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強者の文化、弱者の文化


面白い記事だが、今は特に書きたいような考えも無いので、「思考素材」として保存しておく。
記事の筆者はかなり優秀な論者だと思う。名前も憶えておこう。

今、ブログタイトルを書いたところだが、「強者の文化、弱者の文化」というのはいい切り口ではないかと思う。
漱石の「三四郎」の冒頭に、「大いなる暗闇」先生が西洋人を見て「西洋人は美しいなあ」という箇所がある。明治期にはすでに西洋人を美の標準とする価値観が生まれていたわけである。
これは当時の日本が西洋の文化的支配下にあったとも言えそうだが、なぜそうなったのか。力でもって開国させられ、西洋の文物の優秀性を目の当たりにしたことが、その根底にあるような気がする。つまり「強者に属するものはまた、美でもある」という本能的刷り込みが人類的に存在するような気がするのだが、いずれこの件を考えてみたい。
正直に言って私自身、西洋人は美しく、アジア人やアフリカ人は醜い、という美的価値観がどうしようもなく心の中にあるのである。


(以下引用)



白人モデルのゲイシャ写真が炎上した本当の理由〜「文化の盗用」と「ホワイト・ウォッシュ」

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Ira Madison III twitterより

Ira Madison III twitterより


ファッション雑誌『ヴォーグ』(USA版)3月号に載ったアメリカの白人スーパーモデル、カーリー・クロスの芸者風ファッションが大炎上し、カーリーが謝罪する騒ぎとなった。この件は日本でもいち早く取り上げられ、各記事に「人種差別」「日本をバカにしている?」などといった見出しが踊ったが、多くはアメリカの人種と文化の歴史と現状を説明し切れていなかった。そのせいか日本人読者からは「何がいけないのか分からない」の声が上がっている。


問題となった写真は、日本の伊勢志摩で撮影されたもので、本来は金髪のカーリーが黒髪のゲイシャ風ウィッグと着物風デザインのドレスを着ているというものだ。一流雑誌だけあって写真自体の質は高い。しかし近年のアメリカ文化シーンは”cultural appropriation”(文化の盗用)に厳しく、今回の写真は多くのアメリカ人の眉をひそめさせることになった。


 “文化の盗用”とは端的には、特定の人種や民族または国や地域特有の文化、特に衣装・髪型・肌の色や顔立ちなど外観を他のグループに属する者が模倣することを指す。ここで重要なのは、なぜ“文化の盗用”が問題なのか、だろう。

多様性と盗用の違い

まず、今回の件はカーリーのゲイシャ写真だけを見ても問題の本質を把握できない。写真を掲載した『ヴォーグ』3月号が「多様性特集号」であること、そして『ヴォーグ』が主張する多様性とは何かを知らなければならない。


今号の『ヴォーグ』は多様性の象徴として、表紙に人種・民族・宗教・体型の異なる7人のモデルを起用した。中のひとり、中国生まれのリウ・ウェンはアジア系として初めて『ヴォーグ』の表紙に登場したモデルだ。


特集のトップページには、金髪で整った容姿など特定の外観の女性のみを美しいとするのはもはや時代遅れであり、様々な外見の女性がそれぞれに美しいといった主旨の文がある。


様々な外観の女性がそれぞれに美しいのであれば、アメリカ白人にはアメリカ白人の、日本人には日本人の美があるはずだ。ひとりのモデルにファッション七変化させる企画ではなく、女性それぞれの美を追求する企画なのだから、カーリーを起用するのであれば彼女の本来の姿であるアメリカ白人性を表すべきだった。そして日本人女性の美を追求するのであれば日本人か日系人のモデルを抜擢するべきだった。しかし『ヴォーグ』はカーリーを日本に送り込み、ゲイシャ・ファッションを纏わせた。いまだに「ジャパン=ゲイシャ」のイメージを使うことの是非はここでは敢えて置くが、人選は完全に特集の趣旨に反してしまっている。これがカーリーのゲイシャ写真が非難された理由だ。



人種差別の歴史

日本の読者からは「では、どのモデルも自分のルーツに基づく服装しか出来ないのか」という声もあった。現代の日本は和服ではなく洋装が標準となっているが、日本人が西洋由来の服装をするのは良くて、アメリカ人の着物がタブーなのは何故だろうか?


答えはアメリカに今も根強くある人種差別だ。アメリカのマジョリティは白人であり、白人は社会的にも経済的にも優位な立場にある。対してマイノリティ(黒人、ラティーノ、アジア系、ネイティヴ・アメリカン他)は今もそれぞれに差別の対象であり、社会的または経済的に不利を被っている。


白人が顔を黒く塗って黒人の扮装をする“ブラックフェイス”はアメリカでは“文化の盗用”を通り越し、完全な人種差別として絶対的なタブーとなっている。日本でも2年前に、『ミュージックフェア』(フジテレビ系)で黒塗りをしたももいろクローバーZとラッツ&スターに対して、人種事情に詳しい人たちが反対運動を行い、該当部分が放映中止となる事件があった。あの時も「黒人音楽へのリスペクトとしての黒塗りなのに、なぜダメなのか」という声があり、結局、日本では理解がなされないままに終った感があった。


アメリカの黒人はかつて奴隷だったことから、当時から現在まで、時には死にも至る人種差別を受け続けている。黒人は黒人であるというだけの理由で蔑まれ、「肌が黒い」「唇が分厚い」「髪が縮れている」と外観を揶揄されてきた。昔は白人芸人による“ミンストレル・ショー”と呼ばれる黒塗り芸が実際にあり、黒人は「歌と踊りは上手いがマヌケ」なキャラクターとして侮蔑的に演じられた。そのイメージは今も執拗に残っている。たとえ「リスペクトゆえ」と言われても黒塗りを許容できない理由だ。


ネイティヴ・アメリカンも同様の問題を抱えている。北米の先住民でありながら後からやってきた白人に駆逐され、居留区に押し込められ、今も貧困と精神的な苦痛に苛まれている。かつて白人と闘った際に「野蛮」「獰猛」というステレオタイプを貼られ、そのイメージは未だに残っている。メジャーリーグのクリーヴランド・インディアンズは「赤い肌」「かぎ鼻」「剥き出しの歯」「羽飾り」の「インディアンの酋長」をマスコット・キャラクターとしており、ネイティヴ・アメリカンたちは、マスコットを変更するよう長年訴え続けている。


アジア系のステレオタイプは、外観は「吊り目」「チビ」「黄色」。他人種がアジア系を演じることを“イエローフェイス”と呼ぶ所以だ。昔はさらに「出っ歯」も加わっていた。キャラクターとしては「英語がヘタ」で、アメリカ生まれの二世であろうが「移民」扱いだ。日本女性の場合は「従順で男性に従う」、または正反対の「誰とでも寝る」が加わる。アメリカ在住の日本人は「ジャパンと言えばフジヤマ、ゲイシャ、カラテ」辺りのイメージにも辟易している。


どのマイノリティ・グループも、こうしたステレオタイプの払拭に苦労しているのである。


他方、マイノリティは白人をステレオタイプに貶め、あざ笑う立場になかった。白人は白人であるというだけの理由で外観やキャラクターを笑い者にされた経験を持たない。したがってマイノリティがTシャツやジーパンなど、アメリカ白人が生み出した服装をすることに対するクレームは出ない。そもそも現代のアメリカ社会で黒人、ネイティヴ・アメリカン、アジア系などが400年前の服装で日常生活を送ることは不可能でもある。アメリカにおける“文化の盗用”問題はマジョリティとマイノリティで作用の仕方が異なるのである。

映画の“ホワイト・ウォッシュ”

ハリウッド映画で本来は白人の役を黒人俳優が演じると、白人ファンから必ず「それはおかしい」とクレームが出る。最近では『スターウォーズ/フォースの覚醒』(2015)や『アニー』(2014)などだ。しかし、マイノリティの役は昔から白人が演じ続けている。この現象は“ホワイト・ウォッシュ”と呼ばれる。


ほとんど見過ごされ、今も延々と続くホワイト・ウォッシュだが、あまりにも行き過ぎて問題となった例がある。今年のアカデミー賞で最多ノミネートを得ている『ラ・ラ・ランド』の主役、エマ・ストーンの主演作『アロハ』(2015)だ。主人公のアリソン・ングはアジア系とハワイアンの血を継ぐキャラクターだが、金髪碧眼のエマ・ストーンが演じ、あまりのちぐはぐさ、文化的繊細さへの配慮の欠如から強く非難され、エマと監督が謝罪を行っている。


ホワイト・ウォッシュが行われる理由は、観客動員数だ。昔に比べるとマイノリティ人口が増えているアメリカだが、それでも人口の6割以上が白人であるため、白人が主役を演じるほうが観客数を増やせるという思い込みが映画会社にある。アメリカでは3月にハリウッド版の『攻殻機動隊』である『Ghost in the Shell』が公開されるが、主役の草薙素子を白人のスカーレット・ヨハンセンが演じており、“文化の盗用”として若干の物議を醸しているが、このまま公開される模様だ。


興行成績や視聴率が理由で、映画であれ、テレビドラマであれ、制作側は白人を起用するわけだが、これに対し近年はこれまでのように黙っていないのがマイノリティ団体だ。マイノリティが演じられる役はまだ少ない。そのわずかなチャンスすら白人に持っていかれてしまい、マイノリティの俳優は活動の場がますます少なくなることから抗議の声を上げるのだ。


ファッション雑誌も同様だ。『ヴォーグ』の主な読者は白人女性であり、登場するモデルは圧倒的に白人が多い。「多様性特集」と銘打ってはいても、白人読者が受け入れられる範囲での多様性なのである。今回のカーリーのジャパン企画は14ページにもわたり、カーリーが写っている写真は8点ある。これをすべてアジア系のモデルに置き換えると従来の読者には受け入れられないと編集部は考えるのである。

アートとしての葛藤

以上がアメリカの事情だ。白人と同じ国に同居せず、 対白人の人種問題があまりみられない日本人には呑み込みにくい事情かもしれない。


しかし、本質は人種そのものではない。社会的上位にあるマジョリティと下位にあるマイノリティの関係性こそに本質がある。以前、日本で日本人コメディアンが金髪のカツラに付け鼻をして白人を演じたCMを、日本ではマイノリティである白人が不快に感じたのはそれが理由だ。


こうした背景を解してもなお、「アートとしての表現が規制されるのはおかしい」「そこまで言うと異人種、異文化の融和が進まない」という意見も出るかと思われる。アメリカ国内にもそうした意見はある。


全くそのとおりである。アートとして白人が黒人を、アジア系が白人を、ラティーノがネイティヴ・アメリカンを、ネイティヴ・アメリカンが黒人を、黒人が白人を演じる……どんなパターンであれ、純粋にアートとしてなら行われて然るべきだろう。しかし、アメリカの長く複雑にして醜い人種の歴史が、今はまだそうはさせないのである。
(堂本かおる)


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堂本かおる

ニューヨーク在住のフリーランスライター。米国およびNYのブラックカルチャー、マイノリティ文化、移民、教育、犯罪など社会事情専門。


サイト:http://www.nybct.com/


ブログ:ハーレム・ジャーナル


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クーポンで人生が破滅する話

私は、こういう「どうでもいいような些末な行動」に現れた心理を考えるのが好きなので、考察してみる。
ポイントは、

なぜクーポンを使った男性を揶揄したかについて、会社の飲み会で幹事をしたこの男性が、マクドナルドで全員からお金を集めた後、クーポンを使って疑いのある会計をしていたからだと説明している。


という部分にあるかと思われる。
つまり、飲み会の後、マクドナルドで飲食した際の会計も、飲み会の幹事をやった流れで幹事役の男性がカネを集めて会計をしたのだろうが、その時、集めたカネは正規料金で、支払う時にクーポンを使ったのを見て、この女性は男性が「僅かなカネを着服した」のだろう、と考えて非常な不快感を覚えたのではないか。「もしかしたら、飲み会の会費にも同じような着服があったのかもしれない」、とも思ったかもしれない。
だが、その疑いを表に出せば事が荒立つし、そうしたわずかなカネを問題にすること自体が恥ずかしい気もする。
そのようなモヤモヤを抱えていることも不愉快なので、この女性は「いい年をした男がクーポンを使うのは恥ずかしいことだ」というように「貧乏人男性全体への軽蔑の言葉」として軽率にSNSで発信するということをしてしまったのだろう。
つまり、わずかなカネを問題にしているのは実は女性自身なのである。その自分への嫌悪感を、「私はクーポンを使うような男性を軽蔑する」という筋違いな攻撃の言葉として発信してしまったところに間違いがあったのだろう。
さて、この結果がどうなったか興味深い。おそらく、最近飲み会の後でマクドナルドで飲食した会社員は限られているだろうし、そのツィートをした女性を知っている人間(同僚たち)からは、この飲み会の幹事をした人間が誰かも分かるはずだ。そうすると、幹事の男性は「実にみみっちい不正行為をした」と告発されたも同然であり、その釈明をしなければ、一生、そういう人間だという評価を甘受しなければならなくなる。これは些細なことではない。人生そのものに関わる重大事であり、ある意味、殺人や強姦をした人間と見られるより辛い話である。
わずか数十円のクーポンを使うかどうかで、人生は狂うこともある。


(以下引用)

30代男性がマックでクーポンに「吐き気催す」 女性告白ツイートに男性の異論殺到

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家族みんなが笑顔になれた
tabi-labo.com
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   マクドナルドでクーポンを使っている30代男性を見て、生理的な嫌悪感を持ってしまった――。ある女性がツイッターでこう告白し、異論が相次ぐ状態になっている。


   割引券のクーポンについては、使う人の性格がにじみ出るとも指摘され、ネット上でもちょっとした話題のひとつになっている。

  • アプリで配信されるクーポン(写真はイメージ)
    アプリで配信されるクーポン(写真はイメージ)
アプリで配信されるクーポン(写真はイメージ)

「生理的に気持ち悪い」

   今度は、クーポンを使うことそのものに否定的な見方をする意見がツイッターに投稿され、物議を醸している。

「30代男性がマクドナルドでクーポン使ってるの見てドン引きどころか吐き気を催してしまった。生理的に気持ち悪い」

   こんなつぶやきをした女性は、その男性がスマホの画面を店員に見せながらドリンクなどを注文するのが見るに堪えなかったと言う。ところが、ツイッター上では、たちまち異論が相次いだ。


   「ええー...許してやれよ」「別に使ったってよくねクーポン」などと、男性らから嘆きや怒りの声が上がり、リツイートも1万件以上に増えた。


   ツイート主の女性は、多くの共感を得られると思っていたようで、「えっそのレベルなの世間的に」と驚き、「アレってお小遣いでなんとかやりくりしてる学生が使うものじゃなかったの!?!?」と疑問を投げかけた。


   この考えにも批判が相次ぎ、「クーポンあるのにそれ使わずわざわざ高いお金払う方が変じゃない?」「家族のために取ったとも取れる行動」といった指摘が出た。


   こうしたネット上の声を受け、当の女性も「クーポンはみんなのもの」「感覚が世間一般と乖離しすぎ」と考え直したとしている。また、なぜクーポンを使った男性を揶揄したかについて、会社の飲み会で幹事をしたこの男性が、マクドナルドで全員からお金を集めた後、クーポンを使って疑いのある会計をしていたからだと説明している。


「そもそもクーポンで節約にはならなそうだ」との声も

   こうした騒ぎをきっかけに、クーポンによる値段が適正価格なのではないかとか、メニューを選択するときに便利なので使っているだけ、店側にとっても普段来ていない客が来るのでメリットがある、などといったクーポンにまつわる話題で盛り上がる事態になっている。


   もっとも、ツイッターなどでは、「そもそもクーポンで節約できた人なんているのか」「節約にはならなそうだから、気分だろうな」などと、女性の意見にある程度同意する声も出ている。


30代男性がマクドナルドでクーポンを使うのは、気持ち悪いと思いますか?

 
613票(2.7%)
 
18288票(79.5%)
 
3503票(15.2%)
 
387票(1.7%)
 
222票(1%)
総投票数:23013票



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女性漫画家の多くが陥る陥穽

これは面白い論考だが、全部を引用すると私が重要と思うポイントが不明瞭になるので、関連部分だけ引用する。
なお、私は女性漫画家の作品のうち成年女性向け漫画は苦手なので、紙屋氏の書かれている漫画家は東村アキ子以外にはまったく知らない。東村の漫画も、たいして好きではないが、紙屋氏がここに書いていることが分かる程度には知っていると思う。いや、実は東村の成年女性向け漫画はひとつも読んでいないのだが、よく理解できるのである。つまり、私が知っている成年女性向け漫画の範疇に入る内容だろう、と推定すれば、よく理解できるわけだ。
何だか、持って回ったような言い方になってしまったが、「知らない事柄について図々しく論じている」のだから、仕方がない。

で、何が言いたいかと言うと、「一般に信じられているのとは逆に、女性は理性と感情の切り替えがうまい」のではないか、ということである。と言うより、自分でも知らないうちに、その切り替えを見事に行っているのではないか、ということだ。
「女性作家の中での『物語作品』と『エッセイ作品』の出来の(良さの)差はなんなんだ」
という紙屋氏の問いかけは、「女性作家」とひとくくりにしてしまうとよろしくないが、多くの女性作家(女性漫画家)は、「エッセイ的作品」あるいはギャグ的作品では抜群の達成を示すのに、同じ作家が「物語作品」あるいはシリアス作品を描くと、本当につまらないものを描いてしまう。だが、彼女らが描きたいのはシリアス作品の方なのだろうなあ、というのも何となく分かるのである。
で、そのシリアス作品とは、要するに「恋愛とセックス」すなわちエロス方面の作品なのである。恋愛(への憧れ)をギャグで描いた「恋愛ラボ」のような傑作もあるが、女性にとって恋愛は概して真面目に扱うもので、そうなると第三者、特に男から見ると「正視に耐えない」ものになる。つまり、そこに描かれる「自己陶酔性」(というのは、作者自身のナルシシズムや理想が当然作品に反映されていると推測されるからだが。)が、見ていて何とも気恥ずかしいのである。
まあ、これが「女性コミック」を男が読まない理由の大きな部分だが、もちろん、女性コミックは女性読者を対象にしているから、それでいい。男から見たら女性コミックは女性用ポルノ漫画という印象にしかすぎない。絵柄が男性用ポルノ漫画より装飾的で女性的だというだけだ。そこにどのような「文学的」陰影があろうと、総体的にはポルノである。もちろん、私は女性コミックを読まないから、これは「知らない事柄について図々しく論じている」のだ、というのは最初に書いた通りだ。

さて、ここから女性一般を論じるが、これも「知らない事柄について」論じているのは同じである。私は女性になったことはないのだから知りようがない。あまり外界の観察が得意でもない、穴に閉じ込められた「山椒魚」的人間の感想だ。

女性は、自分の外部世界(社会)に規定された「女性だけに命じられた檻」の中で生きねばならないことを幼いころから意識して成長する、と思われる。もちろん、髪を長く伸ばし、スカートをはき、ピンク系の色を好む、というようなことが生来好きである、という場合が多いとは思うが、そういう「女性らしさ」を演技することもやがて覚えていくだろう。それが、この世界で楽に生きる方法だろうからだ。
つまり、女性は「嘘と演技」を生存の必修事項として身に付ける点で、頭のぼんやりとした男連中より、はるかに厳しい条件の中で成長していくわけである。
その結果どうなるか、と言えば、女性は「理想と現実」の使い分け、心の切り替えに熟達することになる。たとえば、恋愛の場ではあくまで理想を追求し、結婚では現実的になる、というようなことだ。

さて、ここで再び女性漫画家の多くが、なぜエッセイ作品で優れた才能を示すか、という問題に戻ると、彼女たちは、「社会の差別の中で厳しい現実を生きてきたから、現実をシビアに見る目が養われ、その現実の不合理性が笑いに容易に転化できることを知っている」からではないか、というのが私の仮説である。それは、エッセイ作品で扱うことはほとんどが「身の回りのこと」であることから推測できる。差別的状況の中で起こる不条理は、不条理だからこそ、現実なら悲劇、フィクションなら喜劇化できるのである。
だが、「物語作品」だと、現実を離れ、自分の「理想」を追求できる、と彼女たちは考える。そこに陥穽がある。理想とは結局自己愛の充足であり、野放図な自己愛の表現は見る者を辟易とさせる。

以上で、紙屋氏の疑問への回答とする。QED


(以下「紙屋研究所」から引用)

女性作家の中での「物語作品」と「エッセイ作品」の出来の良さの差はなんなんだ

 ぼくは(当時のぼくにとっての)女性マンガ家の一つの傾向として、作品ではかなり叙情的な絵柄を使うのに、エッセイコミックでは全く違う、上記のような絵柄を使うことへの違和感を抱いていました。


 絵柄が違うことそのものではありません。叙情的な絵柄の「本体の作品」の方は、「ふわっ」としていて「雰囲気だけ」で描かれていてつまらないのに、エッセイコミックの方は無性に面白い。なんで本体の方の作品もエッセイコミックみたいに面白くできなのかなあと。ふわふわした無根拠なものをなんで書いちゃうんだという苛立ち。


 例えば、高橋由佳利は『トルコで私も考えた』というエッセイコミックがものすごく楽しみで、そこで高橋の物語系のフィクション作品もいくつか読んだのですが、少なくともぼくにはピンときませんでした。


 初期のかわかみじゅんこなどもそうです。


 かわかみが登場して来たとき、世間で絶賛されていた『ワレワレハ』や『銀河ガールパンダボーイ』にぼくはあまり馴染めずに、そのまま忘れていたのですが、パリ暮らしを綴った『パリパリ伝説』に出会って熱狂しました。『パリパリ伝説』を経た後で発表されている物語作品であるところの『日曜日はマルシェでボンボン』や『中学聖日記』は、エッセイコミック的な諧謔が随所に生きています。




 このような「エッセイコミック的なもの」という絵柄を装備した東村は、登場からすでに(ぼくのなかで)アドバンテージを持っていました。


 ただ、最初は東村自身が苦戦していたとぼくは思います。


 つまり「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」は東村自身の反省ではないのか、少なくとも自分の中にその要素があったのではないか、という自戒・自虐を込めているのではないでしょうか。




 東村の初期作品『白い約束』に、ぼくは不満があります。


 これも、ぼくのホームページに当時(2004年)の感想が残っているので、紹介しましょう。


 この漫画については、ある種の楽しみがあった。なぜかこの前、ぼくが同級生の女性2名と旅行先の電車に5時間閉じ込められ、退屈した女性二人が、ぼくが偶然持っていたこの漫画を読んだからだ(買ったばかりだった)。二人の感想は「だから何なのよ、というかんじ」「あんまり面白くない」であった。


 ぼくはその時点でこの東村の短編集を読んでいなかったので、『きせかえユカちゃん』を描いた東村はいったいどういう短編を描いているのか、家に帰って読むのが楽しみだったからである。もしぼくが面白いと感ずれば、女性二人との感性の違いは決定的となる。


 結果は、この女性二人の勝利といってよい。えーと、そこそこに面白いとはおもうけど、「だから何なのよ」と確かに言いたくなる。あれほどオトナのギャグが描け、「ヤングユー」で味のある短編を描いているくせに、この『白い約束』は、まるきし『ラブ☆コン』『ハツカレ』並のお子ちゃま度である。


 3つの短編に出てくるオトコが3人とも似た感じで(いや、東村はどの作品にもこのタイプのオトコが出てくる。よほど萌え萌えなのであろう)、3人とも魅力に欠ける。主人公となっている女性のイキのよさを殺している。


 同級生どもに、「これが東村という漫画家か」と思われたのがくやしい。いや、別に東村に義理はないけど。


http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou0407.html#shiroi

ギャグが担保する客観

 東村はぼくの中では「ギャグの人」です(羽海野チカもぼくの中では長い間そういうポジションでした)。対象を冷徹に客観視して笑いものにする批評性は、『ママはテンパリスト』のようなエッセイコミックで本領を発揮しますが、そこから派生して『東京タラレバ娘』『海月姫』『ひまわりっ』のような物語フィクションにも生かされます。




 逆に言えば、ギャグとは別に、陶酔感が入り込む「カッコよさ」「叙情」「懐古」のようなものを扱うときは、危険さがつきまといます。


 つまり、下手をするとギャグやロジックのような客観性を担保する武器が封じられて「ちゃお」少女マンガのような「雰囲気だけで書いたもの」、陶酔感全開のものになってしまう恐れがあります。


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「自己愛性パーソナリティ障害」という言葉への批判

長文の引用なので前説は簡単にし、いずれ詳しく書こうと思う。
前々から書いているように、自己愛は人間、いや動物の最大の本能であり、自己保存本能とほぼ同じである、というのが私の考えだ。
当然、その「自己愛」という言葉を病名に用いて、自己愛が異常なものであるかのように世間を誤って導くことに私は激しく反対するものである。
そういう意図ではない、と精神医学界が主張しても、すでにネットやマスコミでは「自己愛性パーソナリティ障害」という言葉が他者への悪口や批判の言葉として飛び交っている。その事実についての言及も下の記事にあるが、これはそもそも「自己愛性パーソナリティ障害」という命名自体が大きな問題である、ということだ。
しかも、たいていの場合、その悪口や批判は、「自分以外の人間が、自分の望むような行動を取らない」場合に、相手を精神障碍者扱いする、という用い方をされているはずだ。昔なら、単なる「エゴイスト」という、性格的問題とされていたのが、「精神障害」にされてしまうのだ。それは、逆に言えば、何か犯罪を行った場合に、「精神障碍者」として免責されることへの道を開いた、ということになるのではないか。
とりあえず、ここまでにしておく。
なお、後ひとつだけ無駄口を書いておく。「自己愛」の反対は「自己嫌悪」である、とすれば、「自己愛」を否定する立場からは(まあ、精神医学界もそこまでは言わないが)、「自己嫌悪」に満ちた「生まれてすみません」という人間こそが健全な人間になるのだろうかwww
「自己愛」の反対をもうひとつ考えれば、それは「無我無心」であり、こちらは仏教的な理想の状態である。そんな境地に至れるのは100万人にひとりくらいだろう。つまり、「自己愛」は「普通人の精神」なのである。この病名が愚かしいことは明白ではないか。せめて「過剰自己愛性云々」または「自己執着性云々」とでもすればまだよかったのだが。



(以下「白熊のくずかご」から引用)


「自己愛性パーソナリティ障害」という診断の意味を考える

 
www3.nhk.or.jp
 
 相模原市で起こった障害者殺傷事件の精神鑑定が終わり、診断名は「自己愛性パーソナリティ障害など」であると報道された。
 
 リンク先にもあるように、自己愛性パーソナリティ障害とは、「他者の都合を度外視し、周囲からの称賛を求めたり、みずからを特別な存在だと過度に考えたりすることを特徴とする」。それに関連して、自尊心が脆く、自分が軽視されたと感じると激怒や抑うつに陥りやすい。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害と診断することに、どのような意味があるだろうか。
 
 精神鑑定に関して言えば、責任能力を見極めるうえで、自己愛性パーソナリティ障害という診断名は大きな意味を持つ。すなわち、急性期の統合失調症や双極性障害*1のような重度の精神病性障害ではなく、また重度の発達障害にも該当しないのだから、責任能力に問題は無いことになる。
 
 この診断名には、私も疑問を感じない。報道されている情報と矛盾するものではないし、そもそも、専門家が時間をかけて鑑定した結果だからだ。これを踏まえて、裁判は粛々と進んでいくだろう。
 
 

「自己愛性パーソナリティ障害と診断すること」の曖昧さ

 
 その一方で、私は、自己愛性パーソナリティ障害という診断名の存在意義とはなんだろうか? と改めて疑問を感じた。
 
 ひとことでパーソナリティ障害といっても色々なものがあり、妄想性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害などは、精神医療の現場との関わりが大きい。なかでも、境界性パーソナリティ障害は患者さんの数も多く、社会的な影響も甚だしく、それでいて自殺や事故を防げれば存外に予後が良い疾患であるためか、積極的に研究が行われ、あれこれの心理療法的アプローチが考案されている*2
 
 かつて、境界性パーソナリティ障害という病名は、家族や医療関係者を振り回し、衝動的で、こらえ性が無く、自殺未遂やかんしゃくを繰り返す患者さんにレッテルのごとく付けられていた。しかし、21世紀に入って双極性障害や発達障害の割合が高くなったためか、最近は「まさに教科書どおりの、境界性パーソナリティ障害としか言いようのない」患者さんだけに診断されるようになった。それだけに、わざわざ境界性パーソナリティ障害と診断し、相応の治療的対処を試みる意味がくっきりしたと言えよう。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害はどうか。
 
 自己愛性パーソナリティ障害と診断される患者さんは、それほど多くはない。控えめに言っても、この診断名を積極的につけたがる精神科医は少ない。私が見知っている限り、境界性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医はそれほどいないだろうが、自己愛性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医なら、ごまんといるだろう。
 
 その一方で、自己愛性パーソナリティ障害は全人口の1~6%が該当するという統計も存在する。だとしたら、なぜ、精神科医は自己愛性パーソナリティ障害という診断名で患者さんを診ようとしないのか?
 
1.理由のひとつは、そういう患者さんには他に治すべき(そして治療的な対処が可能な)精神疾患が存在するからである。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する患者さんが、自分の性格を治したいと望んで医療機関を受診することはまず無い。ほとんどの場合、うつ病や適応障害といったほかの精神疾患に陥った時に受診し、早急な治療的対処を求めている。そのような患者さんに関して、カンファレンスの場で性格傾向が議論されることは珍しくないが、“第一の診断名として”自己愛性パーソナリティ障害が選ばれることは珍しい。
  
2.理由のもうひとつは、自己愛性パーソナリティ障害への治療的対処が確立していない点である。
 
 さきに挙げた境界性パーソナリティ障害に関しては、治療的対処について多くのことが語られ、研究もされている。精神医学のスタンダードな教科書『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第3版』でも、境界性パーソナリティ障害の治療についてほぼ丸々1ページが費やされている。
 
 ところが、自己愛性パーソナリティ障害の治療的対処については、ほんの少ししか書かれていない。短いので抜粋すると、
 


 治療
 
 精神療法 患者が前進するためには彼らの自己愛を捨てなければならないので、自己愛性パーソナリティ障害の治療は難しい。カーンバーグ(Kernberg)とコフート(Heinz Kohut)のような精神科医は精神分析的アプローチによって変化をもたらすと唱道した。しかし、診断を確認し最良の治療を決定するにはこれからの多くの研究が必要である。理想的な環境において分かち合いを学ぶ集団療法により、他者への共感的反応を促すことができると論ずる臨床医もいる。
 
 薬物療法 リチウム(リーマス)が、臨床像の一部に気分変動を含む患者に使われている。自己愛性パーソナリティ障害の患者は拒絶にはほとんど耐性がなく、抑うつ的になりやすいので、抗うつ薬(特に、セロトニン作動薬)が有用な場合もある。

 たったこれだけである。内容的にも、あまり研究が進んでいないことがうかがえる。
 
 しかも悪いことに、この記載はひとつ前のバージョンの第二版と同じである。境界性パーソナリティ障害をはじめとする多くの精神疾患は、第三版になって内容がかなり書き換わっていた――つまり、それだけ診断や治療に進展があったわけだ――が、自己愛性パーソナリティ障害については、それほどの進展があったわけではない、ということである。
 
3.三つ目の理由は、これは私の推測混じりになるが、現代人は多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害に近い心性をもっていて、病的な自己愛と正常な自己愛の境目を議論するのが難しい、ということもあるだろう。
 
 この疾患の第一人者の一人、カーンバーグは、自己愛性パーソナリティ障害の人は、正常な自己愛とは区別される異常な自己愛を持っていると論じた。他方、もう一人の第一人者、コフートは、自己愛性パーソナリティ障害を未熟な自己愛とみなし、成熟した自己愛と連続的なものとして論じた。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する人のなかには、その心性に急き立てられて富や名声を求め、(一時的に、または永続的に)社会的成功をおさめる人も少なくない。病碩学の世界では、世界的指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが自己愛性パーソナリティ障害の傾向を持つと論じられている*3が、私のみる限り、インターネットも含めたメディア上で名を成した人のなかには同じような心性を持った人が少なくないようにみえる。
 
 もっと卑近な例として、自己顕示的なtwitterアカウントのたぐいなどは、多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害寄りだと言えるし、「意識高い系」と呼ばれるような人達、「自撮り棒」で写真を撮ることを好む人達、鮮やかな体験をInstagramにアップロードすることを生き甲斐にしている人達についても、近い心性を持っていると想定される。そういった、現代人の典型ともいえる人々にパーソナリティ障害というレッテルを貼ってまわることに意味はない。
 
 
 こうした1.2.3.を振り返るにつけても、精神医療の現場で自己愛性パーソナリティ障害という診断名があまり選ばれないのは当然のことだと私は思う。他に治すべき精神疾患が併存し、研究がそれほど進んでおらず、正常と異常の境目の曖昧な疾患概念を、第一の診断名として選ぶのはなかなかできることではない。
 
 ちなみに私自身はコフートの自己愛理論を愛好しているので(→関連)、患者さんの自己愛の状態は意識するようにしているけれども、それですら、第一の診断名として自己愛性パーソナリティ障害と付けたことはほとんど無い。医療というコンテキストで考えるなら、他につけるべき診断病名があり、他に優先すべき対処があることがほとんどである。
 
 


鑑定上の「自己愛性パーソナリティ障害」とは「重篤な精神病ではありません」ではないか

 
 こうした実情を踏まえて、くだんの精神鑑定について考えると、鑑定を担当した先生が積極的に「自己愛性パーソナリティ障害」と診断したとは、私には思えないのだ。
 
 統合失調症や双極性障害に該当せず、種々の発達障害にも該当せず、境界性パーソナリティ障害のようなクッキリとした人格障害にも該当しないがために、消去法的に自己愛性パーソナリティ障害という診断名が“残った”のではないか、と想像したくなる。
 
 繰り返すが、報道されている範囲では、容疑者の振る舞いは自己愛性パーソナリティ障害の診断基準と矛盾しないようにみえる。しかし、これは精神科医が積極的に診断したくなるものとは考えにくい。鑑定を担当した先生は、いろいろな精神疾患をさんざん検討したうえで、ひねり出すような気持ちでこの診断名に至ったのではないだろうか。
 
 重大事件の容疑者には、ときとして自己愛性パーソナリティ障害という鑑定結果が付けられる。さしあたって、責任能力について判断する際には十分な診断名だろう。しかし、ここまで述べてきたように、自己愛性パーソナリティ障害とは曖昧な疾患概念なので、この鑑定結果から容疑者の内実を深読みするのは難しいように私は思う。記事詳細で“複合的な人格障害”という表現を伴っていることを踏まえるにつけても、「重篤な精神病ではありません」以上の読みは、しないほうが良いのではないだろうか。
 
 


どうか、「自己愛」が嫌悪されませんように。

 
 ところで、自己愛性パーソナリティ障害という言葉は、かなり悪いイメージを伴って巷に流通している。匿名掲示板やtwitterなどでも、この言葉が一種の罵倒文句のように用いられているのを何度も目にしてきた。尊大な態度や他者への無神経さが嫌われやすいことを思えば、それ自体は仕方のないことかもしれない。
 
 ただ、こういった重大事件の鑑定結果として(積極的か、消極的かに関わらず)自己愛性パーソナリティ障害という病名が登場するたび、私は、この診断名のイメージがますます悪くなるのではないか、ひいては、自己愛そのものを否定する人が増えるのではないかと心配になる。
 
 これが他の精神疾患、たとえば種々の精神病や発達障害なら、病名に対するスティグマが広がらないよう注意を促す人々が現れるものだが、自己愛性パーソナリティ障害についてはどうだろうか?
 
 自己愛の暴走がトラブルを生むこと自体は否定できないし、自己愛性パーソナリティ障害に該当し、現に苦しんでいる人がいるのも事実だ。だがそれだけでなく、自己愛は、自分自身のために切磋琢磨し、富や名声やスキルを掴むための原動力にもなり得るものだ。また、世間ではあまり知られていないが、自己愛の概念の範疇には、誰かに憧れたり応援したりする心性も含まれている。そういった部分も含めて、自己愛には健全な側面も多分にあるのだから、やたら否定せず、適切に付き合っていくべきだと思う。そして、例示したカラヤンをはじめ、自己愛性パーソナリティ障害に相当する心性を持っているけれども、否、ひょっとしたらそのおかげで社会的成功に至る人だっているのだから、ネットの巷で悪しざまに言われているほど、否定しないで欲しい、と願う。
 
 



*1:いわゆる躁うつ病のカテゴリ


*2:注:境界性パーソナリティ障害の心理療法的アプローチのなかには「急いで治そうと治療者が頑張り過ぎない」ことも含まれているので、やたらと一生懸命に治そうとするようなイメージを過度に持ち過ぎないようにご注意を。


*3:参考:中広全延『カラヤンはなぜ目を閉じるのか―精神科医から診た“自己愛”』、新潮社、2008


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対象そのものではなく、自分の幻想の存在を愛する恋愛

孔徳秋水氏のブログ記事の一節である。
スタンダールの「恋愛論」でも、真に愛する女性に対しては不能になる、という男についての記述があったが、おそらくすべての男がそうだろう。「めぞん一刻」で、五代君が響子さんと初めて結ばれようとした時に、勃起できなくて焦るという場面があったが、これも相手を「俗世間の物」ではなく「聖なる存在」としてきた結果である。(こういう場面をラブコメ作品の中に入れるのが高橋留美子の凄さだ。)まあ、キリスト教徒が、聖母マリアを性的欲望の対象にはできないようなものである。
そういう「聖なる存在に祭り上げられることの迷惑さ」を女性側の視点にも立って描いたのが武者小路実篤の「友情」で、この小説はフェミニズムの文学的記念碑だろう。
逆に言えば、女性をただの「物」として見る男こそが、女性に対しては楽々と行動でき、その結果、多くの女性を獲得できるということである。女性の側から見ても、そういう男のほうが楽に性的交渉は持てるわけで、女性に対して真面目な男は、なかなか女性には縁が無いのも当然だろう。その結果、女性全体に対して絶望し、ミソジニー(女性嫌悪症)になる男も増えていくことになる。つまり、「女性の性的開放(聖なる存在が安売り商品や肉便器になったこと)が男性をミソジニー化させた」わけだwww


(以下引用)


本当に…本当に…本当に…心底から愛してしまった女性に対しては…


 


私であれば、指一本触れられなくなる…


 


 


それは、傷つきたくないとか、そういう気持ちばかりではないんだな…


 


 


雪の降った日の朝、足跡をつけるのがもったいないと思わないか?


 


足跡をつけてしまえば、もうそれは”別”のもの…


 


 


触れるのも、関わるのも、すべてを壊してしまいそうで、できなくなってしまう…


 



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「嘘」のコスト

「嘘」の社会経済学的考察だね。この発想は素晴らしい。橋下、安倍、小泉、竹中、いくらでも実例はある。





            

嘘をつくのは低コスト、嘘を検証するのは高コスト。この非対称性を利用して検証が追い付けない速度で嘘を重ね続けるのが嘘つきの生存戦略。そうやって生き抜いてくると、嘘を重ね続ければ普通の人は検証を諦めてくれるので、嘘はつき続けるのは正しいって経験則が出来上がる。習慣的な嘘つきになる


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可愛さの考察

海タナゴとか言ったかな。確かに可愛いのだが、可愛さとは何なのか、考えると不思議になる。
形状的にはまったくミミズだしwww
ミミズも毛虫も可愛い、という考えもあるだろうが、私はどうもそういう連中は可愛いと言うよりは気味が悪い。特に、京都の山中には体長20センチくらいの大ミミズがいるので、散歩中にそういうのに遭遇すると逃げ出したりする。
下の写真の海ミミズ、じゃない、海タナゴは、目があるから可愛いのかもしれないが、蛇は目があっても可愛くない。目つきが悪いからだろうか。しかし、三白眼や細い目は可愛くないがつぶらな瞳は可愛い、とどうして決まったのだろう。
兎やリスなどは可愛いとされる動物の代表だが、目も体全体も丸みがある。なぜか人間は丸い形状を可愛いと感じるように本能にインプットされているような気がする。
人間も赤ちゃんのころは丸みがあって可愛いが、成長すると細長くなって可愛くなくなる。
これは話が逆で、子孫保存のために、人間は「赤ちゃん的な形状」を可愛いと思うように本能が作られているのだろう。特に女性はそうなのではないか。私から見たらグロテスクな体型の渡辺N美など、女性人気は高いようであるし。


  1. 近づくとちょっと怯えて引っ込むんだけど、すぐに「こわくない・・のか?」ってまた出てくるのがもう。  RT 現物を美ら海水族館と大阪の海遊館で見てますが、ええ、ほんとかわいい。
  2. 2件のリツイート 12 いいね

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HN:
酔生夢人
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職業:
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趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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