうが、彼らの頭が私の何万倍も良いとは思わないのである。彼らは将棋が好きだから、何万回も将棋を指してきた、その経験値の違いだとしか思わない。何の道に進み、どれだけ努力をしたかが問題なのであって、頭の良し悪しはさほど問題ではない、と思う。




fromdusktildawn @fromdusktildawn 4月15日

若い頃、「東大卒は地頭がいいから、何をやらせても、すぐに学習して、いい結果を出してくるだろう」という甘い考えで、東大卒を採用して、惨憺たる結果になったことがあった。さらに、「地頭が良い=仕事で役に立つ」というわけでもないんだよなぁ。採用は難しい。


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この世で絶対に確かなのは、この世に絶対は無い、ということだけ。

名言である。世の中には、こういう「自分の正しさ」を主張する大声の人間がたくさんいて、実に鬱陶しい。まあ、大声の人間はだいたい嘘つきだ、と思えばそういう人間に引っかかることは無い。
哲学にも宗教にも科学にも嘘は多いし、もちろん政界にも経済界にも嘘つきと狂信者は多い。ただし、狂信者は強い。当たり前である、他人にけっして譲歩しないのだから強いに決まっている。





  1. いしいひさいち氏の漫画「ののちゃん」の藤原先生のことばです。 (折々のことば)728 わざわざ正しいって言わなくちゃならないのは たいして正しくないからね。 朝日新聞デジタル
  2. 87件のリツイート 86 いいね
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人生というマッチ箱

これ(人生の一回性)が人生の一番大きな欠点であり、一番の長所でもある。ゲームなら二周目、三周目もあるが、人生はそうはいかない。だから、「前の記憶を持ったまま、人生をやりなおしてみたい」という願望を持つ人は多いのではないか。アニメの異世界転生物も、その別バージョンだろう。
そもそも、大人すらが、社会を知らない。知っているのは自分の小さな世界と些細な知識だけである。それ以上を知るには本を読まないといけない。だが、その本も著者の些細な知識と妄想と誤解の産物だったりする。要するに、人生のことなど、永遠に分からない。「ケ・セラ・セラ」というポップスがヒットした所以である。

私が人生に関して一番驚いたのは、世の中に犯罪者と前科者(これは犯罪者と同義ではない。犯行が発覚した犯罪者が基本的に前科者になる。犯行の発覚しない犯罪者は「普通の人」だ。)が膨大にいて、しかもみな普通に生活できていることだった。小説の中なら、犯罪者とそうでない人間の違いは明確だが、人生では、誰もが犯罪者の隣で暮らしているようなものだ。千葉大やら何とか大やらの医者や学生やらがレイプ犯罪を起こすまでは、周囲の人間は彼らを普通の医者や学生と見做していたわけである。
いや、罪を犯しても、弁護士の手腕やらコネやらで上手い具合に無罪になり、また普通に生活している人もたくさんいるわけで、そうなると、この世の中、信じられる人間は誰もいない。薄氷の上でダンスを踊っているようなものだ。
まあ、その一方で、無名の市井の聖人のような人もいたりするから、人生は面白い、とも言える。
ただ、現代のように情報過多の時代だと、良いことも悪いことも「やる前からある程度想像がつく」から、悪事を行う人間というのは、よほど精神の鈍い人間なのだろう、と思う。実際、何か悪事をやった人間というのは、官僚や政治家も含め、根本的には頭が悪そうな顔の人間ばかりである。

「人生はひと箱のマッチ箱に似ている。大事に扱うのは馬鹿馬鹿しい。大事に扱わないと危険である」というようなことを言ったのは芥川龍之介だが、彼が実人生では実に小心翼々としていて、つまらない女とのつまらない不倫に苦しんでいた、と読んだことがある。その女は、ただの「有名人キラー」のストーカー女だったらしい。なるほど、うかつにマッチ箱を扱うと火傷する。下手をしたら家は全焼、家族全員焼死である。マッチ箱でいたずらした人間だけでは被害が済まなくなる。



(以下引用)


fromdusktildawn @fromdusktildawn 4月5日

初めてやったゲームで、操作の仕方がよくわからないうちにゲームが終わってしまった、ってことがあるけど、人生ってそういうものだよね。初めて「人生」ってゲームをやってみて、操作の仕方がよくわからないまま、気がついたら年を取って、ゲームが終わりかけている、なんてことになるかも。


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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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